第34話 会議室にて ~伊織編~
月曜日、落ち込んだまま目が覚めた。気持ちが滅入ったまま動いていたら、いつもと同じ電車になった。
でも、いいや。なんか、佑さんと顔を合わせづらいし、一本前の電車に乗れなくても。なにしろ、昨日もメールも電話もしなかったし、来なかったし。
「おはよう、伊織」
会社について、のろのろと化粧室に行くと、髪をとかしている真広がいた。なんだか、女らしく見えるのはなぜかな。
「おはよう」
トイレから出てくると、真広は化粧直しを念入りにしていた。そして口紅をひくと、
「はあ…」
と、やけに甘いため息をついた。
「ど、どうした?真広」
「温泉、行ってきたの」
「え?!あ、まさか前に誘われたって言ってた?もう行ったの?!」
「うん」
「…岸和田さんとだよね」
小声でそう聞くと、コクンと頷いた。
そうか。やけに、女らしくなったのはそのせい?で、甘いため息も、意味があるわけ?
っていうか、私なんてキスも拒んじゃったりしているのに、真広はどんどん進展しちゃってる。
「岸和田って、やっぱり、絶対に女慣れしてるわ」
「え?な、なんで?」
「だって、上手なんだもん」
「……」
何が?と聞こうとしたが、返答が怖いからやめておいた。
「ダメだ、私」
「え?」
ダメ?
「ああいう遊んでいる男に、いつも引っかかるの。わかってるんだよ。長続きもしないし、だいいち結婚なんか考えてくれるわけもないって」
「…」
「それでも、ダメなんだ」
何がダメ?
「は~~あ、自分が自分で嫌になるよ」
え?だから、何がダメなの?
「あいつ、絶対にモテるわ」
「え?なんで?」
「だって、上手なんだもん」
………。理解不能。これ以上突っ込んで聞くのはやめておこう。私にはきっと、理解できないだろう。
「それより、今日来るんじゃないの?」
「え?何が?」
化粧室から出て、廊下を歩きながら真広はもういつもの表情に戻りそう言ってきた。
「例の名古屋の営業ウーマン」
「え?今日なの?」
「確かそう課長が言っていた気がするけど」
うそ。心の準備も何もできていないし、佑さん、いや、主任とも顔を合わせづらいっていうのに。
重い気分で2課に向かった。主任の顔を見ることもできず、挨拶すらまともにしないで、こっそりと席に着いた。
「おはようございます」
真広はいつもの調子でそう言って、席に着いた。
時刻は、今日も8時57分。主任はいきなり席を立った。ギクリ。真広と二人、また怒られるかと思っていると、主任は私の後ろを通り過ぎ、
「塩谷、早く来い」
と、そうドアの方に向かって大きな声を出した。
「はい。すみません」
「しょっぱなから、たるんでるぞ!」
「はい。すみませんでした!」
「言い訳はいいから、部長の所に挨拶に行くぞ」
「はい!」
うっわ。主任がいつもと違う。言葉使いが違う。態度も違う。いつもよりさらに怖い。
真広も、他の2課のみんなも、なんとなく塩谷さんと主任を黙って目で追った。塩谷さんは真広の言うとおり、体育会系の雰囲気のある女性だ。
背も高いし、肩幅もある。バスケとか、何かスポーツをやっていたんだろうな。髪も短く、声も大きかったし、ハキハキしていた。
「主任まで、体育会系みたいになってたね、伊織」
「え?うん」
真広の言葉に、私も頷いた。あんな口調の主任は初めてだ。
9時を回り、部長のところに挨拶に行っていた塩谷さんが、主任と戻ってきた。そして、南部課長が席を立ち、2課のみんなに塩谷さんを紹介した。
「名古屋支店から来た塩谷さんだ」
「塩谷です。本社に勤務できてうれしいです。よろしくお願いします!」
挨拶まで体育会系だ…。
「近いうちに、歓迎会を開こう。さて、僕は会議に出てくるから、あとは魚住君、よろしく頼んだよ」
「はい」
主任はクールにそう答え、塩谷さんに何やら説明をし始めた。
