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第39話 思わぬ怪我 ~佑編~

「大丈夫?伊織」

 溝口さんが、心配そうに伊織さんに聞いた。

「うん。手、擦りむいちゃった」

「ああ。血が出てる。洗って、絆創膏貼らないとね」


「あとは、溝口さん、頼んでもいいですか?次、僕がバッターなんで」

「はい」

「じゃあ、お願いします」

 伊織さんは、溝口さんと更衣室の方に向かって行った。


 そのあと、僕がヒットを打ち、次の打者もゴロだったものの、走るのが早くてセーフになり、次の野田さんが犠牲フライを打って1点を取り、次に経理の子が三振で、その回は終了した。


 僕は戻ってきた伊織さんのもとに駆け寄り、

「大丈夫ですか?」

とまた聞いた。

「すみません、転んじゃって」

「いえ。それより、怪我は?」


「擦りむいただけです」

「そうですか。良かった」

 でも、そのわりには、足を引きずっていなかったか?

「足に怪我も?」


「あ、大丈夫です」

 伊織さんはそのあと、ベンチで休むことになり、センターにはやる気のない溝口さんが入った。そして、バッターボックスには今までベンチにいた、菜穂さんが登場した。


 その菜穂さんに、思い切り速い球を塩谷が投げた。でも、かなり送球が外れ、菜穂さんにボールが命中した。

「痛!」

 悲痛な声を上げ、菜穂さんがその場にしゃがみこみ、○○電工のみんなが駆け寄った。


「湯川さん、大丈夫?」

「塩谷、何外してるんだ!」

 僕もそう叫びながら、菜穂さんのほうに駆け寄った。


「大丈夫ですか?」

「打ったのはどこ?肩?冷やしたほうがいいかもしれないですよ」

 相手チームの女性陣が取り囲み、菜穂さんは更衣室に連れて行かれた。


「怪我人、続出」

 ぼそっと、塩谷がそう呟いた。

「今のはお前が悪い。あとで、謝れよ」

「あんな球くらい、避けられたでしょ」


「塩谷!部長の娘さんだぞ。謝れよな!!!」

 すごむとようやく塩谷は、はいと頷いた。


 まったく。塩谷は…。

 それにしても、菜穂さん、悲痛な声を上げていたが、大丈夫だろうか。塩谷、相当速い球を投げていたしな。


「医務室があるにはあるけど、今はシーズンオフだから開いていないんだよね」

 僕の横に南部課長が来てそう言い、

「魚住君、帰りに菜穂さんを家まで送ってあげてくれないか。早めに病院にみせたほうがいい」

と、付け加えた。


「え?僕がですか?」

「ああ。部長から菜穂さんの面倒を、魚住君に見てもらうよう頼まれていたんだから、よろしく頼むよ」

 なんでまだ?部長には伊織さんと付き合っていることをちゃんと話したのに。


 更衣室から戻ってきた菜穂さんは、すでに着替えをしていた。

「菜穂さん、大丈夫ですか?」

 課長が菜穂さんのもとに僕まで連れて行き、そう聞いた。


「はい。すみませんでした。試合、中断しちゃいましたか?」

「いえ。菜穂さんの代わりの人が塁に出たので、試合は続行しましたが、さきほど終わりました」

「そうですか」

 菜穂さんは俯いてそう言うと、肩をさすった。


「塩谷!」

 すでに試合も終わり、ベンチで汗を拭いている塩谷を呼んだ。

「なんですか?」

「なんですかじゃない。ちゃんと菜穂さんに謝れよ」


「申し訳ありませんでした」

 塩谷は、頭を下げた。だが、気持ちがまったくこもっていない謝罪だった。

「いえ。私も、ドンくさかったから…」


「菜穂さん。魚住が家まで送りますから、今日帰ってから早めに病院でみてもらった方がいいですよ」

「大丈夫です。単なる打撲です」

「いや。部長も心配すると思います。な?魚住君も着替えて、すぐに送ってあげてくれ」


「え?じゃあ、主任、このあとのしゃぶしゃぶ大会は?」

 課長の言葉を聞き、塩谷が慌ててそう聞いてきた。

「いや、それが終わってからだと、病院も閉まってしまうかもしれないし、早くに送ってあげてくれ、魚住君」

「…はい」


 仕方ない。そう思いながら、伊織さんを見た。伊織さんには事情を話して、電車で帰ってもらって…。だが、伊織さんの横に塚本さんが張り付き、何やら話しかけているのを見て、僕は焦って速足で伊織さんのもとに行った。


