第35話 キス ~佑編~
伊織さんが、緊張しているのがわかる。俯いている伊織さんの顔に髪がかかっているのを、そっと耳にかけた。
ピクン。伊織さんが肩をすぼめた。そして、目を閉じた。
目を閉じた…っていうことは、いいんだよな?キスしていいっていうことだよな?
ドクン。あ、僕まで緊張してきた。
そうっと顔を近づけた。伊織さんは目を、硬くギュッと閉じている。
可愛い。
伊織さんの唇にそっと触れた。ふわっと柔らかいあったかい感触…。
ドックン。
そっと触れただけで、僕はすぐに唇を離した。やばいな。胸がドキドキと高鳴っている。
伊織さんも目を開けた。でも、固まったまま動かない。
「すみません。会社でこんなこと…」
と自分でそう言ってから、なんだかやたらと照れくさくなった。
「あ、あ、あの。こ、こ、これ、片付けてから席に戻ります」
僕の前から伊織さんは、そそくさとテーブルの端まで行き、カップの乗ったトレイを持った。
まずいな。顔が多分にやけているだろうな。それに、顔が熱い。
「僕はもう少しここにいます」
「え?あ、すみません。資料読んでいたんですよね?」
「いいえ。別にそれはどうでもいいんですが、顔が多分にやけてしまって、デスクに戻れないと言うか…」
そう言ってから、伊織さんの方を向き、
「僕の顔、赤いですよね?」
と聞いてみた。すると、
「え?ど、ど、どうかな?」
と伊織さんは、僕の顔も見ないで首を傾げた。その顔が真っ赤だ。耳も首も真っ赤…。
「…。僕より伊織さんの方がやばいですね。真っ赤ですよ」
「ややや、やっぱり?!どうしようっ」
伊織さんはテーブルにトレイを置くと、両手で慌てて頬を抑えた。
可愛い。さっきから、真っ赤になって照れている伊織さんがものすごく可愛い。
「じゃあ、ゆっくりと片付けてからデスクに戻りますか?仕事はまだあるんですか?」
「いいえ。特には…。あ、一件だけインプットの途中だった」
「それだけで終わりますか?」
「はい」
「じゃあ、僕も仕事、家に持ち帰るかな。一緒に帰りましょうか」
「はいっ」
伊織さんの目が輝いた。そして、とてもうれしそうだ。
伊織さんは、先に会議室を出て行った。
「はあ、まったく、なんだってあんなに可愛いんだ」
ぼそっと呟いてから、そんなことを言っている自分にびっくりした。
これはまずい。顔が元に戻らない。どうしても口元が緩んでしまう。もう少しここで、冷静になるまで待たないと。
また資料を見た。でも、ただぼんやりと眺めるだけで、まったく内容が入ってこない。
いったい、僕はどうしてしまったのか。ほんのちょっと唇が触れただけのキスだ。それだけで浮かれている。
まるで、中学生だな。
「はあ…」
仕事に集中しようとしても、また伊織さんの真っ赤な顔が浮かんでくる。付き合いたての恋人っていうのは、こんな感じか?
