第36話 一つの布団 ~佑編~
夢の中にいた。伊織さんがいて、ほんわりと幸せを感じている夢だ。でも、僕はなぜか高校生だ。学校から帰ると伊織さんがいて、僕は伊織さんのために夕飯を作り、一緒に食べた。伊織さんがお酒を飲み、ソファで寝てしまい、僕は毛布を伊織さんにかけた。
高校生の時の僕は、姉や母の面倒を見ていた。夢の中には姉も母もいなかった。一緒に暮らしているのは、伊織さんだった。
早くに大人になって働いて、伊織さんと結婚するんだ。と、夢の中で僕は思っている。なんとも変な夢だ。
ふっと目が覚めた。部屋が真っ暗だったはずなのに電気がついている。
「伊織さん?」
「た、た、佑さん?!ななな、なんで?!」
「あ、しまった。寝てた」
少しだけ添い寝をするつもりだったのに、寝てしまった。
「…今、何時ですか?」
「え?い、今?時計、時計」
伊織さんは慌てふためいている。僕は自分の腕にはめていた時計を見た。夜中の1時半。
「あ、もう終電ないな」
そう呟いて伊織さんを見た。真っ赤になりながら、僕を見ている。
「すみません、泊まっていっていいですか?」
「え!?」
「あ、しまった。仕事、持ち帰ってたんだ」
思い出した。やばい。仕事もしないと…。
「伊織さん、顔、洗ってきていいですか?」
「はは、はいっ。どうぞ」
「じゃ、勝手にタオルも借ります」
「あ、歯ブラシも予備のがあるんです」
僕が洗面所に行くと、伊織さんもあとをついてきてそう言った。そして僕に歯ブラシを手渡した。
「…青の歯ブラシ…ですか」
「え?ダメでしたか?」
まさか、僕のために買っておいた…とか?
「…男物?」
そう聞くと、伊織さんは慌てまくった。
「いえ。そういうわけじゃ。あ、妹が泊まっていく時のために買ったもので。私が赤の歯ブラシだから、色を変えて買っただけで、別に佑さんのために買ったわけじゃ…」
「ふうん」
僕は伊織さんの顔をじっと見た。伊織さんは真っ赤になって、
「う、嘘です」
と、俯いた。
「え?」
「本当は、前に佑さん、私が熱出した時に朝までいてくれましたよね」
「はい」
「そのあと、すぐに買っておいたんです。また、泊まっていくこともあるかもって思って」
「へえ、用意周到ですね」
そう言うと伊織さんが僕の顔を見て、また慌てたように何か言おうとした。でも、何も言葉を発することなく、黙り込んだ。
「じゃあ、今度は、僕の着替えも置いておいてもいいですよね?僕のマンションにも、伊織さんの歯ブラシや、着替えも、化粧品も置いておいたほうがいいとも思いますが。どうですか?」
「え?佑さんのマンションに?」
「伊織さんが僕のマンションで、酔って寝てしまったり、熱出して寝てしまったりすることが、これからもあるかもしれないですよね?」
「あ、そ、そうですよね」
伊織さんが顔を引きつらせて笑った。悪かったかな。つい、からかうように言ってしまった。だが、伊織さんはすぐに真っ赤になるし、慌てるし、可愛いから、ちょっとからかいたくなる。
「顔洗って目を覚まして、仕事します。伊織さんは寝ていていいですよ」
「いえ。そんなわけには。私のせいで、佑さん帰れなくなったんですから。あ、お腹空いていないですか?」
「腹は減ってません。ただ、喉が乾いていますけど」
「お茶、あ、紅茶かコーヒー淹れますか?」
「じゃあ、眠気覚ましにコーヒーを…」
「はいっ」
伊織さんは、すぐにキッチンに行き、コーヒーを入れてまた戻ってきた。
「どうぞ」
「…ありがとう」
パソコンの横にそっとコーヒーを置き、なぜか伊織さんはちょこんと離れたところに座った。
「くす」
なんで、あんな離れたところにいるのかな。もしかして、仕事の邪魔をしないようになのかな。くすっと笑うと伊織さんは、不安そうな顔で僕を見た。
「なんか、いいですね。仕事をしていると、コーヒーを持って来てくれる伊織さん」
「え?」
そう僕が言うと伊織さんは嬉しそうに笑った。
「じゃ、会社でもコーヒー淹れて持っていくようにします」
「ダメです」
「は?」
「家でだから、意味があるんです」
「え?」
「会社じゃ、ただの部下と上司でしょ?」
「え、はい」
「家でこういうことをしてくれると、なんだか、家族みたいな、夫婦みたいな…。そんな感じがして、嬉しかったんですよ」
