第二乃議論 形而上学的存在と実存の超越者
鼻腔をかすめる湿った木の香りが、時期外れの冷たい風に巻き上げられた土埃と混ざり合って、むせ返りそうな、薄曇りの空。降り注いでいた日光は朧雲に遮られ、輪郭をうっすらと揺らしている。本日の天気は、予報によると、曇りのち雨。子供が無邪気に引き裂いたような、途切れ途切れの雲の間から、地表にまでは届かない陽の光が、弱々しく注ぎ込まれている。そのわずかな光さえも、遮られてはまた別の場所から顔を出し、遮られては顔を出し、を繰り返しているが、徐々に厚みを帯びていく灰色の障壁に、次第にその数を、減らしていく。
降雨前独特の空気感が肌をさし、グラウンドにいた部活動の生徒たちは、各々片付けを始めて、校舎内へと移動していく。いまだに残ったままでいるのは、多少の雨風も練習のうち、と気炎を吐く部長が取り仕切る、サッカー部だけである。練習開始早々ということもあって、部員たちの諦観のこもったため息をそよ風と受け流す部長は、部員たちにグラウンド二十周を言い渡している。その人間拡声器から轟く、非情な指示を窓越しに聞きながら、みつめは白墨を細い指でつまみ上げると、下半分しか届かない黒板へと向かい合う。
「昨日の続きよ」
かかとを持ち上げ、ギリギリまで背筋を伸ばし、黒板のちょうど半分まで腕を上げ、カリカリと黒板に議題を書き出す。しかし、議題を半分まで書き終わらないうちに、夜代から、蚊の鳴くような声が飛んできた。みつめ自身も、あまり引きずるのも良くないと考え、普段通りに部活を始めようと考えていたが、やはり、部員たちが全く身を入れていないのは、はっきりと感じ取っていた。
「みつめちゃん、議題よりも、私、気になることが……」
道端で拾ってきた子猫を、母親に返してきなさいと叱りつけられた小学生のように、身を竦め、ボサボサで艶のない長髪を神経質に指に巻き付けると、夜代は怪訝そうにみつめを見上げる。
みつめと夜代は幼稚園からの仲である。その頃はまだ、みつめも他の子供と同じように体格は小さく、自分が小柄だなんて、意識すらしていなかった。むしろ、夜代のほうがずっと小柄で、引っ込み思案な性格から、誰かの影に隠れて、大人しくしていることが多かった。二人は母親同士が、お互いの子供が同じ年齢であることや、家が近いことから、とても仲がよく、みつめと夜代も、ずっと一緒に過ごしてきた。だからこそ、夜代は、みつめがこういう時、平常心を取り繕って、普段の雰囲気の回復に舵を取るであろうことは、分かっていた。しかし、夜代はみつめに、もう少し誰かを頼って、一人で問題に向き合うことはしてほしくなかった。みつめは最初から、例の件に関して、非干渉の立場を貫いていた。だが、部員の強い希望で、悩み相談を引き受ける流れになってしまった。みつめが避けていた道を開いたのが自分たちならば、彼女一人にその後処理を任せるのは、夜代も、他の部員たちも、それは本意ではなかった。だからといって、直接言葉にしようとしても、喉の辺りでつっかえてしまい、結局、何も言うことができず、重苦しい空気のまま、時間だけが過ぎていたのだった。
「なぁに? また近所のお姉さんが私を付け狙うスパイだとかなんとかで、私に一目惚れして……って話?」
「ち、違うよ! あれは私がそうだったらいいなって妄想してただけで、その、あのね……」
再び訪れた沈黙に、みつめは嘆息する。
「ちょっと、みんな真面目に聞いてよね。キャラを目立たせるにはどうすればいいか、ニーチェでもショーペンハウアーでもいいから、どこからでもアイデア拾ってきて、ひねり出してよ」
それまでうつむいてパイプ椅子を揺り籠のように揺らしていたらいかが、トレードマークの爆発力を、八割以上失ってしまった、か弱い声で、ポツリと呟いた。
「もぐもん、絶対納得してないよ……私、バカだけど、もぐもんとはずっと仲良しだったから、分かるんだ」
