第47話 実家へ ~佑編~
2課に戻ると、ちらりちらりと残業をしている人が僕を見た。席に着く前に課長に、
「面談の結果です。目を通してもらってもいいですか?」
と人事に出す報告書を渡した。
「3人とも面談終わったんだね」
「はい」
席に着くと、野田さんがじいっと僕を見て何か聞きたそうにしている。あ、もしや、面談の結果を知りたいのか。だが、言えるわけもない。
「え!?」
報告書を見て課長が驚きの声を上げ、
「悪いが詳しく聞いてもいいかな。ちょっと会議室、来てくれる?魚住君」
と席を立った。僕もその後に続いた。
僕たちのことを、2課の男性陣はずっと見ている。塩谷だけは黙々と仕事をしていたが。
バタン。会議室のドアを閉めると課長は慌てたように、
「溝口さんも辞めるのかい?」
と聞いてきた。あ、桜川さんのことじゃなくてそっちか。
「はい。正直僕も驚きましたが…」
「来年6月で?結婚かい?」
「……それはやはり、本人からの報告を待った方がいいのではないかと」
「…結婚か。相手は誰なんだい?」
「それは、その。やはり、本人にお聞きしたほうが…」
「噂の相手じゃないよねえ。まさかねえ」
噂?噂があるのか?
「桜川さんはもちろん、結婚退職だね?」
「はい」
「もう式の日取りは決まったのかい?」
「まだです。これから決めていくつもりです。まずは、ご両親に挨拶に行かないと…」
「そうか。決まったらすぐに部長に言うといいよ。部長も気にしていると思うからね」
「…そうですね」
「だけど、他の人には内緒にしておいたほうがいいね。式の日取りが決まって、招待状を送る時にでも言えばいいと思うよ」
「そのつもりです。ただ、式を挙げるかもまだ決めていないので、それもどうなるかこれから彼女と話します」
「あ、そうか。最近は式を挙げない人も多いしね。あ、話はそれだけだ。じゃ、これは人事に提出しておいてくれ」
「はい」
会議室を出た。2課の男性陣は僕たちを見て、慌てて口を閉じパソコンに向かった。どうやら今まで、話に花を咲かせていたようだ。
7時まで僕は残業をしていた。その時間まで残っていたのは野田さんと塩谷だけだった。
「課長、驚いていましたけど、誰か来年度辞めるんですか?」
野田さんがパソコンをシャットダウンしながら聞いてきた。
「野田さん、そういうことは僕から言えないことになっているので」
僕がそう答えると、デスクの上を片付けていた塩谷が、
「主任、ふっちゃったんですか?それがショックで辞めるとか?」
と唐突に聞いてきた。
「ふる?」
僕はその唐突な質問に、なんのことを言われたかわからなかった。
「桜川さん、泣いてたでしょ?ふっちゃったんですか?で、彼女、来年で辞めちゃうとか」
「塩谷、何をわけのわからないことを言っているんだ?」
「私じゃなくて、2課の男性がそう話していたんですよ、ずっと」
塩谷はそう言ってから、野田さんの方を見て「ね」と同意を求めた。野田さんは気まずそうな顔をしたが、
「桜川さんはほら、顔に全部出やすいから」
と、これまたわけのわからない言い訳をした。
「……」
顔に全部出やすいからなんだと言うんだ。面談のあと、泣いた顔をして戻ったから、僕にフラれたと思ったってわけか?