「ああ、そうだ。2課の事務をしている3人を紹介するよ、塩谷」
「はい」
そう言って塩谷さんを連れて、主任が私たちのところに来た。私も、真広も、北畠さんも席を立ち、
「事務の北畠さん、桜川さん、溝口さんだ」
と主任に紹介され、私たちはぺこりとお辞儀をした。
「塩谷です。よろしくお願いします」
そう塩谷さんも挨拶をしたが、お辞儀もしないし、どことなく態度がでかい。そういえば、主任、塩谷さんは事務職の女性に厳しいって言っていたっけな。
「じゃあ、塩谷、野田さんから今やっているプロジェクト、詳しく説明聞いて。僕は、作らないとならない資料があるから。野田さん、悪いけど塩谷さんに説明してもらえますか?」
「はい。わかりました」
塩谷さんは野田さんの隣の席になった。そして、30分くらい二人で話をし、
「塩谷!外回りだ。行くぞ」
と、主任に言われ、塩谷さんは「はい」とまた元気に返事をした。そして、意気揚々と主任のあとをついて行った。
「…魚住主任、普段と態度違わない?話し方まで違ってた」
真広がそう言うと、隣の席の男性までが、
「いいコンビって感じだったよなあ。阿吽の呼吸みたいな?」
と言い出した。
ギクギクギク。
「主任が東京に呼んだって聞いたよ。優秀らしいけど、実はそれだけじゃなかったりしてな」
「ちょっと!そういうことを勝手に憶測で言わないほうがいいですよ、塚本さん」
「ああ、悪い悪い。北畠さん、こんな話聞きたくないよね」
塚本さんの言葉に、北畠さんが注意をすると、塚本さんはにやにやしながらそう言った。北畠さんは、ムッとしながら塚本さんを睨み、また仕事を再開した。
北畠さんじゃなくても、私だって勝手に憶測だけで言ってほしくない。だって、主任は塩谷さんが優秀だって認めているけど、でも、部下として認めているだけだもん。それだけだもん。
そう思いながらも、気分はブルーだ。
ああ。ただでさえ、主任と気まずいままなのに。
昼休みも気分が暗かった。真広もため息を何度もついて、
「あ~~あ。私、どうなっちゃうんだろう」
とどこか宙を眺めていた。そんなになるんだったら、岸和田さんと温泉なんて行かなかったらよかったのに。
って、人のこと言えないか。私もブルーだ。人間、恋をするといろんな感情に振り回されちゃうんだなあ。
「はあ」
二人でため息をついていると、
「ちょっと、伊織ちゃん。あれ、誰?」
と休憩室に今宮さんを引き連れ、鴫野ちゃんが入ってきた。
「魚住さんと仲よさそうに肩並べてた女がいたんだけど」
「え?どこに?」
「今、私らがランチから戻ってきたら、同じエレベーターになって。あんな魚住さん初めて見た」
「怖かった?主任」
真広が聞くと、
「いいえ。大笑いをしていたんですよ~~」
と、今宮さんがそう答えた。
「大笑い?あの主任が?珍しい」
本当に珍しい。だっていつも、くす…としか笑わないのに。
「で、誰?」
「名古屋支店からうちの課に来た営業ウーマンだよ」
「ああ、管理職の…」
鴫野ちゃんは納得していた。
「じゃあ、問題ないかな。魚住さん、その人のこと男みたいに扱っているのかもしれないし」
ぼそっとそう今宮さんは呟くと、
「私、やっぱりもっと、積極的にいこう」
と言い出した。
「積極的?」
「そう。ただですらなかなか会えないんだもん。もっとアピールしていかないと、わかってもらえない」
「…」
アピール?
「頑張っちゃおう」
そう言いながら、今宮さんは鴫野ちゃんと喫煙ルームに行ってしまった。
「伊織、呑気にしていられないね」
「う、うん」
ただですら、ブルーなのに。私なんてアピールだの、なんだのってできないだけじゃなく、どっちかって言ったら、拒んだり避けているみたいになっちゃって、呑気どころの騒ぎじゃないよ。どうしよう。
とにかく、早くに主任と二人で話をしたい。
でも、なんて話をするの?
