7話
あれからどれくらい時間が経っただろうか。避難場所を探しては襲撃され、逃げ出しては狩られ、追いかけては逃げ出され、彼等の消耗と焦燥は限界まで来ていた。
大勢いた銀狼族の群れは三分の一までその数を減らしていた。重苦しい沈黙が辺りを支配していた。
そんな中、1匹の銀狼が口を開いた。
「あんたのせいだ」
何? と欠け耳は顔を向ける。
「あんたが俺達の忠告を聞いていればこんな事にならなかった」
周りの同族達も心なしか避難がましい視線を欠け耳に向けていた。
「あんたが余計な事をしなければ俺達は長を敵に回さないで済んだ。被害が出始めた時点できちんと引いていればここまでの被害にはならなかった。」
そうだそうだ、と同意の声が上がる。
(こいつ、また……!)
それは先程欠け耳に意見してきた年若い個体だった。欠け耳はギリ……と奥歯を噛み締める。そして若者はついに決定的な一言を口にした。
「あんたは長失格だ。あんたは長の器じゃない」
それは、言ってはならない一言だった。
ブシュ、と血が吹き出る音が辺りに響いた。
ドサッという音と共に若者は地面に倒れ込んだ。ピクリとも動かない。
「………………………!!!」
「……他に何か言いたい事がある奴はいるか?」
口元を血で染めた欠け耳の声に応える者は誰もいなかった。
沈黙が辺りを包んだがそれも長くは続かなかった。周りの視線が全て欠け耳に集まっていた。少し脅しすぎたか……と思っていたが何か変だ。彼等は欠け耳というより、その奥に視線を向けている。
ハッとして振り返るとそこには片目が音もなく忍び寄っていた。ゆっくりと口に咥えていた赤子を下に降ろす。
こいつ、いつの間に……!!
警戒を露わに後ろに下がる欠け耳に片目は声をかけた。
「もう、やめにしないか」
「何?」
ハッと笑い捨てて欠け耳は片目の提案を一蹴する。
「何を言い出すかと思えば……ここまで仲間の数を減らしておいてよくもそんな口を聞けたものだな!」
激高し叫ぶと
「ここまで数を減らして追いつめないと私の話に耳を傾けないと思ったからね」
平然と返してくる。
「ここで引くならこれ以上私も手は出さない。同族に手をかけるのは気持ちの良いものじゃないしね」
だが、と続ける。
「この後に及んでもまだやるというなら、誇りを胸に死んでいくことだね」
冷たい目で片目はそう告げた。
「上等だ! 我等誇り高き銀狼族、最後の1匹になろうとも牙を立てて喉笛に食らいついてくれるわ!!」
仲間達もそうに違いないと後ろを振り返ると、暗く湿った瞳らがこちらをじっと見据えていた。欠け耳はその恨めしそうな沢山の瞳にうっ、と気圧される。そうしているうちに1匹の銀狼が前に進み出た。
それは先程欠け耳に反対意見を述べた2匹のうちのもう1匹だった。
「勝手に俺達の意見をまとめないでもらえるかね」
かけられた言葉は冷たいものだった。
「そもそもおいらは長に手をかけるのは気が向かなかったんだ。長は厳しかったがそれ以上に優しかった。常に群れの事を思いやってくれていた」
「思いやってくれていた!? ではこの惨状は何だ! あれだけいた仲間ももうこれだけしかいない! 誰のせいだ!? こいつのせいだろう!」
怒鳴り散らしても微動だにしない。それどころか信じられない事を言った。
「あんたのせいだよ。さっきも言われただろ?」
「なに……?」
何を言っているのか分からなかった。
「欠け耳さんよ。あんたがこの惨状を招いた張本人だよ。あんたが勝てもしない戦に考えなしに俺等を巻き込んだからだ。忠告を無視して戦いを続けさせたからだ」
「……!」
「あんたは口を開けば誇り誇りと言う。確かに誇りは大事さ。だがそれは一族の命運を賭けてまで守らなければいけないものなのかい? 俺等が全滅してしまえば誇りも糞もない。銀狼族という種が滅び絶える事になるんだ。
そしてそれは今現実のものになろうとしている。あんたはこの後に及んでも一族の命運より誇りとやらを優先させようとしている。そんな奴に誰がついていくって言うんだ?」
まさかここまで真っ向から否定されるとは思わなかったので欠け耳は狼狽してしまう。
(こいつは一体何を言っているんだ……?)