無邪気ならいかだからこそ、重苦しいと分かっていても、口に出す。みつめ自身、迷っていた。この件を全てなかったことにして、有耶無耶にして、時間とともに流してしまうか。それとも、たとえ何もできなくても、お互いの意見を話し合って、解決策の一つでも捻出すべきかどうか。ギリシャ哲学の本を開きながら、みつめは昨晩、悩み抜いた。読んでいた本の内容は半分も入ってこなかったが、残りの半分で、苦悩しつつも、答えを出した。
分からない。
それが答え。だから、分からない。
「そう、なら、みんなの意見を聞かせて。みんなはどうしたい?」
部長として、やるべきことは、部員の言葉に従うこと、それだけ。それが、最善の答えだと思えた。
らいかがすかさず、声をあげた。
「もぐもんの依頼をちゃんと終わらせたい! 清子ちゃんだって、あのままじゃいけないよ。私たちで助けてあげたい」
「助ける? 清子さんを? そしたら次にあの不良たちに恨まれるのは誰? らいかはあんな連中どうにでもできるかもしれないけれど、私や夜代、花歴だって、ずっと彼女たちの影に怯えながら学校生活を送らないといけないわよね」
「そ、その時は私が……」
「そんなの解決でも何でもないわ。逃げてるだけよ」
花歴が口を挟む。
「そんなこと言ってもさ、マジダサいよね。せっかくうちらのこと頼って来てくれたのにさ、やっぱ無理っしたーマジごめん、って。カッコ悪すぎじゃね?」
「そもそも、私たちは悩み相談なんて請け負っていないわ。勘違いして来た人に、カッコ良いもカッコ悪いもないでしょ」
らいかも花歴も、みつめが意地悪で言っているのではないと分かっていた。それは、自分たちを守るため。厄介事に巻き込まれる、リスクを排除しようとする、部長なりのやり方。頭では理解していても、やはり、飲み込むことはできなかった。
「夜代、あんたはどう?」
「私は……」
問われて、ふと思い出す、ある記憶。小学校三年の時のことを。校外学習で摘んできた花を、皆の思い出として、教室で、花瓶に入れて、飾っていた。それを、掃除中に、落として、割ってしまった時のこと。すっかり気が動転してしまい、その場から逃げてしまったが、その時唯一、その場面を目撃していたのが、みつめちゃんだった。恐る恐る教室に帰ってきた時、教室では、犯人探しがすでに始まっていた。惨めな思いで席についた途端、みつめちゃんがどこから持ってきたのか、ずっしりと重たい花瓶を、私の手にこっそりと押し付けてきた。そして、皆が見ている前で、平然と言った。
「花瓶を割ったのは夜代よ。私、近くで見ていたもの」
頭が真っ白になった。確かに、あの時みつめちゃんだけが、見ていた。ううん、そうじゃない、どうして。どうしてそんな、みんなの前で――
みつめちゃんと仲が良いと思っていた。ううん、自分だけじゃない。きっとみつめちゃんも。なのに、あっさりと、裏切られた。情けなくなってきて、涙がぼろぼろ溢れてきた。そしたら、さっきと変わらない平坦な調子で、こう言ったわ。
「悪いと思ったのかしらね。どっかから花瓶を持ってきたみたいよ」
私はツヤツヤした薄緑色の花瓶を持っていた。ううん。みつめちゃんがくれた。少し濡れていた。光沢に映った自分の泣き顔が、情けなくて、また涙が溢れてきた。
どんな顔をして、どんな台詞を言えばいいんだろう、と、迷っていると、クラスの誰かが、みつめちゃんを指差して、叫んだわ。
「相沢さん、毛利さんと仲良しなんじゃないの!? よくそんな平気な顔で、お友達の事、裏切れるのね! ひどい!」
「裏切るも何も、私は事実を言っただけよ」
その発言に、クラスの非難が、一斉にみつめちゃんに集まり始めた。結局、私が花瓶を割ってしまったことなんて、あっという間にどうでもよくなっていた。逆に、私のことを可哀想だと言って、心配してくれる子まで出てきた。その時の私は、よく分かっていなかった。みつめちゃんがどうしてあんなことをしたのか、完全に理解したのは、すっかり騒動が収まって、皆が忘れ去った頃に、みつめちゃんに聞いてみた時だった。
