第37話 この先は? ~佑編~
塩谷と会社に戻ったのは6時過ぎ。課には数人残っていたが、もう伊織さんの姿はなかった。
「お疲れ様でした、主任」
なぜか北畠さんが残っている。珍しく残業か。
「お疲れ様です。残業ですか?」
「はい。でも、そろそろ帰ります。主任は?」
「これから報告書を作成するので、もう少しかかりますが…」
「コーヒーでも入れましょうか?」
そう北畠さんが言うと、上着を脱いで一度席に着いた塩谷が立ち上がり、
「私も飲みますから、主任の分も入れてきます」
と、コーヒーを入れに行ってしまった。
「…もう帰っても大丈夫ですよ、北畠さん」
「はい。失礼します」
残念そうな顔をして、北畠さんは部屋を出て行った。
「はい、どうぞ」
塩谷は淡々とそう言って、僕のデスクにコーヒーを置いた。
「塩谷、さっさと報告書を作るぞ」
「はい」
二人で黙々とパソコンを打ち、作業をしていると、
「お疲れさん、残業?」
と、湯川部長が僕のデスクにやってきた。
「部長、こんなに遅くまで珍しいですね」
「うん。いろいろとすることがあってね」
ああ、本部長になるんだもんな。忙しいのかもしれないな。
「土曜のソフトボール大会も楽しみにしていたのに、行けそうもないんだ。悪いが、菜穂が参加するから、魚住君頼むよ」
「は?」
頼む?
「初めて参加するし、菜穂はあまり運動神経もいいほうじゃない。いろいろとフォローを頼んだよ」
「お言葉を返すようですが、主任は私たちのチームなんだし、部長の娘さんは敵チームだし、フォローとかできないと思いますけど」
うわ。塩谷、部長に対して、そんな態度を!いつもなら、目上の人にはペコペコしているくせに、どうしたんだ。
「試合中は、敵になるかもしれないが、でも、菜穂が怪我したりしないか見守ってくれないか、魚住君」
「…一応、部下のことも面倒見るつもりで行きますので、菜穂さんのことまで見れるかどうか…」
そう言うと、部長は一瞬ぴくっと眉間に皺を寄せた。
「うちの課の女性陣、まあ、塩谷は体育会系で運動神経いいから大丈夫ですが、残りの…、3人が」
「ああ、北畠さんだったら、試合にはいつもでないよ。ベンチで見ているだけだ」
「そうなんですか」
「それから、溝口さんは運動神経いいよ。高校ではダンス部だったらしい」
「へえ、そうなんですか」
「あとは…、桜川さんか…」
そう言うと部長は黙ってしまった。なんでだ?
「桜川さん、とろいんですか?部長」
塩谷!なんだって「とろい」とか言うんだ。
「ははは。とろいということはないんだがねえ、ただ…。運動神経がいいとは言えないかな。毎年、転んだり、ボールが当たったりで、怪我をしているようだったから」
え?
