第39話 思わぬ怪我 ~伊織編~
女子社員は、交代で出ることになっている。ただ、塩谷さんは初めからマウンドにあがり、ピッチャーをしている。すごく速くてコントロールもいい。だから、相手チームの女性は打つこともできず、みんな三振だ。
私も途中から、センターを守ることになった。
「大丈夫。その辺に来たボールは任せて」
セカンドにいる野田さんにそう言われた。私はコクコクと頷いた。
主任はファーストにいる。とてもクールな顔で、プレイをしている。
それに比べて、私はドキドキだ。どうか、こっちに飛んできませんように…。でも、その願いもむなしく、ボールが空高く上がってしまった。
お願い。こっちには来ないで!でも、明らかにこっちに向かって来てるよね。
「センター、取って!」
マウンドにいる塩谷さんがそう叫んだのが聞こえた。センターって私だよね?
無理。無理、無理。どうしよう。野田さんを呼ぶ?でも、この場から動けないよ。
私はなんとか、グローブを頭上にかかげた。でも、つい怖くて目をつむると、ボールは私の後ろにポーンと落ちて行った。
「何やってるのよ、桜川さん!下手くそ!!!」
「ごめんなさいっ」
「謝ってないで、ボールを追ってよ!」
そうだ。慌てて後ろを振り返ると、すでに他の人がボールを取りに行っていた。
「あ~~~~あ」
結局、アウトにすることもできず、塩谷さんが大きなため息をついた。
う…。私のせいだよね。
「ドンマイ、桜川さん。今度その辺にボール来たら、僕が取りに行くから」
「すみません」
野田さんが笑ってそう言ってくれた。私はこのドンくささを、主任がどう思ったかが気になりファーストを見た。
あ、佑さんもこっちを見てる。でも、すぐに視線を逸らされちゃった。ああ、呆れたかなあ。
その回が終わり、落ち込みながらベンチに行くと、
「バッター、桜川さんから」
と野田さんに、バットを渡された。
うわ…。私から?
絶対に打てないよ。どうしよう。
「三振だけはしないでよね。なんでもいいから、打ってよ」
後ろから塩谷さんの、きつい口調の声と、
「塩谷、プレッシャーはよせ」
という、主任の声が聞こえた。
「桜川さん、気にしないでいいですよ」
振り返ると主任は微笑んでいた。私はその微笑になんとか微笑み返したつもりだったが、きっと引きつっているよね。
主任の前で、三振なんて恥ずかしい。そう思いながらバッターボックスに立った。
ドキドキ。怖いよ。
1球目、グルン!思い切りバットを振った。空振りだ。思い切り振ったから、倒れそうになった。
恥ずかしい。きっと、みんな呆れたよね。主任も呆れたよね。
次の球は、恥ずかしがっているうちに飛んできてしまったが、「ボール!」と審判が言った。その次の球は、かなり外れていたから、見送ったら「ボール!」。
そのあとも、私が見てもボールだとわかる球が続いて投げられ、見送り続け、私は塁に出られた。
ほっと胸を撫で下ろした。でも、ファーストでドキドキしていた。次、走らないとならないんだ。
次のバッターは塩谷さんだ。そして、ピッチャーは交代して男性が出てきた。わあ。速い球を投げてる。でも、塩谷さんは打つ気満々。そして、塩谷さんはヒットを打ち、
「行け!回れ!桜川さん、2塁に走って」
という、野田さんの声が聞こえた。
そうだった。ヒットを打っているのを見ている場合じゃない。走らなきゃ!
慌ててセカンドに向かって走り出した。でも、すぐに足がもつれ、思い切り私は転んでしまった。
痛い!どうしよう。こけた!
2塁を見ると、ボールが戻ってきていて、私はアウトになってしまった。
「何やってんの!なんで、そんなところで転んでるの!」
1塁から塩谷さんの怒鳴る声が聞こえた。ああ、最悪だ。ほんとになんだって私は、転んだりしているの?
