第45話 面談の前に ~伊織編~
5時半。終業の時間だ。仕事は終わってしまった。残ろうと思えば、雑務が残っている。
今日、返事をするんだと心に決めたのに、すでにそんな決心もポキっと折れている。
「どうすんの?」
小声で真広が聞いてきた。
「主任、残業っぽいよ。野田さんと話しこんでいるし、デスクの上片付けていないし」
「うん」
ぼそぼそと話していると、
「主任に何かお話?」
と、北畠さんが聞いてきた。
「え?あ、いいえ。今日のこと謝りたいなって」
「大丈夫よ。主任、そんなに怒っていないし」
「あ、あと、私だけ面談がまだで」
「ああ、来年度の?まさか、辞める予定あるとか?」
北畠さんまで、内緒話をするみたいにこそこそと話し出した。
「い、いえ、それは、その…」
「あ、言えないわよね。でも、報告あるなら早めがいいかも。今、時間作ってもらったら?私から言おうか?」
「だ、大丈夫です」
やばいよ。決心、ぐらついているのに。結婚に逃げるみたいだとか、腰掛けだとか、さっきの塩谷さんの言葉で、心にいっぱい棘もささったままだし。
「真広」
私が悶々としていると、いつの間にか岸和田さんが真広のすぐ後ろに立っていた。そして、低い小さな声で真広に声をかけた。
「仕事終わった?」
「え?う、うん」
真広もびっくりしながら、振り返った。
「じゃあ、話あるから、一緒に帰れる?」
「え?うん。あれ?でも、今日も残業じゃなかったっけ?」
「そうなんだけど。…う~~ん。じゃ、少し時間取れる?話し終わったら仕事に戻るから」
「え?急な用?週末じゃダメなの?」
「うん。できたら、今直ぐがいいんだけど」
「………。わかった」
「応接室来てくれる?あそこで待ってるから」
「え?う、うん」
なんだろう。なんか、岸和田さん、いつもと違う感じだった。
「どうしよう。さっきの、聞かれたよね」
「何を?」
「私がキレてでかい声で話したこと。岸和田もこっちを見ていたんだ」
「あ、ああ…」
ちらっと塩谷さんを見た。塩谷さんは何くわぬ顔をしてパソコンに入力している。
「嫌だな。別れ話だったらどうしよう。結婚なんか俺は考えていないとか、迷惑だとか、そんなことだよね。岸和田、顔、怖かったし」
「ど、どうだろう」
確かに、声低かったし、いつもと違ってた。
「はあ。ちょっと、行ってくる」
「私、待ってるよ」
「うん」
ファイルの整頓でもしようと、引出しをあけた。隣から北畠さんが、
「溝口さん、岸和田さんと別れ話?」
とまた、こそこそと聞いてきた。
「さあ?」
私は首を傾げた。
「岸和田さんは遊び人みたいだし、私としてはもっと真面目な人とのお付き合いを勧めるわね。結婚願望があるならね」
「そうですね」
それは私も同感だ。
「あなたも、今のうちに主任に報告したら?特に仕事残っていないんでしょ?面談終わる頃、溝口さんも戻ってくるんじゃない?」
「でも、主任、ほら、野田さんと話をしているし」
「魚住主任!」
げ!北畠さん、なんで勝手に呼ぶの?
「はい?」
佑さんがこっちを見た。
「桜川さんの面談、終わってないですよね。今、時間取ってほしいそうですけど」
「え?」
ほら、佑さん、困ってる。
「あ、ああ。はい。面談ですね」
嫌だよ。心の中ぐちゃぐちゃだよ。今、とても話なんてできないよ。北畠さん、なんだってそんなこと言うの?
「いいんですっ。忙しいでしょうから、私、明日でも明後日でもいいんです」
「明後日は土曜。明日だって主任、忙しいかもしれないし、とっととすればいいじゃない。どうせ、話なんて5分もかからないでしょ?」
そう冷めた口調で言ったのは、塩谷さんだ。
「……わかりました。野田さん、この企画、明日までにまとめてきてください。桜川さん、じゃあ、会議室来てもらえますか?」
「あ、は、はい」
「ちょっと1件メールを送るので、5分待ってください」
「は、は、はい」
うぎゃあ。逃げ出したい。どうしよう、どうしよう。こんな時に真広もいないし、どうしたらいいの?
5分が長かった。佑さんはパソコンを閉じ、デスクの上を片付けだした。でも、
「主任、ちょっとこれだけ確認なんですけど」
と、塩谷さんが声をかけ、佑さんと話をし始めてしまった。
心臓に悪い。ああ、帰りたい。胃も痛い。でも、ちゃんと返事。返事しないと。
ああ、グルグルする。また、塩谷さんに言われたことを思い出して、私なんかでいいの?とか、結婚に逃げるの?とか、そんなことを言い出している私がいる。
と、そこに真広が戻ってきた。それも、泣き顔だ。
「真広?だ、大丈夫?」
尋常じゃない。目も鼻も真っ赤で、ハンカチで覆っているけど、泣いているのが丸わかりだ。
ふられたのか。と、私も北畠さんも思った。他の男性社員も、一瞬真広を見て、表情を硬くした。
「話を聞いて。もう、帰れる?伊織」
「え?私、これから面談…」
いや、帰るって言っちゃう?佑さんだって、この真広を見たら、わかってもらえるかも。
「そうか。わかった。伊織も頑張って」
「……え」
頑張れって言われても…。
「あ、でも、私も主任に報告あるんだ。ちょっと、伊織と話をする前に、私も一緒に会議室行ってもいい?」
「うん」
報告?
