表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

宵闇の薔薇園にて秘め事を

作者: 聖木霞

ヒステリカ・アルトシュタイン:http://charasheet.vampire-blood.net/m547552a50bc9a9efe0f3be45fec269dc

レイズン・ランペドゥーサ:http://charasheet.vampire-blood.net/m7af0d01a253acef34a0ccc7017843ea4


【推奨BGM:「愛の唄」(nero project) http://www.nicovideo.jp/watch/sm21329810 】



「――――依頼、というのはですね。レイズンさんに、ある場所での私の護衛を頼みたいんです」

 会いたかったから会いに来た。そう告げた少女、ヒステリカ・アルトシュタインはその口実として(勿論本命でもあるが)携えてきた依頼に対しそう口火を切った。

 先程涙を零しその内心を吐露した少女らしい面差しとは別に、その表情には既にクライアントとしての自信と自覚が備わっていた。『冒険者』という立場として人々の依頼を全うするのとは別に、彼女は『研究者』という立場も持っている。その立場上、こういった依頼をすることはさして珍しいことではなかった。

「……護衛? お前を?」

 そう返すのはくすみのない白髪を持つ青年、レイズン・ランペドゥーサ。ヒステリカよりも長く多くの場数を踏んできた熟練の冒険者であり、裏の世界では名の知れた盗賊である。

 ヒステリカのよく動くルビーの瞳と、レイズンの思慮深げな光を湛えたアメジストの瞳が互いの意を汲もうと交錯する。

「はい。前人未到の地に行くということなので、報酬は八万を確定とします。何があるかわかりませんので、上乗せは帰還次第ということで。

 普段なら冒険者の店に持ち込むのですが、そうせずレイズンさん個人に持ち込んだ理由はですね。まず、私の知る限り一番腕が立つこと。そして人柄に信が置け、秘密をきっちり守っていただける方であること。それら全てを満たしているのがレイズンさんだった、というわけで」

 ヒステリカはレイズンに心を寄せている。それは彼女のあらゆるモチベーションを支える事実であり感情であるが、それとは別の、もっと奥底の部分には私情の絡まぬちゃんとした“評価”があった。

 レイズンという青年を、彼女は共に依頼をこなす中で長く見つめてきた。いや、見ざるを得なかったというべきか。自分と同じ稀少なナイトメアであることへの興味から始まり、その理性的で揺らがぬ状況判断や実戦においても決して鈍ることのない剣先は、いついかなる時においても彼女やその他の仲間を支え、導いてきた。それら実体験は、ヒステリカに「男性」としてのレイズンだけでなく、「冒険者」としての彼を見つめさせ、尊敬させてきた。

 とは言うものの今回の選出に私情が少なからず入っていることは否めないが、とヒステリカは内心呟く。だって二人っきりですもの。

「……成程。条件は悪くない……詳しい話を聞こうか」

 必然、レイズンの顔も今までのどこか余裕のあるものから、仕事に対する真摯な表情へと移り変わる。それに好ましそうに微笑みを零した後、ヒステリカは口を開く。

「この前の、トパァズ君が龍を拾って、私たちが扉に吸い込まれた時の依頼。覚えてます?」

「ああ……」

 レイズン自身は扉の奥で何があったのか直接見てはいない。彼女達が戻ってきたあと話で聞いただけだったが、覚えてはいる。

「扉の奥に吸い込まれたあとですね。私、ご先祖様に会ったんです」

 歴史を魔法文明時代に遡り、既にそれにまつわる文献などとっくに散逸している魔法国家、アルテオ王国。ヒステリカの先祖は、その王国を襲い来る魔神たちの手より守るべく人の域を脱した十三人の英雄のうちの一人である。

 英雄・トリックスター。その名を背負った彼女達は、国を統べる魔法王・ネペトリと共に、数多の魔神を撃滅せしめた。

 薙ぐ剣閃は千の魔神を屠り。

 迸る稲妻は千の魔神を灼き。

 それでも尚あふれ出る魔神たちは止め処なく王国を襲い、英雄達の奮闘も虚しく彼らの祖国と大地を完膚なきまでに踏み荒らし、戮していった。

 さぞ絶望したことだろう。自分達が命を賭し、人であることをやめてまで力を求め、血を流しながらも守らんとしたモノがいとも容易く引き裂かれていく光景をまざまざと見せ付けられて。

 だが彼らはそれでも諦めなかった。少ない生き残りたちを王国外に逃し、彼らを破滅へと追いやった憎き魔神将――――ゲルダムを始めとした全ての魔神たちを王国跡地にまで引きずり込み発動させたのは、最終手段というにも生温いほどの最大にして最悪の禁忌。

「英雄と魔法王、十四人の傑物たちの全生命を代償にして発動されたのは、跡地に蔓延る魔神たち諸共王国を闇で覆い尽くし現世より隔離する術法でした。私たちが飛ばされた――――もとい、私が呼ばれたあの場所は、唯一ゲルダムのみを除き全ての魔神たちが彼らの手により駆逐されたかつての王国だったんです。そこで私はご先祖様より“英雄”の名と力を受け継ぎ、ゲルダムを打破しました。

 で、セイレーン……ご先祖様たちをあの空間に縛り付け、隔離の元凶となったゲルダムが倒されたことで、どうやら英雄の力と血を受け継ぐ私のみ、跡地に飛べるようになったんです。

 そこに行き集めないといけないものがあるので、今回はその護衛を、と思ったわけで……いかがでしょうか」

 色んな部分をざっくりと削ったような気がするが平気だろうか。ずっと黙って彼女の話を聞いていたレイズンは、「成程」と相槌を打つ。

「ということは、跡地からはお前一人で行かねばならないのか」

 今まで誰も踏み入れず大昔には魔神が蔓延ったというその地に、ヒステリカ一人で行かせて平気なのだろうか、とレイズンは内心案じていた。

 ヒステリカは生粋の魔術師である。これはまだレイズンは預かり知らぬ……もとい、三相と呼ばれる異形の遺跡にて初めて見ることになるのだが、穢れを身に宿すという代償さえ厭わなければ、彼女はいかなる存在であろうと問答無用で圧殺し消滅させることすら出来る。また、星を詠み、未来を詠み、過去を詠むことで出来事に手を加えることも出来る一流の占者も兼ねている。

 魔導で言えば超一流といっても差し支えない彼女だが、しかしヒステリカには近接技能の「き」の字の心得すらもない。身体能力が劣る、というわけではないのだろう。だが単に向き不向きという点において、彼女には絶望的なまでに接近戦のセンスがなかった。不意の奇襲に遭えば、深手を負うことは恐らく免れまい。

 アメジストの瞳を静かに彼女にやると、ヒステリカは「あっ」と慌てて言い募った。

「いえ、跡地にも一緒に来ていただきます。どうやらその場所、現世より隔離されているというだけあってこことは若干『軸』が違うようでして、私の使えるある魔法で跡地まで飛ぶのですけど……セイレーン様曰く、『私が信頼している方なら一緒に飛ばせる』だそうですので。一緒に行って、一緒に探索して、一緒に帰ってくることになります」

 そう悪戯っぽい笑みを零した彼女の意を正確に汲み取り、レイズンは腕を組み気品漂う仕草で顎に手を添えた。

「成程。それが“オレでなくてはならない理由”、か」

 それに無言で返すヒステリカの瞳には、『私の見る目は正しい』との絶対的な確信があった。それはレイズンという個人に対する、あらゆる意味での圧倒的な信頼の証。

 言外にそう言われ、レイズンとしても悪い気はしなかった。ふ、と淡く微笑み、一つ頷く。

「良いだろう。先程の条件ならばその依頼を受けてやる……オレが出るからには失敗は許されん。必ず満足のいく結果を与えてやろう」

 ヒステリカは彼のこういう表情が好きだった。実力と実績に裏打ちされた、自信溢れる淡い笑み。それは見ていてとても安心できるものだし、同時にとても焦がれる表情だったから。

