第42話 勇気が出ない ~佑編~
断られたわけじゃない。まだ、可能性はある。
そう思えたら、少し、いや、かなり気持ちが上がった。
「ちゃんと、考えてくれるってことですよね?」
塩谷の言葉にハッとした。考えるってことは、可能性があると塩谷に期待を持たせることになるんだよな。そんな宙ぶらりんなことはできない。
「塩谷、悪い。曖昧なことを言ってしまってすまない。僕は塩谷をそう言う対象で見ることはできない」
頭を下げ、きっぱりとそう言った。塩谷は何も言わなかった。
顔を上げて塩谷を見た。塩谷は、必死で泣くのを我慢しているようにも見えた。
「ごめん…。塩谷は僕にとって、あくまでも仕事のパートナーなんだよ。塩谷と一緒に仕事をするのは楽しいし、頼りにしている。性別を超えているんだ。今迄もこれからも、部下としてしか見れないと思う」
「…私は、上司としてものすごく尊敬して、ずっとついていきたいと思っていました」
「…ああ」
「でも、それって、男性としても好きなんだなって、そう思ってきました」
「……」
「だけど、主任は結婚とかまったく考えていないし、女性として見られていないっていうのもわかっていたし」
「…ああ」
「それでもいいやって思っていたけど…、けど…」
塩谷の目が潤んだ。
「部長の娘さんとの縁談話が浮上してから、私、主任が誰かと結婚しちゃうなんて、絶対に嫌だって思えて。その相手が私だったらいいのにってそう思えて」
「………。確かにずっと結婚はしないと言っていた。自分自身、ずっとそう思っていた」
「考えが変わったのは、部長の娘さんが原因ですか?なんで?出世に関わってくるから?」
「違う」
「じゃあ、なんで?」
「……一人より、二人の方がいいものなんだってわかったからだ」
「…それって、そういう相手がいるってことですか?」
「ああ」
「誰ですか?」
「それは言えない。だが、そういう相手がいるから、塩谷の気持ちにも応えられない」
「……」
「すまない」
「……わかりました」
塩谷はそれだけ言うと、鼻をすすり、突然立ち上がった。
「でも、結婚しないと言っていた主任の考えが変わったってことは、今後もまた変わるかもしれないですよね?」
「え?」
「お休みのところ、すみませんでした。それじゃあ」
塩谷はそう言って、颯爽とお店を出て行った。
どういうことだ。
もしかして、諦めないっていうことか?
「……はあ」
まいったな。なんだか、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
塩谷は、部下以上でも以下でもない。女性にしては、どんなに大変なことがあってもついてくる、芯の強い人間なんだと思っていた。その辺の男性社員より頼りになる部下だと思っていた。
他の女性社員からは嫌われていた。男の中でバリバリと仕事をしているから、女性社員から敬遠もされていたし、男性社員も、彼女を疎ましく思っていたものもいる。
だからこそ、僕は女性として特別扱いをしたこともない。他の男性社員と同じように厳しく接した。
それにずっと塩谷は応えてきた。だから、僕のことは上司としか見ていないものだと思っていた。
いや、たまに感じた。それ以上に僕を頼っている時があることも感じていた。だが、そういう時はあえてつっぱねた。
僕は、塩谷を女性として見ていない。部下としてしか見ていない。というのを、塩谷にわからせるように。
それを塩谷はちゃんと、わかっていた。だから、それ以上の関係にはならなかった。
女性として見たとしたら、今迄のように接することはできなくなる。男性社員のように、他の部下と同じように接してきたから、仕事のパートナーになっていたんだ。
「はあ…」
伊織さんのことで頭がいっぱいだったのに…。
冷めたコーヒーを飲み干すと、僕は店を出た。スーパーで食材を買い、そのままぶらぶらとマンションに帰った。
やる気のないまま、適当に掃除をして、そのあとは、仕事に没頭した。持ち帰った仕事はいくつかある。それらを終わらせ、夕飯も簡単なもので済ませ、風呂に入ってさっさと寝た。
