ルーヴァ・パティ
舌で針金を操って手枷の鍵を外す。
練習も重ねたし、愛玩奴隷としての十六年の人生で器用になった部分もこうして役に立っている。次は手で首枷、それから足枷と外していく。脱走王子であるオレの拘束は他の奴隷より厳重だが意味はない。
イケメンは放置されないからだ。
コンコン。
「はい」
「テオ、今晩は僕の番だ」
「いいよ」
奴隷が夜間に閉じこめられる小屋の中でオレは特に独房のような個室を与えられていた。農場主はなにも言っていないが、結局のところ、労働力としてはそれほど期待できない脱走王子を買った理由は、奴隷たちの福利厚生が目的だったのだろう。実に心優しい配慮だ。
そして性欲さえ処理できれば生産性は上がる。
「ふぉごっ、ごごふ」
外した手枷足枷首枷に下着を口におまけだ。
「悪いね、そろそろ脱走したいんだ」
それがオレにとってのチャンスだった。
ここに来てから二年近く、代わる代わるやってくる奴隷たちを相手に従順にやってきたのは脱走の準備を整えるためだ。そして今晩の相手はオレを攻めるのではなく、オレに攻められたいという嗜好のヤツ。悪いとは思うが、男の尻を見ながら頑張るのは何度やっても気分が悪いので、脱走の責任を被ってもらおう。
「たぶん死んでもなんとも思われないから、異世界に転生できるはずだ。良い来世を」
そう言い残してオレは個室から出る。
あとは流れだ。
「テオ、水浴びか?」
「頼むよ。あとでサービスするからさ」
「しょーがねーなー」
小屋の見張り役は抱き込んである。
近くの川に行って、身体を洗って戻ってくる。最初の内は見張りもついたが、一年以上もなにもなく繰り返せば、警戒はもうされない。ぶっちゃけて言えば、奴隷もそれを管理する人間も、そんなに真面目にやってる訳じゃない。
魔族に支配されたから仕方なく、だ。
オレが転生直後に難民と化した原因である戦争は、オレが転生した人間が属する精霊界と魔界の戦いだった。
もといた世界がそうだったように、この異世界にも特に定められた名前というものはないようだ。けれどもそれでは不便なのでオレは便宜上この世界を精霊界と呼ぶことにしている。
なぜならば、ここでの人間たちは、世界を作ったのが精霊であると信じているからだ。これは宗教にもなっているようだが、異世界から転生したオレのような人間でもそう信じている理由はわかる。
精霊樹。
奴隷として様々な土地を転々としたが、どんな場所からでも見える大樹。あちらの世界で見た日本の山脈が太い幹から広がる根ぐらいという信じられない大きさの木。そんなものがあれば、そりゃ精霊を信じるのも無理はない。
「今夜も輝いてるな」
世界の中心とも呼ばれるその木は、深夜になると色とりどりの幻想的な光を放って夜の世界を照らし出している。光の数だけ精霊がいるのだそうだ。見たことがある人間には会ったことがないけれども。
精霊界の天動説的な世界地図上で空を覆い尽くしているこの木は、その葉っぱの茂り具合で季節をもたらしている。葉が落ちる季節が五つの太陽が降り注ぐ夏であり、葉がもっとも青々としている季節が太陽を遮る冬という具合だ。
今は花咲く春。
脱走ができるのは春か秋だけである。
夏は暑すぎて人々が昼夜逆転の生活を送る下手をすれば焼け死ぬ季節であり、冬は寒すぎて奴隷に手に入る装備では凍え死ぬ季節だからだ。
戦争の話に戻そう。
精霊界は精霊樹の根が繋ぐ七つの大陸と海で構成された世界だが、魔界は精霊界の裏側とされる世界だ。天動説的世界地図の裏側に描かれた様子は事実かどうかは知らないが、根が地上に突き出す暗黒の大地と、燃えたぎる海の地獄めいた景色として表現されている。
そして二つの世界は、七つの大陸にひとつずつある界門によって繋がっているらしい。精霊の力で厳重に封じてある、という話なのだが、先の戦争ではそれを開いた魔王によってオレが転生したカーボダラ大陸は征服され、多くの難民を出したということである。
しかし、魔王は討ち取られた。
魔王が率いた軍と、精霊教団が集めた軍とが戦っている間にひとりの男が魔王と直接対決を繰り広げ、魔王を倒し、界門を封じて死んだらしい。だれが見ていたのかは知らないが。