「夜代が自分から、やりました、なんて言えないのは分かってたからね。掃除当番が誰かなんてすぐわかるじゃない。夜代が一人で悩むより、私が敵に回って誤魔化したほうが早く片付くと思っただけ」
「でも、それじゃみつめちゃんに嫌な思いをさせちゃう……そんなの……」
「いいわよ別に。私は全然気にしてないし。たださ、あんたがずっと悩んでる方が、私は耐えられない、そう思っただけよ」
みつめちゃんの友達で良かった。その時私は、心からそう思ったの。
夜代はみつめを理解しようと努めてきた。理解したいとずっと思ってきた。それは今も変わらない。みつめがこういう時、どんなシナリオを思い描いているか、どんな計算をしているのか、夜代は長い付き合いの中から、応えるべき、答えを弾き出した。
「みつめちゃん、本当はもぐもんさんの依頼も、清子ちゃんのことも、助けてあげたいと思っているんだよね。それなら、私はみつめちゃんの力になりたい。このままじゃダメだよ。いつも私を助けてくれるみたいに、あの二人のこと、助けてあげてほしい」
みつめは急に顔を上気させていく。
「な、何言ってるのよ、夜代のくせに生意気よ! いつ私があんたのこと助けたって? バカじゃないの? 妄想のしすぎで脳内に新種の寄生虫でも湧いたのかしら」
窓の方を向いたまま、みつめは振り返ろうとしない。そんな不器用の塊のような部長を、部員たちは嬉しそうに見守る。みつめがたっぷりと時間をかけて振り返った時、そこには決意めいたものが、その目に表れていた。
「そ、そうね、みんなの意見は聞かせてもらったわ。それをまとめると、つまり、後腐れなく問題を解決して、なおかつカッコ良く決めて、脳内の虫を摘出する――以上の流れが最善と言えるかしらね」
「虫なんかいません!」
「あら、分からないわよ? 未発見の虫がうごめいている可能性もゼロではないわ。特に夜代は。本体はむしろそっちかもね」
「私の本体は未知の寄生虫とかじゃないです! ……多分」
みつめはくすっと笑うと、残りの部員に確認をする。
「らいか、花歴、それでいい?」
二人とも、肯定のつもりか、ニヤニヤと口元を緩めている。
「その気色の悪い笑いはやめなさい。まるで私が最初からこうなることが分かってたみたいな顔をしないで。私は部長としてみんなの意見をまとめ、然るべき判断を下すのが役目であって、つまり……」
言い訳のように論理防衛を図るみつめをさておき、哲学部の面々は、それぞれ、『カッコ良くスッキリ解決』させるためのアイデアを出し合う。本質はどうあれ、『哲学部』と名乗っている以上、思考するという行為に関しては、人よりも優れたものがあるとみつめは自負していた。一番手、花歴のアイデアは、清子にGPS付きの防犯ブザーを持たせるという非常に単純なアイデアで、スマホを連動させて居場所が検知できるようにしたらどうか、というものだった。しかし、取り上げられて川にでも投げ入れられたら無意味な上、清子にそれを持たせるには、清子と接触を図らなければならない。そんな場面を目撃されようものなら、たちまちに不良たちに目を付けられてしまう。しかし、そんな多少は現実的とはいえども、実行困難なアイデアとは真逆な意見を提出したのが、らいかだった。体育会系的な考え方で、拳を交えれば人だろうが熊だろうが心通ずる、という謎の信念のもと、彼女たちとルール無用の異種格闘技戦を提案してきた。らいか以外の部員の満場一致で、即座にそれは却下された。一人だけレベル十万オーバーの完全消化型サバイバルでは、拳を交えた途端、即終了である。それでは何の意味もない。次に案を出したのは、夜代だ。「清子ちゃんと不良たちが仲良くなればいい」という斬新かつ平和なアイデアだが、そのためには、まず清子が一人一人、不良たちを籠絡する必要があると声高に述べた。
