6話
雨が降り始めていた。
はじめはぽつぽつと、次第に大きくなりやがて嵐となった。風は荒れ狂い雨が地面を叩く。
駆け抜けていた。ただ、駆け抜けていた。全身を赤く染めながら片目は走り抜ける。口に咥えた赤子を傷つけないように細心の注意を払いながら。
嵐に打たれながら命を狙われているこの状況で赤子はただじっとしている。この状況で泣かないとは全く規格外れの存在であるが今のこの状況においては有難かった。泣かれたら声で居場所を察知されてしまう。そうなったら囲まれておしまいだ。
片目自身は例え1匹だけだろうと群れを相手に遅れを取ったりしない。だがこちらには赤子がいるのだ。この赤子がいかに規格外とはいえ、戦闘力まではさすがに期待できない。赤子を庇いながら銀狼族の群れを相手にするのはいかに片目といえども無理がある。
片目の取った戦術は逃げる事だった。銀狼族の恐ろしさは個々の力もさることながら連携の取れた統率力にある。だから一対多数で戦ってはならない。一対一に持ち込むのがセオリーだ。
片目の脚力持久力は同族の中でも群を抜いており本気を出した片目に追いつける者などいない。そうやって距離を取りつつ前に出すぎて群れから離れ気味の個体を狩り、また逃げる。
だが敵も馬鹿ではない。そうやって続けていれば群れから離れている者が狙われている事に気付き群れから離れぬように固まりながら追跡してくる。
しかしそうなると必然追いかけるスピードが落ちる。そうなると片目との距離が開き見失ってしまう。目標を見失った集団は統率を取りづらくなる。そこへ強襲を仕掛ける。慌てふためき散り散りになったところから襲い数をまた減らしていく。
「くそっ……なんてヤツだ」
欠け耳は思わずそう呟く。完全に手の平の上で踊らされていた。このまま続ければ全滅は免れないのは明らかだった。
「退け! 一旦距離を取って立て直す!」
号令をかけ自身も後ろに下がる。この期を狙って追撃をかけてくれば……と思ったがあっさりと片目は引いていく。
ーーやはり駄目か。誘いに乗ってくる程片目は愚かではない。雨もひどくなるしこの場に留まっていても無駄に体力を消耗するだけだ。そう考えて欠け耳達は近くにあった洞窟の中に避難する事にした。
「ぎゃああああああ!!!!」
洞窟内に仲間の悲鳴が木霊した。洞窟の中で片目が待ち構えていたのだ。完全に油断していたので片目の襲撃をいとも簡単に食らってしまった。
「なっ! くそっ先回りか!」
「逃がすな! 包囲すればこっちの敵ではない!!」
だが、まさか洞窟内で強襲されるとは思っていなかったため動揺した彼等は片目を捕まえる事ができずまんまと逃げられてしまった。
「…………………」
洞窟内に沈黙が流れる。
彼等は今どっちが追われる者でどっちが狩られる者なのか、完全に分からなくなっていた。
「……もう、やめにしませんか」
年若い1匹の銀狼が口を開いた。
「何?」
欠け耳は眉間に皺を寄せて聞き返した。
「彼我の戦力差は明らかだ。このままいけば俺等は全滅だ。ここで引けばまだ引き返せる」
「何を馬鹿な事を! 命乞いでもしろと言うのか!?」
今度は先程の年若い銀狼によく似たそれなりに年を重ねた個体が口を開いた。
「俺等が引けばあの方はそれ以上は攻めてきやしないさ。厳しいがそれ以上に心優しいお方だ」
「お前の話など聞いていない!! 黙っていろ!」
欠け耳はムキになって怒鳴りちらした。
(くそっ 忌々しい奴め……いちいち口を挟んできやがって……!)
銀狼族であるなら誰もが知っている事だがこの2匹にはある因縁があった。
欠け耳はイラついて仕方がなかった。予想以上に片目は手強く被害は広がるばかり。ロクに手傷も負わせられない始末である。おまけに仲間達の中には未だに片目に対する信頼と尊敬を失っていない奴もいる。表立って反抗してきたのはこの2匹だけだが潜在的にはまだまだいるだろう。
「少し休んだら再び行くぞ」
そう言って欠け耳は言葉を切った。強行軍はまだ終わりそうになかった。