175話
片目の重苦しく固い声が響き渡った次の瞬間、唐突に場面が切り替わる。それは、一言で言うならば惨劇の場だった。赤子を口にくわえ油断なく周囲を警戒する片目と、その周囲を取り囲む銀狼達。あちこちに血と臓物が飛び散り片目の全身は返り血で真っ赤に染まっていた。
『私は、同胞を手にかけた。拾った人間の赤子を守る為にーー』
襲いかかる銀狼達を次々と返り討ちにしていく片目。機械のように正確に、刃物のように鋭く、悪魔のように躊躇いのない攻撃は一匹また一匹とかつての仲間を葬りさっていく。
『ーーだがそれは、本当に正しかったのか?』
片目の自問する声が響いてくる。ジュレスはその声の響きに一つの感情を読み取った。
後悔だ。同族をその手にかけた事を、片目は今もずっと悔やみ続けている。そしてそれが片目の力を抑え込んでしまっている最大の要因だという事を改めて確信した。
『あの時はそれが最善だと考えた。だが、本当にそうか? あそこまで犠牲を出す必要はなかったのではないか? 話し合いで解決出来たのではないか?』
どんどん数を減らしていく銀狼達。みるみるうちに数が減っていき、最後の一匹になっても銀狼は攻撃する事を止めなかった。そしてその個体が喉元を切り裂かれ崩れ落ちた時、静寂が辺りを包み込んだ。
これはどういう事だろうとジュレスは思った。銀狼族は全滅してはいない。数は大きく減らしたものの確かに生き残った者がいた筈だ。そうでなければ銀狼族が飛行船に乗り込んでくる筈がなかったのだから。しかし眼前では全ての個体が返り討ちにされ躯を晒している。
(そうか。ここはあくまで片目の精神世界。現実に起こった事とは違ってても不思議はないか)
『私はーー、私は結局の所、何も考えず力を奮っただけではないのか? それが、どんな結果をもたらすのか考えもせずに。赤子を守る為にという理屈を盾にしてーー」
ジュレスの思考と片目の苦悩が重なりあう。そして、しばらくした後場面は巻き戻り再び赤子を口にくわえた片目に銀狼達が襲いかかる一連の流れが繰り返された。
『私は、同胞を手にかけたーー
そして再び同じ事を呟く。片目の思考がここで延々とループしているのだとジュレスは気付いた。出口のない思考の袋小路をさまよっているのだ。今も、まだ。
片目の本来の力を発揮させるにはこのループから片目を抜け出させなければならない。だがどうやって?
しばしジュレスは考える。そして一つの案が浮かんでくる。しかしそれは無謀とも言える危険な賭けであった。
(構うもんか。ここに来た時点で既に大博打なんだ)
ジュレスは覚悟を決めて足を前に進めていく。
銀狼達はどんどん数を減らしていき、そして最後の一匹が崩れ落ちる。襲いかかる敵が全て息絶えた事でほんの一瞬、片目に隙が出来る。ジュレスはこの隙を逃さず行動に移る。
瞬時に片目に接近すると、その口から赤子を奪い取ったのだ。
(やはりそうか。強く接触しようと念じれば干渉出来る)
片目の精神世界に干渉するには片目の精神に影響を与えるだけの強い思いを持たなければならなかったのだ。ジュレスはひとまず己の狙いが成功した事に安堵する。
だが、次の瞬間ーー
『貴様ぁっ!! 赤子を返せっ!!』
赤子を奪い取られた片目は般若のごとき様相で怒りを露わにしジュレスの喉元に食らいつこうと口を大きくあけた。ジュレスはこれに対して抵抗する素振りを見せなかった。片目がジュレスを噛み殺すのは不可避と思われた。
しかし。
片目の鋭い牙はジュレスの喉元ギリギリの所で止められていた。何故だ、という微かな呟きが漏れた。片目の声だ。片目自身、何故己が攻撃を寸前で止めたのか分からなかったのだ。
『何故だ……何故殺せない……? 私は、同胞すらその手にかけたのに……』
呆然として呟く片目にジュレスは勝ち誇ったかのように言う。
「決まってるだろ。お前が……本当は誰よりも優しい奴だからだ」
『!?』
赤子を奪い取った憎い敵である筈の少年が己にかけてきた言葉に片目は絶句する。
「お前はずっと悩んでたんだろ。クロを助ける為に無駄な殺戮をしてしまったんじゃないかって」
『……………』
「俺には、同族殺しが正しかった、とは言えねえ。間違っていたとも言えねえ。俺は当事者じゃないからな」
そしてふうっと息を吐くと唐突に話題を変えた。
「ディンバーは強えよな」
『……? 何を、言っている?』
「あいつの強さは、迷わない事だ。あいつの歩む道はどこまでも一直線にひたむきに、頂きを目指す王者の道だ。叶わないと思うのも無理はねえ」
『………………』
「お前は違う。ずっと悩んで、悩み続けて、道に迷って生きてきたんだ。……だけど、だからこそ、今お前は牙を止める事が出来たんじゃねえのか?」
『な……に……?』
「無意識のうちに、牙を向けていい相手なのかどうか判断したんだよ。お前は、過去の出来事から学んで成長したんだ。だから大切なクロを奪った俺を殺さなかった」
そう言いながらジュレスは真っ直ぐ片目の瞳を見る。その何の迷いもない確信に満ちた瞳に片目は気圧される。
『お前は……一体何だ? 何を言っている……?』
「分からねえか。それだけ奥深くの、他の立ち入れない領域なんだろうな。それでもお前は俺を攻撃しなかった。それは、お前が、確たる己の意志で攻撃を押し止めたからだ」
『………………』
「迷わないディンバーは確かに強えよ。でもな、迷い悩み続けてきたからこそ得られる強さだってあるって俺は信じてる」
「胸を晴れよ、片目。お前は殺しちゃいけない奴を殺さなかった。その優しさは、お前が過去の心理的外傷から逃げずに向き合い続けてきたからこそ得られた、立派な強さなんだ」
『強さ……私の……?』
「そうだ。お前の『優しさ』は、強さなんだよ。誰にも真似できない、お前だけのーー」
『お前は……お前はーー
ーージュレス?」
その瞬間、何かが弾けた。
「そうだーー こいつは、ジュレス。小さくて、生意気で、頭が良くて、でも本当は傷付きやすくてとても優しいーー 私の、契約者」
◆
「ムッ!?」
瞑目してひたすら変化を待ち続けてきたディンバーは己の待ち望んできた瞬間がやってきた事を悟った。眩いばかりの黄金の輝きが片目の体から発せられ周囲を照らす。傷だらけだった片目の体はみるみるうちに回復し、銀色の毛並みはその色を黄金へと変えていく。
片目の紅い右目が左目と同じく黄金へと塗り替えられていく。魔王の証、神に愛されし者の色に。
「フフフ、フハハハハッ!! やはり、やはりそうだった! 我を圧倒した奴がただの魔族である筈がないのだ!」
ディンバーは狂喜にうち震え、かねてから抱いていた己の疑念を確信に変えた。
こうして、遂に誕生した。六人目の魔王皇がーー