情けなくて、このままどっかに消え去りたいくらいだ。
「大丈夫ですか?怪我は?」
気が付くと、主任がすぐ横にいて、そう聞いてくれた。
「…す、擦りむいただけです」
「立てますか?」
「大丈夫です」
主任が私の腕を掴み、私を立ち上がらせてくれた。でも、顔見れない。なんだか恥ずかしくて情けなくて。
「痛いですか?」
「いえ、大丈夫です」
本当は痛い。膝がズキズキする。それに手も。掌を擦りむいてしまっている。
でも、そんな痛さより恥ずかしさや情けなさが勝っている。
私は真広に連れられ更衣室に行った。
「大丈夫?伊織」
「うん。手、擦りむいちゃった」
「洗って、絆創膏はろうね」
「うん」
水道で手を洗った。擦りむいたところがしみて痛かった。
「はあ…。私って毎年怪我しているよね…」
「今年は特に派手だったね」
そう真広に言われ、もっと落ち込んだ。
「主任、どんくさいやつって思ったかな」
「そんなことないんじゃない?すごく心配していたし。帰り、主任の車で送ってもらいなよ」
「…送ってくれるかな」
「もちろんだよ」
「塩谷さんはすごいよね」
「あれはただの、体育会系バカ。気にしないでいいって」
バカは酷いよと言うと、真広はあははと笑った。塩谷さんには悪いけど、少し救われた。
手のけがの手当てをして、野球場に戻った。すると、主任が走って私のもとに来てくれた。
「大丈夫ですか?」
あ、すごく心配そうな顔をしている。
「すみません、転んじゃって」
「いえ。それより、怪我は?」
「擦りむいただけです」
「そうですか。良かった」
ほっとした主任の顔に、私もほっと安心して、ベンチに行こうとすると、
「足に怪我も?」
と、また主任の顔が曇った。
「あ、大丈夫です」
本当は膝が痛い。でも、膝の手当てはしていない。スポーツウェアのパンツも履いているし、手と違って擦りむけてはいないと思うし…。
はあ。情けない。主任には迷惑をかけっぱなしだ。私ってなんでこうも、かっこう悪いんだろう。いつも、そんなところばかり主任に見られている気がする。
ため息交じりに宙を見ていると、
「痛!」
と、菜穂さんの声が聞こえた。
「湯川さん、大丈夫?」
バッターボックスには、肩を抑えながらしゃがみこんでいる菜穂さん。その場に、わらわらとみんなが駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「打ったのはどこ?肩?冷やしたほうがいいかもしれないですよ」
○○電工の女子社員がそう言って、菜穂さんを更衣室に連れて行った。
みんなが今度は、菜穂さんの後姿を心配そうに見ている。そして、主任は菜穂さんにボールを当てた塩谷さんを怒っている。
「大丈夫かな」
ぼそっと呟くと、横で北畠さんが、
「なんだか、今年は怪我人が多いわね」
と、ため息をついた。
う…。そのうちの一人は私だよね。菜穂さんの場合は、ボールを当てられたんだから仕方ないけど、私なんて無様に転んじゃって、ほんと、情けないよ。
菜穂さんが戻ってきたのは、すでに試合が終わってからだ。大丈夫だったのかな…と、なんとなく菜穂さんを気にしていると、いつの間にか私の隣には塚本さんがやってきていた。
「大丈夫?怪我」
「あ、はい。たいしたことないです」
「災難だったね。塩谷さんはやけに張り切っちゃって、桜川さんにブチ切れてたけど、気にすることないからね」
「はい」
塚本さんは私の頭を、ぽんぽんとたたいた。なんで?勝手に触んないでほしいんですけど。これも、セクハラじゃない?
「車で送ってあげるよ」
「は?いいです。電車で帰れます」
私はそう言いながら、その場から離れようと歩き出した。すると、
「だから、足、怪我したんでしょ?引きずって歩いているじゃない。車で送ってあげるから、そのあと手当もしてあげるよ」
と、しつこく追いかけてくる。
「いいです。電車で帰ります」
「遠慮しないでいいって」
しつこい。遠慮じゃないってば。
「塚本さん!」
あ、主任!主任が飛んできてくれた!!
「ん?なんですか、魚住主任」
私はさりげなく、主任の影に隠れた。
「桜川さんは、家が近いんで僕が送ります」
「……。また、部下だからっていう理由でですか?」
「そうです」
「本当に、魚住主任は上司としての責任感が強いんですねえ」
主任の影に隠れたのに、塚本さん、また私に寄ってきた。
「でも、上司に家まで送ってもらうのは、桜川さんも気を使ってしまうよね。ちょっと気の毒だなあ」
「い、いいえ。あの…」
気なんか使わない。主任に送ってもらいたい。でも、ここはなんて言ったらいいのかな。
「ほら、桜川さんも困っている。それに魚住主任は、大事な部長の娘さん、送って行かないとならないんじゃないんですか?」
塚本さんはそう言うと私の肩に手をかけた。これもセクハラだ。なんだってさっきから、やたらと触ってくるわけ?