「それでは、早速行きましょうか? 何か準備があるようでしたら、前金としてお支払いできますが」

「いや、いい。常に済ませてある。あとは……これだ」

 レイズンから懐から取り出したのは一つの人形。それに手を翳し、小さく呪を唱える。

「刹那散華せぬ鼓動を宿し給え……――――紡げ、“スケープ・ドール”」

 スケープ・ドール。人形に自らの魂の一部を宿し、一度のみあらゆる損傷を肩代わりさせるという術。それくらいの知識はソーサラー専門のヒステリカにもあった。

「馬車を用意させよう。場所は何処だ」

「あっ、待ってくださいレイズンさんっ」

 そう告げマントを翻して外に出ようとしたレイズンに、ヒステリカは慌てて声を上げた。

「ここから直接飛ぶのでその手間はいりませんよ。いつでもどこでも飛べる魔法ですので。……日に二度が限度ですけど」

 そして部屋の中央へと歩き、ぐるりと見渡した。まあこの辺りなら十分だろう。そうして、おずおずと告げる。

「えーと、二人で飛ぶのは初めてなので……できるだけ、私の近くにいてもらえますか? その、出来れば触れるくらいで」

 あわよくば抱き締めてくれちゃったりなんかして……という少女の淡い希望は、青年が彼女と背中合わせに立ったことで儚く打ち砕かれた。むしろこんなところでそんな甘い展開を簡単に齎してくれるような男ならば少女もここまで苦労はしていない。

 いやだが背中をぴったりくっつけてくれるようになったのは進歩というべきか。千里の道も一歩から。レイズン陥落への道は千里どころでなく万里といわれても頷けるが、そこはまあ、あえて見て見ぬ振りとしよう。

「さ、それではいきますよ」

 すぐに切り替え、ヒステリカは手を組み合わせる。まるで祈るかのように僅かに顔を俯け目を閉じ、すぅ、と息を吸った。

「―――― Konig ist der Weg zu Helden gezeigt 」

 否、それは正真正銘魔法王に捧げる祈りの言葉。英雄にのみ赦された、魔法王の導きを乞うための祝詞。

 言の葉は魔力を呼び起こし、やがて二人を包む方陣という形で顕現する。その色彩は、少女の穢れなき魂を象徴する薄紅。

 ゆるりと廻り魔力を淀みなく循環させている方陣は徐々にその力を強め、今はもう喪われて久しい古の言語で発動のための呪を紡いでいく。

 レイズンはその光景に僅かに瞠目した。何故だか最近ひっついてくるこの少女が、いつの間にかこれほどの陣と法を編むようになっていたとは。最初出会った時と今とでは、まさしく天と地ほどの差があった。

「 Daher bitte wir fuhren auf die Strase ――――」

 少女の唇が締め括りの言葉を紡いだ瞬間、――――二人の姿は陣が一際眩く光るのに紛れ、部屋の中から跡形もなく消失していた。


*~~~*~~~*~~~*


 ――――さあ、と穏やかな風が二人の頬を撫でた。

 足の裏には堅い石畳の感触。そっと目を開けば、目の前を燃えるような赤い薔薇の花弁が風に運ばれ軽やかに過ぎ去って行った。

「ここが、彼の王国の跡地。その一画、セイレーン様が住み治めていた土地です」

 少女が一歩を踏み出し、くるりと体を反転させにこりと微笑む。スカートの裾が薫風に揺れ、桃色の髪が曇天の隙間から零れ落ちる陽光に僅かに煌いた。

「……まるで御伽噺だな」

 あまりにも美しく、現実離れした眼前の光景にレイズンは小さく呟きを零す。彼が目線を上げれば、灰色に濁り空を覆う雲の隙間から、優雅でありながら荘厳に聳え立つ大きな城が見えた。彼の呟きを何処か誇らしげに受け止め、ヒステリカは謡うように告げる。

「そして、この遊歩道の先にあるあのお城がセイレーン様のお住まい。そこにいるであろう“伯爵”という方から、彼女が生前預けた宝物――――『ハルコンローズ』を受け取ること。それが今回の目的になります」

「……ハルコンローズ?」

「はい」

 少女曰く、それは『魔法王ネペトリに忠誠を誓った際にセイレーンが授けられた、ハルコンで出来た薔薇』らしい。それをセイレーンがこの『ローズガーデン』一帯の守護の要としたようで、ここの様子見も兼ねそれをとってきてもらいたい、とセイレーンは彼女の夢で語ったのだという。

 と、彼女が告げたところで。ヒステリカが背を向けている城の方角から、「セイレーン様ぁぁぁああ」と奇声を発しながら飛んでくる謎の物体がレイズンには見えた。サイズはサッカーボール大、驚異的な速度でヒステリカに突っ込んでくる。このままだと間違いなく彼女の後頭部に衝突する――――そう判断したレイズンは、考えるよりも早くヒステリカを自分のほうへと引っ張った。

「え、へ、あ、きゃあっ!」

 レイズンが庇うようにヒステリカを地面へと引き倒せば、束の間互いの視線が息すらかかりそうなほどの至近距離で交錯した。

 な、何、何、何なんですか一体急に! いや嬉しいですけど、めちゃくちゃ嬉しいっていうかレイズンさんになら抱かれてもむしろ本望ですけどっ!

 自分から急接近したときはともかく、こういった不意の接近には完全に動揺が表に出るヒステリカだった。何も言えず顔を真っ赤にさせて口をぱくぱくさせている彼女を尻目に、レイズンは突っ込んできた物体へと警戒の目を向ける。

「セイレーン様お待ちしておりましたご無事のようでこのフリークスというかこの方は一体あれっ似てるけどそもそもセイレーン様じゃないッ!?」

 忙しない奴だった。

 その物体は蝙蝠の羽に青黒い肌を持ち、執事服を身に纏い白髪を丁寧に撫で付けた異形だった。ただし瞳は大きく、くりくりと動いてよく見ると存外可愛らしい顔立ちをしているのが分かる。

「いやでも確かにセイレーン様の反応が……と、失礼致しました、お客人。私はセイレーン様の執事を務めさせて頂いております、フリークスと申します」

 フリークスと名乗った異形は、お見知り置きを、と告げて丁寧に腰を折った。それにレイズンは一つ頷き、隙のない動作で起き上がる。ちなみにそれを実に名残惜しそうな瞳で見つめている少女がいることには全くもって気付いていない。ヒステリカ、と彼女の手をとって立ち上がらせ、彼女に小声で耳打ちする。

「お前が話を通すのが手っ取り早そうだ。尤も、どこまで信用されるかは、話してみなければ分からないが……」

 異形の真意は、その顔からはいまいち判然としなかった。今のところ敵意はないようだが、どうなるかは分からないとレイズンは内心で警戒を高める。

 話を振られたヒステリカはというと、レイズンの言に頷いて「ん、んっ」と咳払いを一つ。改めてと表情を作り口を開いた。

「私はそのセイレーン様の子孫であり、正式な後継者です。ハルコンローズをとってきて欲しいとのセイレーン様のお願いと、私自身があの方をよく知るためにここまで来ました。彼はその護衛です。

 ……その、後継者であるということは、この指輪を見ていただければ分かるかと」

 そうしておずおずと差し出した右手、その薬指には、鮮やかに輝く濁りのないアンバーの指輪が収まっていた。華奢な手指によく映えるそれが生前セイレーンが心臓を宿していた宝石そのものだということは、この中ではフリークスしか知らぬことである。ゆえにそれは言を尽くすよりも何倍もの説得力を持って「彼女こそセイレーンが認めた次なる英雄である」ということを示した。それを裏付けるように、少女から立ち上るオーラのようなものは、自らが慣れ親しんだ彼の日の主とほぼ同質のもの。

「ほう、ほう。成程……確かに正式な後継者様であらせられるようだ。それでは、ここで会えたのも何かの縁で御座いましょう。不肖私めが城へと案内致します」

 そう告げ、彼はくるりと反転し翼をはためかせて遊歩道を行き始めた。二人は互いに視線を交わし頷きあってからそれに倣い、ゆっくりと歩き出す。

「……理解が早いな。流石は王家に仕える執事というべきか」

「私共は、英雄が一人セイレーン様によって創られた人工生命ですから。主の力を後継しているとなればすぐさま分かります。……それと、訂正しておきましょう。セイレーン様は、王家の出自では御座いません」

 英雄たちは、それぞれ剣や魔法の腕を魔法王に見初められ人の域を逸脱した者たちだ。よって彼らが名を連ねる系譜には貴族から元奴隷まで様々ある。だが、セイレーンの出自が何であるかは、結局彼は告げなかった。ヒステリカにはそれは、「知りたければ自分で尋ねるように」と告げているように思えた。

「ところでお二人共、お名前を窺ってもよろしいですかな」

 前進しながらも反転するという小器用な真似をしつつ、彼はそう微笑んだ。レイズンは依然静かな面持ちで「レイズン・ランペドゥーサ」と素っ気無く返し、傍らでどこか落ち着かなげにしている少女へと視線をやる。