「だから、足、怪我したんでしょ?引きずって歩いていたじゃない。車で送ってあげるから、そのあと手当もしてあげるよ」

「いいです。電車で帰ります」

「遠慮しないでいいって」


 ああ、やっぱり。そんなことだろうと思った。

「塚本さん!」

「ん?なんですか、魚住主任」

「桜川さんは、家が近いんで僕が送ります」

「……。また、部下だからっていう理由でですか?」


 塚本さんは、ため息交じりにそう僕に聞いてきた。伊織さんは僕の影に隠れた。

「そうです」

「本当に、魚住主任は上司としての責任感が強いんですねえ」

 嫌味な感じでそう言うと、塚本さんは桜川さんの方に一歩近づいた。


「でも、上司に家まで送ってもらうのは、桜川さんも気を使ってしまうよね。ちょっと気の毒だなあ」

「い、いいえ。あの…」

 伊織さんが気の毒だと?冗談じゃない。

「ほら、桜川さんも困っている。それに魚住主任は、大事な部長の娘さん、送って行かないとならないんじゃないんですか?」

 

 塚本さんはそう言って、桜川さんの肩に手をかけた。

 ムカ。と、頭に来ると、桜川さんはすっとその手を振り払い、

「あ、あの。私、本当に大丈夫ですから、電車で帰ります」

と、塚本さんに強く言い放った。


 伊織さん、だから、怪我をしている時まで遠慮しないでくれ。

「桜川さん。ちゃんと家まで送りますよ。足を怪我したのなら、手当もしますから」

「え、でも」

 伊織さんはちらっと僕の後ろを見た。僕も振り返ると、菜穂さんがじっとこっちをうかがっていた。


「菜穂さんも送りますが、そのあと桜川さんのことも送ります」

「そうだよ。伊織、送ってもらいな。家も主任と近いんだし、電車じゃ大変だよ」

「そうですよ、主任に甘えたらいいんですよ」

 いつの間にか、すぐそばに溝口さんと野田さんが来ていて、伊織さんにそう言った。


「じゃ、じゃあ…お願いします」

「はい。わかりました。着替えたら駐車場に来てください。僕も今から着替えてきます」

「…はい」

「じゃ、一緒に更衣室に行こう、伊織」


 溝口さんに付き添われ、伊織さんは女子更衣室に向かった。僕も更衣室に向かおうとすると、

「魚住主任、帰っちゃうんですか?うそ~~~」

と、経理の子たちが僕の後ろからついてきながら、嘆きだした。

「魚住主任がいるから、楽しみにしていたのに」


 なんだっけ?確か、今宮さん。更衣室の真ん前まで来て、僕の腕を掴んでそんなことを言い出した。

「すいません。急ぐんで離してもらえますか?」

「魚住さんが送って行かないとならないんですか?○○電工の人だったら、同じ会社の人に送ってもらえばいいのに」


「そうですね。僕もそう思いますが、でも、部長の娘さんなんで、あまり強くも言えませんから」

「やっぱり?魚住さんって、もしかして湯川部長の娘さんとお付き合いをされているんですか?」

 なんだ?なんでそこまで知っているんだ?まったく、どこから情報を得ているんだか…。


「付き合っていませんよ。もういいですか?桜川さんのことも送っていかないとならないんで、急いでいるんです」

「今宮さん、私たちも着替えに行こう」

 鴫野さんがそう言って、やっと今宮さんは諦め、僕の腕を離してくれた。


