5話
「長……今何とおっしゃいました」
欠け耳は聞き間違えたのではないかと片目に訪ねた。
「ならん、と言った。この赤子を殺す事は許さん」
「なっ…………!?」
開いた口が塞がらなかった。
「何故です!? 忌み子は不吉と破壊をもたらす者! 生かしてけば必ず災いをもたらします!」
欠け耳がたまらず声を荒げると
「この赤子は私が育てる」
その時空気が凍りついた。場を包んでいた空気が冷たく緊張感を含んだものへと変化していった。
片目は赤子を殺さなかった。否、殺せなかった。目が合った瞬間赤子は笑ってはいなかった。ただじっとこちらを見ていた。自分を殺すのか? 目がそう語っていた。片目は今までこんな生き物に出会った事がなかった。
無邪気に笑いかけてきたと思ったら今度は赤子らしからぬ意思の灯った瞳で問いかけてきたのだ。この赤子は自分が今正に殺されようとしている事を理解した上で恐怖や絶望に蝕まれる事なくただこちらを見つめていた。
自分がひと噛みすれば間違いなく赤子はアッサリ死ぬだろう。それは間違いない。自分の死を受け入れて「ただ死ぬ」。それは成熟した大人であっても簡単にできる事ではない。それを生まれたばかりの赤子が平然と行っている。その事実は片目を驚愕させるのに充分だった。
自分は何か赤子の皮をかぶったとてつもない何かと相対しているのではないか。そんな疑問を抱かせた。
「私は、この赤子を殺せなかった。この赤子の意志に呑まれた。私は負けたのだよ」
言いながら片目は自分が嘘をついている事を自覚していた。
確かに赤子の態度に驚愕したのは事実だ。だが本当の理由は違った。
結局の所惜しくなってしまったのだ。この美しい生き物がいなくなってしまう事を。寂しい、と思ってしまった。自分の心の奥に押し込め閉じ込めていた願望に気付かされてしまった。
片目は、自分に笑いかけてくれたこの赤ん坊を好きになってしまったのだ。育ててあげたい、守ってやりたいと思ってしまった。
片目は出会った瞬間から既に負けていたのだ。その美しさに目を奪われてしまったその瞬間から。
「何を、何を言っているのです! 銀狼族の長ともあろう者がーー」
続きを言いかけた時、ひた、と忍び寄る薄暗い虚無の瞳が欠け耳の両目を射竦めた。欠け耳だけではなく彼の後ろに屯していた銀狼達も。片目が放ったのは圧倒的な重圧ーー視線だけで殺され呑み込まれてしまいそうな程の闇だ。
「今のお前達と正に同じ状態にされたのさ。これを負けと言わず何と言う?」
誰も何も言う事ができなかった。
「私は今この時をもって長を辞し、群れを抜ける」
そう言うと片目は赤子を咥えて去っていった。
全身が硬直し、思考が停止する。
言いたい事だけを言ってさっさと行ってしまった姿を見送ってからやっと我に帰る銀狼達。
「我々はどうすれば……?」
おろおろと右往左往する同族を尻目に欠け耳は声を張り上げる。
「決まっている! あれはもう長ではない! そして勝手に群れを抜けた裏切り者だ! 粛清だ!! 忌み子共々地獄に送ってやるのだ!!」
叫びながら欠け耳は心の中でほくそ笑んでいた。
片目は群れを抜けた。これで自分が銀狼族の長だ。そしてこちらには片目を討つ大義名分がある。長年積もった鬱憤を晴らすチャンスだ。いかに片目といえども銀狼族全てを敵に回しては分が悪かろう。
「し、しかし……」
急な展開に頭がついてこないのか、同族達は動けないようだ。
「分からぬか!? このまま何もせず行かせては先程の奴の戯言を認めるのと同じ! 誇りを捨てて犬畜生に堕ちるつもりか!?」
その言葉に皆ハッとなる。
そうだ。先程片目は何て言った? 負けたと言ったのだ。人間の、しかも赤子ごときに。
同じだと言ったのだ。赤子に負けた自分と我々を。誇り高き銀狼族が、人間の赤子などに負けたと言ったのだ。認める訳にはいかない。それを認めてしまえば正に犬畜生ーー人間の家畜同然に成り下がってしまう。そんな事を許す訳にはいかなかった。
「ウオオオオオオーーーーーー!!!!!」
刃の森に怒号が響きわたった。