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第40話 菜穂さん ~伊織編~

 私はずっと窓の外を見ていた。ものすごく気まずい思いをしながら。


「すみませんが、部長が言うように、僕以外のもっといい人が現れますよ」

 佑さんがそう、菜穂さんに言った。だが、

「いいんですか?」

と菜穂さんは佑さんに切り返した。


「父は、佑さんのことを気に入っていたんです。佑さんのことを東京に呼んだのは父なんですよね」

「はい」

「私との縁談、断ってもいいんですか?出世に関わってきますよね?」

 佑さんの出世…。


「じゃあ、逆に聞きますが、菜穂さんはもし僕が出世のために菜穂さんと結婚してもいいんですか?」

「いいです」

 え?

「最初のきっかけなんてどうでもいいんです。結婚後に、佑さんが私を大切にしてくれたら」

「いえ。そういうのは、ちょっと違うと思いますが」


「佑さん、真面目だから、きっと大切にしてくれるって父もそう言っていたんです」

「菜穂さん。悪いんですが…」

「佑さん、答えを出すのは待ってください。私と付き合ってから、それから答えを出してください。私、尽くします。佑さんのために頑張ります」

 うわ。なんかもう、聞きたくないかも。


 どうしよう。じゃあ、菜穂さんとも付き合ってみますなんて佑さんが言い出したら。

「だから。僕のことはほとんど知りませんよね?なのに、なんだってそんなこと、言い切れるんですか」

 あ、佑さんの声、なんだか呆れているみたい。

「直観です」

「はあ?」


 菜穂さんの言葉に、もっと佑さんは呆れ果てたようだ。そして、

「僕は、部長にはっきりと断りました。菜穂さんとは付き合えません。僕には付き合っている人がいますから」

と、佑さんはとうとう菜穂さんに言ってしまった。


 それって、部長にも言ったってことなのかな。そうなんだよね。

「そんなこと、この前は言っていませんでした」

「いつ…。ああ、部長の家に行った時ですか。確かに、その時はそんな話しませんでしたが」

「結婚も考えているんですか?その方と…」

 

「………」

 結婚と言う言葉が出て、佑さんは黙り込んだ。

 そうだ。佑さんは結婚まで考えていない。結婚なんて考えられないって言っていたもの。


 わかっているけど、佑さんの返事が聞きたくない。

 佑さんが黙っていると、菜穂さんの方が話し出した。

「結婚も考えているから、私とのお付き合いもできないんですか?それとも、結婚を考えていないなら、私とも…」

「それ、二股かけろっていうことですよね。そういうこと自分がされて、嫌じゃないんですか?」

 

「はい。私か、そのお付き合いをしている人か、付き合ってみて決めてもらっても構いません」

 ええ!それって、自分を選んでもらえる自信があるっていうことなの?どど、どうしよう。佑さんが、菜穂さんと付き合ったりしたら、勝ち目ないかもしれない。


「僕は、そういうのはできません」

「そういうのって?」

「同時に二人の人と付き合うことです。天秤にかけるようなまねもできません」

 佑さん…!


