第4話 笑顔 ~佑編~
日曜、のんびりと目覚め、コーヒー豆を挽いた。いい香りが部屋全体に立ち込めた。
それから、朝食を作り、新聞を読みながら朝食を食べた。
「さて。洗濯するか」
洗濯物を干そうと、ベランダに出た。昨日洗って干してあったYシャツに目が行き、
「ああ、口紅、ちゃんと落ちているな」
と、呟いて、桜川さんのことを思い出した。
隣駅に住んでいるんだよな。まだ、隣駅では一回も降りたことがないな。例えば、ぶらぶらと行ってみたら、ばったり会う…なんてこともあるかもしれないのか。
いや。何の用事もないのに、隣駅に行くことなんかあるわけないんだが。
だいたい、気にし過ぎだ。何がどうしてこんなに気になるのかわからないが、そのうちどうでもよくなるはずだ。たまたま、映画の趣味があっただけで、出会いは最悪なものだったわけだし。
洗濯も掃除も済ませ、買い物に出かけた。スーパーで食材を買いながら、
「いい野菜ってないもんだよな。こうなったら、自分で育ててみるか。バルコニー広いし、プランターで野菜くらい育てられるだろ」
などど、そんなことを考えながら、本屋に出向き、家庭菜園の本を思わず買って帰った。
名古屋に住んでいた頃は、ちょっと車で走らせると、畑があった。都心からでもすぐなので、よく車で農家直売の店に行き、野菜を手に入れたりしていた。
やはり、そういう野菜は新鮮で旨かった。スーパーで買うものとは味が全然違う。
バルコニーのプランターでどこまで育つかわからないが、やってみる価値はあるよな。
でも、その前に、まだ片づけていない荷物の整理をするか。
午後は片付けに励んだ。昼飯は簡単にそうめんで済ませ、3時、駅前のドーナツ屋で買ってきた、甘いドーナツとアイスコーヒーを楽しんだ。
甘いもの好きな男というのは、けっこう気持ち悪がられる。上司にも「酒も飲めないのか」とよく嫌味を言われた。
だが、意外や意外に、甘いもの好きな男というのは、そんじょそこいらにいるもんで、無理して酒を飲んで付き合っていたような取引先の人を、甘味処や、美味しいケーキのある喫茶店に誘い、仕事の話を持ちかけたりもした。
お得意さんの好きなものを先に調べ、尋ねる時、手土産として持って行ったりした。甘いもの好きな人は、僕が好んで食べているスィーツを買っていくと、みんな喜んでくれた。
もちろん、酒が好きっていう人もいる。そういう人には、酒のつまみになりそうなものを持参する。
時々、酒は飲めないが、料理が旨い店は足を運んでいたので、(自分が料理をする時の参考にするために)割烹料理屋など、本当に料理が美味しい店に、酒好きな人は連れて行った。たいてい、それだけでも、好印象だ。
作戦と言えば作戦だが、旨いものを食べていると、みんな心を開き、すぐに商談なんて成立してしまうものだ。自分もそういう席で、相手と心を交わし、信頼関係も深められたりしたし。
貴重な休日も終わり、月曜が来た。一人でのんびり好きなことをして過ごす休日は、なんとも充実している。
仕事も好きだから、平日も充実しているわけだが、今の部署はまだまだ、充実できない部署ではある。
そう。今朝もまた、いらいらすることがあった。注意をして、「以後気を付けます」と返事をするくせに、いっこうに気を付けようとしない溝口真広。始業時間ぎりぎりに出社なんて、有り得ないことだ。
また、注意をした。だが、「以後気を付けま~~す」と、年甲斐もなく可愛い子ぶって、済まされた。
むかつく。胃のあたりが本当にむかむかする。なんだって、南部課長は何も注意をしないのか。
ふと視線を感じた。桜川さんの方向からだ。もしや、僕を見ているのか。
すぐに視線を向け、目が合っても困るので、わざと見ないようにした。そして、何気にファイルを取る振りをして、ちらっと視線を上げると、こっちを向いているのは北畠さんで、桜川さんはパソコン画面とにらめっこをしていた。
なんだ。視線は北畠さんのものだったのか。
ハッ!なんだって、僕はがっかりなんかしたんだろうか。
それより仕事だ。昼前に午後から会議で使う資料、20部ずつコピーをしないとならない。さて、誰に頼むか。溝口さんは、どうも頼みづらい。じゃあ、ベテランの北畠さんに…。
そう思い、北畠さんのほうを見た。だが、僕の目に映ったのは、桜川さんの横顔だった。