「ヒステリカ……ヒステリカ・アルトシュタインと申します」

「レイズン様に、ヒステリカ様。……ふむ。それではお二人共。この薔薇園は、今現在狂気に冒されつつあると。申し上げたら、信じてくださいますかな」

 再び前を向き、城を仰ぐ彼の表情は、既に二人からは見えない。だがその言葉には、今までとは違う一抹の感情が混じっているようにヒステリカには感じられた。

「……信じるかどうかは、具体的な説明の後だ」

 と返しつつも、レイズンは経験則に基づき本当のことなのだろうと見当をつけていた。このように振られて、嘘であった験しがない。そしてそれらが良いことであった経験も、同様に。

「申し上げた通り、私共はセイレーン様の魔導の術により創られた魔導生命。ハルコンローズにより供給される魔力で動く、意思を持つ人形たちで御座います。主を喪った普通の人形はやがてその命を止めるでしょうが、私共は魔力により自律稼動可能な存在ゆえそれは有り得ません。

 セイレーン様の御命が魔神との戦いで喪われてから、疾うに永い時が過ぎた……もう、お分かりでしょう」

 自壊することも出来ず、ただひたすらに帰らぬ主を待ち続ける忠実な下僕達。常世から隔離されたことで停滞した時は、やがて彼らに緩やかに浸食する毒……即ち、狂気を齎した。

 嘗て随一の下僕として多くの召使たちを取りまとめてきたフリークスでさえ今はもう正気と狂気の境目。何時他の召使達と同じく、狂気に飲み込まれるかも分からない……そう告げ、彼はそっと微笑んだ。

「ですから、お二人共。城につきましたら、どうか私共を解放してくださいませ。ハルコンローズを預かる、唯一の非・被造物……ブラッド伯爵を、殺すことで」

 ヒステリカが息を詰める。反面、無言で話を聞いていたレイズンはなおも落ち着いた声で「ブラッド伯爵とは」と尋ね返した。

「ハルコンローズを預かり、セイレーン様の不在の間仮の城主としてこのローズガーデンを取り仕切るお方です。彼も恐らくは既に狂気の中……ハルコンローズを返せといっておとなしく返すような理性も、最早残っておりますまい。

 お二人に酷なことを申し上げているということは十二分に承知の上で御座います。……それでも、どうか」

 私たちを救うため、そしてハルコンローズを得るために。殺して奪えというフリークスの言葉に、ヒステリカが顔を歪めて言葉を募る。

「それでは貴方は、……ッ、それしか方法は無いって言うんですか! 私は、セイレーン様の親しんだ人たちを殺しにここに来たわけじゃ、ないんです……!」

 先祖が愛した者の中にはきっと彼らも含まれていたはずなのだ。そして自分はそれを守るとセイレーン、そして魔法王ネペトリと約束を交わした。だのにそれを破壊しなければならないなどと、ヒステリカには到底認められなかった。まだ幼さを残す端正な面立ちが、苦悩に歪む。

「お優しいですな、セイレーン様。ですが良いのです。理性を喪い主の子孫とそのご友人を傷付けるくらいならば、その前に滅んだほうが本望というもの。……ご理解、頂けましたかな」

 それでも尚、ヒステリカの顔は晴れない。到底認めることなどできぬと如実に拒絶を表す彼女の次、フリークスは隣の青年へと視線を移す。

「……お前の望みは分かった」

 ぱ、と見上げるヒステリカの視線を受けつつも、紡ぐ言葉には淀みも迷いもない。レイズンは依然冷静そのものの表情で、「オレ達もここに飛ばされたばかりでな」と続ける。

「まだ掴みかねているんだ。何が真実か……見極める時間が欲しい。……それでいいだろう、ヒステリカ」

 ちらりとレイズンもヒステリカへと視線をよこす。見る間に大きく開かれたその紅玉は、次の瞬間には決意の色を秘めフリークスを真っ直ぐに見据えていた。

「はい。まずは伯爵を実際に見てから、どうするかは私たちで決めます。……そう簡単に、ご先祖様の愛した人たちを切り捨てられるわけ、ありませんから」

 フリークスはある場所まで来てから立ち止まり、僅かな微笑みを浮かべて「畏まりました」と二人に一礼した。

 その背後、彼らの行く手には茨で編まれた生垣。背丈はレイズンよりも大きく、無理矢理よじ登ればただでは済まない上に、右を見ようが左を見ようが延々と続いている。これでは迂回するという手段も取れない。

「茨、か。……この先へは、普段どうやって行っているんだ。普通に通れる道はないのか?」

「無論緊急用の道はありますが、セイレーン様も私共も普段はここを通っておりました。これはセイレーン様御自ら創られた、侵入者を弾くためのものでありますゆえ」

 ふとレイズンが頭を巡らせると、茨の隙間に何か煌くものを見つけた。棘に触れぬよう注意して取り出してみると、それは薔薇の形に掘り込まれた小さなアンバーの結晶だった。生前のセイレーンが悪戯心で仕込んだものだということはフリークスのみが知ることである。

 そして、同時に勘付く。フリークスが少女をセイレーンだと分かるならば、それはこの庭園にも言えることではなかろうかと。

「ヒステリカ……お前ならこの先へ続く道を開けるかもしれない。セイレーンの後継者であるお前なら……道を開く鍵を持っていてもおかしくはない」

「へ、わ、私ですか……あ、もしかしなくともやっぱりこれ、ですかね」

 再び差し出したのは右手の指輪。それを見、フリークスは満足げに頷く。

「それでございます。それがあれば、この茨も自ずと道を開きましょう。あぁ、レイズン様は一応、ヒステリカ様と手でもお繋ぎになられていた方がよろしいかと。弾かれる恐れがありますので」

 フリークスぐっじょぶ、と内心で親指を立てるヒステリカだった。それに対しレイズンは「仕方ない。おい、手を出せ」とぶっきらぼうに告げ、差し出されたヒステリカの手を握る。

「そ、それじゃいっきますよー」

 ヒステリカが右手を茨に向けて差し出した瞬間、茨が唐突にざわめきだす。茨がひとりでに退けるようにして出来たのは、人一人が通れるほどの小さな通路だった。見れば、その先に遊歩道が続いている。

 それを見届け、レイズンは「もういいな」と手を離す。ヒステリカが短いが至福だったとと心の中で零すのと同時――――一歩を踏み出した青年と少女の視界を、突如目眩と不可思議な光景が瞬いた。

 彼らの眼前に現れたのは黒薔薇の迷路。仮に上空から俯瞰できたとしても容易には全容を掴むことなどできない薔薇と茨で編まれた広大な迷宮であり、徘徊するのは招かれざる客を排除する使命を担った、それぞれ金銀銅の仮面を被った人形たちだった。

「……成程。一筋縄ではいかない、というワケか」

 フリークスに案内を頼もうとレイズンが口を開きかけた時だった。傍らの少女は、広がる黒薔薇の海に猛烈な既視感を覚えていた。ぐらり、とその華奢な体が僅かに揺らぐ。

「ここ、私、……ッ、セイレーン、さま……っ」

 訪れたことなどないはずなのに、何故か彼女は『道を識っていた』。艶やかに、そして棘やかに道行く先で咲き誇る薔薇の黒い露の一つ一つまでも、あまりにも明確に明瞭に思い描くことだって出来る。セイレーンから受け継いだ力は、その記憶の断片をも彼女に伝えていた。余りにも強烈過ぎるそれらが、洪水となって彼女の意識を浸食していく。

「わた、私っ、わたし、一体、どちら……っ!!」

 その異様さに、驚きよりむしろ恐怖が優った。自分は『セイレーン』なのか『ヒステリカ』なのか、その境界自体が曖昧になって行くような感覚に、少女の細い体躯が大きく震える。

「……落ち着け」

 彼女の意識を、ヒステリカとしての意識を取り戻させるように。レイズンは彼女の肩に手を添え、乱れ彷徨う紅玉に自らを映させるように覗き込む。

「“分かる”んだな? ……案内、出来るか」

「レイ、ズン……さん、」

 聞き慣れた心地良い声に、混乱に飲み込まれかけた少女の瞳が徐々に冷静さを取り戻して行く。肩に添えられた手に僅かに震える己のそれをそっと重ね、一度深く呼吸したのち、「はい」と頷いた。

「分かり、ます。全部。この迷路の隅々まで、……全て」

 恐れるな。『セイレーン』も『ヒステリカ』も、最早同義であることを自覚しなければならない。

 こくりと頷き、ヒステリカは迷いのない足取りでゆっくりと迷路を進み始めた。レイズンとフリークスはそれに黙して従う。

 何度か角を曲がり、最早どちらから来たのかさえわからなくなりそうな迷宮の中にあっても、彼女の歩む速度が落ちることはなかった。 そしてまた、先程のフラッシュの中で見た仮面達も、彼女の姿を認めた瞬間丁寧に礼をして一行に道を譲った。