「心も体も深く交わることで、未知の心の疼きが芽生えるわ。そうなれば、清子ちゃんはハーレムの道をまっしぐら……うふふ」
薬どころか毒気二百パーセントの妄想を、みつめは夜代の頚椎に、高速の手刀を叩き込むことで、遮断させる。部員たちの三者三様の没アイデアの前に、みつめは頭を抱える。
「もう少し、まともな考えができる人はいないのかしら、この部活……」
部員たちの目の輝きは本物だ。しかし、やる気だけで解決するような安易な案件ではない。みつめは自分がしっかりしないと、と脳を働かせる。
「そうね、まず、清子さんがどうして絡まれるに至ったのか、経緯を調べないと、解決の仕方も出ないと思うのよね」
「えーっとたしか、ドブに突き落としたってあいつら言ってたっけ」
「そう、でも、どうしてそんなことをしたのか、って動機の方よね。清子さん、そんな悪そうな子には見えないし」
動機に関しては、やはり本人から聞いてみないと、推論だけでは何も進まない。
「清子さんに直接聞いてみましょう。でないと、有効な解決策なんて出てこないわ」
らいかに清子の居場所の確認を依頼すると、二秒ほどで帰ってきたらいかが、少し緊張の混じった声で、昨日と同じ校舎裏で、また不良に絡まれている、という最悪の報告を持ってきた。
「もぐもんもいたよ! だけど、また隠れて様子をうかがってた……早く行こうよ!」
何の解決策も見いだせないまま、哲学部のメンバーは駆け足で、部室を後にする。昨日と全く同じ場所、校舎裏。不良たちがたまり場にしているのだろうか、その校舎の脇、手前に、サイズ感の掴めない巨体が、身を縮めて、奥の様子をうかがっていた。依頼を終わりにしてほしい、と言われ、失望のままそれを受け入れたみつめたちにとっては、あまり気分のいい再会とはいえない。だが、事態が急を要する今となって、そんなわだかまりを気にしている場合でもなかった。
「もぐもん!」
「おぉ、らいかぁ! おめぇさんたちまで……」
もぐもんはその身に似つかわしくない、弱々しい声を上げた。
「らいかから、また清子さんがピンチだって聞いたの。依頼はもう終わりってあなた言ったけれど、私たちも、このまま清子さんやあなたを見過ごしておくなんて、できない。人助けなんて柄じゃないけど、一度請けた仕事は最後まできっちりやる。それが哲学部としての解答よ。さぁ、一緒に清子さんを助けてあげましょう」
もぐもんは極力音量を下げて、すすり泣きを始めたが、肝心の清子の様子はといえば、昨日と明らかに違う点があった。不良たちは、昨日生徒指導の鬼尾に追い回されたのがよほど癪だったのか、清子に昨日とは比べ物にならない温度で迫っていた。
事態が急転直下しないように祈りつつ、みつめはここまで走ってくる最中、脳を振り絞って考えた、ある解決策を、もぐもんと部員たちに、聞かせるべきかどうか、迷っていた。もしそれが失敗した場合、自分たちにも危機が及ぶ。いや、失敗する確率の方が高いかもしれない。でも、みつめにとって、清子にとっても、それが、どんな策よりも確実であると思われた。
「私の案、まだみんなに聞かせてなかったわね。私が一番最適だと思う解決策、それは、清子さんとあの生徒たちの間に入って、問題の仲介をする、という案よ」
哲学部の部員たちは、それを聞いても、黙ったままだった。それが、部員たちの答えであった。
部長を信頼している。だから、その言葉に従う。
誰も反対を唱えるものはいなかった。もぐもんは、死んでいた目を突然キラキラと宝石のように輝かせて、その瞳を潤ませた。
「お、おめぇ……そうだ、それが、わしが一番望んでおることじゃ……力ではいかん、清子もきっとそう言うと思う。しかし、もしあいつらが交渉っちゅうのを拒否してきたら……」
「その時はその時よ……今は」
哲学部ともぐもんの目標が、ここにきて、完全に一致する。しかし、その案が実行される前に、その可能性は、望みは、無残に消え去ってしまっていた。