私はその手を振り払った。
「あ、あの。私、本当に大丈夫ですから、電車で帰ります」
「桜川さん。ちゃんと家まで送りますよ。足を怪我したのなら、手当もしますから」
「え、でも」
主任、嬉しい。でも、主任の後ろで恨めしそうに菜穂さんが見てる。
菜穂さんも、主任に送ってもらいたいんじゃないのかな。
「菜穂さんも送りますが、そのあと桜川さんのことも送ります」
え?菜穂さんのことも送るの?と、びっくりしていると、
「そうだよ。伊織、送ってもらいな。家も主任と近いんだし、電車じゃ大変だよ」
と、真広が私の後ろから話しかけた。
「そうですよ、主任に甘えたらいいんですよ」
振り返ると、野田さんまでがいた。
「じゃ、じゃあ…お願いします」
「はい。わかりました。着替えたら駐車場に来てください。僕も今から着替えてきます」
「…はい」
「じゃ、一緒に更衣室に行こう、伊織」
真広と一緒に更衣室に行った。複雑だ。菜穂さんのことも送って行くのか…。なんでかな。なんで、主任が。
更衣室で私はスポーツウェアのパンツを脱ごうとして、
「あ…」
と痛くて声を上げた。すると真広も私の膝の怪我に気が付いた。
「うわ。膝も怪我してるじゃん。絆創膏だけじゃ、手当てできないよ」
「う、うん」
「車で家まで送ってもらって、主任に手当てもしてもらいなよね!」
「主任に?」
「そうだよ。そのくらいしてもらっちゃいなよ」
「……恥ずかしいよ」
「これはチャンスなの。わかった?頑張って、伊織。あの部長の娘に負けたくないでしょ」
「え?うん」
真広にそう言われ、私も「主任を取られたくない」という思いが膨らんでいく。とそこに、
「桜川さん!」
と、でかい声をあげながら、塩谷さんが更衣室に入ってきた。
ああ、また嫌味でも言うのかな。と、身構えていると、
「主任に車で送ってもらうんでしょ?」
と、私につっかかってきた。
「何?怪我しているんだから、送ってもらってもいいでしょ?」
そう言い返したのは真広だ。でも、そんな言葉に耳も貸さず、塩谷さんは私の顔に顔を近づけ、
「いい?あの部長の娘を、主任に近づけさせないでよ。まずは、あの子の家に先に行って、そのあと桜川さんの家まで送ってもらうのよ。いい?」
と、脅すようにすごんで言ってきた。
「は?」
「あの女、絶対に主任を狙ってるの。そのために今日も来たのよ。同じ会社の人に送ってもらったらいいのに、主任に送ってもらおうだなんて、部長の娘だろうがなんだろうが、図々しいったらありゃしない。そう思わない?」
塩谷さんが真広の方を見て、同意を求めた。
「思う。なんで、うちの主任に送ってもらうんだろう。ほんと、同じ会社の上司が送るべきだよ」
うわ。真広が同意した。
「でしょ?だから、あの女が主任にくっつくのを絶対に阻止して」
塩谷さんの言葉にまた真広は大きく頷き、
「そうだよ。伊織。あんな女に主任を取られちゃダメだからね」
と、私に強く言ってきた。
え、えっと。私は思わず、うんと頷いたが、塩谷さんまでがそんなことを言ってくるとは思っても見なかった。
そして、3人で駐車場に向かった。塩谷さんなんて、私の荷物まで持ってくれた。
どうしたんだ?絶対に嫌味でも言ってくるかと思ったのに。
駐車場には、すでに主任がいた。菜穂さんがいないと思っていると、なんと主任の車の助手席に乗っている。
助手席?なんで?なんで、菜穂さんが助手席?とショックを受けていると、
「主任!部下である桜川さんが怪我しているんですから、しっかりと家まで送ってあげてくださいね」
と、塩谷さんが主任に強くそう言い出した。
「え?あ、ああ」
「主任!伊織の足の怪我、すごく擦りむいていて、血も出てて、痛そうなんです。早めに部長の娘さんを家まで送ってあげて、そのあとちゃんと手当してあげてください」
今度は真広だ。ズイッと主任の前に進み出てそう言った。
「え?足、そんなにひどいんですか?」