「…真面目なんですね」

「真面目とか、そういうことよりも、今、付き合っている人を悲しませたくないですし、大事に思っていますし…。他の人と付き合うことなんか、考えられませんから」

 うわ~~。


「そんなに、大事なんですか?」

「はい」

「…その人のどこがいいんですか?家庭的?尽くしてくれる?女らしい?そういう人ですか?」

 家庭的なんかじゃない。女らしくもない。私なんて女子力ゼロだ。


「………。どういう人かと言われても、一言で言えませんが…」

 あ、佑さんも困っている。

「どこに惹かれたんですか?」

「どことか…。そういうのも…」

 あ、ますます、困っちゃってる。惹かれるところなんか、どこにも見当たらないっていうことなのかな。


「じゃあ、なんでその人がいいんですか?なんで、私じゃダメなんですか?」

「好きになるのに、理由なんかないですよ。知らぬ間に惹かれていたっていうのもあるでしょう」

 理由なんかない。どこに惹かれたかわからないってことなのかな。ちょっとショック…。


 でも、そうだよね。私だって、佑さんが私のどこを気に入ってくれたのか、皆目見当もつかない。ずっと不思議だったもの。なんて、考えていると菜穂さんはまた話を続けた。

「私もです。理由なんてなくて、佑さんのことが…」


「しいて言うなら…、癒されるんです」

 癒される。そう言えば、佑さん、よくそう言っていた。

「私は?」

「癒されません」

 わ。菜穂さんにはっきりと言っちゃった。


「……でも、私は」

「僕も多分、菜穂さんのことを癒せていません」

「癒しを求めているんですか?」

「…一緒にいて、あったかくて幸せになれる人がいいですよ。やっぱり…」


 そうだった。一緒にいると幸せになれるって、そう前にも言ってくれた。

 私は、胸がじ~~んとしてきて、涙が出そうで顔を思わず隠した。

「家庭的な方なんですね」

「う~~~ん。どうかな。そういうのも関係なくして、一緒にいてあったかい人ですよ」

 ……。家庭的じゃないってことだよね。今、佑さん、言葉に詰まった。


 うん。それもわかってる。私、全然家庭的じゃないよ。もしかすると、菜穂さんの方が女らしくて家庭的かも。


「菜穂さん?」

 佑さんが突然、びっくりしたような声を上げた。私も驚いて前を向くと、菜穂さんが泣いているようだった。

「本当は、私だって、私だけを大切にしてくれる人がいいんです」

「じゃあ、僕ではなく、菜穂さんだけを大事に思う人と結婚してください」


「…無理です」

「は?」

「すみません、泣いちゃって」

 菜穂さん、ボロボロと泣きだしちゃってる。


 私は慌ててカバンに入っている、未使用のハンドタオルを持ち、

「あ、あの」

と、菜穂さんに差し出した。

「これ、どうぞ。使っていないから、綺麗です」


 菜穂さんは、そのハンドタオルを受け取り、涙を拭いた。そして、

「私、昔から男を見る目がないんです」

と、また話し出した。


「男を見る目がない?」

「最初に付き合った人は、私のほかにも彼女がいました。その次の人は、3か月で浮気され、その次の人は、付き合って半年して、奥さんがいるってわかりました」

 佑さんの質問に菜穂さんはそう答えた。


 それは、悲しいことだろうな。私も、過去二人付き合ったけど、二股かけられたり、体目当てだったり。っていうことは、私も男を見る目がなかったってことかな。


「そして今も。奥さんがいる人と付き合っています」

「え?!」

 今なんて?佑さんもびっくりしているけど、なんて言った?奥さんがいる人と、今も付き合っているって言った?じゃあ、なんで佑さんと付き合いたいって言っているの?


「ごめんなさい。不倫の関係なんて良くないって思いながらも、付き合っていました。でも、もう別れようと思っているんです」

「つまり、今の彼と決別したかったから、僕と結婚するんですか?」

「はい。別れるって決心しても、なかなかできなくて。ずるずると1年たってしまいました」

 そうか。佑さんと付き合うことで、不倫を終わらせたいのか…。


 不倫。私には考えられない。でも、もし佑さんが結婚していて、それを知らずに好きになったとしたら、奥さんがいるからって簡単に諦められるのかな。


「もちろん、両親には言えないから、両親はそろそろ結婚を考えたらどうだって…。私も、今の不倫の関係を終わらせたかったし、父が仕事ができる、真面目でいい青年がいるって言うから、その人だったら私を大事にしてくれるかなって、そう思って…」

「…僕と結婚したら、今付き合っている人と別れられると思ったんですか?」


「はい。こんな関係をずるずると続けるのも、終わりになるだろうと思いました」

「…それ、僕じゃなくてもいいんじゃないんですか?」

「そうかもしれません」

「それに、誰かと結婚しないでも、別れるって決めたらいいだけだし、逆に言えば、結婚をしてもその人と関係が続く可能性もあるんじゃないですか?」


「……」

 菜穂さんは黙り込んだ。

「もしかして、その彼というのは今日来ていた菜穂さんの上司ですか?」

「え?なんで、それ!」

 

「なんとなく、わかったんです。あの上司の口調とか、目とか、雰囲気とか、そういうので」

「佑さんって、勘がいいんですね」

「勘がいいって言うより、僕と同じ何かを感じたんですよ」

「え?!佑さんも不倫を?」

 え?!


「僕は独身です」

「じゃあ、浮気…」

「していません。さっきも言いましたよね?付き合っている女性を大事に思っているので、浮気なんてしたりしません」

 び、びっくりした。でも、じゃあ、同じ何かってどういう意味?


「そ、そうですよね。父も魚住君なら浮気の心配もないだろうし、安心だって言っていました。あれ?じゃあ、同じ何かって…」

「単なる部下を思う雰囲気と違っていたんですよ。それ以上の何かあるなって、ピンときました」

「………っていうことは、佑さんも部下の方と?」

 ドキ!!


 ドサ!慌てたから、膝の上の荷物が落ちてしまった。

「そうですよ。いずれ、部長から菜穂さんに、話す時が来るかもしれないですね」

 え?いいの?ばらして。あれ?部長からってことは、まさか、部長にはもう私と付き合っているって、ばらしちゃったってこと?


「部下の方…。同じ課の方?今日もいらしていましたか?」

「僕のことはいいですよ。それより、菜穂さん、ちゃんと今の彼と向き合ったほうがいいんじゃないですか?」

「……向き合うも何も…。私は、やっぱり私だけを愛してくれる人を見つけます」

「そうですか?」


「やっぱり、私は佑さんの彼女が羨ましいです。その方、幸せですね」

 私のことが羨ましい?そ、そうか。そうだよね。私、佑さんに大事に思われて幸せだよね。でも…。


「あ!でも、今日いらしていたのなら、こんなふうに私を送って行ったりして、その人嫌な思いをしていませんか?もしかして、変な誤解をしていたり」

「大丈夫です。誤解はしていないと思います」

「どうして?信じてくれているっていうことですか?」


「………。う~~~~ん。そうですね。まあ、僕が彼女を大事に思っているっていうのは、伝わっていると思いますよ。今も、きっと」

 佑さん。ありがとうございます。


 でも、私はやっぱりわからない。佑さんは何で私のことを、大事に思うようになったんだろう。理由なんてないって言うけど、私にはそんな価値あるんだろうか。佑さんに大事に思ってもらえる価値。