「それ、とろいんじゃ…」
「塩谷、口のきき方に気をつけろ。桜川さんは多分、運動が苦手なんだ」
「そうそう。苦手みたいだね。でも、毎年ちゃんと参加するんだよ」
そうか。今年も怪我しないといいんだが…。
「心配ですね。桜川さんが怪我して休むようなことがあれば、課の仕事にも支障が出ますし」
「え?主任、事務が一人休んだくらいで、大丈夫ですよ」
「塩谷、名古屋支店と違って、東京の事務の子は、たくさん仕事を抱えているんだ。取引先が多い分、受注も多い。休まれたら、誰かほかの人間がその仕事をしないとならないんだ」
「へえ、本社の事務はそんなに大変なんですか。そう見えないけど」
塩谷。いちいち嫌味なことを言うな。こいつは。
「そうだね。休まれたら大変だ」
「やはり、菜穂さんのことまでは見れないと思います。すみませんが…」
「うん、まあ、菜穂にも無理しないように言っておくが…。ちょっと、いいかな、魚住君」
部長に言われ、僕は席を外して、部長と応接室に入った。
「菜穂は、君に会うのを楽しみにしていてね。できれば、帰りは魚住君、菜穂を送ってくれないか」
「は?」
「菜穂は、相当君のことが気に入ったらしい」
まずい。嫌われようとしたのに、なんで気に入られているんだ。
「そのことですが、部長。あまり期待されても、僕は…」
「うん。南部課長に聞いたよ。結婚願望が薄いんだってね?」
「はあ…」
いや、そうじゃない。今はそうじゃない…。ここは、ちゃんと言うべきだ。
「課長がそう言っていたんですか?確かに前は、あまり結婚願望がありませんでしたが、今は違います」
「そうか。じゃあ、菜穂との結婚を」
「いえ。僕は今、お付き合いをしている女性がいます」
「……え?そうなのか?」
部長、目を丸くしたな。課長は、僕が付き合っている女性がいると、部長に報告しなかったんだな。
「それは、結婚を前提としたお付き合いなのかな?」
「はい」
「そうか。じゃあ、近いうちに結婚もするということなのかな?」
「…まだ、日取りも決まっていませんし、結婚をはっきりとは決めていませんが」
「そうか。じゃあ、菜穂のことも候補に挙げてくれてもいいんじゃないかな」
そう来たか。確か、課長にもそんなことを言われたよな。
「すみませんが、僕は付き合っている女性との結婚を、本気で考えているので、他の女性とは…」
「そうなのか。それは驚きだ。仕事一筋で、結婚も、女性とのお付き合いもあまり興味ないのかと思っていたよ」
「…はい。以前はそうでしたが」
「魚住君、まさかと思うが、菜穂との結婚を断るために、嘘をついているわけではないだろうね?」
「はい?」
「架空の女性と付き合っている…わけではないよね?」
「はい。もちろん違います。ちゃんと、お付き合いをしている女性がいます。結婚も考えています」
何度も結婚と口にして、僕は自分で驚いた。僕はすでに、伊織さんとの結婚をこんなに真剣に考えていたのか。
「長いお付き合いなのかな?その女性とは」
「いえ。本社に来てからですので、まだ日は浅いですが…。ですが、その女性とは結婚というか、ずっと一緒にいたいと思いましたので」
「ほお…。そうなんだ」
興味津々という目で部長は僕を見た。
「君を本気にさせたのかな、その女性は。いったい、どんな女性なんだろうね。本社に来てからと言うと、もしかして社の女性かな?」
するどい。
「結婚を考えるほど、素晴らしい家庭的な女性なんだろうね。きっと菜穂よりも」
あ…。そういうことか。菜穂さんと比べて劣るようなら、菜穂のことも考えてくれ…とか言い出す気かもしれないな。
どうしたらいいんだ。ここはもう、正直に言うしかないのか。
「家庭的…と言うと、少し違うかもしれないですが。その…。ただ、一緒にいると癒されると言うか、なぜか仕事を頑張れると言うか」
「ん?もしかして、うちの部の女性かな?」
やっぱり、するどい!
「……」
僕は思わず、部長の顔を見たまま黙ってしまった。
「……魚住君、もし、部の女性だったら、僕も知っておいた方がいいと思う。相手が誰なのか教えてくれないかね?」
「まだ、結婚がはっきりと決まっていないので、あまり皆に知られないほうがいいと思っています。ですから、部長の胸に留めておいて下さいますか?」
「もちろんだ。誰にも言ったりしないよ」
「……桜川さんです」
「え?」
「桜川伊織さんです」
僕はもう1度、はっきりとそう言った。
「……そうか!いや、癒されると言うから、もしやそうかと思ったんだが。そうか!それはよかった!」
満面の笑みだ。まるで、自分の娘の結婚が決まったかのような。
「そうか、そうか。それはよかった。いや、実は桜川さんが君に気があると言う噂を聞いたもんでね。ほら、桜川さんは奥手と言うか、今迄浮いた噂も何もなかったし、お付き合いをしている男性がいるようにも見えなかったから、気になっていたんだよ」
そんなにみんなして、心配していたのか。
「そうか。桜川さんかあ~~~」
そう言うと、部長は嬉しそうににやついた。本気で喜んでいるようだ。
「じゃあ、仲人は…。いや、菜穂のことを考えると、仲人を引き受けるのもなあ」
「あの、まだ正式に結婚が決まったわけではないので、そういうことは」
「あ、そうだね。正式に決まったら、また報告してくれ。で、桜川さんは結婚したら、退職をするのかな」
「それも、まだ…」
「そこは、早くに決めないと、11月になったら人事から聞かれるよ」
「何をですか?」
「事務職の子が、来年度までいるかどうかだよ。辞めるとなると、4月から新人を入れないとならないからね。我が社はあまり、派遣の子を使わないから、結婚が決まっていたり、転職したいという子には、なるべく3月で辞めてもらっているんだ。まあ、引継ぎもあるから、4月までいてもらうこともあるけどね」
そうか。そういう兼ね合いもあるのか。もし、来年春で辞めないとすると、あと1年結婚できなくなるのか?
