第35話 キス ~伊織編~
どっ。どっ。どっ。どっ。
心臓が、早く鳴り過ぎてる。腰に回った主任の手のぬくもりが伝わってくる。
ドキ!!!主任、もう片方の手で、顔にかかっている私の髪を耳にかけた。
うわ~~~~~~~~~~~~~!逃げ出したい。
でも、逃げちゃダメ。逃げて後悔はしたくない。だって、これは絶対にキスのチャンス!!!
私は思わず目を閉じた。目を瞑っているけど、顔が近づいてくるのがわかる。ますます目をギュッと瞑った。
どどっ!どどっ!どどっ!心臓がやばいことになってるよ。
ふわ…。
あ、今、唇に触れた。
うわ、うわ、うわ、うわ。
唇が離れ、少しだけ目を開けた。主任はもう顔を遠ざけていた。
目を開けたはいいけど、主任の顔は見れない。恥ずかしすぎる。どんな反応をしたらいいのかわからない。そのままその場で固まっていると、
「すみません。会社でこんなこと…」
と、主任は私の腰から手を離してそう言った。
そうだった。ここ、会社の会議室!今やっと、思い出した。
「あ、あ、あの。こ、こ、これ、片付けてから席に戻ります」
私は主任からそそくさと離れ、トレイを持った。
「はい。僕はもう少しここにいます」
「え?あ、すみません。資料読んでいたんですよね?」
「いいえ。別にそれはどうでもいいんですが」
は?どうでもいい?
「顔が多分にやけてしまって、デスクに戻れないと言うか…」
そう言うと主任は、コホンと咳払いをして私のほうをちらっと見た。
「僕の顔、赤いですよね?」
「え?ど、ど、どうかな?」
顔がまともに見れないから、わからない。
「…。僕より伊織さんの方がやばいですね。真っ赤ですよ」
「ややや、やっぱり?!どうしようっ」
トレイをまたテーブルに置き、私は両手で頬を抑えた。顔が思い切り熱い。
「くす。くすくす」
あ、主任が笑った!笑った顔は見たい。主任は照れくさそうな顔をしてくすくすと笑っている。
キュン。なんだか可愛い。笑顔が見れてなんだかとっても嬉しい。
「じゃあ、ゆっくりと片付けてからデスクに戻りますか?仕事はまだあるんですか?」
「いいえ。特には…。あ、一件だけインプットの途中だった」
「それだけで終わりますか?」
「はい」
「じゃあ、僕も仕事、家に持ち帰るかな。一緒に帰りましょうか」
「はいっ」
嬉しい。
くすくすと私が会議室を出る時も、主任は笑っていた。私もにやけた顔のまま、トレイを持って片付けに行った。
ドキドキドキ。心臓はずっとドキドキしている。主任の唇の感触がまだ残っている。
キスって、なんかもっとすごいものだと思っていたけど、そうでもないんだ。ドキドキしたけど、唇にふわっと触れる感じで、あったかいような、くすぐったいような、そんな感じ…。
わ~~~~~~。また顔が熱い。思い出しちゃダメ。真っ赤な顔をして席に戻るわけにはいかないもの。
片づけを終え、私は必死でにやけないようにして席に戻った。もう終業時間は過ぎていて、北畠さんはいなかった。
「あ、伊織、ごめんね、一人だけで片付けさせちゃって」
「うん、大丈夫」
真広にそう答え、私は残り一件の入力を済ませた。
そこに主任が戻ってきた。ちらっと見ると、いつもの涼しい顔をしている。そして、デスクの上を片付け、主任は帰る支度を始めた。
「主任、仕事終わりですか?」
塩谷さんがそう聞いた。
「ああ、残りは家でやる」
主任、塩谷さんには敬語使わないんだな。
「じゃあ、ご飯食べに行きましょうよ。プロジェクトメンバーで行こうって今、話していたんです」
え、なんだって塩谷さん、主任を誘うの?主任は私と一緒に帰るのに。
「仕事が残っているから、家にまっすぐ帰るよ」
良かった。主任断ってくれた…とほっとしていると、
「ダメです。帰しません!私が来た初日ですよ?何をあまっちょろいこと言っているんですか」
と塩谷さんが、主任が上着を着ているのに腕を引っ張った。
え?何その塩谷さんのでかい態度。
