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第40話 菜穂さん ~佑編~

 ちら。またバックミラーで伊織さんを見た。伊織さんは窓の外をずうっと見ている。

「すみませんが、部長が言うように、僕以外のもっといい人が現れますよ」

 僕は、ほとんど心もこもっていないようなことを菜穂さんに言った。それよりも、伊織さんが今いったいどんなことを思い、どんな表情をしているのかが気になる。


「いいんですか?」

「え?」

 突然、そう切り出され、僕はびっくりして菜穂さんの方を注目した。

「父は、佑さんのことを気に入っていたんです。佑さんのことを東京に呼んだのは父なんですよね」

「はい」


「私との縁談、断ってもいいんですか?出世に関わってきますよね?」

 なんだ?それはまさか、脅しているのか。

「じゃあ、逆に聞きますが、菜穂さんはもし僕が出世のために菜穂さんと結婚してもいいんですか?」

「いいです」


 え?

 後部座席からも、小声で「え?」という声が聞こえた。

「最初のきっかけなんてどうでもいいんです。結婚後に、佑さんが私を大切にしてくれたら」

「いえ。そういうのは、ちょっと違うと思いますが」


「佑さん、真面目だから、きっと大切にしてくれるって父もそう言っていたんです」

「菜穂さん。悪いんですが…」

「佑さん、答えを出すのは待ってください。私と付き合ってから、それから答えを出してください。私、尽くします。佑さんのために頑張ります」


「だから。僕のことはほとんど知りませんよね?なのに、なんだってそんなこと、言い切れるんですか」

 ほとんど僕は、呆れた声でそう聞いた。

「直観です」

「はあ?」


 なんなんだ、それは。

「僕は、部長にはっきりと断りました。菜穂さんとは付き合えません。僕には付き合っている人がいますから」

 あまりにも、菜穂さんがしつこすぎて、思わず僕はそこまで話してしまった。そして、ハッと我に返り、バックミラーで伊織さんを見た。


 勝手にばらしたが、よかったのか?

 いや。うやむやにするより、はっきり言ったほうがいいよな。


「そんなこと、この前は言っていませんでした」

「いつ…。ああ、部長の家に行った時ですか。確かに、その時はそんな話しませんでしたが」

 まだ、伊織さんとも付き合っていなかったしな。

「結婚も考えているんですか?その方と…」

 

