第48話 「伊織さんだから」 ~伊織編~
母の言葉にしばらく無言だった佑さんが、ようやく口を開いた。
「お言葉を返すようですが」
「え?」
「伊織さんのことをどうしてそう悪く言うのか、僕には理解できません」
「…は?」
佑さんの言葉に、思わず母は目を丸くして聞き返した。
私は佑さんがなんて言ってくれるのか、ドキドキしながら聞いていた。
「伊織さんには伊織さんの素晴らしいところがあります。それから、料理ができないとか、家事が不得手なんていうことは、僕には一切関係のないことです。僕は料理も家事も得意なので、まったく問題はないですから」
「家事が得意?」
母はさらに目を丸くした。
「はい。両親が離婚してからは、家のことは僕が任されていたので。それに一人暮らしも長かったので」
「…まあ、そうなの」
そうか。佑さんが家事が得意なのは、ただ一人暮らしをしているからっていうだけじゃないんだ。両親が離婚したことだって、私は知らなかった。
そう言えば、私、佑さんのことをまだまだ知らないんだな。お姉さんがいるっていうのは、聞いたことがあるけれど。
そうだ。思い出した。私が「フィールド・オブ・ドリームス」を勧めた時、父と子の話だって言ったら、佑さん、僕が今観るのに意味があるのかも…って言っていたっけ。
母はそのあと言葉が続かないようだった。だが、母の横から美晴が身を乗り出し、
「それ、お姉ちゃんには最高な相手。ね、お母さん」
と突然明るくそう言った。
「ね、お父さん。そう思うよね?それに、28の若さで主任なんだって。将来も有望なの。こんな人、そうそう現れないし、反対なんかするわけないよね?ね?お母さん」
美晴の言葉に母と父は一瞬目を合わせ、
「…まあね、反対する理由もないし」
「うん。伊織が選んだ男性だ。反対はしないさ」
とほとんど同時にそう答えた。
「伊織も、本当に魚住さんが好きなのね」
母は私を真剣な目で見た。
「え?う、う、うん」
「そう。そりゃ、これだけ素敵なら、文句のつけようがないし。こんな伊織のことを魚住さんは気に入ってくれたんだから反対もしないわ。魚住さん、伊織のことをよろしくね」
「…はい」
佑さんも真剣な目になって、コクリと頷いた。
「話は済んだね?どうだい?庭に出て菜園を見ないかい?魚住君」
「あ、はい。ぜひ」
父の言葉にすぐに佑さんはソファから立ち上がった。私も父と佑さんの後に続いて庭に出た。
ああ、ドキドキした。でも、やっぱり母も父もすぐに佑さんを気に入ってくれた。母なんて、これだけ素敵なら文句のつけようがないなんて言っていたし。
今日の父は上機嫌だ。いや、ものすごく緊張していたと思うが、佑さんが家庭菜園に興味があると言ってから、すっかり機嫌がよくなってしまったようだ。いつもより口数も多い。佑さんも父の話に合わせてくれている。
もしかして、佑さんって相手と話を合わせるのが上手なのかな。だって、営業マンだし。それも優秀な営業マンだもの。
なんて思いながら二人を見ていた。話ベたな父と佑さん。なんか不思議な光景だった。
「魚住君」
「はい」
「伊織のこと頼んだよ。家内が言うように、伊織は美晴と違って、不器用と言うわけじゃないが、まっすぐで要領が悪いところもある。だから、会社でも大変なこともあったと思うよ」
唐突に父は、真面目な顔をして佑さんにそう話し出した。
「はい」
佑さんも真面目な顔をして父に答えた。そして、
「伊織、良かったな。いい人と出会えて」
と父はいつもの優しい表情に戻った。
「これで安心だ。お母さんと心配していたんだよ。美晴は要領がいい。なんとか逞しく生きていけるだろう。だが、伊織は一人で生きていくには、若干弱いところもあるしね。魚住君のように優しい人がそばにいてくれるなら安心だ」
お父さん。何でそんなこと言い出すの。ダメだ。堪えていたけど涙が溢れてきた。
「伊織、泣くのは早いぞ。結婚式まで取っておきなさい」
そう言ってお父さんはにっこりと笑った。その隣で佑さんも優しい目で私を見ている。
私、本当に結婚するんだ。佑さんと…。
お昼の用意ができましたよと、母が呼びに来た。食卓に行くとテーブルには、何品も並んでいた。
「私の力作です」
美晴がにっこりと微笑ながらそう言った。
「魚住さん、料理上手って言うから、緊張するなあ。得意料理はなんですか?」
みんなが椅子に腰かけると、美晴がそう聞いた。
「僕は和食しか作らないんです」
そう佑さんが答えると、
「え?そうなんですか」
