第43話 決意 ~佑編~
翌朝、少し寝坊した。いつもの電車にギリギリ駆け込んで乗り込んだ。気分はまだ最悪だ。
ドア近くに立ち、外をぼ~~っと見ていた。
二駅過ぎたところで、ホームに今宮さんが立っているのを発見した。
しまった。この車両に乗っていると、昨日ばれていたんだ。でも、もう遅い。今宮さんもドアが開き僕を見つけ、ニコニコ顔で乗ってきてしまった。
「おはようございます。やっぱり、いつもこの車両なんですね」
「いや、今日もギリギリだったから、階段近くで電車に乗ったんです」
そう言い訳をしたが、今宮さんはにこにこしたまま嬉しそうに僕の隣に立った。
今日は新聞も持っていない。今宮さんは、その後ずっと話しかけ、僕は仕方なく相槌を打った。
そして、ふっと伊織さんを思い出し、伊織さんのあのほんわりとした空気を懐かしくさえ感じた。
ああ、伊織さんに、癒されたい。
電車を降りてからは、
「すみません、急ぐので」
と、とっとと速足で階段を降りた。
会社に着くと、まだ人も少なく静かだった。僕はほっとしながらデスクに着き、パソコンを開いた。そこで、昨日の夜メールが来ていたのに気が付き、それを開くと△△機械の営業が一緒に仙台支店に来てくれないかという依頼のメールだった。
チャンスだな。××電気の商品を扱っているそうだが、またうちの商品を使ってもらえるかもしれない。
僕はすぐに電話をした。営業の担当者はすでに出社をしていて、今日一緒に仙台支店に行くことが決まった。
「おはようございます、主任」
「来てそうそう悪いが塩谷、出張だ」
「え?」
「△△機械、取引再開させるぞ」
「あ、はい!」
9時、ギリギリに伊織さんが溝口さんとデスクに着いた。いつもなら、注意をするところだが、今は急いでいる。塩谷と僕は、二人でオフィスを後にした。
「……」
ちらりと、部屋を出る時に伊織さんを見た。なんだか、元気がないように見える。
「はあ」
小さなため息をつき、塩谷とエレベーターに乗り込むと、
「どうかしたんですか?」
と塩谷に聞かれた。
「なんでもない。少し疲れているだけだ」
「大丈夫ですか?」
「ああ。明日はうちの栃木工場にも寄ってくる。塩谷は今日日帰りでいいぞ」
「私も行きます」
「そうか?」
そのあとは、駅に着くまで仕事の話をした。だが、仙台までの電車の中では、
「悪い、寝かせてくれ」
と言って、僕は眠った。
塩谷は、大人しく隣で資料を読んでいた。そのうち、塩谷も眠ったようだった。
僕は眠れなかった。時々目を開け、塩谷を見た。塩谷には申し訳ないが、伊織さんを思い出した。
隣にいる人が出している空気みたいなものってあるよな。存在感って言うのか?ただ、そこにいるだけで安心できたり癒されたり。伊織さんのあったかさは、なんなんだろうな。
思い出しては恋しくなる。
まいったなあ。
離れれば離れるほど、愛しくなる。会いたくなる。切なくなってくる。
忙しく仕事をしているうちは、伊織さんのことは忘れられた。仙台で△△機械の営業マンと夕飯を食べ、一緒にビジネスホテルに向かった。それぞれが、各々の部屋に行き、僕はやっと一人になれた。
「はあ…」
ドスンとすぐにベッドに横になった。疲れた。
伊織さんの声が聴きたいという衝動に駆られたが、電話をする勇気も出ず、ふらふらと立ち上がり、シャワーを浴びた。
ブルル。ブルル。バスルームから出ると、携帯が振動していた。伊織さんかと思い慌てて出ると、塩谷だった。
「お疲れ様でした」
「ああ」
「少し、どこかに飲みに行きませんか?」
「もう、シャワーも浴びた。疲れているから寝るよ」
「え?でもまだ、10時ですよ」
「今日の報告書も作りたいんだ」
「……わかりました。じゃあ、私もそうします」
「ああ。明日も早いぞ。寝坊はするなよ」
「はい」
塩谷は電話を切った。なんだか、塩谷の態度が変わった気がする。前の方がもっと強引と言うか、しつこかった。
パソコンを開き、早速報告書を作り出した。そして、12時前にはベッドに潜り込んだ。
翌朝、7時に朝食を食べに行った。塩谷は10分遅れてやってきて、
「すみません。アラーム鳴っていたのに気が付かなくて」
と、謝った。
「まだ、時間はあるから大丈夫だ」
そう言って僕は、コーヒーを飲んだ。塩谷は少し慌てた様子で、朝食を食べた。
「あれ?△△機械さんは?」
「今日は別行動だ。彼はまた仙台工場に行くらしいぞ」