あ、主任がまたすっごく心配そうに聞いてきた。
「真広、大げさなんです。もう痛くないですから、大丈夫です」
私は主任が心配しないよう、笑ってそう返事をした。
「あ、なんで、助手席?!」
塩谷さんは、菜穂さんが助手席に座っているのを見てそう叫んだ。
「酔いやすいそうなんだ。桜川さん、悪いが後ろの席で…」
主任がそう言って私の方を見た。酔いやすい…。それで、助手席。
「い…、桜川さん。後部座席は嫌ですか?」
「いいえ。私、車酔いってあまりしないし、大丈夫です」
いけない。今、一瞬、また主任の顔が曇った。私はまた笑って返事をした。
「桜川さん、わかってるよね。阻止だからね。阻止」
そんな私の腕を掴み、そう塩谷さんが念を押した。私は小さく頷いた。
「魚住さん、すみません」
「はい?」
菜穂さんが、助手席から主任を呼んだ。
「腕が痛くて、シートベルトができないんです。お願いしてもいいですか?」
「あ、はい。今、します」
主任は運転席に乗りに行き、菜穂さんにシートベルトをしてあげている。ああ、やだよ。そんなに菜穂さんに近づかないで。菜穂さんも、なんで顔赤らめてるの。
「ほら。あれが手なんだよ。大人しそうな顔をして、ああやって男を手玉に取るんだよ」
ひそひそと、塩谷さんが私に耳打ちをした。そのすぐ横で真広も、
「あれはしたたかな女かもね。伊織、負けないでね」
と、私に小声で言ってきた。
したたかかどうかはわからない。でも、嫌だ。あんなふうに主任に近づかれ、顔を赤く染めているのなんて見たくない。
私も後部座席に乗り込んだ。乗る時、膝がズキンと痛んだ。
「すみません、桜川さん。後ろ、窮屈じゃないですか?」
主任が申し訳なさそうに私に聞いてきた。
「はい」
「足、痛くないですか?シートを下げたり、座りやすいようにしてくださいね」
「…大丈夫です」
私は笑顔で返事をしたかった。でも、どうしても笑えなかった。
私は助手席に菜穂さんが座っているのを見たくなくて、窓の外を見た。その席は、私が座っていたのに。シートベルトも、私がしてもらったのに。
足の痛みと胸の痛みがリンクする。ズキズキと、同じリズムで痛みだす。
「魚住さんって、運転上手なんですね」
「……。え?何か言いましたか?」
「運転、上手だから、私、佑さんの運転なら酔わないなって、そう思って…」
今、佑さんって言った?
私は一瞬耳を疑った。
「佑さんって呼んでも、いいですよね?」
嫌だよ。なんで、佑さんなんて呼ぶの?
「すみませんが…。魚住でいいですよ」
「でも、佑さんも私のこと、菜穂さんって呼ぶから」
「あ、すみません。湯川さんと呼んだほうがいいですね」
「いいえ。下の名前で呼んでください。そっちのほうが嬉しいです」
嬉しいなんて言わないでよ。ここから見てもわかるくらい、頬まで染めて…。
私はまた窓の外を見た。でも、景色なんて目に入ってこない。
「菜穂さん、部長から何か話を聞いていませんか?」
主任が静かに菜穂さんに聞いた。
「何も、何も聞いていません」
「……本当に何も?」
何か、主任は部長に話したのかな。
「……佑さんは、結婚願望がないんですか?」
ああ、結婚願望がないってことを話したのか。
「ないわけではないですよ」
「え?そうなんですか?」
あれ?今、主任、なんて言った?結婚願望があるってこと?
「……部長、なんて言っていたんですか?」
「…それが」
「はい」
「教えていただけますか?」
「それは、その…。魚住君は結婚を考えていないようだ。菜穂には他にもっといい人を紹介すると…」
「そうですか」
「だから、結婚願望がまったくないのかと思ったんですが…。もしかして、私と結婚を考えていないということなんでしょうか?」
菜穂さんは、後ろに私が乗っているのも気にせず、いや、もう私の存在なんか無視して主任にそんな話をし始めた。私はすごくその場に居づらくなって、息を潜めてずっと窓の外ばかりを見ていた。