へえ。真剣に取り組んでいるんだな。眉間にしわまで寄せて、パソコンを見ている。
と、桜川さんを見ていると、その向こうから北畠さんがこっちを見ていることに気が付いた。
あ…。桜川さんをただ見ていると、勘違いされたかもしれない。
「桜川さん」
「はい?」
あれ?今、北畠さんと言おうとして、なんだって桜川さんを僕は呼んだんだ。まあ、いいか。仕方ない。桜川さんにコピーを頼もう。
「すみませんが、至急、コピーを20部ずつお願いします」
「は、はい」
桜川さんは、すぐに席を立ち、僕のところまですっ飛んできた。こんな短い距離なんだから、走ってこなくてもいいのに、そんなに仕事を張り切ってしたいのか。
書類を受け取った彼女は、一目散にコピー室に飛んで行った。彼女の後姿を眺め、それからデスクに目を移すと、1枚だけ、書類が残っていた。
「あ…、これもだ」
席を立ち、コピー室に向かった。それから、しっかりと閉まっているコピー室のドアの前で、開けるのに躊躇した。中からは、コピー機がコピーをしている音が聞こえている。
閉鎖されている部屋。コピー機が何台か並んでいるのだから、彼女だけじゃないかもしれないし。そんなことを思いつつ、ドアをノックした。
「はい」
中から、桜川さんの返事。
僕は、ドアを開けた。桜川さんは、僕の顔を見て、一瞬目を輝かせた。
いや。それは目の錯覚だろう。勝手にそう見えたに違いない。
「すみません。さっきのに追加でもう1枚、これも20部、コピーをお願いします」
「はい」
「一人で大丈夫ですか?かなりの量ありますけど」
「大丈夫です」
桜川さんは、やる気満々という声で、そう答えた。
いきなり、仕事を張り切ってしだしたのだろうか。それとも、前から案外この人は、仕事を頑張る人だったのだろうか。
そのまま、話もせず席に戻るのに気が引けた。そうだ。DVDのこと、話がしたかったんだ。いろいろと、彼女とは、話がしたかったんだ。
「あの映画ですが」
「え?」
「フィールド・オブ・ドリームス。良かったですよ」
「本当に?」
今度は、間違いなく桜川さんの目が輝いた。そして、
「あ、私も『アンタッチャブル』、感動しました」
「そうですか」
「……そのあと、『レインマン』も借りたんです」
「やっぱり?」
と、僕がそう言うと、桜川さんは目を丸くさせた。
ああ。やっぱり、驚いた。くす。予想通りだ。
「どのシーンが好きですか?」
「主任は?」
ますます、桜川さんの目は輝く。うっすらと頬も高揚している。そんなに映画の話になると嬉しいのか。
「僕は…。ああ、せいので言いますか?」
「せいの…?」
「はい。レインマンの好きなシーン」
「あ、はい。じゃあ、えっと。いっせいの…」
桜川さんが息をすうっと吸った。そして、
「トム・クルーズがダスティン・ホフマンと踊るシーン」
と、僕とほとんど同時にそう言った。
「ですよね?!」
ああ。桜川さんの満面の笑顔。
想像がついた。きっと、彼女なら同じシーンを言うだろう。そして、僕が同じシーンを言えば、きっとものすごく喜ぶはずだと。
なんでだろう。なんで想像がついたんだろう。それに、なんだって、彼女が笑うと嬉しくなるんだか。
つられて僕もくすっと笑った。するとまた、桜川さんは目を丸くした。その驚きは何の意味があるのか。それは、さすがにわからなかった。
昼の休憩時間。昼飯に時間を取られるのは嫌だった。だから、最近僕の昼飯は、すぐに食べ終われる蕎麦だ。蕎麦を食べ、すぐにデスクに戻った。
パソコンを開き、また報告書を作り出した。田子主任の失敗を穴埋めするには、かなりの売り上げを出さないとならない。頭の痛い仕事だ。
缶コーヒーは嫌いだが、目を覚ますために買った。それを飲みながら、パソコン画面とにらめっこをしていると、バタバタと足音が聞こえ、桜川さんと溝口さんが席に慌てて着いた。
時計を見ると、13時1分。
「桜川さん、溝口さん、時間!」
そう声を大にして言うと、
「は~~い」
と、溝口さんが、思い切りふてくされた声でそう返事をした。
呆れた。開き直りか。可愛い子ぶるのもやめたっていうわけか。そう思いながら、溝口さんを見ていると、
「すみません」
と消えそうな声で、桜川さんが謝ったのが聞こえてきた。
ふっと視線を桜川さんに移した。すると、桜川さんはまっすぐに僕を見つめていた。
ドキ!