「しょうがいないな。プロジェクトメンバーと、事務員の二人も参加っていうことで。いいですよね?溝口さんも桜川さんも」
「え?私たちもっ?!」
真広はものすごく嫌そうな顔をした。でも、私の顔を見ると、
「伊織が行くなら」
と、そんなことを言い出した。
「あ、はい。お邪魔じゃなければ…」
主任が行くなら行くに決まってる!と思いつつそう言うと、
「何で事務の子が来るの?関係ないじゃない」
と、塩谷さんがきつい口調で私に言った。
「塩谷、お前もこれからこの課でやっていくんだから、事務の二人にはお世話になるんだろ?プロジェクトのことでも今後、二人にはいろいろと世話してもらうんだから、今後の親睦のためにも来てもらうよ」
「え~~。主任がそう言うなら、仕方ないなあ」
塩谷さんはそう言って思い切り嫌そうな顔をした。塩谷さんって、全部顔に出るタイプ。いや、顔だけじゃなく、口にも出ているか。
苦手だなあ。そう思いつつ、私は真広とロッカーに向かった。
「何あれ、主任を上回る嫌な奴、最低」
ロッカールームに入ると、真広がちっと舌打ちをした。
「私もこれからが憂鬱…」
とそう言ってため息を吐いた。そして上着を着ていると、
「いい?チャンスなんだからね、伊織。そのために私も行きたくないのに行くんだからね、わかってる?」
と後ろから背中を突っつき、真広がそう言ってきた。
「チャンス?」
「主任にアタック」
「あ…」
そういうことか。でも、私、今幸せすぎて、アタックも何もどうでもいい。っていうか、私、主任と…、キスしたんだよね~~~~~~~~~~~~~~~~~~!
ダメ!思い出しちゃ。今、思い切り顔がにやつくところだった!危ない。真広に見られたら、問い詰められちゃうよ。
二人でトイレにも寄り、それからエレベーターホールに行くと、すでに皆が揃っていた。
「すみません、遅くなって」
「大丈夫、それより、居酒屋でいいよね?」
「あ、はい」
野田さんにそう聞かれ、私は頷いた。真広はと言うと、あまり機嫌がよろしくない。
そして主任は、塩谷さんと話をしていた。塩谷さんはすごく嬉しそうに主任と話をしている。
「主任、お酒飲んでもいいですよね?」
「ダメだ。まだ月曜だぞ」
「いいでしょ?一杯だけなら」
「そう言っていつも何杯も飲むだろ、お前」
お前って言うんだ。なんだか、本当にいつもの主任と変わっちゃうんだな。
「酔ったら主任の家に泊まっちゃおう」
エレベーターに乗り込んだ時、とんでもないことを塩谷さんが言った。
「え?何それ」
野田さんがちょっと引きつり笑いをしながらそう聞くと、
「名古屋では泊まっていましたもんね?主任のマンションに」
と、なんだか得意げに塩谷さんがそう答えた。
「え?まじで?」
他の男性社員も目を点にしながら、塩谷さんと主任を見た。
「塩谷、誤解するようなことを言うな。他にも部下がいて、みんな一緒に雑魚寝してたろ?でも、東京では泊まりに来るなよ、絶対に」
「そんなことを言っても主任、面倒見ちゃうくせに」
「見ないぞ」
「え~~~?ま、いいや。どうせ、見ることになるんだから」
何その自信たっぷりな言い方。
主任はちらっと私を見た。それからすぐに視線を外した。
「なんか、主任と塩谷さん、仲いいよね」
お店に行く途中、真広が私に小声でそう言ってきた。
「う、うん」
それは私も感じていた。でも、ほら、ただの部下だし。また私はそう言い聞かせた。
さっき、会議室でキスしたんだもん。私は主任の彼女なんだから、ここは自信を持ってど~~~んと構えていいんだよ。多分。きっと。
なんて心の中で何度も言っていた。でないと、自信をなくしそうだった。だって、お店では、主任の隣を塩谷さんがキープして、ずっとお酒を飲みながら、主任にべらべら話しかけ、それも馴れ馴れしくタメ口になっているし、そのうえ、時々主任の手や肩に触っているし。
やめて。でも、もしかして、名古屋でもずっとあんな感じだったのかな。それだけ仲がいいってこと?
