140話
二人は廊下で抱き合い、ただ立ち尽くしていた。長い沈黙が場を支配する。
ユータはコーデリックの言葉を反芻し、咀嚼し、噛み締めようとしていた。言葉では分かる。だが、実感として理解する事が出来なかったのだ。
コーデリック=ヴァン=カラコミナ。淫魔族の王にして、世界に五人しかいない魔王皇の一人。見る者を魅了し取り込む魅了眼を持ち、その力で魔族の頂点に上り詰めた者。
世界中の者と「トモダチ」になるという最も優しく平和な世界征服を企む者。
クロと並ぶ超絶な美貌を持ち、強大な魔力を奮い、数々の戦いで活躍した実力者。ユータの首輪を無効化し外してくれた命の恩人。その後も影からユータを支え助け続けてくれていた者。そのコーデリックが自分を本気で好きになってしまったという。
数百年もの長い生の中で数えきれぬ程多くの者と親交を交わし、情欲を交え、それでも恋愛感情を持つ事の無かった者が、今自分に惚れている。
「……どうして、オレなんだ?」
ユータの頭の中に浮かんだのは疑問だった。
「オレは、お前程の奴に本気で惚れられる程の価値はないぞ」
ユータにとってこれは自虐でも何でもなく厳然たる事実だ。ユータは自分が大した人間でない事をよく知っている。救世主でも英雄でもなく、偽者でしかない。
「元居た世界では落ちこぼれ、こっちにきても救世主の紛い物。お前に救ってもらっていなければそのまま惨めに終わっていた筈の人生だ」
ぎゅ、と意図せず握る拳に力が入る。
「戦場で人を殺せず、戦えず。淫魔の誘惑に勝てずお前を抱き、男を好きになり、恋人がいるのに他の奴とも体を重ねた」
ユータは知っている。それは自分の中に確たるものが無いからだと。状況に流され優柔不断に生き続けた結果が今の自分なのだ。
「そんな奴のどこがいいっていうんだ?」
しばらく黙っていたがやがてコーデリックはおずおずと口を開いた。
「キミは分かってない。自分の力を。淫魔の王の誘惑に耐えるという事がとういう事なのか」
「え……?」
「今まで出会った中でキミ程強固な意志でボクを拒み続けた者はいないんだ。普通の人間や魔族なら、目が合った時点でアウトだよ。ボクが本気になればね」
「………………」
「始めのうちはほんのお遊び程度でしか無かったよ。でも、いくら誘惑しても中々キミは堕ちなかった。そのうちにボクはだんだん本気でキミを誘惑するようになっていった」
「堕ちなかったって……早い段階でオレはお前を抱いたじゃないか」
「『堕ちる』っていうのはそういう事じゃない。24時間ひたすら繋がりボクを求めて他の全てを捨てさせる所までやって初めて『堕ちる』というんだ。キミは一度ボクを抱いたにも関わらずその後も度々ボクを拒んだ。あり得ないんだよそんな事普通は」
コーデリックの話はユータにとっては寝耳に水だった。ユータは安易にコーデリックに手を出した事でずっと後悔していたというのに、コーデリックはユータをそんな状態にしようとしていたというのだろうか。
「勿論、仲間をそんな状態にさせようと思っていた訳じゃないよ。でも、本気でやっているのにも関わらずその気にさせられないっていうのは淫魔の王の沽券に関わる問題だった」
確かに、人間の性を搾り取る事を生業をしている淫魔族が狙った相手を落とせないとなれば沽券に関わる問題だろう。ましてや、淫魔の王、「魅了」の二つ名を持つ魔王ならば尚更だ。
「キミは自分の事を情けない奴だと思っているのかもしれない。いつまでもぐちぐちと悩み続けてるって。でもね、ボクに言わせればキミの置かれた状況で悩んでいられる事事態とんでもない事なんだよ」
そう、普通の人間ならば女神の救い手という立場と力を与えられながら目の前の人間や魔族の為に戦いを躊躇ったりはしないだろう。
首に爆弾を付けられた状況で倒さなければならない敵を前に話し合おうとはしないだろう。
命のかかった戦闘で敵を殺す事を躊躇したり殺した事をいつまでも悔やんだりはしないだろう。
片目やジュレスやコーデリックを好きにできる状況になって尚己の不実を悩み続ける事は出来なかっただろう。
「そういうキミだったからこそ、クロが処刑される寸前になっても尚ボクの為に踏み留まってくれたんだ」
「………………」
「ボクとクロの命なら百人中百人がクロを選ぶ。それに不満はない。ボク自身、そうしようとしていたし。キミだけなんだよ。あの、救世の天子、世界の救世主であるクロとボクとを天秤にかけて『同等』と言い放った人間は……」
「コーデリック……」
「あの時のキミのあの行動が正しかったとは言えないかもしれない。でも、ボクは嬉しかったんだ。ボクの為に悩んでくれたキミが」
コーデリックはここで初めてクスリと笑い、悪戯っぽくユータを見て言った。
「キミは確かに優柔不断だ。……でもね、『世界一カッコいい』優柔不断なんだよ。それを、忘れないで」
「……!!」
そういってゆっくりコーデリックはユータに密着し体を預けると、淫魔の王のものとは思えない程に優しく軽いキスをして、離れた。
「ボクはキミが好きだよ、ユータ」
ユータは今更ながらに感じていた。紛れもなくこれは本当の気持ちなのだと。コーデリックがユータに向ける感情、それは間違いなく愛情なのだという事を。




