第33話 落ち込み ~佑編~
スーパーに寄って食材を買った。今日も僕がカートを押し、伊織さんはその後ろをついてきた。夕飯はすき焼きにする予定だ。
「野菜は何がいいですか?」
僕は時々振り返り、伊織さんに聞いた。伊織さんはそのたび、「はい」と返事をして、一緒に選んでくれた。
まだまだ、恋人と言う雰囲気からかけ離れているような気もしないでもない。でも、伊織さんも嬉しそうにしているから、いいとするか。
マンションに着き、僕はすぐに夕飯の準備に取り掛かった。その間、伊織さんは洗濯物を取り込んでくれた。リビングに行くと、ソファの横にちょこんと正座になり、伊織さんは取り込んだものを畳んでくれていた。
「あ、畳んでくれたんですか?」
「はい。もし、佑さんの畳み方とかあったら、直してください」
「特にないですよ。あ、すごく丁寧に畳んでくれたんですね。ありがとうございま…」
あ、パンツも丁寧に畳んである…。
「パンツも畳んでくれたんですね」
「あ!!!は、はい。すみません。これは畳まないほうが良かったですか?」
「いえ、いいんですけど…」
真っ赤だ。もしかすると、畳むのも抵抗があったのかもな。それでも、畳んでくれたのか…。やっぱり、伊織さん、可愛いよなあ。
「じゃあ、もっと甘えてもいいですか?」
僕はそんな伊織さんに、つい甘えたくなった。
「僕の服や下着、どこに何をしまうか覚えてもらってもいいですか?」
「はは、はい。もちろんですっ」
伊織さんは元気に返事をして、すくっと立ち上がり目を輝かせた。なんだか、やる気満々だな。
「ここが下着を入れる引出しです。この上が、靴下とかそういう小物。あとここが…」
僕は寝室のクローゼットを開け、伊織さんに説明をし始めた。伊織さんは、はい、はい、と頷いている。くす。可愛い。
それにしても、今後伊織さんと一緒に住むようになったり、子供ができたら、収納がこれだけでは足りないよな。
「いつか、タンス、増やさないとですね」
「…え?」
「あ、なんでもないです。独り言です」
つい、思ったことが口から出ていた。結婚もまだのくせして、気が早すぎたな。
いや、気が早いわけじゃないか。結婚だって、そろそろ本気で考えないと…。伊織さんとの結婚を…。
ボワッ。なんか、考えたら顔が熱くなった。そのまま、伊織さんを寝室に残し、僕はさっさとキッチンに戻り、夕飯の準備を続けた。
何で顔が熱くなったのか、自分でもよくわからない。ただ、一瞬、あの部屋で伊織さんといちゃついている想像をしてしまった。多分、それでだ。
気を取り直し、伊織さんと夕飯を食べた。伊織さんは今日もまた、美味しそうに食べている。
ああ、幸せだよなあ、この瞬間。なんでこうも、ほっこりとするんだろうか。
食後はリビングに移った。僕が隣に座ると、今日は離れようともせず、すぐ横に伊織さんはいた。
これは、ほんの少し進歩したってことか?もしや、恋人らしくいちゃついてもいいってことか?!
心臓が早くなった。伊織さんはさっきから、テレビを観ながらも、手をさすったりしている。寒いのか?
「寒いですか?」
「いいえ」
いいえと言われた。だが、これは手を握る絶好のチャンスだよな?
そっと手を伸ばし、伊織さんの手を握ってみた。
あ、冷たい。
「手、冷たいですよ?」
「いつもなんです。冷え症みたいでっ!」
「冷え症?女性って冷え症の人が多いんですね」
そんなことを言いつつ、僕はひんやりする伊織さんの手をずっと握っていた。伊織さんの手が徐々にあったまっていく。多分、僕の手の熱であったまっているんだ。
いや、それだけじゃないかな。顔も真っ赤だしなあ。
テレビでは、なにやらお笑い芸人が騒いでいる。でも、僕の耳にはそんな音も聞こえなくなっていた。じっと伊織さんの横顔を見ていた。ピンク色に染まった頬、テレビ画面をじっと見つめる瞳、長いまつ毛。
「あ、あの?」
伊織さんが、テレビから視線をこっちに向けた。
「伊織さん、まつ毛長いですね」
「そそそ、そうですか?」
可愛い。ますます顔が赤くなった。視線を下に向け、恥ずかしそうにしている。
「……」
伊織さんの唇、ふっくらとしている…。とても柔らかそうな…。
僕は顔を近づけた。もう少しで伊織さんの唇に触れる…かと思った時、
「あ、このお笑い芸人、私、好きなんです!」