「仕事、二人とも終わったんですよね。それじゃ、僕もこれで帰ります。あと、野田さんも塩谷も、憶測だけで桜川さんや溝口さんのことを言うのはやめてください。彼女たちも困ると思いますよ」
僕はあえてクールにそう言い、上着を羽織ってさっさと部屋を出た。
「待って、主任。一緒に帰ります」
塩谷も慌てて上着を手に持ち、部屋を出てきた。
「一緒にも何も…。駅までだけだぞ。今日は早くに家に帰りたいし」
「あんなこと言ったけど、ふっちゃったんでしょ、主任」
「まだそんなことを言っているのか。しつこいぞ」
「桜川さんって、主任に気があったんでしょ?それも、2課の男性陣の中で噂になっていたみたいですよ?」
「……。みんなどうして、そんなに人のことを気にするんだろうな」
「私、そういう噂話って女子だけがするのかと思っていました。でも、案外男性も好きなんですね」
「僕は関心ないけどね。人のことなんかどうでもいい」
「…桜川さんのことも?まあ、会社一歩出たらどうでもいいし、彼女が辞めようとどうなろうと関係ないですもんね」
「……塩谷はなんだってそんなに、桜川さんを敵対視しているんだ?」
「桜川さんだけじゃなくって、ああいう腰掛けOLが嫌いなんです」
「別にいいだろ。人それぞれだ」
「主任だって言っていたじゃないですか!さんざん名古屋で、腰掛けOLは邪魔だって」
「……。そうだったな」
「本店に来て主任変わりましたよね?」
「そうか?」
「もっと、事務員をビシバシ叱ってくださいよ。まあ、北畠さんはいいとして、あとの二人はどうしようもないんだから」
「溝口さんには手を焼いている。だが、桜川さんは…」
「桜川さんだって同じでしょ?ミスもするし、頼りにならないし」
「そんなことはないさ。けっこう頑張って仕事しているよ」
「ええ?主任がそういうことを言うのは信じられないですよ。どうしたんですか?」
「別に…どうもしないさ」
ああ、こいつに伊織さんと結婚するなんて話したら、どんなに驚かれるんだろうな。
それにしても、僕にフラれて会社を伊織さんが辞めるだと?なんだって、そういう展開になるのか。
塩谷とは駅で別れ、家路に着いた。簡単に夕飯を作り、さっさと食べて風呂に入った。
風呂から出ると、携帯にメールが来ていた。
>母に電話をしました。土曜日に決まりました。
伊織さんからだった。
僕はすぐに伊織さんに電話をした。そして、まだ髪も乾かしていないと言うのに、長いこと彼女と話をしていた。
電話を切り、髪を軽く乾かし、仕事部屋に入った。パソコンを起動させ、仕事をしようと思ったがダメだった。頭の中は土曜のことでいっぱいだ。
「はあ。緊張するもんだな」
伊織さんのご両親はどんな人だろうとか、どう話をしたらいいんだろうとか、そんなことばかり考えてしまう。
「……。早くに一緒に住みたいよなあ」
ぼそっとそう呟いて、自分の独り言にびっくりした。
「はあ…。まいった」
椅子の背もたれにもたれ、ため息を吐いた。自分でも驚くくらい、きっと僕は伊織さんに入れ込んでいる。
あっという間に土曜日になった。よく行く和菓子屋に和菓子を買いに行き、車に乗り込み伊織さんのアパートに向かった。
はたして、彼女のご両親は僕を受け入れてくれるんだろうか。結婚なんて認めないといきなり反対されないだろうな。
緊張しながら運転し、アパートに着いてから伊織さんに電話を入れた。彼女はすぐに車まですっ飛んできた。
「おはようございます」
頬を高揚させた伊織さんは可愛らしい。今日は随分と清楚なイメージなんだな。
「おはようございます」
僕もそう挨拶を返した。そして、二人して伊織さんの実家までの道のりも緊張していた。
家は大きかった。庭も広々としていて、塀でぐるりと囲まれていた。車を停め、伊織さんと門をくぐった。玄関のチャイムを伊織さんが鳴らすと、すぐに家の中からお母さんが現れた。
あ、伊織さんには似ていない。
「初めまして。魚住と言います」
「あ、あら。伊織の母です。……まあ、ここではなんだから、中にどうぞ」
お母さんはそう言いながら、僕をじろじろと見た。見定めているのか。緊張する。
家の中に入ると、妹の美晴さんが現れた。ああ、美晴さんの方がお母さん似か。
僕はお母さんからリビングにどうぞと言われ、リビングに入った。そこにはソファに座って新聞を読んでいるお父さんがいた。
なんか変な汗が出てきた。ますます緊張している。
「お姉ちゃん、びっくりだよ。すごいイケメン。お姉ちゃんってやっぱ面食いだよね。高校の彼もイケメンだったし」
リビングで呆然と立っていると、そんな声が廊下から聞こえてきた。え?高校の彼もイケメン?