その男は勇者と呼ばれていた。
転生したオレが奴隷になって間もない頃は、だれもが英雄として勇者を称えていたが、界門を閉じられ、魔界への帰り道を失った元魔王の軍が、支配領域だったカーボダラ大陸から精霊樹の根で繋がっているニェトロプ大陸に広がってきた段階で、その評判は地に落ちる。
侵略は止まっていなかったからだ。
魔王を失って統率を失った魔族は内紛を起こし、散り散りに分裂、好き勝手に精霊界を荒らしはじめ、その力を恐れて魔族に臣従して領地を差し出す領主たちが現れ、人間に使われていた奴隷が魔族に使われるようになる段階でもうだれも男を勇者とは呼ばなくなった。魔王は生かして全軍を撤退させるべきだった。そんな無茶な意見さえ公然と語られる。
おそらく魔王を倒していなければまとまった軍によってとっくに精霊界が完全に侵略されてた可能性もある訳で、増援を断ち、分断してくれただけでも勇者だとオレは思うが、これはこれでこの世界を他人事と思ってるからこその意見なのかもしれないので口にはしない。
ニェトロプ大陸ディポント。
大陸の南に広がる温暖な農業地帯はオレが売られてくる数年前から魔族に支配されていた。農園を脱走したオレが向かう領主の城は、もともとは人間が使っていたものだが、現在の主はもちろん魔族だ。
元魔王軍のどっかの隊長らしい。
奴隷の所有者である農園主が収益を納めるのが魔族、つまり今回は魔族相手の脱走ということであり、これははじめての経験だが、それもオレにとってはあまり関係のないことだ。
「鍵は、開くな……」
オレはピッキング技術を有効活用。
結局、施設は人間が作ったものを流用してる。
この世界の文明レベルは汽車が走るぐらいだ。鍵のセキュリティはもといた世界の現代と比べれば大したことがない。そう思うだけで気持ちに余裕がある。魔族は人間より強いから、警戒も怠っているらしく、農園から城までは楽に入れた。
そして狙いは通行許可証。
侵略者が、侵略相手の事務手続きを自らやる訳もなく、人間に任せているに決まっているのだから、書類は人間の出入りする場所にある。サインなりハンコなり正式なものにはならないが、そこはイケメン能力でなんとかできる。
今度こそ。
ともかく奴隷の所有者のいない国まで逃げることが第一だ。所有者さえいなければ、連れ戻されて売られることはなくなる。奴隷の身分がバレれば拾得物になるという話も聞いたが、簡単に拾われてやるつもりもない。
堀を泳ぎ、城壁の扉を抜けたオレは濡れた衣服を絞って城の壁づたいに歩く。石のブロックで組まれた壁に耳を当て、ひとつひとつ叩いて回る。存在することは聞いているのだ。
隠し通路。
元の領主は魔族に攻められて、そこを通って逃げたというのが噂として広まっている。火のないところに煙は立たない。オレにはそれを見つけられる自信があった。この精霊界に転生した身体がもっていたひとつの特殊能力。
おして。
「ここか」
物の声が聞こえる。
転生したものの、外国語が得意だった訳でもないオレなので、この異世界の言語を習得するために女神が計らってくれたのだと思うのだが、無生物に呼びかけると答えてくれるのだ。オレが知りたいことで物が知っていることを。
「……」
呼びかけに答えた石の壁を押すと、すぐ近くに小さな穴が開く。すかさず入ると、壁は元通りに閉まった。これで城に入れた。オレは一息入れて、腹に巻いた荷物から精霊界でサタタと呼ばれるホシイモを噛みしめる。
旅費もここで稼ぎたいところだ。
オレの奴隷化の原因である魔族相手なら窃盗も気兼ねしない。オレは隠し通路を伝って各部屋を見て回り、金になりそうな宝石や、宝石で飾られたナイフなどかさばらないものを回収する。
しかし肝心の許可書が見つからない。
「もしかして存在しないのか?」
奴隷たちの情報は魔族に支配される前の話だ。すでに国境を越えられなくなっている可能性は十分にあった。しかし隣国のオギリオも魔族が支配しているとは聞いているから、交流はあるものだと楽観していたのだが。
「まいったな」