「あれらは魔力で動く意思無き自動人形。ゆえに狂うこともなく、永久にこの迷宮を守護する定めに御座います」

 そんなフリークスの補足も聞こえているのかいないのか。ただ黙々と歩を進めていたヒステリカだったが、ある時唐突にに「あ!」と声を上げた。

「ありました、あそこです。あれが迷宮の出口です」

 指差す方には桃色の薔薇で彩られたアーチがあり、その先にはまた遊歩道が続いているのが見えた。振り返ったヒステリカの視線を受けたレイズンは、「先を急ごう」と頷きを返す。

「ええと、この先は確か……テラス、だったような」

 気がします、と彼女が呟くのと、薔薇のあしらわれた遊歩道が開け、彼女が言う通りのテラスが現れるのは同時だった。

 正方形の空間だった。桃色の薔薇が咲き誇る生垣と、周囲に引かれた水路を巡る澄んだ水によって囲まれたテラス。天蓋つきのその下には、何脚かの白木の椅子、そしてテーブルとティーセットが置いてあった。

 美しくも幻想的な光景にヒステリカが感嘆を零し、レイズンが依然警戒を続ける中、彼らの視界が唐突にノイズに阻まれる。

 ノイズはやがて、テラスの椅子に腰掛ける二人の男女――――女の方は傍の少女を少し大人びさせただけの姿、男の方は黒いローブを纏い長い髪の合間から龍の耳を生やした姿――――を描き出す。その脇には、給仕と思しきフリークスの姿もあった。

 つと、女の方がこちらに視線をやる。確かにその紅玉がレイズンとヒステリカ、双方を捉えたと感じた瞬間――――ノイズは弾けて、再び元の、誰も腰掛けてなどいない空白のテラスに戻った。

「……っ、今のは……」

 セイレーンと面識のないレイズンにも分かった。女の方は十中八九彼女の先祖だというセイレーンだろう。それでは男の方は、と彼が思考を巡らせると同時、ヒステリカが眩暈を振り払うようにぎゅっと目を瞑り答えた。

「ダークロード様……です、ね。夢でそう聞きました。トリックスターの一人であり、セイレーン様の伴侶であり、そして私の、もう一人の先祖である、……と」

 彼らを見たフリークスは一つ頷き、「混線してるのでしょうな、お二人とも」と呟く。どうやら彼にはあの光景は見えていなかったようだ。

「セイレーン様のお力を継がれたことで、この場所に一際強く影響を受けているのでしょう……その煽りで恐らくレイズン様も見ているかと。セイレーン様の過去の一端、この場に残った情念を」

 ここからは再び私が案内致しましょう。そう告げたフリークスは、二人の先頭に舞い戻りながらそう告げた。

「あのテラスは生前、セイレーン様が一際愛しておられた場所でございます。お客人やダークロード様がいらっしゃった時には必ずここで歓談なさったもの……この薔薇の数々は、主が一番愛した薔薇でございます」

 彼らの行く手にも依然道をなぞるように咲き誇る桃色の薔薇――――それらは彼の弁を肯定するかのように、今までの赤薔薇・黒薔薇以上に美しく、堂々と咲き誇っていた。

「……先を急ぐぞ」

 レイズンとしても、本来ならばゆっくりと時間をかけて眺めていたいほど美しい場所だと思う。だがそれよりも、今はどこか様子がおかしいヒステリカを案じる気持ちの方が強かった。

「(そりゃ、少しくらい影響はあるかも、とは思ってましたけど……予想以上、ですね)」

 というかレイズンにまで出るとは流石に予想していなかった。彼女の先祖のことだ、もしかしたらわざと彼にも見せているのかもしれないと思ったところで、彼らの目の前に階段が現れる。

 手すりには青薔薇と蔦が絡まり、それはいつの間にか目の前に見えていた城の手前、小さな広場へと通じている。フリークスが「こちらで御座います」と階段を上がっていくのに従い上っていくと、ヒステリカは瞠目した。

「! こ、れは……」

 上がった先。フリークスが脇に退き丁寧に腰を折った瞬間、彼ら二人を歓迎するように数人のメイド、首無しの騎士、召使たちが傅いた。

「私たちはフリークスと同じ、まだぎりぎりのところで正気を保っている者で御座います。新たなるセイレーン様と、その護衛の方のお迎えにと馳せ参じました」

 伏せた先でメイドの一人がそう幼い声で言う。フリークスは、

「伯爵様は最上階にいらっしゃいます。ですが、ここから先はお二人だけでお進みくださいませ。城の中は最早狂気の吹き溜まり、私たちが同伴してはいつ刃を向けてしまうかわかりません……どうか、平にご容赦を」

 彼らも既に分かっていた。二人がこのまま城に入り伯爵を殺せば、自分たちもほどなくして死ぬことになると。

 それでも彼らは妨害などしない。そんなことをするくらいならば、新たな主と、その傍らに佇む青年の礎になることを選ぶ。……これが、遥かな時、古の英雄が育んだ絆だった。

「……分かった。案内ご苦労だったな。……ヒステリカ、準備は良いか」

 フリークスを労い、レイズンはヒステリカへと目をやる。

 もしセイレーンと同じ立場にあったとして、果たして自分は、このように彼らの崇敬を一身に受けられるような振る舞いを出来ただろうか。否、出来るはずがない。先祖とはいえ、あくまでセイレーンとヒステリカは別の存在。この絆は彼女らにしか成し得ぬものだ。……だからこそ自分は、彼らと自分なりの絆を育みたい。

「――――はい。伯爵に会い、本当に殺すしかないのか。確かめなければなりませんから」

 間違っても殺すことを前提に行くわけではない、と。言外にそう告げ、少女は柔らかに微笑んだ。

 それを視界の端に捉えたフリークス達は僅かに瞠目した。かつての主、セイレーン様の微笑みとまるで同じだ、と。

「行きましょう、レイズンさん」

「……ああ」

 静かに頷くと、ぎい、とひとりでに城門が開いた。城内玄関、足元にはまるで最上階へと導くように一筋の赤い絨毯が敷かれている。

 中は主の趣味の良さを匂わせる優雅な調度で彩られているものの、本来そこにあるべき活気というものは一切なく、しんとして重苦しい空気が立ち込めていた。或いは人は、この空気を狂気と呼ぶのだろう。耳を澄ませば、それらに侵された人々の微かな唸り声を城内の至る所から聞くことができた。

 あまりにも濃く城内に垂れ込める狂気の香は、全くもって正気である自分たちですら犯してきかねないほどの濃度と密度を持っている。それは、セイレーンが逝ってからそれだけの永い時間が経っているという何よりの証左だった。

「……オレの傍から離れるな」

 怨嗟の声には耳すら貸さない。ただこの足を進ませるのは己の意思のみ。レイズンの言葉にヒステリカはこくりと頷き、油断なく杖を構えながら追随する。

 最上階にはすぐ辿り着いた。何回か階段を登り、目の前に現れたのは一際大きな門扉。――――この奥に居るのだと、二人の感覚が察知する。

「準備は出来ているか?」

 戦闘時ならば躊躇わずに施す補助の術も、今回ばかりはかけなかった。 あくまでも自分達は、件の人物が殺さねばならない相手なのか見定めるために来たのだ。ならばここで魔法の補助を行うというのは、彼女に複雑な気持ちを抱かせかねない。そう思っての判断だった。

「ええ」

 この扉の奥は、恐らくここよりもより噎せ返るような狂気に犯されていることだろう。だが怯んではいられない、最悪の展開を享受するだけでなく、与えられた状況下で最善の展開にねじ曲げるために。――――レイズンは彼女の意を汲み、扉を、押し開けた。

 その先にあったのは広間。こちらに背を向け中央に立っているのは白髪を背に流した一人の青年。黒い外套を纏っており、その立ち姿からは高貴な貴族の雰囲気を匂わせている。

「ブラッド伯爵」

 レイズンはヒステリカより一歩前に歩み出て、男を見据える。手はだらりと下げられているが、いつでも剣を抜ける隙のない体制で警戒の眼差しを青年へと向ける。

 その言葉に、青年が振り向いた。その双眸は憂いを含んだワインレッド。ヒステリカのそれよりもなお深く、光の加減によっては血濡れと見紛うかの危うさを秘めた瞳。

 そしてその足元に二人が目を向けると、バルコニーから差し込んできた僅かな光が彼の黒い靴から影を描き出した。だがそれは人の形をしていない、時とともに間断なく蠢き形を変える、紛うことなき異形の影だった。