と伊織さんは、身を乗り出して僕の顔を思い切り避けた。
「へえ、そうなんですか」
僕は顔のやり場に困り、すぐに引っ込めた。そして、気まずい雰囲気になる前に、さっさとコーヒーカップをキッチンに片付けに行った。
カチャン…。シンクにカップを置き、
「は~~~~」
と、聞こえないくらいのため息をついた。
まいったな。避けられた。キスするってわかって、わざとだよな。凹んだ…。
沈んだ気持ちのままで洗い物をして、
「送ります」
と、伊織さんのもとに行った。伊織さんは「はい」と答え、すぐさまソファから立った。
もしかして、居づらくなったのか。
車に乗っても伊織さんは、ずっと黙って窓の外を見ていた。
まさかとは思うが、まさかな。キスしようとして、嫌われたんじゃないよな。
何で黙っているんだ。この空気、たまんないな。
アパートに着いた。
「今日はありがとうございました」
伊織さんはぺこりとお辞儀をして、シートベルトを外そうとした。だが、なかなか外せないのか、もたもたしている。
焦っているのか?っていう感じでもないよな。
「外れないんですか?」
「え?あ、なんか、引っかかっているのかなあ」
「貸してください、僕が外してみます」
そう言って僕は代わりにシートベルトを外した。どこも引っかかっていないし、簡単に外れたが…。
どうしたんだろう。シートベルトが外れても、伊織さんはまったく降りる気配がない。
「降りないんですか?」
「あ、えっと」
「ん?なんか、忘れ物でも?」
「いいえ」
「……気分でも悪いんですか?」
「いいえ」
どうしたんだ?俯いたままで表情も見えない。
「お、おやすみなさい」
伊織さんはちらっとこっちを見てそう言った。
「はい。おやすみなさい」
「……、降りますね」
「はい。気を付けて」
「佑さんも気を付けて」
「はい。また月曜日」
「あ、はい。また、会社で」
「はい」
そのあとも、伊織さんはゆっくりとドアの取っ手に手を伸ばした。これって、引き留めてほしいのか?
「もしかして、まだ、一緒にいたいんですか?」
僕はそう言って、ドアを開けようとしていた伊織さんを止めた。
「あ、あの」
こっちを見た伊織さんの顔は、明らかに真っ赤になっている。
「でも、一緒にいると、危険ですよ」
「き、危険って?」
「僕は、また伊織さんにキスしそうになりますよ」
「え?!」
僕の言葉に思い切り戸惑い、伊織さんの目が泳いだ。
「……」
困っているんだな。
「すみません。困らせたりして。もう、僕も帰ります。おやすみなさい」
つい、伊織さんの手を握っていたが、その手を離した。
「お、おやすみなさい」
伊織さんは小声でそう言うと、車を降りて行った。
僕はすぐに車を発進させた。バックミラーには、僕のことを見送っている伊織さんが見えた。
あ~~~~~~~~~~~~~~~~~。
やばいな。伊織さんがどうして降りようとしなかったのかがわからない。僕を警戒しているのは確かだ。じゃあ、なんで降りようとしなかったんだ?
マンションに着いた。部屋に行くと微かに伊織さんの残り香がした。
ボスン…。ソファに座り込み、しばらく伊織さんの表情を思い返してみた。どう見ても、困り果てているようにしか見えなかった。
「はあ…」
これから先、二人きりになったら、僕はどうしたらいいんだ?泊まって行ってください…どころじゃないよな。一緒に住むなんて、先の先の先の話だな。
ブルルルル。気持ちが沈み込んでいる時、電話が鳴った。こんな時に、東佐野からだ。
「もしもし」
「よう!元気しているか?」
「…東佐野は元気そうだな」
「ああ。毎日充実しているからさ」
「今日も舞台か?」
「今日は、休み。移動日だったんだ」
「そうか。充実しているのか。良かったな」
「そういう主任は、何か暗いね。伊織ちゃんとリア充しているんじゃないの?」
ムッ。このタイミングでそういうことを聞いてくるなよな。
「あれ?違うの?付き合ってるんじゃないわけ?」
「付き合ってるよ」
「じゃ、なんで暗いわけ?相手にされていないとか?仕事が忙しくてデートもできないとか?」
「いいや。そんなことはない」
「じゃ、なんでまた、暗いんだ?」
「お前には関係ない」
「主任~~~。もしかして」
「お前には関係ないって言っているだろ?」
「伊織ちゃん、あんまりにも純朴そうで、手、出せないだろ?」
…!!!
