第38話 ソフトボール大会の日 ~佑編~
伊織さんに、ちゃんとプロポーズをしないと。それに、部長に付き合っていることを報告してしまったことも言わないと。
だが、そう思えば思うほど、どう言っていいのかわからなくなってきてしまった。
情けない。きっと伊織さんは、プロポーズを受けてくれるだろうし、部長に報告したことも許してくれるだろう。だけど、もし、断られたらと思うと、なかなか話せなかった。
早くにプロポーズをして、式の日取りだの、伊織さんの両親に挨拶だの、することはたくさんあるのに。
結局何も動けないまま、土曜のソフトボール大会の日はやってきた。今日、菜穂さんはもう来ないかもしれないな。きっと、部長から僕のことを諦めるよう言われているはずだ。
帰りに伊織さんに車に乗ってもらって、僕のマンションでプロポーズをしよう。
来年も会社に残るかどうかは、伊織さんに決めてもらうことだ。それも、話さないと。
緊張する。そういう話をするっていうのは、緊張するもんなんだな。
「はあ、仕事のことなら、たいして緊張することもないんだが」
車を運転しながらも、僕は緊張していた。
グランドには、かなり早くに着いた。駐車場に車を停めていると、もう1台車が駐車場に入ってきた。その車から出てきたのは野田さんだった。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
野田さんはにこやかに、挨拶をした。
「朝早くから大変でしたね」
「早くに起こされるのは、毎回だから慣れっこですよ」
「土日でも?」
「子供が早くに起こしに来て、遊べ遊べとうるさいんです。今日は遊んでやれないから、奥さんがママ友と児童館に連れて行ってくれると言ってました」
「そうですか。お子さんがいると大変ですね」
「まあね。でも、楽しいですよ」
「野田さんは、家族思いなんですね」
何となく、車から降りたその場で立ち話が始まった。そうだ。野田さんにぜひとも聞きたいことがあったんだ。
「そう言えば、結婚して赤ちゃんが出来てからも、奥さん、働いていたんですか?」
「ああ、はい。8か月になるまで働いていました。同じ会社だから様子も見れるし、何かあればわかりますしね」
「なるほど。そう言う点では同じ会社に勤めているのはいいですね」
「はい」
そうか。同棲もしていたんだよな、確か。
「その…。一緒に住むことになったきっかけとかあるんですか?」
「きっかけ?ん~~~。二人とも一人暮らしをしていて、彼女がうちによく来るようになって、泊まっていく回数も増えて、だったら一緒に暮らしちゃえ…みたいな、そんな感じかな」
「なるほど。あ、部長に聞いたんですが、式は挙げていないんですか?」
「はい。でも、身内だけで披露パーティみたいなのはしましたよ。籍入れてすぐに。奥さんが安定期の頃でした。ドレス着て写真も撮って…」
「なんで、式は挙げなかったんですか?」
「会社の人間を披露宴に呼ぶのがややこしかったので、もう、披露宴とか、式とか省いてもいいかってなりまして」
「ややこしい?」
「仲人とか、誰に頼むか悩んじゃって。僕の上司と、彼女の上司、仲悪かったんですよ。どっちに頼んでも角が立つし、披露宴に二人を呼ぶのすら、呼びにくい雰囲気があって」
「ああ。前に派閥争いがあったそうですね。で、負けたほうが大阪に飛ばされたとか」
「彼女の上司が飛ばされました。面倒ですよね、会社っていろいろと」
「そうですね」
「同じ部署だったら問題はないんですけどね。同じ上司になるわけだから」
「ああ、そうか…」
僕はそう呟きながら、宙を見た。すると、
「結婚、考えているんですか?主任」
と、野田さんに突然聞かれた。
「え?はい?」
びっくりして野田さんを見ると、野田さんは、
「もしかして、部長の娘さんと?」
と、聞きづらそうな感じであたりを気にしながら聞いてきた。
「いいえ。違います」
「あ、違うんですか」
「そんな噂があるんですか?」
「え?いや。噂と言うか…。ああ、言っちゃってもいいかな。でも、僕がばらしたって課長には言わないでくださいね」
課長か…。
「実は、昨日課長に呼ばれまして、部長の娘さんが明日来るから、魚住主任との仲を取り持つ手伝いをしてくれと」
「課長が、野田さんにそんなことを」
「部長から頼まれているんじゃないんですか。僕は、そういうの苦手なんでと、断っちゃいましたが」
「え?断った?」
「はい。だって、僕は部長の娘さんのことあまり知らないし。まあ、もしかすると主任には部長の娘さんと結婚したほうが、出世に有利なのかもしれませんが…。でも、どうしても、僕的には桜川さんが…」
伊織さん?