あ~~~~~。男性と付き合った経験がないからか、どうしたらいいかまったくわからない。
午後3時半。主任は、塩谷さん交えてプロジェクトのミーティングを会議室でしていた。私はそこにコーヒーを持って行ったが、
「なんだっけ、あなた」
と、つっけんどんに塩谷さんに名前を聞かれた。
「桜川です」
「ああ、桜川さん、私、ブラックなの。ミルクとお砂糖邪魔だから下げて」
「え?はい」
「そういうの、聞いてから置いていってよね」
「すみません」
私は、塩谷さんのカップの横に置いた砂糖とミルクを下げた。
「あと、これ、コピーを至急10部してきて」
「あ、はい」
コピー室に行きコピーをして会議室に戻ると、
「遅いわよ。至急って言ったでしょ?」
とムッとしながら言われてしまった。
「すみませんでした」
小声で謝り、さっさと私は会議室を出た。そして悶々としながらデスクに戻った。
なんだって、上司でもないあの人がいばっているの?なんなの?なんだっていうの?
それに、主任、助けてくれるようなこと言っていたのに、なんにも言ってくれなかった。ずっと、そっぽ向いてた。まさか、すでに嫌われてる?付き合うのもやめようなんて、言われたらどうしよう。
暗い。なんかもう、真っ暗。
そして5時半、ミーティングを終えた塩谷さんがやってきて、
「事務の人たち、会議終わったから、とっとと片付けてきて」
と、私や真広に命令をした。
「は?」
真広は思わず、ムッとして、
「今、発注書作っているから手が離せません」
と言い返した。
「桜川さんは暇そうね」
ええ?私だって、今、インプットしているんだけど!
「早く片付けてきて」
「…はい」
仕方なく席を立ち、片付けに行った。
トントン。ノックをしてからドアを開けた。すると、主任だけがまだ椅子に座って、資料を眺めていた。
「し、失礼します」
そう言いながら中に入り、片付けようとすると、
「塩谷に、なんか言われましたか?」
と主任が聞いてきた。
「え?いえ。片付けに行ってと、命令されただけです」
「ああ、すみません。塩谷の口調、いつもあんなだから」
「…」
なんで、主任が謝るの?なんか、嫌だな、そういうのって。
黙って私は、カップをトレイに乗せていた。
待てよ。二人きりだ。何か話すチャンス!
「あ、あの」
「はい?」
「土曜日はすみませんでした」
「…何がですか?」
ええ?何がって聞かれても。キス拒んじゃってなんて言えないよ。
「い、いろいろと、そのご迷惑を…」
しどろもどろになっていると、主任は私の顔をじっと見てきた。
「あ、あの?」
「迷惑はかけられていませんが?」
「…え、えっと」
困った。
私も黙り込んでしまった。
「僕こそ、謝らないとならないんじゃないですか?」
「え?」
「僕のほうが迷惑をかけたんじゃないんですか?」
「いいえ。そんなことはまったく」
「そうですか?」
主任はそう言うと、また書類を見始めた。
なんだか、寂しい。私、邪魔かな。私の存在を否定されたみたいな、そんな寂しさがある。
カップを片付け終え、トレイをテーブルの端に置いた。それから、テーブルを拭き、何気に主任に近づいた。
こっちを向いてくれないかな。もう一回話しかけて。
なんでもいい。ちょっとこっちを見るだけでもいい。
残業しますか?でもいい。ううん。本当は今日これからの予定とか、一緒に帰りますか?とか、そういう言葉を期待している。
知らぬ間に私は、主任のすぐ横に立っていた。すると、主任は顔をあげて私の顔を見た。
ドキン。
「桜川さん?」
「はい」
「どうしたんですか?」
「……」
主任、声が、なんだか冷たい。
「………」
「………」
見つめられ、私は俯いた。すると、主任は静かに席を立ち、私の顔を覗き込み、
「泣いていますか?」
と聞いてきた。
「いいえ」
慌てて顔を前に向けると、主任の顔がすぐ近くにあった。
ドキ!
うわ。目が合った。顔が真ん前。
か~~~~~。思い切り顔が熱くなった。どうしよう。主任、私のことまだ見てる。
「なんで、僕のそばに来たんですか?」
「それは…」
「土曜も、なかなか車を降りようとしなかったのはなんでですか?」
「……それは、降りたくなかったからです」
「………」
ドキッ!うわ。主任、手、腰に回してきた?
片手を私の腰に回し、じっと私のこと見てる。ど、ど、どうしよう。
「僕が近づくと逃げるくせに…」
「え?」
「今も、逃げようとしていますか?」
「…そ、そ、それは…」
困った!
どうしよう。逃げ出したいような、逃げ出したくないような…。
心臓がドキドキで、顔がどんどん火照っていく。
ああ、すでに思考はパニックだ。