なんの?
あれれ?なんか、真広、口元緩んでる?
え?
「すみません、お待たせしました」
真広の涙が引っ込んだ頃、ようやく佑さんが席を立った。
「会議室、行きましょうか」
「私も報告あるから一緒にいいですか?」
真広も椅子から立ち上がると、
「え?はい。じゃあ、先に溝口さんから」
と、佑さんは少し驚きながらそう答えた。真広の泣いた顔を見て、驚いたんだろうか。
「いえ。伊織も一緒に話を聞いてほしいから、一緒でいいです」
「…はい」
佑さんは不思議そうな顔をして、先に会議室に向かった。そのあとを真広が、その後ろから私は、とぼとぼとついていった。
真広の報告って、結婚の?まさかね。でも、それしか考えられない。
それより、私自身のことだよ。どう返事をする?どうしたらいい?
ダメだ。頭の中ぐちゃぐちゃだ。
「どうぞ」
私と真広を椅子に座らせ、佑さんも腰かけた。
「では、溝口さんからお話聞きますが」
「あのっ!月曜までに返事をすると言っていた件ですけど」
真広、声でかい。緊張しているのかもしれない。なんだか、いつもの真広と違う。
「はい…」
「今、返事をします。私、来年、辞めます」
「………え?」
佑さんが目を点にした。私は真広を見て、真広の目が輝いているから思わず、
「結婚?!」
とでかい声で聞いてしまった。
「うん」
「え?岸和田さんの話って、プロポーズ!?」
そう私が聞くと、真広は大きく頷いた。
「は?岸和田が、プロポーズ?!」
佑さんが、今度は目を丸くした。
「はい。さっき、応接室に呼ばれて、そこで話をして、それで」
「……あの、岸和田がプロポーズですか?」
同じことをまた佑さんが聞いた。
「私も信じられないんですけど」
「どうして?なんでそういうことになったの?」
私まで興奮してしまった。別れ話じゃなかったんだ。でも、なんでこんな急展開?
「さっきの、塩谷さんに対して言った言葉が、背中を押したみたいで」
「背中を?」
「うん。岸和田、結婚はまだいいかなとか言いつつ、私と付き合いながらずっと考えていたんだって。でも、なかなか決心できなかったらしくて」
「それが、さっきの溝口さんの言葉で、なんでまた?」
佑さんが、不思議そうにそう聞いた。
「えっと。よく私もわからないんですけど、私が結婚を望んでいるってわかって、ここはプロポーズするところだよなって、そう思ったらしくって」
「………」
佑さんは黙り込んだ。
「私も、岸和田さんと遊びで付き合っているとか、結婚なんて考えていないみたいな、そういう雰囲気出していたから、向こうも、本気で結婚考え出しているって言いにくかったようなんです」
「ああ、なるほど。それが、結婚したいって思っているってわかって、プロポーズしてきたってことですか」
「なんて岸和田さん、言ったの?」
他人事ながら、ドキドキした。つい、そんなことを聞くと真広は真っ赤になり、
「い、言わないよ。そんなこと。恥ずかしい」
と言われてしまった。
うそ!私の話は聞いたくせに、ずるい。と喉まで出かかったが、引っ込めた。真広に全部ばらしているってわかったら、佑さんが怒るよね。
「そうですか。おめでとうございます。じゃあ、人事にそう報告します。来年の3月まででいいですか?」
「いえ。そんなに早く式挙げないし、ボーナス出るまで待って辞めてもいいかなって」
「ああ、どうせなら、ボーナス欲しいですよね」
さすがだ。真広、ちゃっかりしている。
「…6月に結婚ですか?」
「それもまだ、何も。ただ、来年、結婚しようねくらいで」
「はい、わかりました。6月と言うことで報告しておきます。おめでとうございます」
佑さんはやけに淡々とそう言った。他人事だからか、すっごく事務的だなあ。
「……あの」
「はい?」
「同じ課の事務員がいきなり二人辞めても、大丈夫ですよね?」
「え?!」
真広の言葉に、佑さんはびっくりした声を上げた。
「あ、だって、ほら、ねえ?」
真広は私を見た。私は思わず視線を逸らしてそっぽを向いてしまった。
「…それは、大丈夫ですよ。ちゃんと新人に引き継ぎさえできたら、問題はないです。まあ、残った事務員の人がちょっと最初大変でしょうけど、他の課のみんながフォローもしますし」
「良かった。ね、伊織」
やめてくれ。真広。そういうことを言うの。
「どうせなら、伊織も6月まで」
「溝口さん、報告ありがとうございます。僕と伊織さんの話は、二人でしますので、退席してもらっていいですか?」
「え?あ、はい」
真広は、私に小さくウィンクをして、失礼しますと会議室を出て行った。
う、うわ。今、佑さん、「僕と伊織さんの話」って言った。面談とか言わずに、僕と伊織さんのって。
「びっくりですね、溝口さんには」
「はい」
ドキドキして顔、あげられない。どうしよう。
「………」
うわ~~。佑さんも黙っているし。どうしよう。間が持たない。何か言うべき?会議室がし~んとしてる。
「さて…と」
ドキン!佑さんが手に持っているプリントをガサっとめくった。沈黙が破られ、一瞬ビクッと私は跳ねてしまったかもしれない。
「来年度、仕事を続けるかどうかの、面談なんですが」
「は…はい」
「それよりも前に、返事を聞いてもいいですか?」
「え?」
ドキ。
「プロポーズの返事です」
きゃあ。ストレートに聞いてきた。
「………」
どうしよう。変な汗出てきた。汗は出てきても、言葉がまったく口から出そうにない。ええい、なんとか言え!伊織。
「あ、あの」
「はい」
「それですけど」
「……答えは?NO?もし、そうだとしても、覚悟します」
え?NO?