「……貴方がた、は」

 今にも消えてなくなりそうなほどに淡い声が響き、間を置いて瞳が二人を捉え僅かに揺れた。

「ヒステリカ、先ずお前が名乗るべきだ」

 セイレーンの子孫である彼女を見て、どういった反応を示すのか。それを見るため、レイズンは少女へと視線を寄越す。

「私は、ヒステリカ・アルトシュタイン。一国を守る英雄が一人、トリックスター・セイレーンの末裔であり、後継者です。そして彼は私の護衛。私たちは、決してここを荒らすために来たわけではありません」

 そう告げると、茫洋として心ここに在らずといった風情の伯爵の瞳が、ヒステリカ、次いでレイズンと順に移る。その眼差しは依然として朧げだったが、レイズンは構わず単刀直入に目的を告げた。

「ブラッド伯爵、ハルコンローズが何処にあるのか教えてもらいたい」

「……ああ、これを取りに来たのか……そうか、彼女は死んだか。如何な人外とはいえ、あの戦争では生き残れなかったか……彼女に言われたんだろう? これを返して欲しい、と」

 彼には全てわかっているというような言い方だった。そして胸元から取り出したのは、光の当たり方によって赤にも青にも金にも緑にも自在に色を変える、鮮やかかつ精巧に作られたハルコンの薔薇。しかしその色は、遠目からでもわかるほどにはっきりとくすんでいる。

「構わない、彼女がそういうのならば渡そう……そう、言いたかったのだがな」

 どこか悲哀さを纏わせて彼が視線を伏せた瞬間――――薔薇が、一瞬で漆黒に染まった。

「……少し、遅かった」

 彼の奥に見える空が瞬く間にどす黒い暗雲に包まれる。薔薇から漏れ出た黒い靄が、伯爵を一瞬にして包み込んだ。

 その唐突過ぎる変化にヒステリカが息を詰まらせる。レイズンは腰のナイトレイドの柄に手をかけ「何の真似だ」と詰問を投げかけたが、ヒステリカには何となく予想が付いていた。そう、自分達は来るのが僅かばかり遅かったのだ、と。

「次代のセイレーン、さま……願わくば、……狂う前に、お会い……――――したかった」

 靄に囚われまいと彼がもがき突き出した掌も、次々と溢れ出る暗黒に絡め取られ次第に埋もれていく。最早元の輝きなど一分も残さずくすんだハルコンローズも共にその靄の中に消え、そうして吐息のように最後に残した言葉が、彼の最後の理性となる。

「……レイズンさん」

 セイレーンはハルコンローズをこの地域一帯の守護の要として置いていたと語った。そのハルコンローズが純粋な光ではなく何か別の闇に侵されている――――その事実と、そこから導き出せるある仮定に、少女は静かに傍らを見やった。

「彼もまた、被害者だったというわけか」

「はい。ハルコンローズの侵食が、多分伯爵やフリークスたちの狂気の原因なんだと思います。彼らを解放するためなら、遠慮なく破壊してくださって構いません。……そのためには、まずは伯爵を止めなければならないようですが」

 少女が険しい目付きを作ると同時に、伯爵を包んでいた靄が晴れる――――否、伯爵の体に吸い込まれていく。その全てが彼の中を侵食し尽くした後には、既に先ほどまでの理性のカケラも残ってはいなかった。

『グ……ガ……ガァアアアアアアッッ!!!!』

 灼眼が、狂気的な殺意のみを秘めて二人に牙を剥いた。

 ヒステリカとレイズン、双方の視線が交錯する。二人で戦うというのもこれが初めてではない、既に各々やることは決まっていた。

「手荒な真似はしたくなかったのですが、やむを得ません。少し痛いとは思いますが――――耐えてくださいませね」

 自らの誇りである角を肥大化させ、少女が懐から取り出したのはタロットカード。器用な仕草でシャッフルし、カードを二枚引き抜く。それらが示すのは、己と青年、二人の吉兆を祝す星の巡りである。

 星詠みの恩恵が彼女達に降り注いだ瞬間、彼女は躊躇いなく杖を真横に振りぬいた。

「――――《ディメンジョンソード》」

 彼が狂気に侵されてしまった以上、止めるには力づくでしかない。杖の軌跡がひび割れ、そこから一振りの鋭利な剣が出現する。次元の狭間より出でた剣先は、空を滑り違わず伯爵の体躯を貫いた。

『グッ……ギ……ギイイッ……!!』

 怨念じみた呻き声を聞いたのち、ヒステリカは間髪入れずに「レイズンさん!」と声を上げる。

「マギスフィア起動、第十四階位の変」

 腰のホルダーから具現化するのは魔導機術、その恩恵であるマギスフィア。伯爵に向けて駆けながらそれに魔力を籠め、呪を紡ぐ。

「我、久遠の絆断たんと欲すれば……言の葉は降魔の剣と化し、汝を討つだろう」

 腰より抜き払うのは柄から剣先にいたるまで全てが漆黒で染め上げられた細身のソードレイピア。《穿黒剣・ナイトレイド》と銘打たれた魔剣は、空を薙ぎながら結晶をその身に取り込む。

 ――――瞬間、その刀身を包むように、漆黒のエネルギー体が大鎌の刃を形作った。意思持つ紫の魔石が声無き咆哮を上げ、死神の鎌として軌跡を刻まんと一途迸る。


「――――断ち切るッ!!」


 伯爵の眼前へと辿りつけば、翻ったマントが黒く虚空を薙ぐ。宝石の如き濃紫の瞳が理性無きワインレッドの視線を捉え、振り切るように鎌が振り下ろされた。そしてそれは、寸分の違いも狂いもなく伯爵の体を切り裂く。

 狂気に取り憑かれていただけで元より戦闘に昂ぶる気概など持ち合わせてはいなかったのか、その一閃を受けたことで彼の体はどうと倒れこんだ。

 小さな金属音を響かせ、鎌の影を消失させたナイトレイドが鞘に収まった。同時、伯爵の胸元から、一枚の古びた写真と、濁りきったハルコンローズが零れ落ちる。それは床に触れた瞬間、その中に孕んでいた暗黒を残らず外に吐き出し、まるで濁った眼球のようなものへと凝固させた。

 レイズンはまず写真を拾い上げ一瞥した。写真に映っているのは十四人の人間。中心で椅子に腰掛ける一人を除けば皆なんらかの獣の耳や尻尾を生やしており、その中には先ほどフラッシュの中で見たセイレーンやダークロードの姿もあった。……どうやら、魔法文明時代、彼らの王国がまだ隆盛を極めていた頃のものらしい。

 ヒステリカはというと、伯爵が倒れ伏したあとすぐにハルコンローズとその側に転がっている眼球へと近寄っていた。

「これですね。多分、これを壊せば皆、元に戻るんだと思います。……レイズンさん、それは?」

「彼の大切な思い出、と言ったところか」

 写真を受け取り、数秒じっと見つめる。自分の先祖は、見れば見るほど今の己にそっくりで。されど決して同一人物などではなく、私は己が道を行くべきなのだと。……そう、言っているような気がした。

「この場でこれを断つ。異論はないな?」

 再度ナイトレイドの柄に手を掛けつつ、レイズンは少女へと問いかける。ヒステリカは一度目を閉じた後ぱっと顔を上げ、「はい」と頷いた。既にそのルビーの瞳に、迷いはない。

「壊してください。誰も殺さずこの狂気を晴らせるなら、それが最善ですから」

 レイズンが目を瞑れば、しんと空気が静まり返る。一瞬の沈黙の後、ナイトレイドを一気に抜刀し、居合の要領で眼球を真っ二つに切断した。

 ――――彼が眼球を断ち割った瞬間。

 奥のテラスから見えていた空が一気に晴れ渡り、今までの暗雲などまるで幻であったかのように陽光で彩られる。 同時、今まで城の中に濃く垂れ込めていた昏い空気も、清涼な風に吹き飛ばされたかのように綺麗に消えてなくなっていた。

 ヒステリカは小走りでテラスまで駆け寄り、身を乗り出して外を見やった。

「凄い、こんなに綺麗なところだったんですね……! レイズンさん!」

「……呪いが、解けたようだな」

 ナイトレイドを収め、レイズンも彼女の隣に並ぶ。眼下に広がるのは、燦々と降り注ぐ陽の光できらきらと露に輝く視界一杯の薔薇たち。赤、青、黄、白、黒、そして桃。全ての薔薇が呪いが晴れたことを心から喜ぶように咲き誇り、この世とは思えないような幻想的な景色を描き出していた。