 震える声でそう聞いてきた。そんなこと、まだプロポーズだってしていないんだ。こんなタイミングで言いたくはない。だが…。

「………」

 僕は言うかどうかを迷った。


 バックミラーで伊織さんを見ると、まだ外を見ていた。でも、横顔が不安そうに見える。

「結婚も考えているから、私とのお付き合いもできないんですか?それとも、結婚を考えていないなら、私とも…」

「それ、二股かけろっていうことですよね。そういうこと自分がされて、嫌じゃないんですか?」

 そう僕は話の途中に言葉を遮り、聞いていた。


「はい。私か、そのお付き合いをしている人か、付き合ってみて決めてもらっても構いません」

 なんなんだ。この人は。自信でもあるのか。なんだって僕にそんなに執着するんだ。付き合っている人がいる。それだけで十分だろ。


「僕は、そういうのはできません」

「そういうのって?」

「同時に二人の人と付き合うことです。天秤にかけるようなまねもできません」

「…真面目なんですね」


「真面目とか、そういうことよりも、今、付き合っている人を悲しませたくないですし、大事に思っていますし…。他の人と付き合うことなんか、考えられませんから」

 思い切り本人がいる前で、惜しげもなく僕はそう言った。こんな時じゃなかったら、とても恥ずかしくてそんなこと言えないだろう。


 でも、今は恥ずかしがっている場合じゃない。

「そんなに、大事なんですか?」

「はい」

「…その人のどこがいいんですか?家庭的?尽くしてくれる?女らしい?そういう人ですか?」


「………。どういう人かと言われても、一言で言えませんが…」

「どこに惹かれたんですか?」

 本人がいるのに、そんなこと言えるか…。


「どことか…。そういうのも…」

「じゃあ、なんでその人がいいんですか?なんで、私じゃダメなんですか?」

 食い下がるな。もっと大人しくて、静かなイメージがあるのにな。


「好きになるのに、理由なんかないですよ。知らぬ間に惹かれていたっていうのもあるでしょう」

「私もです。理由なんてなくて、佑さんのことが…」

「しいて言うなら…、癒されるんです」


 僕はまた言葉を遮り、そう言った。助手席に座っている菜穂さんは、僕の横顔をじっと見ながら黙り込んだ。

「私は?」

「癒されません」

「……でも、私は」


「僕も多分、菜穂さんのことを癒せていません」

「癒しを求めているんですか?」

「…一緒にいて、あったかくて幸せになれる人がいいですよ。やっぱり…」

 そう言ってバックミラーを見た。あ、伊織さん、俯いているけど、顔が真っ赤なのがわかる。


 そりゃそうだよな。こんなこと暴露して、そりゃ照れるよな。僕だって今、顔が赤くなるのを必死に抑えている。


「家庭的な方なんですね」

「う~~~ん。どうかな。そういうのも関係なくして、一緒にいてあったかい人ですよ」

「あったかい……」

 菜穂さんはぼそっとそう言うと、黙り込んだ。


 しばらく、車内は沈黙が続いた。僕は、照れくさくなり、もう伊織さんを見ることもできない。ただただ、前を向いて運転した。


 菜穂さんも黙っている…、と思ったら、手で頬を拭っていた。まさか、泣いている?

「菜穂さん?」

 びっくりして名前を呼ぶと、菜穂さんは俯いたまま、

「本当は、私だって、私だけを大切にしてくれる人がいいんです」

と言い出した。


「じゃあ、僕ではなく、菜穂さんだけを大事に思う人と結婚してください」

「…無理です」

「は?」

 ボロボロと菜穂さんは泣き出した。


 ああ、泣いている女性が一番苦手だ。優しい言葉をかけることもできないし、かと言って無視もできない。

「すみません、泣いちゃって」

「…いいえ」


「あ、あの」

 後部座席から、伊織さんが小さく菜穂さんに声をかけた。

「これ、どうぞ」

 伊織さんの手には、ハンドタオルがあった。

「使っていないから、綺麗です」


 伊織さんはそう付け加え、助手席に手を伸ばした。

「すみません」

 菜穂さんはそう言って、そのハンドタオルを受け取った。そして、それで涙を拭きながら、

「私、昔から男を見る目がないんです」

と、また話し出した。


「男を見る目がない?」

 僕はそのまま聞き返した。

「最初に付き合った人は、私のほかにも彼女がいました。その次の人は、3か月で浮気され、その次の人は、付き合って半年して、奥さんがいるってわかりました」


 …悲惨だな。男を見る目がないというか、男運がないというか。

「そして今も。奥さんがいる人と付き合っています」

「え?!」

 今のは僕の声ではない。伊織さんの驚きの声だ。


 菜穂さんは、後部座席の方に顔を向けた。そのあと、僕の顔を見ると、

「ごめんなさい。不倫の関係なんて良くないって思いながらも、付き合っていました。でも、もう別れようと思っているんです」

と謝った。


 そのあと、菜穂さんは静かに、僕との結婚をしたい理由を泣くのを我慢しながら話してくれた。

「つまり、今の彼と決別したかったから、僕と結婚するんですか?」

「はい。別れるって決心しても、なかなかできなくて。ずるずると1年たってしまいました」

「そんなに?」


「はい。もちろん、両親には言えないから、両親はそろそろ結婚を考えたらどうだって…。私も、今の不倫の関係を終わらせたかったし、父が仕事ができる、真面目でいい青年がいるって言うから、その人だったら私を大事にしてくれるかなって、そう思って…」