「夫婦?!」
あ、真っ赤だ。
「会社ではいいですよ。自分でコーヒーいれに行きますから」
「は、はい」
伊織さんはそのあとも、赤くなりながらちょこりんと座って僕を見ていた。僕は、伊織さんの視線を感じながら仕事に没頭して、30分で終わらせた。
「終わった」
「え?もうですか?」
「はい。すみません、付き合ってもらって。もう、あとは明日会社でちゃちゃっと済ませますから、寝ましょうか」
「あの、うち、布団が一組しかなくて。美晴が泊まっていってもいいように、買っておこうと思いつつ、ずっと買っていなくって」
「いいですよ。布団は僕が泊まってもいいように買わないでも」
「は?」
「一緒の布団のほうが嬉しいですし」
あ、伊織さん、真っ赤になって慌てまくってる。くす。
「言っておきますけど」
「はいい?!」
「もう2時半ですし、早めに帰ってシャワーも浴びたいですし、即行寝ますよ」
「は、はい」
「だから、手は出しません。安心してください」
「そ、そ、それはもちろん、あの、別に手を出される心配をしたわけじゃ…」
しどろもどろだ。可愛いよなあ。こんな伊織さんに手を出せるわけがないじゃないか。
伊織さんは、着替えをしに行って和室に戻ってきた。長袖のTシャツとスエット。それも、なんだかいつもの伊織さんと違って可愛らしい。だけど、僕のパジャマを着ていた伊織さんのほうが、さらに可愛らしさが倍増していたよな。
「伊織さん、この前僕のパジャマ着ていた時、可愛かったんです」
「は?」
「袖とか長くて、指まですっぽり隠れて…」
「あ、だって、佑さんのパジャマ大きいから」
「あれ、可愛かったから、うちに泊まる時は、僕のパジャマ着たらいいですからね?」
そう言うと伊織さんは、また赤くなった。
僕はそれからトイレに行った。そして戻ってくると、なぜか伊織さんは布団にちょこんと正座をしていた。
「くす。なんで、正座しているんですか?寝ててよかったのに」
「あ、は、はい。そうなんですけど」
すぐに伊織さんは立ち上がり、
「電気消しますよ」
と僕は電気を消そうとした。
「あ、豆電球はつけておいてください。私、真っ暗はどうも苦手で」
「そうなんですね」
豆電球だけ残して電気を消すと、なぜか伊織さんは立ったままでいる。
「寝ないんですか?」
「寝ます」
「じゃあ、布団に入らないと」
「ですよね?」
「手、出しませんよ。ってさっきも言いましたよね?」
「はい。そうなんですが」
「え?まさか、手、出してもいいんですか?」
「違いますっ!!!ただ、どう布団に入っていいかわからないだけで」
「は?」
「あ、いえ。えっと。寝ます。おやすみなさい」
伊織さんはそう言うと、のそのそと布団に潜り込んだ。だけど、布団の端から移動しようとしない。
僕は布団を持ち上げた。
「そんなに端に寝ないでもいいですよ。布団からはみ出ているじゃないですか」
「え、でも」
「もう少し、こっち」
布団に横になり、伊織さんを呼んだ。伊織さんはしばらく躊躇していたが、のそのそと僕の方に寄ってきた。
「おやすみなさい」
掛布団をかけてそう言うと、伊織さんは恥ずかしそうに頷いた。
可愛いな。やばいよな。小さく丸まって僕のすぐ隣にいる。僕はそんな伊織さんの隣に寝れることを喜びなら、いつの間にはすーすーと寝てしまった。
5時半。携帯のアラームで目を覚ました。伊織さんはまだ僕の隣で、すやすやと気持ちよさそうに寝ている。
起こさないようにそっと布団から出て、僕は顔を洗いに行った。歯も磨き、髪も簡単に手でととのえ、スーツも着ると、また伊織さんの顔を見に和室に入った。
寝顔、まじで赤ちゃんみたいなんだよなあ。そんな伊織さんの唇にそっとキスをして、僕はそうっと部屋を出た。鍵を閉め、鍵はまた郵便受けに入れた。
少し朝は冷えるようになったな。足早に駅に向かい、まだガラガラの電車に乗り、自分のマンションに帰った。
シャワーを浴びて、コーヒーを淹れた。少し寝不足気味だが、目が冴えていた。トーストを焼きながら、
「伊織さん、ちゃんと起きれたかな」
と気になり、携帯で電話をしてみた。
「もしもし?」
あ、寝起きの声だ。まさか、今、起きたのか?