「ハルコンローズは、ここに置いていこうと思います」

 何処までも続く真っ青な空を見上げながら、ヒステリカはぽつりと呟く。

「ハルコンローズはここの守護の要。ここだって魔神の侵攻を受けたはずなのに、まだこんなにも美しく残っている。それは、多分その守護のおかげなのでしょう。だから、残していきます」

 レイズンさんにとっては徒労になっちゃいましたけど、と苦笑し、傍らの青年を見上げる。視線を受けた青年は、「好きにするがいい」と返して自らも視線を少女にやる。

「オレの任務は、お前の護衛だ」

 庭園一杯に咲き誇る薔薇を見つめていると不意に背後でざわめいた気配に、二人は振り返った。

「お目覚めですか、ブラッド伯爵。手荒でごめんなさいね」

「セイレーン……様……?」

 昏倒していたのを頭をもたげ、起き上がったのは先程までの狂気など一切が失せた理知的な吸血鬼だった。同時に階下、城内の様々なところからも同様のざわめきが生じ始める。

「呪いの影響が消えて、正気に戻ったか」

 レイズンの言葉に、徐々に伯爵の瞳が焦点を結ぶ。一つ頭を振ると、彼は「ああ、」と息を零した。

「セイレーン様ではない、か。現セイレーン様、のほうが正確ですね……はい、まさしく。お二人のおかげで、私を含めた全ての者が正気に戻ることができました――――我々を狂気から救ってくださったこの御恩、感謝してもしきれません」

 ブラッド伯爵と呼ばれた彼は、一つ頷いてからそう二人に正式な礼を取った。どうやら狂気に苛まれていたとはいえ、理性の断片で大方の事情は理解しているらしい。それか、セイレーンに予め告げられていたか。生前でなくとも、あの人ならばやりそうだとヒステリカはこっそり思う。

「ハルコンローズですが……元々私が受け取るつもりでしたが、やはりそれは辞めることにします。ここに置いておくべきものだと思いますので」

 ヒステリカの意志を受け、伯爵は「左様で」と頷いた。と、その時。

「ヒステリカ様レイズン様ぁぁああああ」

 ばたんと扉を開け放って騒々しく飛び込んで来たのは、階下で別れたはずのフリークスだった。出会い頭を彷彿とさせる勢いで飛び込んだ彼は、またもヒステリカに追突する勢いでぶっ飛んでくる。そんな彼を見やり、レイズンは無言でヒステリカを自分のほうへと引っ張った。

「さっきもこんなのあった気がす……ひゃっ!? 本当にフリークス!?」

 レイズンに引っ張られたたらを踏んだヒステリカは、その脇に突っ込んで来たフリークスに目を丸くしたものの「元に戻ったんですね」と安堵の息を零した。

「危ないから、もう少し落ち着いて行動する事を心がけろ……」

 フリークスに言いつつ、レイズンはくっついたヒステリカから僅かに身を離す。その言葉を聞いているのかいないのか、くりくりとした瞳を潤ませ、彼は言った。

「お二人がこの狂気を晴らしてくれたのだとこのフリークス確信し、いてもたってもいられず。再びこうして馳せ参じた次第にございます……ご無事で良かった」

 そんな彼らを見やり、伯爵はそうだと声を上げた。

「この後は如何いたしますか。お泊りになられるようでしたら、すぐ部屋を用意させますが」

「どうします? レイズンさん」

 少女の視線に、レイズンは一瞬考え込む。以前の自分ならばすぐに帰ることを選択しただろう。だが今回は、そのような結論が出ることもなく。

「……悪くない提案だ。一晩くらいなら良いだろう」

 次いで少女の表情が満開の笑顔に変わるのを見ながら、レイズンは不思議な感覚になった。自分は確かに、彼女達と出会う前から変わった。けれどその変化は決して居心地の悪いものではなく、委ねても良いと思えるくらいには心地良いものだった。

 それに、普段から薔薇水晶を携帯しているだけあり、薔薇は元々好きな花なのだ。一夜くらい、構わないだろう。

「えへへ、こんな綺麗なところですもんね! 夜にもお散歩とかしましょうっ」

「それではセイレーン様が戻られたこと、そしてこの薔薇園の狂気が晴れたことを祝し、今宵は宴と致しましょうか。フリークス」

「心得ております」

「よし。城内の者共への指示は任せるぞ」

「畏まりました」

 再び忙しない様子で飛び出していったフリークスを見送り、伯爵は再び二人に向き直る。

「お二人のお部屋は如何致しましょう。差し支えなければお二人専用の部屋を誂えさせて頂きますが」

 さらりと飛び出した『二人専用』という言葉に、少女は瞠目し瞬かせたあとあわあわと顔を真っ赤にする。そして何を言うでもなく妙にレイズンの方をちらっちらと気にし始めた。

 対し、レイズンはヒステリカのほうを見やる。ダブルルームかツインルームかによるが、女性の意見を先に聞こうという判断だ。判断を委ねられたヒステリカとしてはたまったものではない。

 どうしよう。ダブルルーム? ツインルーム? いやこれどっちにしろ心臓破裂するパターン……いやどちらもそうならこれはもう意を決するしかない、こんな機会逃しては女が廃る――――!

 一瞬でここまで思考を辿り着かせたあと、少女は散々彷徨わせまくった視線をようやっとレイズンにまで戻す。心の中で自分を叱咤し、紅潮した頬と上目遣いのまま蚊の鳴くような声で、

「ダブルルームじゃ……駄目、ですか……?」

 と問うた。

「……今回の任務は、ヒステリカ、お前の護衛だ。本来ならば部屋を別にしておくところだが……オレはソファを使い、お前の身の安全を近くで確保する。呪いが解けたとはいえ、ここはオレにとって未開の地。何があるか分からないからな」

 あぁんやっぱりそうきますかぁああっ!!!!

 青年の返答に少女、敗北。いやまだ同室になれたことを喜んでおくべきかあと少しだったのをやはり残念がっておくべきか。苦悶し始めた恋する乙女を尻目に、伯爵は微笑んで頷いた。

「畏まりました。それではお部屋へご案内致しましょう……城内や庭園の散策はお好きなタイミングで行っていただいて構いません。セイレーン様……ヒステリカ様がいらっしゃれば、まず迷うこともないでしょうから」

 少女の内心でのヘコみっぷりも露知らず。開けた空は、静かに太陽を地平の彼方へと沈めていく――――。


*~~~*~~~*~~~*


「――――ふあー、いいお湯でした……いいものですね、薔薇の花弁の浮いたお風呂っていうのも」

 二人に宛がわれたのは、元は賓客用だったものを改装したと思しきダブルサイズのベッドの置かれた部屋だった。ほかほか顔で浴場から戻って来たのは件のヒステリカ。その髪はいつものような非常に手間のかかる髪型ではなく、しっとりと水気を帯び緩く一つで結んでいた。服の方は夜着に上着一枚ひっかけただけである。

 レイズンはというと、既にあがっていたのかソファに腰掛け静かに窓の外を眺めていた。魔法の発動体は身に着けているものの、いつものマントや各種装備などは外し、黒いワイシャツとスラックスという出で立ちである。長い睫毛の下、外で夜露に煌く薔薇たちに向けていた視線を、上がりたての彼女のほうへと寄越す。

 ヒステリカが向けていたルビーの視線とアメジストのそれがぶつかり、普段見ない姿の彼に少女の鼓動が高鳴る。次いではにかみ、「レイズンさんっ」と少し上擦った声で彼を呼んだ。