まさか、断るわけないよ。
だけど、YESって、どうして言えないんだろう。何で口から出てこないわけ?
「あ、すみません。今の、嘘です。ちょっと待ってください」
「は?」
佑さんのちょっと慌てた声を聞いて、思わず顔を上げて佑さんの顔を見てしまった。わあ、佑さん、顔が白くなってる。血の気が引いているみたいな。
「は~~~。すみません。生きた心地がしないんです」
「え?」
「伊織さんに断られることを考えたり、伊織さんを失うことを考えると、生きた心地がしないんです。本当は全然覚悟できていません」
「…え?」
「ぶっちゃけていいですか?」
「は、はい」
ぶっちゃけ?
「僕は、嫌われましたか?もう嫌になりましたか?」
「え?」
「なんで、考えさせてくださいだったんですか?それがわからなくて。なんか、ここ数日、そのことばかり考えてしまって、夜もちゃんと眠れていないんです。ああ、かっこう悪いですね、こんなことばらして」
「……うそ」
「嘘じゃないです」
佑さんは、頭を掻き、情けないっていう顔をしていたのに、今は私のことを真剣に見てる…。
佑さん、心の内をちゃんと話してくれたんだよね…。
じゃあ、私も。私もきちんと話さないと…。伊織、勇気出して!
「私、…結婚しないって言っていた佑さんが、いきなり結婚の話をしたから、わからなくて。私のどこがいいのかも、本当に私を好きなのかも、わからなくて、すぐに返事ができなかったんです」
「は?」
「私、自信もなくて。女子力ゼロです。腰掛けOLです。佑さんが嫌っていたような女性の代表みたいな、なんにもできない、結婚したらきっと旦那さんによっかかって生きていくような、そんな人間です」
「……」
「そんな私、嫌われるんじゃないかとか、そういうのも怖くて」
「……そんなこと考えていたんですか?」
「佑さんと私、釣り合っていないような…。塩谷さんとは本当に気が合っているように見えるし」
「塩谷は、仕事のパートナーですよ」
「だけど、すごく大事に思っているんだろうなって、今日も思ってしまって」
「どこがですか?あ、すみません。部下ですから大事と言えば大事ですが」
「…」
「でも、伊織さんのことも大事です」
「部下…ですし、私も」
「伊織さんのことは、すごく、だからですね」
「……」
「……」
しばらく佑さんが黙ってしまった。
気になって、ちらっと佑さんを見た。あ、なんか、汗かいてる。
佑さんは、額から流れる汗を拭き、
「こういうことを言うのは、慣れていないんです。すみません。でも、ちゃんと云います」
と、前置きのように言ってから、
「伊織さんのことは、すごく好きですよ。じゃなきゃ、プロポーズなんてしません。ずっと一緒にいてほしいって思っていますし、伊織さんとだったら、家族を持てると思っています」
と、そう言ってくれた。
「いえ。伊織さんとだったらって言うのは変だな。伊織さんと家族を持ちたい。家庭を築きたい。子供も欲しい」
え?子供も?そんなことも思ってくれていたの?
ドキドキ。なんか、佑さんが信じられない言葉を言ってくれてる。
「………。伊織さんがいないと、僕はどうも、ダメなんです…」
佑さんの表情が崩れた。そこまで言って、少しはにかむように俯いた。
「え?」
「心がぽっかり空いたみたいになる。ここのところ、話もできなかったし、ずっと、ちょっと、恋しくなってたって言うか」
え?
恋しく?!
「自分で思い知りました。伊織さんのことをどれだけ愛しているかって」
愛している?!
うそ。愛しているって、言った?!