ほんのわずか、話をしていた間に、事態は最悪の方向に向かって、爆進していた。不良の声が、職員室まで届くかと思われるほど、大きく、荒れながら、響いてくる。
「昨日、鬼尾を呼んだの、お前だよなぁ? あたいらがお前に声かけるって分かってたから、あいつに付けさせてたんだろ!」
「ち、違います……そんなつもりは……」
「ちっ!」
清子の胸倉を掴んでいた佐藤という生徒が、清子の頬を、渾身の平手で打ちのめした。それだけでは気がすまなかったのか、胸倉を更に掴み上げると、濡れた地面に清子の小さな体を叩きつけた。清子は小さく嗚咽をもらすと、その場で蹲ってしまった。あまりの光景に、みつめたちは思考が一時ダウンしてしまう。そうしている間にも、清子は蹴られたり、小突かれたりしている。
「そんな……」
みつめは自分の考えの甘さを悟らされた。行動の遅さを呪わずにはいられなかった。もっと早く、的確な判断を下すべきだった。こうなってしまった以上、もう和解の道など、断たれたも同然だ。清子と不良たちの問題は、次のステージに進んでしまった。強者と弱者。その関係が開始される。ギリギリでとどまっていた一線を、踏み越えてしまった。暴力行為を目撃していたと知れたら、自分たちも清子と同じ運命を辿る。逃げ場など、もうない。
そして、焦燥に任せて、叫んでしまった。佐藤が、ポケットから、小さなカッターナイフを取り出していた。それを目の当たりにした途端、声が勝手に、口から、溢れてしまっていた。
「っ……、らいかぁ!」
しかし、即座にもぐもんが、凄まじい怒声でそれを遮った。
「いかん! らいか、やめるんじゃあ!」
みつめはもう何が何だか分からなくなった。こんな危機的状況に置かれても、まだ未介入を決め込むもぐもんに、絶望し、しかし、らいかの速さを、もう誰も止めることができないという安堵感が、同時に襲ってきた。らいかはすでに体勢を整えていたのか、姿勢を極端に下げて、地面を蹴り上げた。一瞬のことで、地面に大きなクレーターが形成されたこと、そして、清子たちに向かって、一直線に地面が削り取られていく景色しか、認識できなかったが、これで、清子を助けることができる。その安心感に、みつめはすっかり身を浸らせていた。
一秒にも満たない恍惚状態から醒めたみつめは、眼前の光景に、絶句する。そこには、凛とした静寂があった。在るべきものが、いるべき存在が、いなくなっている。
らいかは姿を消し、いつの間にか、立ち上がっていた清子が、腰をかがめて、まるで誰かを一本背負いで投げ飛ばしたかのように、静かに佇立していた。その赤子と見紛うような小さな手には、刃が収められたカッターナイフ。佐藤の持っていたものだ。最初に言葉を発したのは、全てを理解できた、外野のもぐもんだった。
「らいかぁ、お星様になってしもおたんかなぁ」
清子はユルリとかがめていた腰を上げると、まばたきを忘れて凝固している佐藤に、柔らかい絹のような声をかけた。
「佐藤さん、お怪我はありませんか?」
佐藤は四秒ほど、清子が転がっていたはずの地面を凝視した後、首をからくり人形のようにぎこちなく横に向けると、清子の天使の笑みと顔をあわせた。「ぇ」と小さく呟くと、差しだされたものを、手に取った。
「悪いことに使ってはいけませんよ。カッターナイフ、お返ししますね」
佐藤はその一言で、がっくりと膝を折って、その場にくずおれてしまった。誰かの大声が響いて、地面が自分に向かって削れ、そして、地面に転がしてやったはずの人物が、凶器を奪い取って、聖母のように微笑んでいる。他の不良たちも、目をキョロキョロさせるばかりで、状況を理解できている者など、いなかった。清子は振り返ると、みつめたちにも、マリア様を思わせる優しい笑みを向けてきた。
「ごめんなさい、突然だったから、らいかさん、だったかしら。投げ飛ばしてしまって」