あ。やっと、恋人らしくなったってことか。
ゴホン。ゴホン。誰もいないと言うのに、なんとかにやける顔を真顔に戻し、咳払いをしてみる。
「デスクに戻れるかな…」
資料を手にして、椅子から立ち上がった。そして、2課に戻ると終業時間は過ぎていて、すでに北畠さんは帰ったようだった。
僕は伊織さんの方を見ないようにして、自分のデスクに戻った。そして、さっさとデスクの上をきれいに片づけ、帰り支度をしていると、
「主任、仕事終わりですか?」
と塩谷がそう聞いてきた。
「ああ、残りは家でやる」
「じゃあ、ご飯食べに行きましょうよ。プロジェクトメンバーで行こうって今、話していたんです」
「仕事が残っているから、家にまっすぐ帰るよ」
「ダメです。帰しません!私が来た初日ですよ?何をあまっちょろいこと言っているんですか」
塩谷、いつもしつこいんだよな。仕方ない。伊織さんも誘ってしまうか。
「しょうがいないな。プロジェクトメンバーと、事務員の二人も参加っていうことで。いいですよね?溝口さんも桜川さんも」
「え?私たちもっ?!」
溝口さんが思い切り嫌がっているな。まあ、溝口さんが来ても来なくてもいいんだが。
「伊織が行くなら」
溝口さんはそう言って伊織さんを見た。伊織さんも、
「あ、はい。お邪魔じゃなければ…」
と、行く方向で答えてくれた。
「何で事務の子が来るの?関係ないじゃない」
塩谷、なんでそこで、そういうことを言うんだ。
「塩谷、お前もこれからこの課でやっていくんだから、事務の二人にはお世話になるんだろ?プロジェクトのことでも今後、二人にはいろいろと世話してもらうんだから、今後の親睦のためにも来てもらうよ」
「え~~。主任がそう言うなら、仕方ないなあ」
よし。なんとか伊織さんも一緒に行けることになったな。
店は近くの居酒屋だ。中に入るなり、僕の横の席に塩谷がしっかりと座り込んでしまい、伊織さんとは離れてしまった。
そのあとも、塩谷はいつものように僕に絡んできて、まったく他の人と話すことすらできない。
伊織さん、さっきから何杯も飲んでいるよな。ペースが早いが大丈夫なのか?
「ちょっと、トイレ」
塩谷はそう言って、ふらふらと立ち上がり、やっと僕は解放された。
「桜川さん、ここ来る?」
僕の前に座っている野田さんが、空いた席に桜川さんを呼んだ。ナイスだ、野田さん。
ちょっと足元がふらついていたが、なんとか桜川さんは僕の隣に座り、僕のコップにノンアルコールビールをついだ。
「桜川さん、酔ってる?けっこう飲んだ?」
野田さんがそう伊織さんに聞いた。
「え?いえ。そんなには」
「うそうそ。顔赤いし、さっきからビール何杯も飲んでたでしょ?」
野田さんの言うように、伊織さん真っ赤だな。これは、照れてじゃなくて、酔っぱらってだよな。
「じゃあさ、帰りは主任に送ってもらいなね」
伊織さんの前にいる社員がそう言うと、
「え?」
と伊織さんはびっくりした。
「主任、方面同じなんだし、桜川さんのこと送ってあげてくださいよ」
「…はい」
野田さんにそう言われ、返事をしたが、なんで野田さんも他の社員も、僕と伊織さんをくっつけようとしているんだ?まさか、付き合っていることがばれているんじゃないよな。
「良かったね~~~~、桜川さん」
ん?野田さん、なんでそんなことを伊織さんに言うんだ?もしや、ただ単に伊織さんが僕に気があるから、応援しようとしているのか?
そのあと、塩谷がトイレから戻ってきて、隣に伊織さんがいたから怒っていた。だが、それも野田さんや他の社員がなだめすかして、僕と伊織さんの邪魔をしないようにしてくれた。
どうやら、2課の人たちは、僕と伊織さんをくっつけたいらしい。伊織さんがあまりにも、僕に気があるのがバレバレだからなのか?いや、北畠さんもバレバレだよな。だが、伊織さんをみんなは応援したいっていうわけか。
課長も実は、伊織さんを応援したいようだったし、部長ですら、伊織さんなら応援したいということだったしな。みんなに伊織さんは好かれているんだな。っていうか、どこか応援したくなるような、そんなキャラなのかもな。
まあ、いつでも僕を見て、顔を真っ赤にしていたら、応援したくなるってものか…。
ん?伊織さん、なんか近いな。僕の肩に思い切りもたれかかってきたぞ。
「主任、桜川さん寝そうですよ」
「本当だ。伊織、すっかり主任の肩にもたれかかっちゃってる」
野田さんと溝口さんも気が付いたようだ。
「重くないですか?主任」
野田さんに聞かれた。
「大丈夫です。もうちょっと寝かせておきましょうか」