 やれやれ。すぐに更衣室に入り、僕はさっさと着替えた。なんで、僕のことを気に入ったんだか知らないが、かなり迷惑だ。


 それより、伊織さんだ。足は大丈夫なんだろうか。それに、菜穂さんのことを送らないとならなくなって、気にしているんじゃないのか…。

 まったく。なんだって、課長は菜穂さんと僕をくっつけたがるんだ。だいいち、ちゃんと部長には話をしたのに、何で今日、菜穂さんは来たりしたんだ。


 急いで着替え、荷物を持って僕は駐車場に行った。そこには、○○電工の男性社員が菜穂さんの荷物を持ち、菜穂さんと一緒に待っていた。

「すみません。車で来たら僕が送って行ったんですが…」

 営業の人じゃないな。営業の人なら面識がある。初めて見る顔だ。年齢は、40代前半と言ったところか。


「いいえ」

 僕は一言そう言って、トランクを開けて僕の荷物と、菜穂さんの荷物も預かって乗せた。

「湯川さん、大丈夫?」

「はい。すみません、課長、迷惑かけて」

 ああ。やっぱり、菜穂さんの上司か。


「いや。すぐに帰ったら病院で診てもらったほうがいい」

「はい」

 菜穂さんはそう頷き、そしてすぐに僕の方を向いた。

「あの、私、車酔いしやすくて、助手席でもいいですか?」


「え?」

 助手席は、伊織さんが…。

「後部座席だと酔っちゃうんだよ、彼女」

 菜穂さんの上司が僕にそう言った。なんだ?酔いやすいって、どうして知っているんだ?


「はい、わかりました。どうぞ」

 僕は助手席のドアを開けた。菜穂さんは、静かに助手席のシートに座った。とそこへ、塩谷が現れた。ズカズカと車に近寄り、

「主任、これ、桜川さんの荷物です」

と僕に渡した。


「え?なんで塩谷が…」

とびっくりしていると、その後ろから伊織さんと溝口さんがやってきた。そのうえ、野田さんも…。


「主任!部下である桜川さんが怪我しているんですから、しっかりと家まで送ってあげてくださいね」

「え?あ、ああ」

 なんで、塩谷がそんなことを言うんだ?


「主任!伊織の足の怪我、すごく擦りむいていて、血も出てて、痛そうなんです。早めに部長の娘さんを家まで送ってあげて、そのあとちゃんと手当してあげてください」

 今度は、溝口さんがそう僕に強く言ってきた。


「え?足、そんなにひどいんですか?」

 伊織さんに向かってそう聞くと、伊織さんは笑いながら、

「真広、大げさなんです。もう痛くないですから、大丈夫です」

とそう言った。でも、笑顔が思い切りぎこちない。これは、絶対に無理をしている。


「あ、なんで、助手席?!」

 うわ。塩谷、余計な口を出すなよ。

「酔いやすいそうなんだ。桜川さん、悪いが後ろの席で…」

 そう言いながら伊織さんを見た。すると、一瞬だったが、ものすごく悲しそうな表情を浮かべた。


「い…、桜川さん。後部座席は嫌ですか?」

 思わず伊織さんと言ってしまいそうになった。

「いいえ。私、車酔いってあまりしないし、大丈夫です」

 伊織さんはにこりと笑い、車に近づこうとした。だが、伊織さんの腕を塩谷が掴み、

「桜川さん、わかってるよね。阻止だからね。阻止」

と耳打ちをした。


 塩谷の声、小声にしても聞こえてくる。多分、こいつは内緒話っていうのができないだろうな。地声がでかいんだ。それにしても、阻止って言うのはなんだ?