「伊織、今がチャンス。ほら!」
塩谷さんがトイレに立った時、真広にそう言われて、背中をグイと押された。
「え?何?」
びっくりしていると、
「桜川さん、ここ来る?」
と、野田さんが主任の隣の椅子を指差して、なぜか聞いてきた。
「え?」
「主任のグラス空いているし、そこのノンアルコールビールついであげて」
そう言われ、私は目の前にあるノンアルコールビールの缶を手に持ち、主任の隣に座りに行った。
あれ?ちょっと足がふらついた。そう言えば、ついジェラシーを感じて、さっきからビールをグビグビ飲んでしまっていたっけ。
ストン。主任の隣に座り、主任のグラスにノンアルコールビールをついだ。
「桜川さん、酔ってる?けっこう飲んだ?」
野田さんが聞いてきた。
「え?いえ。そんなには」
「うそうそ。顔赤いし、さっきからビール何杯も飲んでたでしょ?」
「じゃあさ、帰りは主任に送ってもらいなね」
今度は前にいる社員がそう言ってきた。
「え?」
「主任、方面同じなんだし、桜川さんのこと送ってあげてくださいよ」
「…はい」
野田さんにまでそう言われ、主任ははいと頷きながらも、怪訝な顔をした。
何で主任、そんな顔を?まさか、送って行きたくないとか。
「良かったね~~~~、桜川さん」
え?野田さん、何?あ、酔ってる?っていうか、何その「よかったね」は。
あ、まさか、私が主任に気があるってわかっていて、送って行かせるように仕向けた?
「の、野田さん、あの」
そんな気遣いはいらないです。と言おうとした。でも、そんなことを言って主任と一緒に帰れなくなると困るから、
「なんでもないです」
と、野田さんに言おうとしていた言葉を引っ込めた。
それから、すぐ隣にいる主任の空気を感じて、胸をキュンっとさせた。
主任だ。佑さんだ。わあい。
そして、何気に主任の顔を見て、唇を見て、キスを思い出した。
わ~~~~~~~~~~。何で今思い出すかな。顔が火照る!でも、酔ったせいにしちゃえばいいか。
「なんか、酔っちゃって、顔が熱いです」
わざとそう言うと、
「真っ赤ですね。そんなに飲んだんですか?」
と、クールに主任に聞かれてしまった。
「はい」
ほっぺを両手で隠しながらそう言うと、主任は、
「それ以上はもう飲んじゃだめですよ」
と、優しくそう言った。
「は、はい」
良かった。声が優しい。その優しい声にドキドキする。
「あ!なんで、そこに桜川さんが座っているの?!」
ああ、塩谷さんが戻ってきちゃった。それも怖い顔をしている。
「まあ、まあ。こっちの席で僕らと交流を深めようよ。さっきから、塩谷さん、主任としか話していないじゃんか」
野田さん、さっきからフォローをしてくれてる。
それに、真広が目で「いけ、いけ」と私に言っている。
そうか。ここは、主任にアタックするところか。ほわわんと酔ったせいか、思考回路がうまくまわっていない。だからか、そんなことを漠然と思っていた。と同時に、なんだか、やたらと隣にいる主任が恋しくなってきた。
ドキドキしつつも、椅子ごと主任に近寄った。腕と腕が、太ももと太ももがくっつくくらい。
主任はまったく動じず、目の前にある白菜の漬物を食べている。
ほわわん。主任、いつもと同じ優しい空気だ。癒されちゃう。
ほわほわと幸せな気持ちに浸りながら、眠くなってきてだんだんと主任に体を預けるぐらい、引っ付いていた。
「主任、このプロジェクト、絶対に成功しますね」
「そうですね」
「僕の担当している会社も…」
「それはすごいですね」
「それで、これからなんですが」
「ああ、その辺はもっと突き詰めていかないと…」
主任が前に座っている誰かと仕事の話をしている。内容は耳に入ってこないくらい、頭がぼ~~っとしている。でも、主任の声が心地よく耳から入ってきて、ものすごくリラックスできる。
でも、ドキドキはずっとしている。嬉しくて幸せで、胸が高鳴っている。
「主任、桜川さん寝そうですよ」
ん?野田さんの声?