僕は、すっかり僕の肩にもたれかかって寝ている伊織さんが可愛くて、そんなことを言ってしまった。
伊織さんは、本当によく寝ちゃうよな。酒、あんまり強くないんだろうな。いや、酒飲んでいなくたって、寝るもんなあ…。
きっと、無防備なんだな。僕がいない時でもこんな調子なのか?危なっかしいよな。
「魚住主任、叩き起こしたら?そんな失礼な奴。私がそんなことしたら、主任、頭ひっぱたくじゃない、起きろ、置いて行くぞって」
突然、僕と伊織さんを見て塩谷が怒ってきた。
「塩谷ならね」
「なんで?その差は何?」
「だって、塩谷、もたれかかってくると重いし…」
「失礼よ、主任。桜川さんだって重いでしょ?」
「そんなことない」
そんな会話をしていると、
「あれ?」
と、伊織さんが目を覚ました。
「目、覚めましたか?」
「あ!ごめんなさい。私、主任にもたれてた!?」
「大丈夫ですよ。でも、もうそろそろ帰ろうかと思っていたんです。目、完全に覚めましたか?」
「は、はいっ。ごめんなさいっ」
くす。真っ赤だ。可愛いよなあ。と、思わず口元を緩めていると、それを野田さんにしっかりと見られていた。やばい。すぐに顔を真顔に戻した。
店を出ると野田さんに、桜川さんをちゃんと送ってあげてくださいと言われた。やっぱり、野田さんは僕と伊織さんをくっつけようとしているよな。
「はい、わかっています」
また真顔でそう答えた。
他の連中が、酔っぱらいの塩谷を引っ張って行ってくれたので、僕は伊織さんと二人きりで帰ることになった。良かった。塩谷がうちまで引っ付いてこないで。ずっと、主任のマンションに泊まると騒いでいたから、どうなることかとヒヤヒヤした。
「やれやれ」
ほっと一息をついて、伊織さんの方を向くと、顔を真っ赤にしてふらふらしていた。あ、こっちにも酔っぱらいが…。
「ふらついていますよ、伊織さん、飲み過ぎです」
伊織さんのことを支えながらそう言うと、伊織さんはびっくりしたように肩をすぼめ、
「す、すみません。つい、主任と塩谷さんが仲よさそうにしているのを見て、もやもやしちゃって、飲み過ぎちゃいました」
と、なんとも可愛いことを言ってくれた。
「なんですか、それ。嫉妬ですか?」
「はい」
「くす。そんな嫉妬いらないのに。なんだって、そんなことで飲み過ぎるんですか」
ほんと、可愛いよな。そう思いつつ、伊織さんをグッと引き寄せた。
「それから、もう、佑って呼んでいいですよ」
「あ、はい、佑さん」
伊織さん、絶対に今照れているよな。それが見てわかるくらい、照れている。
「くす。今日の伊織さん、可愛いから帰したくないな」
「……は?!」
あ、伊織さんが一気に固まった。
「……っていうのは、かなり本音なんですけど、帰りますよね?自分のアパートに」
「自分のアパートに帰ります」
即答か…。予想はついていたが…。
「送りますよ」
そう言うと、伊織さんはほっとした顔を見せた。
送りたくなんかないですよ。このまま、僕のマンションに連れて行きたいです。そして、明日の朝まで一緒にいたい。それが本音です。
そんなことを、心の中で呟きながら、電車を降り、伊織さんのアパートに向かった。
「すみません、主任には本当に迷惑ばかりかけて」
「…は?」
「酔っぱらって、送ってもらうだなんて、申し訳ないです」
「………」
また、主任って言っているし、言動が部下に戻っている。
「あまり主任の前では飲まないようにしようって、この前決めたのに」
「なぜですか?」
「だって、迷惑をかけるから。私ってば、すぐに寝ちゃうし」
「ああ、そうですね」
「主任、呆れないでくださいね」
「酔って寝るくらいで呆れはしませんが」
ただ、また部下に戻っているのには少し呆れると言うか、困ると言うか。
「あ、なんか、主任、怒っていますか?」
「さっきから、主任って言っていますよ。佑でいいです」
「え?あ、そうか。そうだった。ごめんなさい」
「いいえ」
「佑さん」
「はい?」
伊織さんは、足元がおぼつかない。僕が腰を支えているが、いきなりふらつきながら立ち止まった。
「なんですか?」
いつもは、僕の目をじっと見つめてくることなんてしないのにな。じっと僕の目を見て、黙っているぞ。
「どうしたんですか?」
「主任は、いえ、佑さんは、仲いいですよね」
「は?」
「塩谷さんと」
「ああ、塩谷…。仕事のパートナーですよ。それだけです」
「パートナーなんですかっ?」
お。声が大きくなったぞ。
「仕事のですよ」
「………」
あ、シュンとしてしまった。視線も伏せて黙り込んだが、何か落ち込んだのか?