「あの、結婚しても桜川さんが仕事を続けると言うのは、難しいんでしょうか」
「今まで、部著が違っていて、結婚後も奥さんの方が仕事を続けると言うパターンはあったね。だが、同じ部で、それも課まで同じだと、結婚後、どちらかが違う部署に異動させられることになるかもしれないね」
「今までもそうだったんですね」
「いや、そういう例がなかったからなあ。たいてい、奥さんになる人が結婚退職しているから」
そうか…。
「結婚しても、一緒の課で働きたいのかね?そんなに桜川さんにいつでも、そばにいてほしいのか?魚住君」
「は?い、いえ。違います。彼女が仕事を続けたいと言ったら、続けてもらいたいと思っただけで…」
「ははは。なんだか、そうは見えないが、実は尻に敷かれているのかな?」
「い、いえ。そういうわけでも…」
「まあ、籍だけいれて、あとで式を挙げるという人も増えているしね、野田君も確か、先に一緒に住んで、子供が出来たから籍を入れ、そのあともしばらく奥さんは働いていたね。出産を理由で退職したと思うよ」
「そうだったんですね」
「うん。式は挙げてなかったと思うなあ。そういう人も増えているよね。君は?式は挙げるよね」
「それもまだ、決めていないので…。彼女と話してみないとわかりません」
「そうか。あ、まさか、もう一緒に住んでいたりするのかい?」
「いえ、それはまだ」
「そうか。でも、結婚する気でいるんだね?ちゃんと結婚する気でいるんだよね?」
「はい」
なんか、部長、顔が険しくなったぞ。
「よかった。桜川さんは、ほら、見てわかるように純粋だろう。遊びで付き合うタイプでもないし、真面目に誠実に考えてくれているのなら、本当によかったよ。途中でぽいっと捨てるなんてことしないよね?魚住君」
「もちろんです。本気ですから」
「そうか!よかった。桜川さんが傷ついたりするのは、見たくないからねえ。やはり、部下には幸せになって欲しいんだよ。彼女、いろいろと会社に入って体を壊したりと、苦労したしね」
「はい」
「大事にしてあげてくれ。ずっと見守ってきていたから、娘みたいなもんだしなあ」
「そうなんですね」
「…菜穂にはきっぱり諦めさせよう。僕も桜川さんには幸せになって欲しいからね」
「はい。よろしくお願いします」
「うん、わかった。また、結婚がはっきりと決まったり、籍を入れるようなことがあったら、報告してくれ」
「はい」
部長はやたらとにこにこしながら、応接室を出て行った。ずっと立ったまま話をしていた僕は、気が抜けてそのままソファに座り込んだ。
「はあ」
かなり、緊張した。結婚の話というのは、緊張するもんなんだな。だが、課長が言っていたように、部長は桜川さんのことを大事に思っていたんだな。
「これは、早くにちゃんと結婚を決めないとな」
伊織さんに、部長に報告をしたと言ったら、びっくりするかな。そりゃ、驚くよな。勝手に話してしまったことを怒るだろうか…。
伊織さんは僕との結婚を、ちゃんと考えてくれているのかな。あ、その辺もまだ、確認していなかったのに、勝手に部長に話してしまった。
「……」
もし、断られたら、僕はどうしたらいいんだ?