「寝る前に、ちょっとお散歩いきませんか。夜の薔薇もきっと綺麗ですよ。……お疲れのようでしたら、無理にとはいいませんが」

 きょとりとヒステリカが首を傾げると、レイズンは「いや」と口を開く。

「丁度良かった。少し出たいと思っていたところだ……ついていこう」

 ゆっくり立ち上がり、彼は腰にナイトレイドともう一振りの魔剣・ミセリコルデを装備し、じっと少女のほうを見つめた。

「? どうかしましたか?」

 見つめられたヒステリカのほうは疑問符を浮かべるばかり。桃色の髪を振り問いかけると、

「いつもの髪型でないから、別人のように見える。……悪くない、と言っておこう」

 そう答え、レイズンはふいっと顔を背けた。そそくさと部屋から出る姿にヒステリカは一瞬ぽかんとした後、褒められたと気付きぱああっと満面の笑みを浮かべ追随する。

「えへへ、案外髪長いんですよ、私」

 自慢げに自らの髪の毛先を弄ぶ彼女に、レイズンは「その結んだ髪も解いたらどうだ」と告げようとして、思い止まった。告げたところで何になるわけでもない。

 そんな彼の内心を知ることもなく。ヒステリカの速度に合わせゆっくりと城の中を通り抜け、彼らは外へと出た。

 雲一つない夜空には満天の星と三日月が架かり、少し冷たい風は風呂上がりの熱をほどよく冷ますように柔らかに吹く。風に乗って薔薇の香が届き、二人を優しく包み込んだ。

 たまにはいいだろう。そう、ヒステリカは緩く結んでいた髪をほどいた。風に自由に遊ばせるつもりで背へと払うと、それを攫うように薔薇の花弁が走り抜けた。

「……あ、そうだ。レイズンさん」

 自ら髪を解いたことについては、彼は何も言わなかった。無論のことその感想も。「どうした」

「昼間にですね、ちょっとした入口を見つけたんです。多分、セイレーン様の隠れ家的なところを。行ってみませんか?」

「ほう……案内してくれ」

 とん、と一歩を踏み出すごとに、少女の夜着の裾が踊っているかのように翻る。月光に照らされ、二人の白磁の肌がより白く輝いた。二人の薄紅と純白の髪がきらきらと月明かりを返す中、城の前の広場から階段を降り、遊歩道から外れて茨の壁へと近付く。このあたりだったかな、と見当をつけ、ヒステリカは指輪のはまっている方の掌を茨にかざした。そしてすいっと薙げば、今まで茨のあったところに空間が生じ、ちょうど人一人が通れるほどの道が出来上がった。

 レイズンでさえ気付かなかった場所に、ヒステリカは容易にたどり着いた。これもセイレーンの記憶ということだろうか。そう見当をつけつつ、「こちらです」と促されるままにレイズンも中へと入る。

 ――――そこに広がっていたのは、中央に蓮の華を浮かべた小さな池と、それらを外界と区切るように隙間なく敷き詰められた薔薇の数々だった。池の脇には白木の椅子が二脚とテーブル、そしてティーセットが置いてある。

 月の神秘的な淡い光を受けて輝くそれらは、この庭園にある全ての薔薇にも勝るほどの輝きを秘め、慎ましやかに咲き誇っていた。

「……ここ、セイレーン様が生涯で唯一愛した人のみを招いた庭園なんですって。ネペトリ様すら通したことがなくて、ここにこれるのは、セイレーン様、執事のフリークス、そしてセイレーン様の伴侶のダークロード様だけ、と」

 夢で聞きました、と付け足すと、彼女はスカートの裾を翻してくるりと振り返った。まだ少女の面立ちを残したその顔は、仄かに赤らんで普段よりも大人びた雰囲気を醸し出していた。

「そんな大切な場所に、オレを通して良いのか?」

 愚問かもしれない。だが、レイズンは聞かずにはいられなかった。

 自分はただのしがない盗賊。こんなに煌びやかで美しい空間は、自分の生きる世界ではないとずっと思っていた。この空間に似合う人物など、自分以外に仲間内にいくらでもいる。

「今となっては、ここの主は私ですから。ここに通すなら、レイズンさんしか考えられません」

 そんなレイズンの思考を読んだかのようにヒステリカは告げる。そして他でもないセイレーンも、彼女の夢の中でこう言った。『わたくしの秘密の庭園に来るのなら、好きな人を連れてきなさい』、と。ならば尚更、ヒステリカには彼しか考えつかなかった。

 ヒステリカの胸の中。形などなくて、でも触れ合うだけで確かに大きく暖かくなっていくこの気持ちを。今なら、言えると思った。

「レイズンさん」

 呼びかけて、一呼吸。



「私は貴方を、――――この世の誰より、愛しています」



 自然と零れ落ちた言葉は、自分でも最高だと思えるほどの笑みと共に、告げることが出来た。

「……ッ!? ……オレ、は」

 少女の唐突な告白に、レイズンは咄嗟に言葉に詰まる。目を丸くし、返す言葉を捜すものの上手く二の句が継げない。

「そこの椅子に座ってもいいか。お前も一緒に、だ」

 レイズンを少しでも知る者ならば、珍しいと零したに違いない。ぎこちない様子でなされた提案に、ヒステリカは「はい」と頷き椅子へと歩み寄った。優雅な挙措で腰掛け、束の間水面で静かに咲く蓮華を眺めたあと、すいとレイズンへと視線を戻す。

 青年は月に照らされた己の手を見つめ、ぽつぽつと話し始める。

「……正直に言って、不思議な感覚だ。愛、される……という事に、……慣れてない」

 そして蓮の花へと視線を転じ、ぼんやりと仲間達のことを思い返した。

 彼らにも愛する者がいて、その愛する者のためにいつも戦っている。己の身がいくら傷つこうとも決して諦めず、あろうことか死後の安息を犠牲にして力を手にした青年だってレイズンは知っている。目の前の少女もきっとそうであろう。何時か語った自らの誇りと、愛する者のためその杖を振るっているに違いない。では、自分は?

 己の剣は嘗て、己の目的を果たすためだけに振るわれる剣だった。喪った母を取り戻す――――ただ、そのためだけに。

 仲間達は今を生きる者たちのために戦い傷ついている。反面自分はずっと、死者に囚われていた。だが、今でもそうだろうか。

 その問いに、レイズンは素直に「否」と返すことが出来た。今の自分の行動原理は、友の幸せを護ることかもしれない、と。

「……頭の中では、分かっているんだ。誰だって、幸せを得ることは出来るのだと」

 再び視線をヒステリカへと移せば、それらは静かに交わる。彼の言葉を聞き、少女は口を開く。その視線はずっと、愛する人の深い紫の瞳を見つめていた。

「慣れていないというのなら、これから慣れればいい。私は我儘な人間ですから。愛するだけでなく――――愛されたいと、願ってしまうんです」

 自分たちには永劫という時間がある。ナイトメアという穢れの宿命とともに与えられた、気の遠くなるような時間が。

 それらの時間を呪いに使うのはあまりにももったいない。ならば迫害など撥ね退けて、自らの幸せを、愛を得たいと望むのが、ヒステリカという少女だった。

「愛し愛され、幸せになる。月並みで平凡ですけど、多分一番幸せな形を、レイズンさん……私は、貴方と掴みたいんです」

 彼が過去に如何なる罪を背負っていようと、そんなことは一切関係が無い。罪人なのは己も同じ。共に支え合いたいと望みこそすれ、それを気にしたことなど一度もなかった。

 どれだけ重い罪があろうと、それが幸福になってはいけない理由だとは思わないから。

 どれだけ辛い贖罪であろうと、二人で背負っていけばなんてことはない。

 レイズンに消えて欲しくない。潰れて欲しくない。いなくなって欲しくない。願わくば、これから私たちを待ち受ける久遠の時間を、果てまで、二人で。

「……変な奴だ、やっぱり」

 苦笑気味に――――こちらに来て初めて笑い、数か月前に言った同じセリフを反芻しつつ口に出した。まさかこんな自分がそんな風に求められる日がこようとは、露ほども思ってはいなかった。

 そして、唐突に言っていなかったことを思い出す。……今ならば、良いかもしれない。

「髪、降ろしている方が綺麗に見える」

 褒め慣れていないがゆえの、とはまた少し違う照れが入り、ついぶっきらぼうな物言いになる。目を逸らしつつ告げたそれに、ヒステリカは周りの薔薇すら霞む笑みを浮かべる。

 彼がヒステリカに初めてはっきりと見せてくれた笑顔と、遠回しではない褒め言葉。それらに胸の辺りが熱を持ち、心臓がとくとくと音を鳴らした。

 彼の言葉も視線も笑みも。……今だけはそう、自分だけの、独り占め。

「ありがとうございます、レイズンさんっ」

 誰に褒められるよりも、彼に褒められる方が何倍も嬉しかった。そんなヒステリカの微笑みを見つめながらも、レイズンは告げる。

「すぐに望む答えは返せないかもしれない。だが、グローリア、七ツ星……その他様々な問題を解決した時は……お前の近くで暮らすのも、悪くないかもしれんな」

 自分に課せられた、破滅の未来を変えるという役目。それが達成された時こそ、レイズンは胸を張って彼女に答えを返せると思った。

 今はまだ、はっきりとした返事を返すことは出来ない。戦いは激化しつつある。いつ自分が命を落とし、彼女を絶望させてしまうか分からない状況下では、迂闊に返すことなどできなかった。