「桜川さんが…、なんですか?」
「あ!いや。これも、もう主任も気づいていると思うので、はっきり言っちゃいますが」
「はい」
「桜川さんのことを応援しているんですよ。僕たちは」
「僕たち?って?」
「課長は、部長に頼まれているから、桜川さんの応援はできないでしょうけど、課の他のみんなは、桜川さんの応援をしようって、そういうことになっていて」
「みんなで?」
「全員じゃないですよ。塚本さんなんか、応援どころか、桜川さんのこと狙っていますし」
「やっぱり?」
「あ、それもわかっていましたか」
「………。でも、なんでまた、桜川さんの応援をしたいと思うんですか」
「そりゃ、魚住主任が来てから、彼女変わりましたからね。真面目ではあったんですけど、今より全然楽しそうじゃなかった」
「……」
「今、見ていても彼女、輝いていると言うか、張り切っていると言うか。主任に頼まれたりすると嬉しそうだし、褒められると、すっごく喜んでいるの、丸わかりだし」
やっぱり、みんなもわかっていたんだな。まあ、わかりやすいもんなあ。
「そんなの見ちゃったら、応援したくなるってもんですよ。で、主任は?主任と話す時、あんなに真っ赤になっている桜川さん見ていて、なんとも思わないんですか?」
「それは…」
とそこに、もう1台車が入ってきて、そこから、経理の子が現れた。
「魚住主任、おはようございます」
「おはようございます」
「あれ?野田さんと一緒に来られたんですか?」
そう言いながら、その子は車から荷物を出した。すでにスポーツウェアを着ている。
「いいえ。自分の車で来ましたが」
「えええ?!」
なんだ?なんでそんなに驚いたんだ?
「主任、荷物ロッカーに入れて、グランド行きますか」
「ああ、そうですね」
ぼおっと佇んでいるその子をその場に残し、僕と野田さんはさっさとロッカールームに行った。そして、荷物をロッカーに入れ、野田さんも僕もスポーツウェアで着ていたので、そのままグランドに向かった。
軽く屈伸をしたり、アキレス腱を伸ばしたりしながら、野田さんはまた話し始めた。
「で、どうなんですか」
「何がですか?」
「だから、桜川さんですよ」
「……そのことですか」
まいったな。ここは、なんとか誤魔化したほうがいいんだろうな。
「そういうことは、ここでは話さないほうが…」
「嫌なわけはないですよね」
「え?」
「桜川さん、この前主任の肩にもたれかかって、寝ていた時も、嫌がっていませんでしたよね」
「ああ、あの時」
「桜川さん、いいと思いますよ。なんかこう、癒されるって言うか」
野田さんもそう思うのか。
「まあ、でも、部長の娘さんが今日来るそうだし、主任が誰を選ぶかは自由なんですけどね」
「………」
野田さんはいきなり黙り込んで、その場で軽くジャンプしたり、体を回してストレッチをしたりし始めた。
「おはようございます!」
経理の子たちだ。その後ろから伊織さんと溝口さんも現れた。
「おはようございます」
伊織さんのスポーツウェア姿、なんか似合っていないな。チグハグな感じだ。あまり、運動とかしないんだろうな。
「桜川さん、準備運動しっかりしておいたほうがいいですよ」
「あ、は、はい」
伊織さんは、その場でストレッチを始めた。でも、どこかおぼつかない。
「桜川さん」
「はい?」
僕は桜川さんのそばに行き、
「今日、あまり無理して怪我しないようにしてください。聞けば、毎年怪我をしているそうじゃないですか」
と忠告した。
「大丈夫です。無理はしません」
「本当に気を付けてください。怪我して仕事休まれたら困りますからね」
「はい」
「なんだ。仕事の心配?」
溝口さんの、嫌味たっぷりな声が聞こえた。仕事の心配じゃない。本人を心配しているんだ。ったく。
「溝口さんは、真面目にやってくださいね」
と、僕も嫌味たっぷりに言い返してやった。
「は~~~い」
いつものふてくされた返事の後、
「ね?感じ悪いでしょ?それなのにどこがいいわけ?」
と、こそこそ言う溝口さんの声も聞こえた。
伊織さんに言っているのか?と思い、何気に振り向いて見てみると、経理の子に話しかけていた。
…もしや、あの経理の子、僕に気があるのか。そう言えばいつも、やけに話しかけてくるよな。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
あ、菜穂さんだ。来たのか。来ないかと思っていたのにな。
「おはようございます」
軽く挨拶をして僕は、野田さんの方に戻った。
「ウォーミングアップしますか」
「そうですね」
野田さんはちらっと菜穂さんを見てから、僕についてきた。それから、キャッチボールをしだすと、