「俺だって、一緒の部屋で飲んでも、酔ってくーすか寝ちゃっても、手、出せなかったもんなあ、キスくらいしか」
「え?!今、なんて言った!?キス!?」
「あれ?まさか、キスもしていないわけ?」
「酔った勢いでキスしたのか?それとも、寝ているすきにキスしたのか?!」
「うん。寝ているすきに、チュって…。あ、でも、ほっぺな」
「………ほっぺ?」
「唇にはできなかったなあ~~~~。だって、お前、寝顔見たことある?赤ん坊みたいなんだよ?できないだろ、やっぱさ」
ほっぺか。ああ、びっくりした。いや、ほっぺでも、なんか許せないよな。まだ僕は、頬にすらキスしていないっていうのに。
「それで暗いわけ?お前、俺みたいに、他の女で適当に遊ぶとかできそうもないしね」
「するわけないだろ、そんなこと」
「そういうことができれば欲求不満にならずに済むのにな」
「なっていない。お前と一緒にするな」
「じゃあ、なんで暗いわけ?」
「ただ…、つ、疲れているだけだ。用がないなら切るぞ」
「あ~~~~!一個、忠告」
「え?」
「独身主義者のお前に忠告!」
「は?なんだよ。忠告って」
「結婚、前提にして付き合わないと、やばいよ」
「え?」
「伊織ちゃん、結婚願望強いし、たまにお母さんから見合い写真も送られてきてた。飲んで酔った時に、そろそろ会社辞めて、実家に戻れって親に言われるかもって、嘆いていたことあったしさ」
「……」
「結婚は考えられないとか、そんなこと伊織ちゃんに言ってたら、お前、ふられるよ」
「それ言うために、わざわざ電話?」
「俺さ、まじで、伊織ちゃんに相手が現れなかったら、実家に帰っちゃう前に、プロポーズしようと思っていたんだぜ」
「え?!」
「ただ、ちょびっと、自信がなくてさ。伊織ちゃんを幸せにする自信っていうか、家庭をちゃんと持って、守っていけるかの自信」
「……」
「それもあって、手が出せなかったんだよね。責任取れそうもなくて」
「……責任?」
「伊織ちゃんに手を出して、結局結婚まで考えられず、別れます…なんてさ、傷つけたくないっていうか、う~~ん、違うな。ぶっちゃけ、まじで結婚に踏み切る勇気がなかったって言うのかな。まだ、捕まりたくないって、そんな感じもあったかな」
「捕まりたくない?」
「結婚したら、自由奪われるだろ?一人身って呑気じゃん。食べられなくなっても、一人ならなんとかなるしね」
「そうだな」
「責任持つのが、怖かったのかもなあ、俺の場合」
「僕の場合はそういう怖さはない。結婚してもしなくても、仕事をしっかりとするし、ある程度の出世や、経済力は手にするつもりだ」
「お前の場合は、自由を奪われるのが嫌だってことだろ?」
「…なあ、東佐野」
「なんだ?」
「一人でいるほうが幸せだった。でも、ふたりのほうがより幸せだったりするんだな」
「え?」
「心配しなくても、結婚するよ。まだ、プロポーズはしていないけど…。だけど、お前の言葉で、焦った自分がいる。他の男と見合いして、かっさらわれる前に、ちゃんと掴まえとくよ」
「あははは」
「なんだよ、なんで笑うんだ?」
「いや、すごいなあ、伊織ちゃんってって思ってさ」
「なんでだ?」
「お前のこと落とすんだもん、すげえよ。絶対に結婚なんかしないって言ってたやつが、あっという間に、結婚するって言い出してさ」
「自分でも驚いてはいる」
「そっか。ちょっと癪だけど…。でも、伊織ちゃんが幸せになるんだったら、いいかな」
「本当に?お前、本気で伊織さんに惚れてたんじゃないのか?」
「惚れていたかもしれないけど…。俺はやっぱり、芝居を優先していて、一番は芝居なんだ。この分じゃ俺は、一生結婚しないかもな」
「…役者で食えるようになったら、伊織さんとの結婚を考えていたんじゃないのか?」
僕は、なんだってそんなことを突っ込んで聞いているのか。もし、やっぱり伊織さんを諦められないと言われたら、困るのは僕なのに。
いや、もし、そう言われたとしても、渡す気なんかさらさらないが。
「そう思ったこともあったけどな。こうやって、毎日舞台に上がって芝居していると、他のことみんな忘れちゃうんだ。実際、伊織ちゃんのこともすっかり忘れてた。で、移動日になってやっとこ思い出して、そういえば、お前と伊織ちゃん、どうなったかなあって、気になったってわけだ」
「…そうか」
「お前は?結婚まで考えるようになったってことは、伊織ちゃん、お前にとって大きな存在なんじゃないのか?」
「まあ、大きいと言えば、大きいな…」
「だよなあ。独身主義をやめてまで、結婚しようって言うんだもんなあ」
「東佐野、役者頑張れよ」
「なんだよ、いきなり」
「応援してるよ。それだけ、打ちこめる何かがあるってことは、幸せなことだと思うしな」
「…サンキュ。お前も、末永くお幸せに。あ、結婚式には呼ばないでいいからな。じゃあな!」
結婚式…かあ。
電話を切ってから、ぼけっと僕は考えた。でも、式よりも何よりもまず一番にすることは、伊織さんにプロポーズだろ。前に、結婚は考えられないと言っちゃっているしな。
「プロポーズか…。いったい、どのシチュエーションで、どんな言葉で言えばいいのか?」
ところで、伊織さんはちゃんとOKしてくれるんだろうか…。
ふと、そんな疑問が浮かびあがり、伊織さんだったら、絶対にOKするとどこかで思い込んでいたことに気が付いた。
断られる可能性もあるんだよな。すでに嫌われているとか、結婚なんか考えられないと、伊織さんの方が冷めちゃっているとか…。
「はあ。キスすら、拒まれたからなあ」
そして僕は、また落ち込んでしまった。
僕を好きだと言ってくれた伊織さん。でも、果たして今もそう思ってくれているのか?