もぐもんが、少し緊張した声で、答える。
「い、いやぁ、らいかにはやめろと言うたんじゃが、あいつ、人が困ってるのを見ていられんタチなんですわ……そうか、みんな、知らんかったんじゃなぁ。清子はこの世のあらゆる技を極めた達人じゃて、そう、柔道、合気道、空手、中国拳法、テコンドー、軍隊格闘術、薙刀術、忍術、気功術、仙術、ええっと、それから何だっけっかなぁ。まぁ、大概の武術は免許皆伝じゃて、うかつに攻撃したらいかんのじゃ」
ありえない。あんな小さな高校生が、そんな超人だとしたら、なぜ、あんな連中にいじめられていたのか、みつめは我に返ると、そもそもの問題の始まり、清子が不良たちに目を付けられてしまうに至った経緯を、尋ねた。
清子は、やや顔を暗くして、しかし明瞭な声で、ことの仔細を語ってくれた。
「私は、学生の身でありながら、あらゆる武術を極めたの。そこで、ある国の格闘術をマスターする時にお世話になった教官から、その国の特務工作員にならないかと勧誘を受けたの。でも、私は普通に学校生活も送りたかったし、友達と離れるのも寂しかったから、日本でのお仕事ならいいわって引き受けたの。そんな時、私の所に、ある密命が入ってね、その人物を監視し、調査しているうちに、ある奇妙な事実に気が付いたの。私がマークしていたのは、表向きは普通の人と変わりない、だけど、裏の世界では多種多様、玉石混交、荒唐無稽、支離滅裂な噂が毎日どこかで囁かれ、その実態がもはや何なのか、理解できないほど謎に包まれてしまった、ある女の子に関する、調査だという事実。その子は、私にとっても、ここにいるみんなにとっても、無関係ではないの。その人物は、この学校の二十七代目生徒会長を務めた、幽霊集って人よ。私たちの二代前の生徒会長で、私たちと入れ替わりに卒業してしまって、今は大学に通いながら、ある遺跡の発掘員として、活動しているそうよ。何でもその遺跡には巨大な地下空間があって、掘っても掘っても続きがあって、そこには本来埋まっているはずのない、時計に似たカラクリ装置や、成分の不明な化学薬品らしきもの、古代の建築様式とは全く異なる、精巧に掘られた大理石の神殿なんかも発掘されているらしいわ。幽霊集はその遺跡で研究をしているらしいんだけれど、ここ最近、この町に帰ってきて、何か良からぬことを企んでいるらしいのよ。私の監視をかいくぐって、彼女はどこからか大きなジュラルミンケースに、何かを詰めて、持ち帰ろうとしていたの。私は、彼女が何を持ち運ぼうとしているのか調べようと思って、彼女の気が緩む瞬間を待って、待機していたんだけど、どうも、幽霊集は人間が持ち合わせている、感情というものを完全に排斥してしまったようなの。いくら彼女に読心術をかけても、気の流れを操作しようとしても、全て弾かれてしまうの。ただの人間なはずなのに、私の技が全てシャットアウトされてしまった。だから、私も少し焦っていたのでしょうね、彼女から、ケースを奪い取ろうと、彼女に接触してしまった。それが、全ての間違いの始まりだった。私は彼女が潜伏していた廃ビルを突き止めて、突入した。だけど、彼女は、私に向かって、普通の人間が交わすような挨拶を、してきたわ。そして、こういったの。『あなたほどの腕前なら、分かるでしょう。私が何者なのか。星を砕き、暗黒に沈み、存在を冒涜し、現象を超越し、時空を蹂躙し、陥穽を徘徊し、氷河を微睡む夢に、栄光を糺し、白壁の微瑕を無窮の叡智となす我、集』そして、彼女は手に持っていたケースを、開け放たれた窓に向かって、思いっきり投げた。私はそのケースに、とっさに手を伸ばしてしまった。私はケースと一緒に、窓から落ちてしまった。私は、幽霊集をただの人間だと思っていた。そう、間違ってはいなかったけれど、その考え方自体が、間違っていた。彼女は、窓から顔を出すと、拳銃を取り出して、私の心臓の中心点を、寸分の狂いもなく、狙って発砲してきた。