と美晴はびっくりしていた。
「私は逆に和食はあんまり作らない。イタリアンとか、フレンチとか、アジア系を作ります。今日も和食は一品もなくって」
「食べるのは何でも好きですよ」
佑さんはそう表情を和らげて言った。
「冷めないうちに食べましょう。まずは乾杯をしましょうよ。佑さん、車だからノンアルコールビールにしたけどいいかしら」
「あ、はい。ありがとうございます」
「あ、私もノンアルコールで」
私がそう言うと、母は私のグラスにノンアルコールビールを注いだ。それからみんなでグラスを持ち、
「伊織が無事結婚できることに乾杯」
と母がそう言ってグラスを掲げた。
う~~~ん。もうちょっと他に言い方はなかったのかなと思いつつ、私も「乾杯」と言って、グラスを掲げた。
食事中は美晴が中心になって話していた。時々母がちゃちゃを入れ、佑さんは質問に答えたり、相槌を打ったりしていた。父は静かに食べていた。私はちょっとハラハラしていた。何しろ美晴はいきなり何を言い出すかわからないから。
「フードコーディネーターを目指しているんだそうですね」
食事が終わると佑さんが美晴にそう話しかけた。
「はい。料理作るのが大好きだから、もう仕事にしちゃおうと思って」
首を傾げながら美晴はそう言った。
「夢があるのはいいことですよね。頑張ってください。僕も応援しますよ」
「魚住さんって、働く女性をどう思いますか?」
あ。そういう質問を美晴はしちゃうんだから。
「いいと思いますよ。僕の部下にも仕事熱心な女性がいますが、僕は応援していますし、何か力になることがあれば、できるだけ助けたいと思っていますし」
「姉は、仕事好きじゃないですよ?」
「え?あ、はい。…それが何か?」
佑さんは少しキョトンとして美晴を見た。
「あ、もしかして結婚するなら、家庭に入ってくれる女性がいいとか?」
「いえ。どちらでも、伊織さんが仕事をしたいと言うのであれば、仕事をしてもらってもかまいませんし、応援もしますよ」
「仕事をしないなら?」
「……伊織さんが好きなことをしていてくれてかまいません。アレンジメントや野菜作りなど…」
「へえ。すごい。魚住さんって寛大なんだ。できた男なんだ」
ちょっと。なんか嫌味っぽい言い方じゃないの?美晴。
「…いいえ。別に寛大なわけじゃないです。ただ…」
佑さんがしばらく口を閉じた。その間、みんなが何を言い出すんだという思いで、佑さんに注目した。
「ただ、伊織さんだから…ですね」
「…お姉ちゃんだから、なんですか?」
「ああ、ですから、伊織さんだから…なんです」
「え?」
美晴だけじゃなく、母も不思議そうに聞き返した。
「伊織さんだから、伊織さんが好きなことをしていてもかまわないんです。いえ、むしろ、伊織さんの自由に好きなことをしていてほしいって思っています」
「…。え?何それ。もしや、それだけお姉ちゃんに惚れていますっていうこと?」
うわ。何を言ってるの、美晴!!!
「………。そういうことに、なりますかね?」
佑さんの耳が赤くなった。わあ、照れてるの?
「まあ!まあ、まあ。ミラクルね」
母が口をあんぐりと開け、変なことを言った。なんだ、そのミラクルって。いや、私も奇跡としか言いようがないって思うけど。
「すごい驚き。お姉ちゃん、愛されちゃってるね。でも、幸せになれるね。やっぱり、愛されて結婚するのが一番だよね?」
「え?」
「そうね~~」
美晴の言葉に母も頷いた。でも、美晴はまた斜め上を見ながら、
「だけど、本気で好きになった人じゃないと、結婚は嫌かも…」
と言い出した。
「私、愛されようが、条件がよかろうが、やっぱり結婚まで踏み込めなかったし。今は仕事一本でいきたくて、とても結婚なんか考えられないしなあ」
「……。あんたの方が先に結婚すると思っていたのにね」
母もぼそっとそんなことを呟いた。だけど、そんな言葉を無視して、
「お姉ちゃんも魚住さんが大好きでしょ?大好きな人だから、結婚に踏み込めるんだよね?」
と、私に向かって美晴はそう聞いてきた。
「え?」
なんちゅう質問?でも、母もこっちをじっと見て返事を待っているし。
「あ、あの」
佑さんを見た。佑さんはクールな顔をしている。
「う、うん」
頷くだけで精一杯だ。そのあと、顔がボワッと熱くなった。
「幸せそうで何よりだわ」
美晴がそんなことを言い、黙り込んだ。
「そろそろ帰ります。あまり長居してもご迷惑でしょうし」