 佑さんはすうっと車を停めた。どうやら菜穂さんの家に着いたようだ。

「怪我をさせてしまったので、部長に挨拶したほうがいいですね」

「大丈夫です」

「でも、カバンを持つのが大変ですよね。持っていきますよ」


 そう言って佑さんは車を降りた。そして、後部座席の窓をコンコンとノックしたので、私は急いで窓を開けた。

「助手席に移動して待っていてください。すぐに戻ります」

 コクンと頷いた。でも、佑さんは私の顔を覗き込み、

「泣いていたんですか?」

と聞いてきた。


「うわ。見ないでください」

 慌てて顔を隠した。自分でも気づかなかったけど、涙が出てた。嬉しくて泣いたのか、自分が不甲斐なくて泣いたのかわからない。


 佑さんは菜穂さんのことを、玄関まで送りに行った。私はその間に、助手席に移動した。

 助手席に座り、運転席を見た。近い。こんなに近くに菜穂さんがいたんだ。

 もや…。ああ、これ、ジェラシーだよね。ジェラシーって醜いな。


「はあ…」

 ジェラシーを感じている自分が嫌になった。シートベルトもしめてあげてた。そんなふうに他の女性に優しくしている佑さんを見るのも嫌だ。


 あ~~~~。なんだか、自分が小っちゃい人間に感じる。どこにも取り柄がなくて、コンプレックスばかりで、なのに、私を大事に思ってくれているなんて。


 いいのかな。こんな私で。いつか、嫌われるんじゃない?いつか、佑さんは私から離れて行くんじゃない?

 あ~~~。私ってバカかも。大事って言われて嬉しいくせに、素直に喜べないなんて。


 しばらく、佑さんは戻ってこなかった。その間も、まさか私より菜穂さんと付き合うことにしました…とか、そんなことになっていないよね?と私は疑ってみたり、部長から強引に菜穂さんと付き合えって言われていないよね?とか、断ったせいで、出世がダメになっていたりしないよね?とか、いろんな不安が押し寄せていた。


 何分たったかな。佑さんがガチャリと運転席のドアを開けた。ほ…。戻ってきてくれた。

 当たり前と言えば、当たり前なんだけど、なんだか、もう佑さんは戻ってこないんじゃないか…なんて思ってしまった。


「すみませんでした」

「え?」

 なんで、謝られたの?!

「そこの席、他の女性に座らせてしまって」


「あ、いいえ!気にしていませんから」

 うそ。思い切り嫉妬していたのに、つい嘘をついた。その嘘を見破ったのか、佑さんは私の顔をじいっと見てきた。私は慌てて顔を伏せた。

「シートベルト、閉めましょうか?」

「大丈夫です!一人でできますから」


 わざと元気に振舞った。でないと、思い切り嫉妬していたのがばれそうだ。

「そうですか。他の女性が僕の隣に座っても、伊織さんはなんとも思わないんですね」

 ……。佑さん、なんでそんなことを聞いてくるの?


「……な、何も思わなかったわけじゃ。でも、そんなことで嫉妬しているなんて、佑さんが知ったら。あ、菜穂さんが佑さんって呼んでいるのも、本当は嫌だったとか、そんなことも、佑さんに知られたら、きっと呆れるかなって思って」

「は?呆れないですよ」


「でも、こんな心の狭い女性、嫌かなって。それに、重たいのかなって、そう思ったら…。ごめんなさい。私、変なこと口走っていますよね。さっきから、自分でも、なんでこんなことベラベラ喋っているんだろう」

 ああ、最悪。嫉妬深い女だって思われたよね。

「すみません。変なことを言って」


 なぜか、佑さんの方が謝ってきた。

「もう、助手席に他の女性は乗せません」

「……」

「伊織さん?」

 そんなこと、佑さんに言わせてしまった。喜んでいいのか、複雑だ。でも、そう言ってもらえたのは正直嬉しい。


「伊織さん…?」

「あの、大事に思ってくれているってわかって、う、嬉しかったです」

「あ、はい」

「ありがとうございます」


「いいえ」

 しんと車内は静まり返った。私はどんな顔をしていいかもわからず、黙って下を向いていた。


「伊織さん」

「はい」

「部長に、伊織さんと付き合っていることを話しました。勝手に話してすみません」

 やっぱり、私と付き合っていること、話したんだ。


「いいえ。ちゃんと話してくれて、嬉しかったです」

「……」

 話が続かない。私はまた顔を伏せた。


 ずっと、心の中はもやもやしていた。ちゃんと私と付き合っていることを話してくれたことも、大事だって言ってくれたことも嬉しい。嬉しいのにもやもやしている。

 なんでだろう。自分で、自分がわからなくなっている。


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