気になった。そりゃ、伊織さんだって付き合った彼くらいいただろう。…いや、正直、付き合ったこともないんじゃないかと思っていた。何しろ、男性と付き合った経験がなさそうなくらい、キスすら恥ずかしがって拒否されたわけだし。
その後、伊織さんがリビングに入ってきて、僕たちはソファに座った。だが、落ち着くと思っていたら、すぐに伊織さんはお母さんに呼ばれ、リビングを出て行った。
やばい。お父さんと二人きりだ。お父さんは新聞を畳み、黙り込んでいる。
ここは、何か話しかけないとな。この沈黙の空間は耐えられそうもない。
「伊織さんからお父さんは、家庭菜園が好きだと聞いています」
とっさにそう言った。お父さんは顔を上げ、嬉しそうに、
「そうなんですよ。それが僕の唯一の趣味でしてね」
とにこやかにそう言った。
「僕も家庭菜園に興味があって」
「へえ。そうなんですか。伊織も好きだから、趣味が合いますねえ」
「はい」
良かった。和やかな雰囲気になった。さっきは、沈黙が続きそうになって息がつまりそうだった。
そこにお母さんと伊織さんがやってきた。お茶や和菓子をテーブルに置き、美晴さんもやってくると、今度はお母さんに質問攻めにあった。
お母さんは本当に伊織さんとは違う。おしゃべりだし、好奇心も旺盛なようだ。お父さんの方が寡黙で、ただ話をうんうんと頷きながら聞いている。醸し出す雰囲気は、伊織さんに近い。伊織さんはお父さん似なんだな。
美晴さんはじっと僕を見ていた。それがほんのちょっと怖かった。髪の先から爪の先まで見られているようで、いや、心の奥まで見透かされているようにも感じた。こういうタイプの女性は苦手だ。
「お話があります。よろしいでしょうか」
僕はお母さんの質問攻めがようやく終わった頃、そう話を切り出した。
「え、あ、はい」
ご両親は聞く体勢に入った。隣で伊織さんが緊張しているのがわかる。いや、僕も相当緊張している。
「今日、お伺いしたのは…、お願いがあってまいりました」
「お願い?」
「はい。伊織さんとは結婚を前提に交際をしています。それで、伊織さんとの結婚を認めてもらうため、伺いました」
「本当に、この、伊織でいいんですか?」
「は?」
お母さんの唐突な質問に、僕は少し面喰った。そんなことを聞かれるとは想定外だ。
「もしかすると会社での伊織しか知らないかもしれないので、あとからガッカリしないように言っておきますが、この子、料理も掃除も洗濯もダメで、結婚してから後悔するかもしれないですよ?」
「………。それでしたら、大丈夫です」
「それに、なんにも特技もなくて。家庭菜園くらいしかできませんよ」
「フラワーアレンジも得意ですよね。僕はたまに伊織さんから教えてもらっています」
「そんなの!生活の役にも立たないし、そんな特技があってもなんにもなりませんでしょ?」
「部屋に伊織さんの作ったアレンジがあると、すごく僕は癒されますが…」
「でもね、どこをどう気に入ってもらえたのかわからないけど、伊織は本当に何もできない娘なんです。長女だからか、おっとりと育ってしまって。私も世話を焼きすぎたのか、自分でなんにもできないような子に育っちゃって」
「そんなことはないですよ」
「いいえ、そうなんです。ね?お父さん」
お母さんはとうとうお父さんにまで話を振った。だが、
「ああ、うん、まあ。でも、根はいい子ですよ。まっすぐに育ちましたし」
と、お父さんは伊織さんの良さを話し出した。確かに、まっすぐだ。
「でもねえ」
それに比べて、お母さんはなんだって伊織さんを悪くばかり言うんだろうか。
「こんなに完璧な人が、なんだって伊織なんかと結婚したいと思ったのかわからないわ」
完璧?僕がか?