「羨ましいです」
「え?」
「塩谷さん。佑さんに信頼されていて、パートナーって思われてて」
「は?」
おい。聞いていたのか?仕事のだぞ。プライベートのパートナーは伊織さんなんだが…。
「じゃあ、伊織さんも管理職になって、僕の仕事のパートナーになりますか?」
そんな意地悪なことを、つい言ってみたくなる。
「それは無理です。私には管理職なんて…」
そう言って、伊織さんはうるんだ目で僕を見た。まさか、泣きそうになっているのか?
「冗談です。伊織さんはすでに僕のパートナーなんですから、塩谷を羨まないでもいいですよ」
「え?」
あ、思い切り首を傾げたぞ。
「だから、僕の人生のパートナー…」
…って、自分で言ってから、これはプロポーズの言葉だ!と気が付いた。思わず、こんな道の真ん中で、プロポーズしちまった。ムードもロマンも何もないような場所で。
「今のは…」
今のは無しに。やり直させてください…なんて、言えないよな。僕は言葉を飲み込んだ。伊織さんは俯いたまま、黙っている。
「と、とにかく、伊織さんは塩谷のことなんて気にしないでいいですから」
「………はい」
また、伊織さんの腰を支えて僕は歩き出した。伊織さんもふらふらと歩いている。
アパートに着き、伊織さんを抱えながら階段を上った。そして、伊織さんから鍵を受け取り、僕が開けた。
「伊織さん、靴、靴を脱いでから上がってください」
靴のまま部屋に行きそうになり、慌てて掴まえて靴を脱がせた。これは、相当酔っているな。
伊織さんからカバンを受け取り、それを床に置いて、伊織さんをまた抱えて部屋の奥に入った。とりあえず、座椅子に座らせ、
「お風呂、入れますか?」
と聞いてみた。
だが、テーブルにうつっぷせていて、返事もない。どうやら、すぐにでも寝そうな雰囲気だな。
「布団敷きますから」
僕は和室に布団を敷いた。敷いてから伊織さんを見ると、ああ、寝てた。座椅子にもたれてくーくーと寝息を立てている。やれやれ。
和室まで伊織さんを抱え、布団に寝かせた。上着を脱がせ、掛布団をかけた。さすがにブラウスやスカートまでは脱がせられないしな…。
すやすやと寝ている。まったく、今日も無防備な寝顔だ。本当に赤ちゃんみたいだよなあ。そんな伊織さんにそっとキスをした。今日2回目のキスだ。もう、一回キスしているんだから、寝ている隙にキスするのもありだよな。と、自分に言い聞かせながら。
「寝坊しないでくださいね」
耳元で囁いた。それから、
「おやすみさない、帰ります」
とそう言うと、
「帰っちゃいやだ」
と、寝ているのに伊織さんはそう言った。
「え?」
起きてる?いや、寝ている。寝言なのか?
「………」
寝言だとしても、可愛すぎるだろ。そんなこと言われたら帰れないだろ。
「まいった」
はあ…とため息をつき、少しだけ添い寝をするかと、ネクタイを外し上着を脱ぎ、伊織さんの隣に潜り込んだ。
「手は出しませんから」
そう言いながら伊織さんの髪を撫でた。伊織さんはなぜか僕の胸に顔をうずめ、そのまま丸くなってすやすやと寝てしまった。