「そうなんですね」
「栃木工場には初めて行くだろ?うちの課が扱っている商品は、ほとんどが栃木工場で出荷している。僕は過去2回行ったことがあるが、あそこの工場長と、そのすぐ下で働く男がやっかいなんだ。この前も桜川さんが、急ぎの注文をしたのに取り合ってくれなかった」
「それ、桜川さんのやり方が悪かったんじゃないんですか?」
「いいや。桜川さんは、ちゃんとやってるよ。女性だからって、甘く見られたんだ。だから、塩谷のことも軽くあしらわれるぞ。覚悟しておけ」
「え?女性に対して偏見があるんですか?今時?!」
「うちの会社はまだまだ男社会だ。実際、課長以上に女性はいないだろ?」
「そうですけど」
「主任クラスなら、何人か女性がいるが…」
「そうですね。でも、私は上を狙いますよ。課長にだって、部長にだってなってやる」
「頼もしいな。まあ、頑張れよ」
「はい」
「塩谷らしくなったな」
「え?」
「昨日から、なんだか大人しかったからさ。気になっていたんだ」
「気にしてくれたんですか?」
「まあな」
「いつもの…、今迄の私の方がいいですか?」
「ああ。そうじゃないと張り合いがない」
「わかりました」
そう言うと塩谷は嬉しそうに笑った。
栃木工場に行くと、
「11月から移動がありまして」
と、今迄の担当者と新しい担当者が挨拶をしてきた。今迄、受注を担当していた人は、静岡工場の主任になるらしい。
「桜川さんにもお世話になったと、お伝えください」
「はい。こちらこそ、今迄ありがとうございました」
そして、新しい担当者とも挨拶を交わした。30歳を超えた人だが、やけに腰が低い。年下である僕にへこへことお辞儀をする。が、塩谷が挨拶をすると、途端に態度を変えた。
工場長もそこにやってきた。しばらく応接室で話をしたが、やっぱり、この工場長も塩谷に対しては、話しかけもしない。
隣で塩谷がキレかかっているのがわかったが、キレる前に、
「では、これで失礼します」
と、応接室を出た。
「なんなんですか、あれ」
塩谷は応接室から出てから、かんかんに怒りながら言ってきた。
「だから、言っただろ?」
「失礼ですよ。完全に私、無視されてました」
「だから、昨日帰っていいと言っただろ?」
「それで、帰れって言ったんですか?」
「でもまあ、こういう工場なんだって、塩谷も知っておいたほうが良かったかもな」
「なんか、むかつく」
「女性が管理職としてやっていくのは大変だぞ。ここの工場長みたいな人は、まだまだ会社に多いからな」
「主任みたいな人が上司で良かったです。本当にそう思う」
「そうだな。僕はどっちかっていったら、仕事をする女性を応援したい方だからな」
「だからこそ、なまぬるく仕事している女子社員が嫌いなんですよね」
「…。まあ、そうだったが」
「え?」
「いや。塩谷は頑張れよ。応援するし、実際お前が困っている時には助けるから」
「……はい。ありがとうございます」
帰りの電車で、塩谷はずっと嬉しそうに話をしていた。
「やっぱり、主任は素敵です」
「ん?」
「私は本当に名古屋で主任と出会えてよかったです」
「そうか」
「主任の前の上司も、女性に対して偏見はなかったんですけど、でも、ちょっと脂ぎってる感じで」
「ああ、あの人ね。僕と交代で大阪支店に行ったね」
「私、ちょっと苦手だったんです」
「僕が最初に名古屋に行った時、塩谷は嫌そうな顔をしていたけどな」
「あ、わかりました?だって若いし、頼りない感じがしたんですよ。全然違っていましたけど」
名古屋での思い出話に花が咲き、帰りの電車は賑やかだった。
社に戻ると、△△機械から連絡が入っていた。値段交渉だ。
「塩谷、作戦練るぞ」
そう言って塩谷を呼び、会議室で作戦を練った。
5時半、会議室を出てデスクに戻った。伊織さんは今日も残業をせず、溝口さんと帰って行った。
もう3日、伊織さんとは口をきいていないな…。
「主任、ご飯食べて帰りません?」
「そうだな」
塩谷と近くの定食屋に行った。
塩谷はビールも飲み、ご機嫌だった。だが、珍しく駄々をこねずに、あっさりと家に帰って行った。
飲んでいる間中、主任と出会えてよかったばかりを繰り返し、ずっと私は主任について行きますと最後には目を潤ませていた。
塩谷だったら、頑張って出世していくんだろうな。仕事一筋で、一生を終えるのかもしれない。
じゃあ、僕は?