パッと目線を他にやった。慌ててパソコン画面を見て、仕事に取り掛かる振りをした。でも、どこの部分を自分で見ていたのかすら、わからなくなった。
なんなんだ。桜川さんの目は。なんだって、あんなにインパクトがあるんだ。びっくりした。
それから、仕事に集中した。だが、時々聞こえてくる桜川さんの声がやけに気になった。
北畠さんと雑談をしているのか。ダメだ。気になって集中ができない。
「桜川さん、北畠さん、私語はやめてください」
そう注意をすると、北畠さんはすぐに「すみませんでした」と謝り、桜川さんは、また消えそうな声で、「すみません」と謝った。
あれ?
まさかと思うが、まさか、傷つけていたりするのか?僕は。
ふと桜川さんを見てみた。桜川さんは、暗い顔をしてパソコンを見ていた。
ああ。落ち込ませたか。こういう時には、フォローが必要か。
いや。大丈夫だ。このくらいで落ち込んでいたら、仕事なんかしていけっこないし。
いや、でもな。
ガタンと席を立ち、ツカツカと桜川さんのデスクに向かった。その間、何を言えば、桜川さんの気持ちが上がるかを考えながら。でも、浮かばなかった。
仕方ない。土曜日のことでも話すか。
「桜川さん」
「はい?」
また怒られるかと思ったのか、彼女はビクンとしながら僕を見た。
「金曜日の件ですが」
「え?あ、はい」
「土曜日、ちゃんと荷物も届き、先方からお礼を言われました。工場の担当者も、お客さんも、桜川さんによろしくと言っていましたよ」
「そうですか。ちゃんと間に合ったんですね」
「桜川さんは、本当に信頼されているんですね」
「い、いえ。そういうわけでは」
「これからも、仕事、手を抜かずに頑張ってください」
「え?あ、はい」
それだけ言い、僕はデスクに戻った。今のは果たして、フォローになっていたんだろうか。気になり、ちらっと桜川さんを見てみると、彼女は嬉しそうな目をしてパソコンを見ていた。
ああ。ちゃんとフォローできたんだな。
少し僕も嬉しくなった。
いや…。少しというのは、嘘かな。かなり、僕は嬉しくなった。というのが本音だ。
でも、それは、部下を励ますことができたっていう、自己満足だ。
それプラス、今迄事務員の女子社員に好かれたことがなかったから、桜川さんが僕に対して、好意を抱いてくれているのが素直に嬉しかった。
そうだ。部下から好意を持たれて、喜ばない上司はいない。ただ、それだけだ。
僕は仕事に取り掛かりながら、自分にそう言い続けた。
それだけでしかない。もし、桜川さんに対しての印象が変わり、好意を寄せているとしても、それはただの、部下に対しての情みたいなものであって、けして、男女の好きっていう感情とは違う。
僕に対して、上司が信頼をし、仕事を任せてくれ、その結果を出すと喜んでくれる。それと同じだ。
そうだ。だから、別に、桜川さんにこれからも、好意を持って接していこうと、好意を持たれようと何も気にすることはないのだ。
そんなことも、自分に言い聞かせていた。
翌日、火曜日。朝から会議があり、早々と会議室に行っていたので、朝はほとんど誰とも顔を合せなかった。そして、営業2課に戻った時には、もうみんなが席に着き、仕事をしていた。
どうも、溝口さんには嫌われているようだ。僕と南部課長が課に戻ってくると、課長には、
「おはようございます」
と挨拶をしたが、僕のことは無視だ。まあ、いい。こういうのも前の支店でよくあった。
だからと言って、こっちからご機嫌を取るのもアホらしい。そこまでして、部下に好かれたいとは思っていない。
上着をハンガーにかけ、デスクに向かおうとすると、北畠さんが、
「お疲れ様です」
と挨拶をしてきた。
こういう挨拶にはなんと答えていいか困る。ほんのちょっと頷くと、その隣で桜川さんが僕を見ているのが見えた。
あ…。
「おはようございます。主任」
桜川さんが、なぜか緊張した顔でそう言ってから微笑んだ。
「おはようございます」
緊張が移り、僕も少し緊張した声で答えた。