どんなに訓練された兵でも、あの一瞬で、落下する人間の心臓をピンポイントで狙い撃つなんて、不可能な技よ。彼女を侮っていたツケが、すっかりそのまま私に返ってきたってわけね。情けない話だけれど。その時、ちょうど真下にいたのが、佐藤さん、あなたたちだった。私は銃弾を旋回しながら回避したけれど、弾丸が、佐藤さんたちに一直線に向かっていった。恐らく、幽霊集は私の心臓の位置と佐藤さんたちの位置を事前に何らかの方法で予測して、ケースを投げたんでしょうね。私は弾丸より先に着地し、佐藤さんを被弾から防ぐために、突き飛ばした。私も気が急いていたから、方向なんて考えている暇はなかったの。本当に、ごめんなさい」
佐藤は、ポカンと呆けている。
突き飛ばした理由がすんなり飲み込めず、みつめもしばらく頭の中で清子の言葉を反芻させていた。
「そぉかぁ、何だかよく分からんけれど、清子ちゃんは佐藤さんたちを助けようとして、突き飛ばしてしまったって訳なんじゃなぁ、そういう訳じゃ、佐藤さんたち、どうか、清子のこと、許してやってくれんじゃろうか、この通りじゃ」
もぐもんは、本当に清子の言ったことを理解して、頭を下げているのだろうか、とみつめは考えるが、いずれにしても、悪気があってやってことでなければ、佐藤たちも許してくれると確信はあった。佐藤は、小さな声で、「お、おぉ、そうか、そういうことなら」と言ったっきり、目をビー玉みたいに丸くして、清子を眺めていた。みつめはもぐもんに尋ねる。
「もぐもんは、どこまで知っていたの?」
「う~ん、清子がただもんじゃねえってことと、何か悩んでいるってことしか知らなんだ。おめぇさんたちにきちんと伝えていれば、もっと早く解決したんかもしれんのう。まぁ無事解決したんじゃ、本当に、おめぇさんたちには世話になっちまった、改めて言わせてもらうぞ、ありがとう」
そう、問題は無事解決したのである。過去をもうとやかく言う必要もない、とみつめは首を振ってみせる。
「礼には及ばないわ。私たちは、何もしていないもの。……それにしても、その幽霊集って人が持っていたケース、中身は何だったのかしら。それに、その名前、私どこかで見たような……」
清子は口をかみ締めている。
「そうね、話してもいいかしら。ケースの中身。中には、何も無かったわ。何も。そう、本来あるはずの、空気、いいえ、空間が、丸ごと消えてしまったみたいに、静寂だけがあった。私は確かに、ケースの中に、禍々しい気配を感じていた。だけど、ケースを開けた時には、もうその気配は消えていた。あらかじめ偽のケースを用意していたのかもしれないわ。中身はもう彼女が持ち去ってしまったのでしょうね」
その持ち去った物とは一体何だったのか。みつめには何の見当もつかなかった。しかし、ひとまず、清子の事件は無事解決を見せた。投げ飛ばされたらいかがどこへいったのかとか、学校の先輩である、幽霊集なる奇妙な人物が何者なのか、謎はまだ残されていたが、全ては目の前の解決を最優先するのが、目的なのである。明日からの平凡な部活動の再開には支障をきたすものでもないだろう。万事解決、と部室へと戻ろうとするみつめに、夜代が不満そうにそれを遮る。
「ちょっと、みつめちゃん。このまま帰っちゃうつもり? それでも本当に恋する乙女なのかしら? もぐもんさんと清子ちゃん、くっつけてあげようよ、名付けて、愛のキューピッド大作戦!」
「誰が恋する乙女よ。聞いてるだけで全身が痒くなってくるって。私が愛しているのは哲学だけよ。あの二人をくっつけるって? そんな簡単なことじゃないのよ。夜代の脳内は常にお花畑が満開で、現実が朧気にしか見えていないようね。そんなんだから二十年後も引きこもりなのよ」
「私三十中盤まで引きこもりなの!? みつめちゃんが私の奥さんになってくれるっていうなら、それも悪くないかも……じゃなくって、そりゃ、簡単にはいかないだろうけどさ、やっぱり、愛し合う男女が一緒になるっていうのは……」