翌朝も気は重いままだ。食欲がまだないので、朝はコーヒーだけで終わらせた。家をいつもの時間に出て、いつものように電車に乗り込む。でも、つい同じ車両に伊織さんがいないかと探してしまう。
いないか…。伊織さんはもう1本遅い電車だもんな。
そして、ぼ~~っと電車に乗っていると、後ろから肩を叩かれた。
「主任、おはようございます」
伊織さんかと思い、驚きながら振り返った。すると、経理の今宮って女性が立っていた。
一気に気持ちが沈んだ。
「おはよう」
事務的に返事をして、僕はすぐにまた窓の外を見た。
「いつも、この車両なんですか?」
「……今日は、たまたまここです」
毎朝、声をかけられるのが嫌でそう返事をした。
「朝から主任に会えて、嬉しいです」
「………そうですか」
できたら、声をかけてほしくなかったが…。
「一昨日はお疲れ様でした」
「お疲れ様です」
「楽しかったですね」
「そうですか?」
「え?愉しくなかったですか?主任、体動かすの嫌いとか」
「いや…。そういうことじゃなくて。けが人も出てしまったので、楽しめませんでしたよ」
「部長の娘さんのことですか?」
「はい。あと、桜川さん…」
「主任の車で送ってあげたんですよね。いいなあ。私も怪我したらよかった」
なんだって?なんでそんなこと無責任に言えるんだ。
「怪我したらよかっただなんて言わないほうがいいですよ。怪我した本人は、怪我したかったわけじゃないし、本当に痛がっていたんですから」
「あ、すみません。えへ」
えへ?!
なんだか、イライラする女性だ。
「すみませんが、朝、読む時間がなかったので、新聞を読ませてもらいます」
僕はそう言うと、カバンに押し込んだ新聞を取り出し、カバンは棚の上に置き、その場で新聞を読み始めた。さすがに、今宮さんはもう話しかけてこなかった。
電車を降りてからも、
「お先に」
と一声かけ、僕はさっさと階段を降りた。そして、改札を抜け、颯爽と会社に向かった。
会社に着くと、驚いたことにすでに塩谷がいた。
「おはようございます、主任」
「おはよう」
「昨日はすみませんでした」
おや?
「あの…。昨日のことはあまり気になさらないでください。これからも、部下としてちゃんとしごいてほしいですから」
「わかった」
僕はクールにそう答え、上着をハンガーにかけ自分の席に着いた。内心はほっとしていた。
今後も、あんな話をしてくるようなら、一緒に仕事をしていくのもどうかと思っていた。
「おはようございます」
パソコンを開き、メールのチェックをしていると、北畠さんが挨拶をしてきた。
「おはようございます」
そう答えると、
「主任、コーヒー入れてきましょうか?」
と聞いてきた。
「いえ。今朝飲んできたのでいいです」
そう答え、僕はまたパソコンの画面を見た。
伊織さんはまだ来ていない。今日もギリギリに来るのかもしれない。
はあ…。自分でも気が付かないうちにため息がこぼれた。
「お疲れですか?」
いつの間にか席に着いた野田さんが聞いてきた。
「あ、おはようございます」
僕は野田さんにそう答えた。
「部長の娘さん、怪我大丈夫でしたか?」
「あ、そう言えば、怪我の具合、聞いていませんでした。あとで、部長に聞いてみます」
「じゃあ、桜川さんは?」
ドキ。
一瞬、僕の眉が動いた。それを自分でも自覚した。
「あ…。手当てはしました。擦りむいていたけど、大丈夫だと思います」
無理やり、僕は笑顔を作った。そしてすぐにまた、パソコンの画面を見た。
「そうですか…」
野田さんはそう言ってからもしばらく、僕の方を見ていた。何か聞きたそうにしながら。だが、僕はすぐにファイルを出し、いかにも忙しく仕事をしているんだ…という雰囲気を醸し出した。
「主任、今度訪問しようとしている△△機械なんですが」
そこに資料を持って塩谷が来た。助かった。野田さんにあれこれ突っ込まれずに済んだ。
「なんだ?」
「7年前まで、うちと取引があって、その後、どうやら××電気と取引を始めたようなんです」