「伊織さん、おはようございます」
「佑さん?あれ?」
やっぱり。まだ寝ぼけているのかもしれないな。
「もう、7時になりますよ。今、起きたんですか?」
「は、はい。ごめんなさい。佑さんが帰ったのにも気が付けなかった。起こしてくれたらよかったのに」
「いいんです。それより、二日酔い大丈夫ですか?」
「あ、はい。大丈夫です。シャワー浴びて、目、覚まします」
「朝ご飯は?」
「それは…、む、無理かな」
「……やっぱり。朝ご飯の用意、すればよかったですね、すみません」
「え?なな、なんで佑さんが謝るんですか?」
「用意をしてから帰るか、実は悩んだもので」
「そんな、申し訳ないです。私の朝ご飯の心配までしないでもいいです」
「伊織さんの体調管理、任せてもらったはずですが」
「…」
あ、黙り込んだ。
「伊織さん、一緒に住めばいつでも、伊織さんの面倒を見れるんですが」
「面倒?」
「っていうか、世話…じゃなくって。とにかく、一緒に住めば、いろいろと心配したり、ああすればよかったと、後悔したり、気をもむこともないんですが」
「心配?気をもむ?そんなに私って、危なっかしいですか?」
「危ないと言うか…、すみません。多分、僕がおせっかいで、世話焼きで、心配性なんです」
そう言うと、伊織さんはまた黙り込んだ。
「会社、遅刻しないようにしてくださいね」
「はい。気を付けます」
電話を切った。そして、ふうっとため息を吐いた。
なんだって僕はこうも、伊織さんのことが気になるんだか…。
いつもの時間に家を出た。電車にもいつもの時間に乗れた。その電車には伊織さんはいなかった。
会社にもいつもと同じ時間に着き、いつものようにデスクに座った。
「おはようございます、主任」
元気にそう言ってやってきたのは、塩谷だ。
「なんだ。二日酔いにでもなっているかと思ったのに」
「え~~、あのくらいじゃ、二日酔いになんてなりませんよ」
「そうか。今日は随分と張り切っているな」
「もう、昨日みたいに遅刻ギリギリに来たりしません!この時間に来ます。主任もこの時間ですか?相変わらず、本社でも出社時間が早いんですね」
「まあな。この時間だとまだ人も少ないし、落ち着くんだよ」
そこに、北畠さんが来た。他にもちらりほらりと席に着き、仕事を始めていると、8時55分、伊織さんと溝口さんが速足でやってきた。
「おはようございます」
「遅い。ギリギリですけど?」
塩谷?お前が言える立場か?と僕が言う前に、溝口さんが嫌味たっぷりに、
「昨日、塩谷さんはもっと遅くに来ましたよね」
と言い返した。
さすがに塩谷は何も言えなくなった。まったく。塩谷と溝口さん、そのうち喧嘩でもするんじゃないのか。
「溝口さんも、桜川さんも、二日酔いにはなっていない?大丈夫?」
なぜか塚本さんが二人にそう聞いた。二人とも、
「大丈夫です」
と、即答し、パソコンを起動させた。
なんで、飲みに行ったって塚本さんは知っているんだ?
「桜川さん、今度、飲みに行こうね」
それも、誘っているし!