「それに比べて、長はやっぱり長だ。自分に牙を向けた俺達を見逃そうとしてくれている。ここで俺達を殺せば本当に一族が絶えてしまうからだ。長は、群れを抜けた今でも群れの事を考えてくれている」
「何を、何を馬鹿な事を……!!」
「欠け耳さんよ。あんたが長い事時期長として長の傍らで色々と耐えて群れを支えてくれてきた事は分かってる。感謝もしてる。あんたの立場じゃ確かに今の状況は許せるもんじゃないだろうさ。だけどな……」
「だけど?」
「それでも己の感情より群れの事を優先させるのが一族をまとめる長ってものなんだよ。あんたは、長の器じゃない」
また、同じ事を言われた。
長の器ではないと。
何故だ……? 何故自分は……
「巫山戯るな……! 長の器ではないだと? だったら、だったら俺は今まで何の為に……!」
「欠け耳よ。お前は今までずっと私を支え群れを守ってきてくれた。そこは認めている。だからこそ時期長に据えていた訳だしね。ただ……」
片目はそこで一旦言葉を切った。
ただ、何だ?
そう思った時、首から赤い液体が放射された。それが自分の血だと気付くのには時間はかからなかった。
「な……?」
「群れの事を思うのなら、仲間の気持ちってヤツをもう少し考えてやるべきだったね」
それが片目が欠け耳にかけた最後の言葉だった。
後ろを振り返ると先程欠け耳に声をかけた個体が口先を赤く染めて皮肉げな目でこちらを見ていた。
「な……ぜ……?」
「分からねえか。分からねえだろうな。さっきあんたが噛み殺したのはおいらの弟だ。だからこんな事になる」
フン、と鼻を鳴らして言った。
「長の言う通り、あんたは自分の下にいる奴等の気持ちをもっとちゃんと理解するべきだったんだ………………ってもう聞こえてねえか」
さして興味なさげに呟くと、何事もなかったように片目に声をかけた。
「長。これからどうなさるおつもりで?」
「とりあえず人里に向かおうと思っている。この子は人間だしね。後の事はそれから考えるさ」
「そうですか。それでは当分会う事も無さそうですな。お達者で」
「同族殺しに何を言っているんだか……それよりも悪かったね。あんたが次期長ならこんな事にはならなかっただろう」
そう、この個体は次期長候補として最後までその座を欠け耳と争っていた個体なのだ。強さだけなら欠け耳よりずっと上だった。だが一族の事を想うその心根を決め手とし欠け耳が次期長に選ばれたのだ。
「仕方の無い事でさあ。先の事は誰にも分かりませんや。それにおいらは元々引き受ける気はありやせんでしたから」
「弟を長に据えるのがお前の望みだったな。……済まなかったな、本当に」
地に倒れ伏した年若い銀狼の死体を辛そうに見ながら片目は謝罪した。
「よしてくださいよ。あんたには恩はあれど恨みなんかこれっぽちもありやせんや。
弟も同じ気持ちだったでしょう。むしろあんたに牙を向けた事を申し訳なく思っているくらいでさあ」
先程は散々に欠け耳をこき下ろしたが、彼の主張は至極当然のものだったのだ。彼が粛清を言い出した時点ではとても反対できる状況ではなかった。彼の人望、いや狼望の無さがこういう結果を招いてしまったが。
「長。おいらはあんたのやる事に疑問は持たないし、止める気もないが……」
そう言って片目の傍らに寝転がる赤子を見た。
「その赤子が忌み子で不幸を呼ぶのは間違いねえ。現にこうなった訳だしな。油断してると御身でも呑み込まれかねねえですぜ」
忠告のつもりで彼はそう言ったのだが片目は笑ってこう言った。
「もうとっくに呑み込まれちまってるよ。でなきゃ同族殺しなんてしやしないさ」
そう言って赤子を口に咥えると外に向かって歩きだした。
「ちげえねえ」
笑いながら片目を送り出すと、一族のこれからを思い沈痛な面持ちになる。しかし、彼などより忌み子と共に出ていった片目の方が遥かに前途多難だという事は言うまでもない事だった。