僕が完璧って、いったいなんだってそう思うのか。それより、さっきから何だって伊織さんのことを悪く言うんだろうか。
「妹の美晴だったらわかるのよ。料理もできるし、愛想もいいから。でも、伊織は昔から何をしてもダメで。不器用な子なのよ。愛想もないし」
……。
「要領も悪いのよね。魚住さん、伊織のことを知ったら、ガッカリするんじゃない?」
そうか。伊織さんはこうやって、お母さんから妹さんと比べられてきたのか。だから、あんなに自分を卑下するのか。女子力がないからと、何度も言っていたが、それはこの親から言われ続けていたからなのか。
だから、伊織さんも自分と妹さんを比べていたのか。なんとなく納得した。彼女が自信を失っているわけが。
「お言葉を返すようですが」
「え?」
「伊織さんのことをどうしてそう悪く言うのか、僕には理解できません」
「…は?」
そう言うとお母さんは目を丸くした。
「伊織さんには伊織さんの素晴らしいところがあります。それから、料理ができないとか、家事が不得手なんていうことは、僕には一切関係のないことです。僕は料理も家事も得意なので、まったく問題はないですから」
「家事が得意?」
お母さんはさらに目を丸くした。
「はい。両親が離婚してからは、家のことは僕が任されていたので。それに一人暮らしも長かったので」
「…まあ、そうなの」
「それ、お姉ちゃんには最高な相手。ね、お母さん」
美晴さんが突然口をはさんだ。そして、
「ね、お父さん。そう思うよね?それに、28の若さで主任なんだって。将来も有望なの。こんな人、そうそう現れないし、反対なんかするわけないよね?ね?お母さん」
と、二人の顔を交互に見ながらそう言った。
ああ、そうか。美晴さんはなんとか伊織さんの応援をしようと頑張っているのか。
「…まあね、反対する理由もないし」
「うん。伊織が選んだ男性だ。反対はしないさ」
お母さんとお父さんはそう言ってから伊織さんを見た。
「伊織も、本当に魚住さんが好きなのね」
「え?う、う、うん」
お母さんの質問に伊織さんが真っ赤になった。
「そう。そりゃ、これだけ素敵なら、文句のつけようがないし。こんな伊織のことを魚住さんは気に入ってくれたんだから反対もしないわ。魚住さん、伊織のことをよろしくね」
「…はい」
「話は済んだね?どうだい?庭に出て菜園を見ないかい?魚住君」
「あ、はい。ぜひ」
話はとっとと終わったらしい。お父さんに誘われ僕は庭に出た。伊織さんも一緒にくっついてきてくれた。
庭は本当に広かった。そこに野菜畑があった。
「すごいですね。こんなに広いとは思いませんでした」
「ははは。そうかい」
伊織さんが言っていたようにお父さんは優しいおおらかな人だ。そして、家庭菜園の話をしだすと目が輝いた。それを嬉しそうに伊織さんが見ていた。
「魚住君」
「はい」
「伊織のこと頼んだよ。家内が言うように、伊織は美晴と違って、不器用と言うわけじゃないが、まっすぐで要領が悪いところもある。だから、会社でも大変なこともあったと思うよ」
ああ、前に体をこわしたこともあったと聞いた。
「はい」
「伊織、良かったな。いい人と出会えて」
お父さんはそう優しく伊織さんに言った。伊織さんの目は潤んでいた。
「これで安心だ。お母さんと心配していたんだよ。美晴は要領がいい。なんとか逞しく生きていけるだろう。だが、伊織は一人で生きていくには、若干弱いところもあるしね。魚住君のように優しい人がそばにいてくれるなら安心だ」
そうお父さんが言うと、とうとう伊織さんは泣き出してしまった。
「伊織、泣くのは早いぞ。結婚式まで取っておきなさい」
そうお父さんは笑って言った。
…素敵な親子関係だな。僕は二人を見て、そんなことを思っていた。