「魚住さん、すみません」

「はい?」

 菜穂さんが、助手席から僕に声をかけてきた。

「腕が痛くて、シートベルトができないんです。お願いしてもいいですか?」


「あ、はい。今、します」

 僕は、一度運転席に乗り、菜穂さんにシートベルトをしてあげてから、また車を降りた。

「桜川さん、乗ってください」

 後部座席のドアを開けた。伊織さんは、

「そ、それじゃあ」

と、たどたどしく塩谷に言って、溝口さんにも挨拶をすると後部座席に乗り込んだ。


「桜川さん、よろしくね」

 塩谷はまた、伊織さんにそう声をかけた。

「なんだよ、塩谷。何を桜川さんに頼んだんだ?」

 そう聞きながら、僕は後部座席のドアを閉めた。


「別に、なんでもないですよ」

 いや、何かある。塩谷の「別に」という言葉には、必ず何かが秘められている。


「主任!いいですか?」

と、その時、今まで静かだった野田さんが僕を呼んだ。野田さんは車から離れ、僕も野田さんの近くに行くと、

「部長の娘さんは先に送って、そのあと桜川さんのこと、ちゃんと手当してあげてくださいよ。いいですね」

となぜか、念を押された。


「はい。そのつもりです」

 僕はそう野田さんに言い、また車に戻り運転席に乗り込んだ。それにしても、みんなして伊織さんを応援しているんだなあ。あ!まさか、塩谷までもが?…それはないか。


 シートベルトを締め、バックミラーで伊織さんを見た。ああ、あきらかに顔が沈んでいる。助手席の方を見たまま、顔が暗くなっている。


 ズキ。

 僕の胸まで痛んだ。


 そうだよな。彼女である伊織さんを後部座席に乗せて、彼女でもない人を助手席に乗せているんだから。それも、伊織さんだって怪我をしていると言うのに。


「すみません、桜川さん。後ろ、窮屈じゃないですか?」

「はい」

「足、痛くないですか?シートを下げたり、座りやすいようにしてくださいね」

「…大丈夫です」


 伊織さんがまた、無理をして笑った。

 僕は、伊織さんに無理をさせてばかりいるのかもしれない。


 車を発進させた。伊織さんはずっと窓の外を見ている。

「魚住さんって、運転上手なんですね」

「……。え?何か言いましたか?」

 隣で小さな声で、菜穂さんに話しかけられたが、伊織さんのことが気になっていて耳に入ってこなかった。


「運転、上手だから、私、佑さんの運転なら酔わないなって、そう思って…」

 佑さん?!

 菜穂さんは僕の方を見て、ニコリと笑い、

「佑さんって呼んでも、いいですよね?」

と、そう恥ずかしそうに聞いてきた。


 よくない。なんだって、突然下の名前で呼ぶんだ?

「すみませんが…。魚住でいいですよ」

「でも、佑さんも私のこと、菜穂さんって呼ぶから」

「あ、すみません。湯川さんと呼んだほうがいいですね」


「いいえ。下の名前で呼んでください。そっちのほうが嬉しいです」

 顔を赤らめ、菜穂さんがそう言った。

「……」

 僕はまたバックミラーを見た。伊織さんはまだ、窓の外を見ている。でも、絶対にいい気はしないよな。彼女でもなんでもない子が「佑さん」なんて呼ぶんだから。


「菜穂さん、部長から何か話を聞いていませんか?」

「何も、何も聞いていません」

「……本当に何も?」

 少し、戸惑っている菜穂さんを見て、これは何か聞いているかもしれないと僕は判断した。


「……佑さんは、結婚願望がないんですか?」

 ん?なんで、そういう話になるんだ。まさか、部長、僕に付き合っている女性がいることを伝えていないのか?

「ないわけではないですよ」

「え?そうなんですか?」


「……部長、なんて言っていたんですか?」

「…それが」

「はい」

「………」


 黙り込んだ。いったい、なんて言われたんだ?

「教えていただけますか?」

「それは、その…。魚住君は結婚を考えていないようだ。菜穂には他にもっといい人を紹介すると…」

「そうですか」


「だから、結婚願望がまったくないのかと思ったんですが…。もしかして、私と結婚を考えていないということなんでしょうか?」

「………」

 震える声でそう聞かれた。ここは、はっきりと言った方がいいんだろうか。


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