彼女の笑顔は不思議な力があるんだろう。心の奥で、その笑顔を見れたことを喜んでいると、桜川さんはまたにこやかにほほ笑み、
「おはようございます。課長」
と南部課長にも笑顔を向けた。
「ああ、おはよう」
そうか。その笑顔は誰にでも向けるものだったのか。いや、当たり前か。
デスクに着き、なんとなくそんなことを思いながらパソコンの電源を入れた。
その日は、その後特に桜川さんと話をすることもなく、1日は過ぎた。たまに、
「ハンコお願いします」
と、桜川さんは書類を持ってきた。どこも間違っている箇所もなく、僕は黙ってハンコを押して、桜川さんのデスクに戻した。
それだけだ。
1日が終わった。今日は誰のことも注意することなく、無事平和に過ぎた。
課のみんなは、談笑しながら帰って行った。
僕は、やっと静かになった課で残業をしようと椅子に深く腰掛け、書類を見ていた。すると、会議室の方からぞろぞろと人が出てきて、辺りはまたにぎやかになった。
「大阪行っても頑張って」
「時々、東京にも来ることあるよな」
そんな声が聞こえてきた。ああ。どうやら、誰かが大阪支店に転勤になったらしいな。多分、同期の連中が花でもあげていたんだろう。
「ありがとう。今度みんなで、大阪に遊びに来いよ」
そう言いながら、でかい花束を抱えた男がやってきた。
この男、知っている。マーケティング部にいたやつだ。女癖が悪いと、そんな噂を聞いたことがあるっけ。
会議室から出てきた連中は、そのまま廊下へと出て行った。そして、最後にひょっこりと会議室から桜川さんが現れた。
そして、自分のデスクに戻ってくると、僕のほうに視線を向け、
「残業ですか?」
と聞いてきた。
「はい。桜川さんは?」
「私は、もう仕事も終わったので帰ります」
「お疲れ様です」
「はい」
桜川さんは、なぜか自分のデスクの前に立ちすくみ、帰ろうとしない。
「あの、魚住主任は、茄子、好きなんですか?」
「は?」
茄子?なんで唐突に茄子?
「茄子の煮付け、作られていたから、好きなのかなって」
「ああ。好きですよ」
そういうことか。突然茄子の話をされられて、かなり驚いてしまった。
「では、あの、今度」
桜川さんが、恥ずかしそうにそう話し出した時、
「桜川ちゃん」
と、でかい花束を持って、大阪に転勤していく男がやってきた。
桜川ちゃん?女性の名字にちゃんづけをする男の気が知れない。それだけ、仲がいいってことなのか。
「川西君。どうしたの?」
桜川さんも君付けか。ああ、同期だもんな。
「あのさ、あんまり桜川ちゃんとは話とかしなかったけど、大阪では俺、営業なんだ。いろいろとこれから、桜川ちゃんとは仕事で関わることがあるかもしれないから、よろしくね」
「あ、うん、こちらこそ」
「それで…。この花、受け取ってくんない?」
「え?なんで?同期のみんなからの餞別なのに」
「う~~ん。俺がもらうより、桜川ちゃんがもらったほうがいいと思うんだよね。花、好きだって言ってなかった?アレンジメントとか、趣味なんだって」
「覚えているの?」
「ああ、うん。まあね」
へえ。そうなのか。桜川さんは花が好きなのか。それより、さすがだな。女性の趣味なんていちいち、覚えているんだな。
「だから、もらってくれない?ね?」
「え?う、うん。わかった。ありがとう」
「良かった!じゃあ、ほんと、これからもよろしくね。たまに東京にも来るから、そんとき、飯でも食いに行こう」
「え?うん」
桜川さんの目が丸くなった。何か、驚いているみたいだ。そして、川西って男が去ると、桜川さんは嬉しそうに花を見つめた。
「桜川さん…」
僕は、そんな桜川さんに、あんな男にだまされちゃいけない…と言いそうになった。
「はい?」
「花、好きなんですか?」
僕は違う質問をした。そして、好きですと言ってにこりと笑った彼女の笑顔を見て、複雑な気持ちになった。
花が好きだから喜んだのか、それとも、あの川西からもらったから喜んだのか。
複雑な気持ちのまま、僕は席を立ち、
「すみません。トイレ」
と、そう言ってその場を去った。