精霊樹の根が国境となっている精霊界では、根の山越えは普通に無謀だ。軽く山脈なのである。春とは言え、雪も残っている。少なくとも奴隷の軽装でやれることではない。
ともかく隠し通路から城を虱潰しだ。
城の壁の裏側なのだろう、細い身体でなければ通れないような場所を上へ下へと移動しながら、壁の石をひとつひとつ叩いて一日か、二日か。時間感覚もなくなってきたところで、オレはひとつのミスを犯した。
中の人間を確認しなかったのだ。
「「あ」」
壁のブロックを外して顔を出したオレは、もといた世界とあまり変わらない形のトイレに座る女と目を合わせてしまう。ちょろちょろと上品な水音が響いていた。
「どうも、こんにちは」
逃げなければと思いながら、オレは挨拶する。
前の脱走以来だから、二年ぶりの女。
だから目が離せなかった。
愛玩奴隷としてもう性欲なんてないようなつもりになっていたけど、結局、好みのタイプがいなかっただけだ。年齢は十六のオレと同じぐらい。輝くような金色の髪に、白い肌、ブルーの瞳、整った目鼻立ち、質素なドレスの胸はゴージャスに盛り上がっていて、スカートを持ち上げたことで見える太股はすべすべしてそうで、そしてその奥の方が見えそうで。
がっし。
「終わるまで待って」
女はそう言いながらオレの顔面を掴んだ。
「!」
凄まじい力だった。
「そして終わったら入ってきて。でないと頭を握り潰すから。わかるでしょう?」
「あい」
頭蓋骨に指が食い込んでるんじゃないか、そんな怪力を前にして抵抗の余地はなかった。人間じゃない。なんとなく気づいていた。においが人間のそれとは違うことに。
「ふーん? この壁が開くとはね」
女はオレが開いた壁を見つめて言う。
「……」
中に引きずり込まれた。
そこは他の部屋とは違って、真っ白な部屋だった。石壁なのは同じだが、裏とは違って表面になにかが塗られている。そして部屋の内部には簡素なベッドとテーブル、シャワーとトイレがしきりなく存在していた。地下だから窓がないのはともかく、扉もない。天井に煙突みたいな高い穴があるだけだ。
「ありがとう。これでやっと出られるわ」
天井を見上げるオレに、女は言った。
「あれだけの力があったら壁ぐらい壊せそうなものですけど、なんで大人しくしてたんですか?」
オレは言う。
「壁の塗料に魔力を吸われるからだけど……」
質問に答えながら、女は近づいてくる。
「!」
オレは緊張した。
魔族と精霊界の人間の違いは知っている。体内に魔力を生み出す核と呼ばれる器官が備わっていて、生み出された魔力は魔法の源となる。それが決定的な力の差の理由でもあった。
「……あなた、名前は?」
女は顔がくっつきそうな距離で言った。
「テオ・ルブルク」
蛇に睨まれた蛙、答えるしかない。
「テオ、いい男ね」
「へ?」
「わたしはルーヴァ・パティ」
そう言いながら、女はオレをベッドに軽々と放り投げた。身長はこちらが高いぐらいなのに、ほとんど子供みたいな力の差だ。
ぎしっ。
「お礼をあげたいんだけど?」
「え」
イケメンの効果は抜群だ。
「わたし、なにも持ってないから」
「うん」
「ずっと、幽閉されてたから、だからね。あげられるものが他にないの。でもこの気持ちを、今、今すぐ伝えたいから。軽い女だと思わないでね? 軽蔑されたら、悲しいから」
「軽蔑なんてしないよ」
オレは言った。
ここはお礼を貰っておこうとすぐに順応できた。愛玩奴隷経験が生きている。このくらいの役得がなければ奴隷なんてやってられない。辛く苦しい日々も、女にさえ出会えばどうとでもなると思えばこそ耐えられた。
ロリから熟女まで満遍なく。
相手が魔族だとしても美人だし問題ない。
「でも、あの、わたし、魔王の娘だから。覚悟してくれるよね? わたしの夫として魔王になってくれるよね? はじめて、貰ってくれるよね? 心配しないで、テオの顔を見た瞬間、運命を感じたから。わたし一生、あなただけだから」
「魔王の娘?」
血の気が引く音がした。
「うん、魔王には王子がいないから、王女と結婚したら、魔王でしょう? テオ。わたしと結婚してくれるよね? 文句ないよね?」
「……」
これは脅迫だ。脅迫的プロポーズだ。