「何言ってんの? 誰が男って? ここ女子高よ、そんなことも忘れてたの?」
「……あれ? じゃあ、もぐもんさんって」
「あれじゃないわよ。失礼な根暗ね。女子に決まってるじゃない」
「ひょえ~」
今時そんな悲鳴もないだろう、とみつめはもうひとりの部員を目で探す。いない。と思ったら、前方をつかつか歩いて、そそくさと部室に帰ろうとしていた。
「待ちなさい! 花歴!」
花歴はみつめの咎めるような声色に、恐る恐る返答する。
「これはこれは部長様、な、なぁ~にかなぁ」
みつめはスマホを取り出し、とあるページを開いて見せる。それは、この学校のホームページで、学校の紹介の他に、部活動のページも載せられている。
「これ、誰の仕業かしらね。もぐもんの言っていた『哲学部が悩み相談をしてる』ってのがずっと気になっててね。怪しいと思って、学校のホームページを見たら、こんなのが載せられてたんだけど」
部活紹介のページをスクロールしていくと、下の方に小さく、哲学部の紹介文が載せられている。
「『哲学部。部員四名、第二十七代生徒会長により創設、主な活動内容……』部活内容とかどうでもいいわ。最後を見てちょうだい。『生徒諸君の悩み相談、絶賛受付中ね☆』って。ほら、花歴。刮目せよ! これあんたでしょ! うちの部員に『ね☆』なんて付け足す女子力を持ってるやつなんて、あんた以外いないのよ!」
花歴はあからさまに狼狽えて、「あぁ」という呻き声を出したかと思うと、開き直ったように弁解を始めた。
「だ、だってさ、うち、もし来年新入部員が入ってこなかったら、廃部になっちゃうわけじゃん? もっと広く世間に、哲学部がいい部活だって知れ渡ったらさ、部員も増えるかなって思ってさ、マジ、私心配してるんだから、ほんとマジこれ」
みつめは小さく嘆息する。
「もう、それなら、私に一言声をかけてくれればいいじゃない。反対するとでも思った? 夜代やらいかは知ってたの?」
「うん。私、花歴ちゃんに相談されて、その、みつめちゃんには黙っててって言われて……」
みつめは自分がそこまで信頼されていなかったのかと思うと、胸が痛んだ。
「あ、部長に言わなかったのは、その、あの、さ。部長、こういうの、ちょっと苦手じゃん? だから、私たちでできることは、私たちでやってさ、部長を助けてあげられたらなぁ~なんて」
みつめは部員たちの気遣いをありがたく受け取ることにした。確かに、あまり人と積極的に関わるのは苦手だ。花歴はまだ社交性もあるし、そういう面で動いてくれるのは正直、ありがたかった。しかし、とみつめは花歴に詰め寄る。
「だとしても、私に相談してくれても良かったんじゃないの? これじゃ私まるでのけ者みたいじゃない」
花歴は、殺風景なグラウンドでも、一枚の可憐な花弁を添え咲かせるような、見事なウインクをしてみせる。
「部長はさ、先に色々考えすぎだから、先に動かしちゃえ、みたいなさ。案ずるより産むが易しって言うじゃん?」
続いて、夜代が、熱にでも浮かされているような調子で、みつめの手を握る。
「部員にのけ者にされて怒るみつめちゃんも、私イケると思ったの!」
「意味分かんないわよ! 手を擦らないで!」
みつめはネチネチと指を絡めてくる夜代の手を振りほどくと、反対の手で夜代の手を取る。空いた方の手で、花歴の手を掴む。
「二人共、ありがと……ううん、なんでもないわ、さぁ、帰りましょう、私たちの部室に。早く議題を進めないとね」
嫌がる花歴の手を万力のように締め付けて、さて、今日こそ議題を進めないと、とみつめは意気込んで、部室へと歩を進めた。
らいかが、シベリアの部族長から貰ったという、樫の葉と小動物の皮で編んだ首飾りをじゃらじゃらと引っさげ、真っ赤に日焼けして帰還したのは、それから十日後の出来事であった。