4話
遅いーー。
片目が欠け耳の静止を振り切って異変の中心に向かってから小一時間は過ぎていた。銀狼族の強靭な足腰なら数分で行って帰ってこれる距離のはずだ。時間がかかり過ぎている。
これだけ遅れているという事は何か良からぬ事が起きたのではないかーー
そんな不安に駆られる。
(いけないーー何を考えている。自分は誇り高き銀狼族の一員だぞ。それも次代の長ともあろう者が同胞の前で情けない姿を晒そうというのか。あってはならない事だ)
しかし、このままでは不安と緊張が同胞の中でいたずらに拡がっていくだけだった。何とかしなければならない。次期長として自分にはその責務があるのだ。
次期長、か。欠け耳は自嘲ぎみに笑った。自分が長になる時など本当に来るのだろうか。そんな疑問が湧き上がってくる。
片目、それは銀狼族の長い歴史の中でも歴代最強と呼ばれる存在である。彼女がその長い生の間で傷を負ったのは魔王皇とやり合った時だけだと言われる。戦闘能力だけなら5人いる魔王皇のうち頂点に立つという龍族の長、ディンバーと互角の戦いを演じあまつさえ手傷さえ負わせたという。
とはいえ彼等がやり合ったのはディンバーが成人する前の年若い頃の話であり、魔王皇となった今ではその実力には大きく差が生まれていると言うのが一般的な見解ではあるが。
だが、片目が魔族の中でも上位に位置する銀狼族の中でも群を抜けた桁外れの化物である事は間違いようのない事実だ。そんな怪物と自分は長い間比較され続けてきた。彼女と同じ時代に生まれてきてしまった事は運が悪かったとしか言いようがない。
正直言って欠け耳は自分の実力にはそれなりの自信がある。次代の長になるのは当然、それどころか歴代の長の中でもいい線を行っていると思っている。あの化け物さえ居なければ自分は今頃誇り高き銀狼族の長として華々しい活躍をしていたはずだ。
あの化け物さえいなければーー
それに自分は知っている。長い間次期長として片目の傍らに立ち続けてきた欠け耳だからこそ知っている。片目は本心から望んで長をしている訳ではない事を。それが欠け耳には腹立たしくて仕方無かった。なぜやる気のない片目に才能と力が与えられ誰よりも群れの事を考えて貢献してきた自分は未だ次期長ーー片目の補佐という立場に甘んじているのか。
神などという者の存在を信じている訳ではないが、もしいるのなら唾を吐きかけてやりたい気分だった。
欠け耳は考えるのを止めた。いくら考えても状況が良くなる訳ではないからだ。どうあがこうと自分にはあの怪物は超えられない。考えるだけ気が滅入るだけだ。
そう考えていた時彼方から駆け寄る音が聞こえてきた。片目が帰ってきたのだ。欠け耳は自身の嫉妬心を押さえ込んで片目に声をかけた。
「長! お戻りになられましたか」
欠け耳はどこかほっとしている自分に気が付いていた。さんざん心の中で化け物扱いしてはいたが、群れにとってこれ程心強い存在はいないのだ。しかし銀狼族の長は返事をせず、頭を垂れたままだ。
「長ーー?」
何か様子がおかしい。見ると片目は何か大きな物を口に咥えている。
「長、それは……?」
片目は咥えていた赤子をそっと下に降ろすと、赤子の顔をぺろりと舐めた。その所作には赤子に対する愛情が感じられた。キャハっと喜ぶ赤子の笑い声が響いた。片目は相変わらず俯いたまま呻くように声を出した。
「これが異変の元凶……忌み子だ」
「忌み子!?」
「忌み子だと?」
「一体誰が契約を……」
動揺が次々に広がっていく。
「ネクロ……フィルツ?」
欠け耳がそう呟いた。
「おお……確かにネクロフィルツとあるぞ」
「聞いた事がない……一体何者なのだ」
「いずれにしても、この赤子を覆う不可思議な魔力……放っておいてはどんな災いをもたらすか」
ざわざわと広がる喧騒を欠け耳の済んだ声が再び静寂に戻す。冷静な声に他の者もそうだそうだと続く。
「速やかに処分すべきです。赤子のうちならいかに強力な加護を得ていようとも我等銀狼族の敵ではありません」
欠け耳はそう宣言した。そう、それで問題ない。そのはずだった。
「ならぬ」
信じられない返事が返ってきた。