一瞬、そんなことを考えたら、背筋がぞくっとした。ずっと隣にいてくれると思い込んでいる伊織さんが、僕から離れて行ったらと思うと…。
「まいった」
まったく、一人でも大丈夫だったのにな。
「主任?」
トントンと応接室のドアを塩谷がノックしてきた。
「今、行く」
顔を引き締め、応接室から出た。
「報告書、できました」
「早いな」
「はい。お腹すいたので、ご飯でも食べに行きませんか?今日の仕事の件でお話もあるので」
「そうだな」
塩谷と会社を出て、隣のビルの地下に行った。
「仕事の話なんだから、酒は無しだぞ」
「はい」
珍しい。素直に聞いたな。そう思いつつ、塩谷と天ぷらの店に入った。
「……主任」
「なんだ?」
なんだか、さっきから静かだが、どうしたんだ?
「部長の娘さんとお付き合いするんですか?」
「いいや」
「でも、部長、今度本部長になりますよね」
「ああ」
「じゃあ、主任の出世に関わるんじゃ…」
「別に、部長はそんなこと考えていないだろ」
「さっき、私、つい苛立ってあんな言い方しましたけど、部長、怒っていませんでしたか?」
「別に塩谷のことは怒っていない。だが、やはりああいう言い方は部長に失礼かもな」
「すみません。つい、主任が結婚…、いえ、お付き合いをするかと思ったら、頭に来て」
「おいおい。僕が誰と付き合おうが、結婚しようが塩谷には関係ないだろ」
「大有りです!私は、主任と一緒にずっと働きたいんです。主任の仕事のパートナーとしてこれからもずっと」
「ああ、塩谷は仕事のパートナーだと思っているぞ」
「……嬉しいです。でも、主任が結婚したら…」
「結婚しても、仕事は仕事だ。この会社で働いて行くつもりだし、塩谷とはパートナーでいると思うけどな」
「…会社、辞めたりしないですね?」
「安心しろ。部長の娘と結婚しなくても、辞めさせられたりしないから」
「左遷とかもないですよね?本社勤務ですよね?私がせっかく本社に戻ってきたのに、主任がどっかに飛ばされるなんてことないですよね?」
「ないから安心しろ」
「結婚もしないで、今迄通り、バリバリ仕事オンリーでやっていきますよね?」
何を心配しているんだ?
「結婚してもしなくても、今迄通り仕事はする。安心しろ」
「結婚したら、主任、変わっちゃうんじゃ…」
「そうだな。プライベートの部分は変わるかもしれない。だが、結婚することで、もっと仕事を頑張れるかもしれないだろ?どう変わるかはわからないさ」
「仕事を頑張れる?」
「ああ。今迄は自分のためだけだったが、結婚したら、家族のためにも頑張ろうってなるかもしれないだろ?」
「そういうの、私にはわかりません。私は結婚するつもりないですし」
「そうか」
「主任が相手なら、考えなくもないですけど」
「……え?」
どういう意味だ?
「お互い、結婚したとしても、仕事頑張れるかもって思います」
「僕と塩谷が結婚したらか?」
「はい」
「それはどうかな。仕事だけのパートナーだからやっていけるが、プライベートまで一緒だと、ぶつかり合うんじゃないのか?」
「そんなこと、わからないです」
「わかるよ。塩谷とは一緒にいても、癒されると言うことはないし、仕事では刺激し合ってやっていけるだろうが、家では多分、お互い寛ぐこともできないと思うぞ」
「………」
「悪いけど、塩谷も僕と一緒にずっといても、疲れるだけだと思う」
「……仕事だけのパートナーだったら、うまくいくっていうことですか?」
「ああ」
「そうですね。…そう割り切るのが一番なんですよね」
塩谷?
暗い表情のまま、塩谷は帰って行った。
今まで、こんなことは一度もなかった。上司として信頼され、仕事の上でだけの付き合いだった。それ以上を求められたこともないし、こっちだって求めたことはない。
いや…。名古屋にいた頃、面倒を見過ぎていたのかな。だが、女性として見たことはない。他の男性社員と同じように接してきた。塩谷もそれはわかってくれていたと思う。それとも、何か勘違いさせることをしてしまったんだろうか。