「…僕と結婚したら、今付き合っている人と別れられると思ったんですか?」


「はい。こんな関係をずるずると続けるのも、終わりになるだろうと思いました」

「…それ、僕じゃなくてもいいんじゃないんですか?」

「そうかもしれません」

「それに、誰かと結婚しないでも、別れるって決めたらいいだけだし、逆に言えば、結婚をしてもその人と関係が続く可能性もあるんじゃないですか?」


「……」

 僕の質問に、また菜穂さんはボロボロと泣き出した。

「もしかして、その彼というのは今日来ていた菜穂さんの上司ですか?」

「え?なんで、それ!」

 頬をハンドタオルでおさえながら、菜穂さんは僕を見た。


「やっぱり」

 どうりで、あの上司、そういう雰囲気を醸し出しているはずだ。

「なんとなく、わかったんです。あの上司の口調とか、目とか、雰囲気とか、そういうので」

「佑さんって、勘がいいんですね」


「勘がいいって言うより、僕と同じ何かを感じたんですよ」

「え?!佑さんも不倫を?」

「僕は独身です」

「じゃあ、浮気…」


「していません。さっきも言いましたよね?付き合っている女性を大事に思っているので、浮気なんてしたりしません」

 僕はそうきっぱりと断言した。

「そ、そうですよね。父も魚住君なら浮気の心配もないだろうし、安心だって言っていました。あれ?じゃあ、同じ何かって…」


「単なる部下を思う雰囲気と違っていたんですよ。それ以上の何かあるなって、ピンときました」

「………っていうことは、佑さんも部下の方と?」

 ドサ。後部座席から何かが落ちる音がした。バックミラーを見ると、伊織さんが膝の上からカバンを落とし、おたおたとしている姿が見えた。


 慌てたんだな。菜穂さんの言う言葉に…。まったく、可愛いよなあ。

「そうですよ。いずれ、部長から菜穂さんに、話す時が来るかもしれないですね」

「部下の方…。同じ課の方?今日もいらしていましたか?」

「僕のことはいいですよ。それより、菜穂さん、ちゃんと今の彼と向き合ったほうがいいんじゃないですか?」


「……向き合うも何も…。私は、やっぱり私だけを愛してくれる人を見つけます」

「そうですか?」

「やっぱり、私は佑さんの彼女が羨ましいです。その方、幸せですね」

 僕はちらりとバックミラーで伊織さんを見た。あ、真っ赤になって俯いている。


「あ!でも、今日いらしていたのなら、こんなふうに私を送って行ったりして、その人嫌な思いをしていませんか?もしかして、変な誤解をしていたり」

「大丈夫です。誤解はしていないと思います」

「どうして?信じてくれているっていうことですか?」


「………。う~~~~ん。そうですね。まあ、僕が彼女を大事に思っているっていうのは、伝わっていると思いますよ。今も、きっと」

 そう言うと、後部座席の伊織さんは、両手で顔を隠してしまった。

 照れてる?

 まさか、泣いてる?