「主任、なんでまた桜川さんにだけ、あんなふうに声をかけたんですか?」
と聞いてきた。
う…。なんでもいいだろ。心配だったのもあるし、話がしたかったんだ。ずっと、最近話もしていなかったし。
「部長が言っていたんですよ。桜川さんは毎年怪我をしているって」
「ああ、それで…。へえ」
野田さんは、にやっと笑った。
本当は僕らが付き合っていることを知っているんじゃないのか。知っていてわざと、知らないふりをしているんじゃないのか、野田さんは。
みんながグランドに集まったので、試合が始まった。桜川さんは、最初はベンチ入り。3回からセンターに入り、ボールがこっちに来ないで…と祈るような目で、棒立ちをしている。
僕はファーストを守っている。セカンドは野田さんだ。ピッチャーは塩谷。中学、高校はバスケ部だったらしいが、小学生の頃、男と混じって野球チームに入っていたとかで、速くて正確な球を投げていた。
相手チームの女性陣には、打てるような球じゃなかった。みんなが三振をしていくが、さすが男性陣は、うまく当ててくる。
「センター!取って!!!」
塩谷がちょうど、伊織さんの方に飛んで行った球を見ながらそう叫んだ。
「え?ええ?」
伊織さんはびっくりして、空を見上げてグローブを頭上に掲げたが、ボールは伊織さんの後ろに落ち、そのまま転がって行った。
「何やってるのよ、桜川さん!下手くそ!!!」
「ごめんなさいっ」
「謝ってないで、ボールを追ってよ!」
塩谷がそう叫んでいる間に、レフトにいるやつがボールを取った。でも、遅かった。打った奴は一塁にすでにいる。
「…あ~~~あ」
塩谷のため息、わざとらしいくらいでかい。
「ドンマイ、桜川さん。今度その辺にボール来たら、僕が取りに行くから」
野田さんがセカンドからそう言うと、桜川さんは泣きそうな声で、
「すみません」
と、謝った。
ああ。塩谷の奴。なんだか、頭に来るよなあ。
でも、なんとか次の打者をファーストゴロで打ち取り、失点なしでその回も終えた。
「バッター、桜川さんからか」
野田さんがそう言うと、桜川さんは暗い顔をしてバットを持った。
「三振だけはしないでよね。なんでもいいから、打ってよ」
「塩谷、プレッシャーはよせ」
そう僕が注意をしても、塩谷は伊織さんを睨んでいる。まったく、なんだってこうなんだか。
「桜川さん、気にしないでいいですよ」
僕がそう言うと、伊織さんはほんの少しの笑みを見せた。でも、緊張している様子が手に取るようにわかる。
「もう、伊織、真面目だから、適当に三振して終わらせてもいいのに」
ぼそっとそう溝口さんが言った。
それを、塩谷が睨みつけたが、
「真面目に頑張ろうとして、毎年怪我するんだよねえ」
と、溝口さんが話を続けると、塩谷も、
「そんなに運動神経ないんだったら、ベンチにずっといたらいいのに」
と、もう伊織さんに期待をするのをやめたらしい。
黙ってみんなが、バッターボックスの伊織さんを見守った。すると、一回、空振りをしたが、そのあと相手チームのピッチャーの女性が疲れてきたのか、続けざまにへなちょこのボールを投げ、運よく伊織さんは塁に出た。
「ピッチャー、交代」
早速相手チームの監督をしている部長がそう声を上げ、今度は体格のいい男性がマウンドに上がった。
「よし。塁に出たし、ここはヒットかホームランで、点を取らないとね」
次のバッターの塩谷はそう言いながらバットを持って、ブルンブルンと振り回し、バッターボックスに入って行った。
すごい腕力だな…。と思いつつ、今度はみんなが声援を塩谷に送り、塩谷は2投目まで、続けてファールを打った。
「おしい」
そんな声がこちら側のベンチから聞こえた。そして、次のボールを、思い切り振りきり、塩谷は3塁打を打った。
「行け!回れ!桜川さん、2塁に走って」
野田さんがでかい声でそう言った。
「伊織、頑張って」
そう溝口さんも声を上げた。
あっという間に塩谷はファーストまで走ったが、伊織さんは慌てたのか、思い切り転んでしまった。
「ああ!」
みんながどよめく中、ボールはセカンドまで戻り、伊織さんはアウト。
「何やってんの!なんで、そんなところで転んでるの!」
「塩谷!」
僕は塩谷の罵倒の声を止めさせ、伊織さんのもとに駆けて行った。
「大丈夫ですか?怪我は?」
「…す、擦りむいただけです」
「立てますか?」
「大丈夫です」
そう言いながらも、伊織さんは目に涙を浮かべている。
「痛いですか?」
「いえ、大丈夫です」
ああ、こんな時まで遠慮しないで。そんなことを思いながら、伊織さんの肩を抱き、僕はベンチまで連れて行った。