伊織さんと出会う前、僕が描いていた未来は、常に一人だった。一人を楽しむ人生。仕事を楽しむ人生。
だが、今は、未来を考えるとそこには、伊織さんがいて、子供までいるんだろうと想像ができる。家族で過ごす週末。旅行に行ったり、運動会とかにも参加したり…。今迄だったら、絶対に想像することのない世界を、今は想像している。
伊織さんとだったら…。なんでだか、容易にそんな未来が想像できてしまう自分がびっくりだ。
だけど、結婚したらの話だ。そうだ。まだ、伊織さんから返事をもらっていないんだ。
「はあ」
家に帰り、電気をつける。しんと静まり返った部屋には、もうどこにも伊織さんの匂いも、存在感もなかった。
この前まで、しょっちゅう伊織さんはうちに来ていたのにな。
ソファの真ん中に腰を下ろす。隣に誰もいないことが、心地よかったのに今は違う。なんとなく寂しい。
「やばい。めちゃくちゃ、伊織さんが恋しくなってる」
風呂に入り、ベッドに寝っころがった。このまま、伊織さんが僕から離れることになったら…。
暗いな。ここ数日、そんなことばかりが浮かんできてしまう。
携帯を手にした。メールか。いや、電話を思い切ってしてみるか。
何も用事があるわけじゃない。ただ、声が聴きたい。それだけで電話をしたら迷惑がるだろうか。
それとも、電話なんてしたら、返事の催促をしていると思われるだろうか。伊織さんに変なプレッシャーを与えてしまうんだろうか。
なかなか眠れなかった。2時を回った頃、ようやく僕は眠りに着いた。
翌朝、やっぱり食欲がなく、コーヒーも飲まずに家を出た。また、今宮さんに話しかけるのは面倒なので、早めに駅に着き、乗る車両を変えた。
会社に着いてから、自分でコーヒーを入れに行き席に戻ると、
「あ、コーヒー、入れてきたのに」
と、ちょうどデスクに着いた塩谷に言われた。
「早いな」
「はい。なんか、早くに目が覚めちゃって」
なるほど。やる気満々ってわけか。
「報告書、早めに頼んだぞ」
「もうできています」
「やる気満々だな」
「はい」
ちょっと元気のない顔をしていたが、すっかり元気を取り戻したみたいだな。
「魚住君、出張ご苦労様。今日はプロジェクトのほうで午後から会議があるからね」
課長にそう言われ、はいと頷いた。
8時58分。伊織さんと溝口さんが席に着いた。
「遅いですよ」
一言そう注意をすると、溝口さんが、
「あ…。すみません」
と、少し驚いたように返事をした。だが、伊織さんからは何も返答がなかった。
顔を上げ、伊織さんを見てみると、黙ったまま一点を見つめていた。なんだか、ちょっと様子がおかしいようにも見える。
ものすごく気になった。どうかしたんですか?と口から出そうになったが、なんとかその言葉を飲み込んだ。
「そうだ。魚住君、もう事務員の面談終わった?」
「え?あ、まだです」
そうだった。課長に言われ、思い出した。
「悪いけどさ、明日までに3人に聞いておいて」
「はい」
10時を回り、まず北畠さんに声をかけた。応接室が空いていたので、そこに北畠さんと入った。
「すみません、少しお時間いいですか?」
「はい。あれですよね。いつもこの時期に聞かれる…」
ああ、わかっていたのか。じゃあ、話は早い。
「はい。人事から要請がありまして。北畠さんは来年度、辞める予定はありますか?」
「ないですよ。今のところ…」
「はい、わかりました」
あっさりと終わってしまった。一応、世間話でもしておくか。
「事務員の人事異動はないと聞いています。僕の移動もないので、また来年度もよろしくお願いします」
「こちらこそ」
「でも、本当は僕の部下ではないんですよね。いろいろと北畠さんに用を頼んでしまって申し訳ない」
「そんな!同じ課なんですし、用を申し付けてもらっていいんです」
北畠さんはそう言ってから、少し間を置き、
「主任は、その…、結婚の予定はあるんですか?」
と、唐突にそんなことを聞いてきた。
「ないですよ」
今のところは…。心の中で続きを呟いた。
「そうですか。良かった」
「え?」
「あ、すみません!ちょっと、課の中で噂があって。その…。部長の娘さんと結婚するとか、そういう…」
「ないです。それは絶対にありませんので」
僕ははっきりとそう言った。
そんな噂があるのか。それ、伊織さんの耳にも入っているんだろうか。
いや、伊織さんはあの車に乗っていたんだし、僕と菜穂さんが付き合ったりしないこともわかっているんだから大丈夫だよな。
とりあえず、北畠さんとの面談は終わった。伊織さんは最後にして、次は溝口さんだな。
溝口さんが済んだら、伊織さんだ。
伊織さんは、なんて言うんだろうか。来年度も仕事続けます…ともし言ったとしたら、結婚はしないっていうことか?
いや。伊織さんの気持ちを、ちゃんと聞かないと。この面談で…いや、その前に一度ちゃんと話をして。
じゃあ、伊織さんとの面談は、ギリギリまでしないでおくか。
その前に、今日の夜にでも食事に誘って、ちゃんと伊織さんの気持ちを聞こう。
僕の気持ちも、まだまだ伝えきれていない。ちゃんと、伝えないと…。いい加減、勇気出せよ、佑。