「え?いえ。私、あまり飲めないんで、すみません」
伊織さんは、遠慮がちにそう答えた。すると、
「遠慮はいらないからね」
と、塚本さんはにやにやと笑った。
こいつ。やっぱり、伊織さんを狙ってるな…。要注意だな。
ふっと伊織さんが僕を見た。視線を感じて僕も伊織さんを見た。一瞬目が合い、伊織さんは慌てたように視線を外した。そして赤くなった。
だから、赤くならないでくれ。こっちまで顔がにやけそうだ。
それから、30分後、伊織さんが、
「主任、ハンコお願いします」
と、やってきた。
「ああ、はい」
書類を受け取ってハンコを押すと、伊織さんはぺこりとお辞儀をした。その時、ふわっと伊織さんの髪から、甘い香りがした。
そうか。髪、朝洗って、シャンプーの香りが残っているんだな。この甘い香り、なんとなく伊織さんのアパートの洗面所に行くとしてくる香りだ。
思わず、顔が火照りそうになり、僕はわざと伊織さんにつっけんどんに書類を渡した。そして、顔も見ずパソコンの画面を睨みつけた。
「主任」
「なんだ?塩谷」
「今日も外回りですよね」
「ああ」
「目が覚めるように、コーヒー飲んでおこうと思いますけど、主任も飲みますか?」
塩谷にしては、気が利くな。
「ああ、入れてくれるか?」
塩谷はコーヒーを入れて、僕のデスクに持って来てくれた。
「サンキュ」
塩谷の顔を見てお礼を言うと、
「いいえ」
と、機嫌良さそうに塩谷はにこりと笑った。
11時近くになり、僕と塩谷はオフィスを出た。
「主任って、私といると熱い時もありますけど、普段、会社にいる時はクールですよね」
「そうか?」
「それに、事務の子にはやっぱり今も冷たいんですね」
「え?」
なんのことだ?
「今朝も、桜川さんに対して冷たかったから、ほっとしました」
「…ほっとした?」
「主任、変わっちゃったかと思って。だって、昨日の飲み会では、桜川さんに優しかったから」
「……そうか?」
なるほど。朝、わざとつっけんどんにしたから、冷たいと思ったのか。
「もしかして、桜川さんは主任に気があるのかな。それを知っているのか、野田さんとかくっつけようとしていますよね?」
「……そう見えるか?」
「それって、思い切り迷惑でしょ?でも、部下だし、冷たくするわけにもいかないってところですか?だけど、変に気を持たせちゃったら、かえって傷つけますよ。それに、主任、こういうの面倒でしょ?」
「こういうの?」
「恋愛沙汰。それも、同じ課の女性と」
「………」
「私、それとなく桜川さんに諦めるように言いましょうか?」
「いや、いい」
「でも、主任からじゃ、角が立つんじゃ」
「お前、それとなく…なんて器用なことできないだろ?思い切り、きつく言いそうだからいい。今、桜川さんに辞められても困るしな」
「困る?事務の子が一人くらいいなくっても、なんともないでしょ?派遣の子でもなんとかなりますよ」
「塩谷、名古屋の支店と違って、本店では受注全般を事務の子がしているんだ。辞められたら、痛手なんだよ」
「しょうがないなあ。じゃあ、このまま桜川さんに課に居座られていいんですか?」
「どういうことだ?」
「そろそろ辞めてもらってもいいのに。溝口さんも。世代交代の次期でしょ?男性社員も、そろそろ若い子がいいんじゃないんですか?事務の子は…」
「お前、辞めさせようとなんかするなよな」
「北畠さんには何も言いません。あの人、すでにお局だし、絶対に辞めそうもないし。でも、桜川さんだったら、簡単に辞めるかも」
「塩谷!!!」
「主任だって、腰掛けOLは、長年居座られても困る。とっとと結婚して退職すればいいって言っていたじゃないですか」
言っていた。確かに名古屋ではそんなことを、こいつにべらべらと言っていたが…。
「結婚退職しちゃえばいいのに。それとも、相手がいないのかな、二人とも」
ムカムカ。ここにいる。伊織さんの相手だったら、目の前にいるぞ、塩谷。それも、近いうちに本当に結婚退職するかもしれない。
だが、そんなことを今言うわけにもいかない。でも、なんとかしないと、こいつ、本気で伊織さんに酷いことを言いそうだ。