「ああ、それは田子主任からも聞いていた」
そんな話を塩谷としていると、
「おはようございます」
と、いつものように溝口さんがやってきた。
「やあ、怪我はどう?大丈夫?」
とそのすぐあとに、課長が桜川さんに聞いた。あ、桜川さんも知らない間に来ていたのか。
「ご迷惑をかけました。もう、大丈夫です」
桜川さんはわざわざ席から立ち、みんなに頭を下げた。
「大丈夫?病院行った?」
塚本さんが聞いた。
「いえ」
「行かなかったの?」
塚本さんはやたらとでかい声を出したが、伊織さんはすぐにパソコンを開き、仕事を始めた。
そのあと、桜川さんのところに部長が行き、怪我の具合を心配して聞いていた。僕はすかさず、まだ僕のデスクの横で仕事の話をしている塩谷に、
「おい。部長に謝ったほうがいいぞ」
と、そう小声で言った。
「あ、はい」
塩谷は珍しく、素直に部長に謝りに行った。いつもなら、一言二言何か文句を言ってから行きそうなもんなのにな。
それにしても、さっきから伊織さんが見れない。だけど、僕はものすごく伊織さんを気にしている。
「魚住君」
課長の声も聞こえないほどに、僕は伊織さんに集中していた。そして、
「魚住君、仕事に集中しているところ悪いが、いいかな」
と、デスクの前にプリントを置かれ、やっと話しかけられていることに気が付いた。
「あ、課長」
「人事から、課の女性の来年度の予定を聞いてほしいと依頼があってね、せかして申し訳ないんだが、今週中に事務の子たちと面談してくれないかな」
「…え?」
「来年度も引き続き、仕事を続けるかどうかだよ。毎年、この時期に主任から聞いてもらっているんだ」
「あ、はい」
「詳しいことはこのプリントに書いてある。2枚目に今後の予定を記入するところがあるから、それは来週月曜にでも人事に提出してくれ。じゃあ、頼んだよ」
「はい」
…そうか。結婚退職など、退職する予定があるかどうか聞くんだったな。
…伊織さんにも聞かないとならないのか。これはかなり、憂鬱だ。
午前中は来客があり、ずっと席を開けた。お茶は北畠さんが持って来てくれた。午後は、野田さんと塩谷と外回りだった。会社に戻ったのは5時を過ぎていて、報告書の作成で忙しくしていて、事務員との面談はできなかった。
5時半、伊織さんと溝口さんは「お疲れ様でした」と、すぐに席を立ち、帰ってしまった。残った北畠さんは、
「主任、コーヒーでも入れましょうか」
と聞いてきてくれた。
「いいえ。仕事が終わったのであれば、どうぞ退社してください。僕は飲みたくなったら自分で入れますから」
そう言うと、残念そうな顔をして帰って行った。
「北畠さん、よっぽど主任にコーヒー入れたいんですね」
そうぼそっと口にしたのは、野田さんだ。
「……そうですね」
「僕になんて、過去一回だってコーヒー入れましょうかなんて聞いたことないですよ」
「……」
何と答えていいのやら。
「主任、終わりました」
そんな無駄話をしている間に、塩谷は報告書を作成し、
「帰りにご飯食べていきませんか?」
と誘ってきた。
「今日はまっすぐ帰るよ。疲れたし」
「疲れて帰ったって、自分でご飯作るんでしょ?大変じゃないですか」
そんなことを塩谷は言ってきた。
「いや。料理をするのは、ストレス解消になるからいいんだ」
「へえ。そんなじゃ、奥さんいらないですね」
のほほんとした顔で、野田さんがそう言った。
「……」
それにもどう返事をしていいかわからず、僕はパソコンを打ちこんでいた。
はあ…。結局今日は一回も伊織さんと会話をしていないじゃないか。
朝から、喉の奥に何かが引っかかったような、胸に重い何かが乗っかっているような、モヤモヤしたものが消えることもなく1日が終わった。
いつまで、待てばいいんだろうか。
いつ、返事をしてくれるんだろうか。
いや、返事をもらう前に、一回、ちゃんと伊織さんと話したほうがいいんだよな。そう考えると、ますます胸にもやもやしたものが広がって行った。