 菜穂さんは、いろいろとすみませんでした、とまた謝った。そして間もなく、車は菜穂さんの家に到着した。

「怪我をさせてしまったので、部長に挨拶したほうがいいですね」

「大丈夫です」

「でも、カバンを持つのが大変ですよね。持っていきますよ」


 そう言って僕は、車を降りて菜穂さんの荷物を持った。それから、後部座席の窓をノックし、伊織さんが窓を開けると、

「助手席に移動して待っていてください。すぐに戻ります」

と小声でそう言った。伊織さんの鼻の頭と目は赤かった。


「泣いていたんですか?」

 そう顔を近づけて聞くと、

「うわ。見ないでください」

と恥ずかしそうに顔を隠した。


 ………。なんだってそう、可愛いんだ。そう思いながら、僕はカバンを持ち、菜穂さんと門をくぐった。


 菜穂さんがチャイムを押すと、菜穂さんのお母さんが玄関のドアを開けた。

「あら、魚住さん、送って下さったの?」

 お母さんの言葉で、奥から部長も顔を出した。

「魚住君、わざわざ菜穂を送ってくれたのか?」


「はい。申し訳ありません。僕の部下の塩谷が投げたボールで、菜穂さんが怪我をしてしまいました。すぐに病院で診てもらったほうがいいと思います」

「怪我?菜穂、大丈夫?」

「はい。そんなにもう痛くないですから」


「それで、魚住君が送ってくれたのか。悪かったね」

「せっかくだから、上がっていってお茶でも飲んでください」

「いいえ。すぐに菜穂さんを病院に連れて行った方がいいと思いますよ。僕はこれで」

「じゃあ、魚住さんの車で菜穂を、病院まで連れて行ってもらえません?」


「お母さん、そこまでしてもらったら、悪いから」

 菜穂さんが慌ててそう言っても、

「魚住さん、お願いできないかしら」

と、僕にそう言ってくる。


「申し訳ないんですが、僕の部下も怪我をしていて、今車で待っているんです。家まで送って行かないとならないんで、これで失礼します」

「部下?誰だい?」

 部長が心配そうに聞いてきた。


「桜川さんです。転んで怪我をしていて…」

「桜川さんが?大丈夫なのかい?」

「はい。膝を打っているかもしれないんですが…。歩くとき、引きずっていたので」

「そうか。待たせているのか。そりゃ悪いことをした。菜穂をここまで送ってくれてありがとう、魚住君」


「はい。それでは、失礼します」

「魚住君、本当に悪かったね。桜川さん、大丈夫かな」

「はい。病院に行くほどではないと思いますが…。送って行って手当もするつもりです」

「ああ、いや。そのだなあ。菜穂が一緒で大丈夫だったかな?」


「あ…」

 僕は部長の隣で、顔色を変えた菜穂さんを見逃さなかった。

「もしかして、佑さんのお付き合いをしている人って…」

「……、はい、そうです」


 僕は正直に菜穂さんに答えた。菜穂さんは、申し訳ないと言う顔をして、

「すみません。きっと気を悪くしましたよね」

と僕に謝ってきた。


「大丈夫です。ちゃんとわかってもらえていると思いますから。では、車で待っているのでこれで…」

 そう言って僕は頭を下げ、部長の家を出た。


 車に戻ると、伊織さんは助手席に座っていた。僕が運転席に座ると、僕の方を見てほっと安堵の顔を見せた。

「すみませんでした」

「え?」

「そこの席、他の女性に座らせてしまって」


「あ、いいえ!気にしていませんから」

 本当か?僕が伊織さんの目をじっと見ると、慌てて伊織さんは目を伏せた。

「シートベルト、閉めましょうか?」

「大丈夫です!一人でできますから」


 伊織さんはそう元気に言って、慌ててシートベルトを締めた。

 なんだか、頑なと言うか、わざと元気に見せているように見える。

「そうですか。他の女性が僕の隣に座っても、伊織さんはなんとも思わないんですね」

 少し、拗ねてしまった僕は、ついそんなことを口走った。


 伊織さんは黙り込んで下を向いた。あ、しまった。

「……な、何も思わなかったわけじゃ。でも、そんなことで嫉妬しているなんて、佑さんが知ったら。あ、菜穂さんが佑さんって呼んでいるのも、本当は嫌だったとか、そんなことも、佑さんに知られたら、きっと呆れるかなって思って」

「は?呆れないですよ」


「でも、こんな心の狭い女性、嫌かなって。それに、重たいのかなって、そう思ったら…。ごめんなさい。私、変なこと口走っていますよね。さっきから、自分でも、なんでこんなことベラベラ喋っているんだろう」

 確かに伊織さん、いつもこんなにまくしたてないのにな。それだけ、動揺しているのか。

「すみません。変なことを言って」

 僕がそう言うと、伊織さんは黙り込んだ。


 わかっていた。ずっと窓の外を見たまま、きっと嫌な思いをしているって。わかっていて、僕は意地悪く聞いてしまった。


「もう、助手席に他の女性は乗せません」

「……」

「伊織さん?」

 伊織さんは黙り込んで俯いたままだ。


「伊織さん…?」

「あの、大事に思ってくれているってわかって、う、嬉しかったです」

「あ、はい」

「ありがとうございます」


「いいえ」

 しんと車内は静まり返った。ちらっと伊織さんを見ると、恥ずかしいのか俯いていた。


「伊織さん」

「はい」

「部長に、伊織さんと付き合っていることを話しました。勝手に話してすみません」

「いいえ。ちゃんと話してくれて、嬉しかったです」


「……」

 やっぱり。僕は心のどこかで、伊織さんがそう言ってくれることもわかっていた。そして、きっと僕がプロポーズをしたら、伊織さんは受け入れてくれる…。


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