「本当だ。伊織、すっかり主任の肩にもたれかかっちゃってる」
真広?
「重くないですか?主任」
「大丈夫です。もうちょっと寝かせておきましょうか」
佑さんの声だ。優しい声…。寝かせておくって誰をかな。
「いやはや。やっぱり、桜川さん、飲み過ぎだよ。まさか、主任の肩にもたれて寝ちゃうなんてなあ」
これは野田さんの声。なんだか、笑っているみたいだ。
「魚住主任、叩き起こしたら?そんな失礼な奴。私がそんなことしたら、主任、頭ひっぱたくじゃない、起きろ、置いて行くぞって」
「塩谷ならね」
「なんで?その差は何?」
「だって、塩谷、もたれかかってくると重いし…」
「失礼よ、主任。桜川さんだって重いでしょ?」
「そんなことない」
塩谷さんが怒ってる。なんでかな。
「…。あれ?」
目、覚めた。私、もしかして寝てた?
「目、覚めましたか?」
主任の顔がすぐ横。って、あれ?
「あ!ごめんなさい。私、主任にもたれてた!?」
「大丈夫ですよ。でも、もうそろそろ帰ろうかと思っていたんです。目、完全に覚めましたか?」
「は、はいっ。ごめんなさいっ」
またやった。失態だ。やっぱり、私はお酒を飲まないほうがいいかも!
それからみんなで、会計を済ませ店を出た。私と真広は会計の後トイレに行き、それからみんなのあとを追った。
トイレで真広に、
「いい感じだったよ、伊織。主任が、伊織が肩にもたれて寝ちゃっても、そのままにしてあげてて、なんか優しい目で見たりしてて!」
と、言われてしまった。
「え?ほんと?」
「塩谷がさ、羨ましがってた。ざまあみろだよね」
真広は私の耳元でそう言うと、くくくと笑った。
お店を出ると、今度は野田さんに、
「桜川さん、主任、まんざらでもないかもよ」
と、そんなことを言われた。そのうえ、
「俺は桜川さん、応援すっから」
と、他の社員にまで言われてしまった。
「応援?」
「そう。塩谷さんとか、部長の娘とか、ライバル多そうだけど頑張ってね」
「は?」
「主任のこと、ものにしちゃいなね。帰りも頑張ってね」
「え?」
野田さん、他の人まで、いったいなんなの?
「それじゃ、主任、桜川さんのことちゃんと送ってあげてくださいね。かなり酔っているみたいなんで」
「はい、わかっています」
「お疲れ様でした」
野田さんたちは、「私は主任のマンションに泊まる」とさっきから言っている塩谷さんを無理やり引っ張り、逆方面の電車に乗って行った。真広もその電車に乗りこんでいた。
「やれやれ」
その電車を見送った後、主任は私の背中に手を回し、
「ふらついていますよ、伊織さん、飲み過ぎです」
と、私の耳元でそう囁いた。
ドキーーーーッ!いきなり、伊織さん?
「す、すみません。つい、主任と塩谷さんが仲よさそうにしているのを見て、もやもやしちゃって、飲み過ぎちゃいました」
「なんですか、それ。嫉妬ですか?」
「はい」
「くす。そんな嫉妬いらないのに。なんだって、そんなことで飲み過ぎるんですか」
主任は笑って、もっと私のことを引き寄せた。
きゃあ。ドキドキ。
「それから、もう、佑って呼んでいいですよ」
「あ、はい、佑さん」
「くす。今日の伊織さん、可愛いから帰したくないな」
「……は?!」
ドッキーーン。
「……っていうのは、かなり本音なんですけど、帰りますよね?自分のアパートに」
主任も酔ってる?でも、ノンアルコールビール飲んでいたんだよね?
「自分のアパートに帰ります」
そう言うと主任は、「やっぱり?」と残念そうな顔をしてから、
「送りますよ」
と優しく言ってくれた。
主任。いえ、佑さん。さっきから、嬉しいけど、私ドキドキしっぱなしですっ。