 ヒステリカとしても、多分彼がそう答えるだろうということは分かっていた。胸の内に僅かに苦く影を落とす落胆を押し込め、それでも精一杯笑顔を浮かべて「はい」と頷く。

「レイズンさんの中で答えが出るまで、いつまでだってずっと待ちます。全部終わって、これからどうしようってなって……その時、真っ先に私の隣で暮らすってことが思いつくくらい、夢中にしてあげますからね。覚悟しててくださいっ」

 いかにも少女らしい、悪戯っぽい表情で微笑みかける。自分が彼のことで頭がいっぱいなのだから、彼にもそうなってくれないと釣り合いが取れない、そう思いながら。

 さっきので本当は答えが出たんだがな……そう零す内心を、然れどレイズンは口に出すことはなかった。明確にすることの出来ない僅かな罪悪感と焦燥感に、それでも気付けば彼女の髪へと手を伸ばし、おずおずと撫でていた。

 その感触に、ヒステリカは目を細めた。その所作は少しぎこちなかったけれど、誰にされるより嬉しかったから。

「……そうだ。レイズンさん、ちょっと目を閉じててもらえませんか? あと、もう少しこちらに寄って頂けると」

 はたと思いつき、少女はそう声を上げた。「ん、あ」と無意識に触れていた手を引っ込め、青年は一瞬思考したものの、結局は彼女に付き合うことに決めた。素直に目を閉じ、テーブルに少し乗り出すようにして距離を詰める。

 手が離れてしまったのは残念だが、「彼のこんな無防備な顔私しかみたことないんだろうなあ」と考えるととても感慨深い。にまっと笑み崩れてしまいそうになるのを堪え、自らも体を乗り出し「ちょっと失礼しますね」と囁きかけて彼の頬を両手で包み込んだ。

 風すらも静、と吹き止む。薔薇の微かな葉擦れだけが響く中、月光に照らされて尚更その白さを増した顔に、少女は自らの赤らんだ頬を寄せて。



 彼の唇に、そっと触れるだけの口付けを落とす。一瞬だけ直に感じたその体温に名残惜しさを抱きつつ、彼女はそのまますっと身を引いた。



 そうして、一瞬の間を置いて。す、とレイズンの瞼が上げられ、さして驚いた様子も無くアメジストの視線が少女のはにかみを捉えた。

「……そろそろ部屋に戻るか、ヒス」

 夜風が少し冷たくなってきたのでと彼がそう提案すると、ヒステリカは「あれっ」と拍子抜けしたように瞳を瞬かせる。

「なんかそんなにリアクションがなくて私ちょっとショックっていうか……あれ? 今、ヒス、って……」

 いつの間にか愛称へと呼び方が変わっていた。確かに先程までは「ヒステリカ」だったのを覚えている。じわじわとした嬉しさを噛み締めつつ少女が「はいっ」と椅子から立ち上がると、青年は自然な挙措で自らも席を立った。

「元気だな、転ぶなよ」

 その言葉と共に、ヒステリカへと差し出されたのは掌。少女は「ふふ、」と微笑みを零すと、その手に自らの手を重ねる。

「そりゃー元気ですよ、だって独り占めですもの。……実はさっきの、私の『初めて』だったので、」

 重ねるだけでなく。するりと腕を絡め、まるで恋人が仲睦まじく歩くようにして寄り添い、悪戯っぽい笑みでレイズンを見上げた。

「ちゃんと、責任とってくださいね。レイズンさんっ」

 ふ、と青年は一つ息を零し、彼女の手を握り返して帰り道へと歩き出し始める。

「……やれやれ。重大な責任を背負わされたものだな……」

 そう呟く彼の口調は柔らかく。不思議と、彼女の体温が心地良かった。


*~~~*~~~*~~~*


「――――それではお二人とも、お気を付けてお帰りくださいませ」

「私たち臣下一同、ヒステリカ様、そしてレイズン様のこと、ずっとお待ちしております」

 城内、玄関前。身支度を整えた二人を見送っていたのは、すっかり立ち直ったブラッド伯爵、そしてフリークスだった。曰く、他の者たちは出払っているらしい。ヒステリカは笑顔で「はい」と返す。

「世話になったな。また、いつか会おう。――――ヒス、行くぞ」

「また二人で来ますからねっ!」

 礼を取る二人に向けてヒステリカがぶんぶんと手を振り、レイズンが玄関の大扉を押し開ける。――――その先に控えていたのは、彼らの通る道の両脇に傅く、全ての臣下たちの姿だった。

「で、出払ってるー……とか……言ってましたけど……あ、圧巻ですね……」

 腰を折って並ぶのは、狂気より解放された全てのメイド、召使、騎士たち。彼らはその恩人と新たなる主の出発に際し、こうして送り出そうと立ち並んでいたのだ。その光景にひく、とヒステリカの顔がひきつる。こんなの誰だってビビるに決まってる。

「慣れない、な。やはり」

 とは言いつつ、相変わらずのポーカーフェイスなのがレイズンなのだった。

「今度来る時は、こんな盛大にしなくていいって言っときます……」

 その長さたるや、迷路の後に通ったセイレーンのテラスの手前にまで続いていた。人の上に立つということを学ぶ良い機会かもしれないと微妙に思いつつ、それでもヒステリカの足取りはどことなく軽い。

「んー、よし。こっから飛んじゃいますか。広さもうってつけですし」

 テラス、天蓋よりは少し外れた場所でそう頷き、立ち止まる。レイズンは「頼む」と告げ、行きと同じく彼女の近くにまで寄った。

 そして、少女は静かに手を組み合わせて瞼を閉じ、僅かに俯いた。

「―――― Konig ist der Weg zu Helden gezeigt 」

 紡がれるのは魔法王へ捧げる祝詞。開かれるのは幻想の城から常世へと通ずる門扉。薄い紅の色を纏った方陣は、止め処なく流れる魔力と共に更に光を強めていく。

「 Wir wollen zuruck in diese Welt gehen ――――」

 どくん、と魔力が一つ、胎動し。薔薇の花弁を乗せた風が吹いた後には、既に二人の姿は跡形も無く消え失せていた。


*~~~*~~~*~~~*


「……戻ったか」

 レイズンにとっては見慣れた、ギルド内の私室。ソファやデスクなど簡素な家具しか設えていないそこに再び降り立ったことで、レイズンは実感と共に呟いた。

「にしてもあれですね、部屋にこうやって二人で現れるとかなんかこう、こう、勘ぐられたらどうしましょう……きゃーっ」

 すっかり元通りのテンションで騒ぐ彼女だが、行きと違う点が一つある。普段はお団子と三つ編みで髪をまとめていたが、今日は珍しく三つ編みをしていなかった。団子に入りきらなかった髪が自由に滑り落ちている。

「騒がれる、なんてことはないから安心しろ……」

 絶対、とは言い切れないが。というか彼女のこのテンションだとむしろ言われたそうでもある。そうなったらなったでレイズンとしては迷惑なだけだが。

「これで任務完了、だな」

 普段とは髪形の変わっている彼女に、いつもより優しい表情でそう声をかける。すると彼女はくるりと彼のほうを向き、にぱっと笑んだ。

「はい、これにて依頼完了となります。ささっと報酬をお渡ししますので、そのー、……この後も個人的に、お付き合い頂けたらなー、なんて?」

 ヒステリカはちょっと我儘すぎるかな、なんて思いつつちらっと見上げてみる。断ってくれても構わないが断って欲しくないなーという思いが丸見えの表情だった。

 レイズンはそれに一つ嘆息。だがつれなく断るということはなく、「報告書を纏めなければならないんだ。手短に頼むぞ」と一応了承の意を示す。

「お手伝いしますから。お茶でもどうかと」

「少しだけならな……」

 レイズンが返答した瞬間、ナイトレイドから聞こえてきた笑い声を咳払いと共に誤魔化す。この野郎。

 ヒステリカはそれに一瞬「びくぅっ」と震えたものの、気のせいだと(思い込むことにしたらしい)笑顔を浮かべ直し。

「――――それじゃ、行きましょうか。レイズンさんっ」

 少女の号令と共に、二人はルキスラ帝国一の喫茶店に向かうため、今一度歩み始めた。




(君だけに伝えたい、愛の唄)


(永い夢の後に)


(そして、永久に続く、現の中で)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] 投稿前にきちんとガイドラインをご確認下さい リプレイジャンルで投稿できるのは「実際のプレイ状況を記録したTRPGリプレイ作品」のみです。 「設定を使っただけの小説」は投稿できません。…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