「あら。うちはかまいませんよ。泊まっていってもらってもいいくらい」
「お母さん、そろそろ二人にしてあげよ。二人きりに早くになりたいだろうし」
美晴!さっきから、一言余計だ。
「あ、そうね」
母も頷き、私と佑さんをみんなで玄関まで見送りに来た。
「今日はごちそうさまでした」
「いえいえ。また遊びに来てくださいね。あ、そうだ。日取りとか、いろいろと決めないと」
「式は挙げるんでしょ?お姉ちゃん」
母の言葉に、すかさず美晴がそう聞いてきた。
「……」
ちらっと佑さんを見た。佑さんも私を見て、
「伊織さんが挙げたいなら挙げますよ?」
と優しくそう言った。
「はい。じゃあ…」
そう言うと母の目が輝き、
「忙しくなるわね。ああ、楽しみ」
と、嬉しそうにそう言った。
帰りの車の中、佑さんはほっと息を吐き、
「ああ、緊張した」
と可愛らしくそう呟いた。
「そう見えませんでした」
「そうですか?かなり舞い上がっていたんですが」
「………あの」
「はい?」
「私、まだ佑さんのこと知らないことだらけなんですよね」
「え?」
「あ、すみません。家庭の事情とか、あんまり話したくないですよね。い、いいんです。ただ、ちょっとそう思っただけで」
「ああ、親の離婚のことですか?」
「は、はい」
言いたくないよね。佑さん、前を向いたまま黙っちゃった。
「別に話したくないわけじゃないですよ。そういう話題に触れたことがなかったって言うだけです」
「……」
「父と母は、僕が高校生の時に離婚をしましたが、中学の頃から不仲でした。原因は母が仕事に夢中になって、父や家庭をほっぽらかしたせいなんですが」
「え?」
「父が浮気をしたんです。まあ、それが離婚の直接の原因ですね」
浮気…。
「離婚してからも母は、仕事に夢中でした。会社を創り、姉も一緒にその会社で働き、二人とも多忙だったので僕が家事をしていました」
だから家事が得意なんだ。
「僕は浮気をした父を許せなかった。母が仕事をすることをちゃんと受け入れることが出来なかった父も、器の小さい男だと勝手にそう思っていました」
「……」
「僕も大学生の頃、母の会社でバイトをしてこき使われていたんですよ。そのまま、この会社に就職しろと言われ、一生母にこき使われるのかと思ったら嫌で、今の会社に就職しました」
「…そうだったんですか」
「でも、母や姉が働くこと自体は反対もしませんし、応援していましたよ。家に帰ってくると、風呂にも入らずソファで寝てしまう母とか、酔ってリビングで泥酔する姉とか…。嫌って言うより、しょうがないなあって感じで面倒を見ていました」
「優しいんですね」
「優しいとかそういうことじゃなくて。大学の費用とか、母が出してくれたわけだし…、女性が会社を創るって、ものすごく大変なことだと思うし、本当によくやっているよなあ、弱音もはかずにって思っていました」
「だから今も、仕事をする女性を応援したいんですね?塩谷さんのことも」
「ああ、塩谷…。あいつは姉や母に似ています。仕事が好きで、男に負けたくなくってっていう気の強いところまで」
「……」
「応援したくなりますよ。そういう人は…」
「でも、あの…。私は…」
私はそんなに夢中になれるものなんてない…。つまらない人間なのかもしれない。佑さんは働く女性のほうが好きなの?なんて、そんなことは聞けないし…。
「塩谷を応援はしますけど、一生共に生きたいとか、隣にいてほしいとは思いません」
「え?」
わ。びっくりした。私が塩谷さんのことを気にしているの、佑さんはわかっているよね、きっと。
「いや。もし、伊織さんが何か夢を見つけて、それに向かって生きていきたいっていうのなら、きっと僕は全力で応援すると思うし、そばで守りたいと思うし、それも一生守っていきたいって思いますね」
ドキ!
「って、なんでそう伊織さんだと思うのかが、僕にも謎です」
そう言って佑さんはくすっと笑った。
「……」
私は運転している佑さんの横顔を、じっと見つめていた。赤信号で車を停めると、佑さんを私を見て、
「それだけ、惚れているってことなんですね。美晴さんの言うように」
と優しく笑った。
ドキン!!!
顔が熱い。
それだけ、惚れてる?
なんか、すごいことを言われているよね。でも、どこかでまだ、信じられないような、夢の中にいるような感じだ。
だけど、嬉しい。
私も、佑さんが大好きで、佑さんの隣にいられることが幸せで、今日はずっと夢心地だ。
帰り道、佑さんの隣で私はずっと幸せに浸っていた。




