第29話 ライバル?~佑編~
翌日、合鍵を上着のポケットに入れ、家を出た。
「いつ渡すかが問題だよな」
と、そんなことを考えつつホームで電車を待ち、いつもの電車に乗り込んだ。すると、同じ車両に伊織さんがいるのを見つけた。
チャンスだ。僕は人をかき分け、伊織さんの方に近づいた。
「桜川さん」
そう呼ぶと伊織さんは僕に気が付き、目を丸くした。
「何で主任?」
「いつも僕はこの電車ですよ。桜川さんこそ早いですね」
「あ、はい。早くに目が覚めちゃって」
そう伊織さんは顔を赤らめて言った。
「ちょうど良かったです。会社じゃ渡せないだろうなと思っていまして」
僕は上着のポケットから合鍵をだした。
「あ…」
伊織さんは吊革に掴まっていた手を離し、合鍵を手にすると真っ赤になりながら、カバンの小さなポケットに仕舞い込んだ。
「なくさないでくださいね」
「はい、も、もちろんです」
「それで、木曜の夜、部屋にいてください。あんまり遅くならないと思いますが、名古屋を出る前にメールは入れます」
「はは、はい」
くす。ものすごく緊張しているなあ。
「この電車に乗れば、主任と一緒に会社に行けるんですね」
「…電車を降りたら別々に行った方がいいと思いますよ。この電車には会社の人間はいないと思いますが、駅からは誰が見ているかわかりませんから」
「あ、そうですよね」
ガタン。電車が揺れ、伊織さんが僕にぶつかってきた。
「すみません」
慌てて吊革に掴まり、伊織さんは謝った。
「いいえ」
僕は、何気に伊織さんに近づいた。すぐ隣に並び、伊織さんを感じた。
やっぱり、癒される。隣にいるだけで、ほっとする。
「主任?」
「はい?」
「い、いいえ」
なんだろう。何か言いかけてやめたけど。真っ赤になって俯いてしまったし。
まあ、いいか。なんだか知らないが、照れているんだろう。そんな伊織さんも可愛いし。
いつものなんでもない通勤時間が、一気に満たされてしまった。
電車を降り改札を出る時には、別行動をした。僕の方がさきに階段を降りて改札を出た。歩幅も違うから、僕がいつも通りに歩けば、必然と僕の方が先に会社に着く。
そして、颯爽と上着を脱いで、デスクにいつものように着いた。
とりあえず、合鍵が渡せてよかった。そんなことを思いつつ、あ、そういえば、マンションのエントランスの開け方、教えてなかったっけな、と思い出した。まあ、合鍵を差し込めばいいだけなんだが。
「おはようございます」
北畠さんがいつものように元気に挨拶をする。そして、その後ろから伊織さんも、
「おはようございます」
と恥ずかしそうに挨拶をした。
「おはようございます。桜川さん、早いですね」
そう言うと、伊織さんは目を丸くした。
「え?あ、はい。一本早い電車に乗れちゃったので…」
「そうですか。では、いつもその電車にしたらどうですか?そうしたら、ギリギリの時間に出社せずにすみますよ」
そう言うと、伊織さんは赤くなりながら、
「はい、そうします」
と言って席に着いた。
「うわ、今の、嫌味ですか?主任」
なぜか、上着を脱ぎながら野田さんがそう僕に言ってきた。
「いえ、思ったことを言ったまでですが」
そう表情も変えずに言うと、野田さんはちらっと伊織さんを見てから、はははと作り笑いをした。
嫌味を言うわけがないじゃないか。思い切り本心だ。一本早い電車にすれば、毎日僕と一緒に出社できる。そのほうが、僕が嬉しい。
なんてことは、口が裂けても野田さんには言えないが。でも、伊織さんには言ってもいいかな。いや、わかっているだろうし、わざわざ言うほどのことでもないか。
「あれ?伊織、早い」
9時5分前になって、溝口さんが現れた。
「どうしたの?」
「うん。早くに家を出られたから」
「へ~~。そうなんだ」
「溝口さんも、一本早い電車に乗るようにしたらどうですか?」
すかさず僕がそう言うと、溝口さんは思い切り眉をしかめ、
「朝、弱いんですよ。低血圧なもんで」
と、言い訳をした。
こいつ…。本当にむかつくなあ。心の中でそう呟いた。多分、同じことを溝口さんも思っているだろうな。
その日は午前中には外回り、午後は午後で会議があり、ほとんど自分の席にいなかった。そして、5時半になると、
「今日は残業だ~。あ、溝口さんと桜川さんも?」
と、課の男性が二人に話しかけた。
この声。伊織さんと不倫をしたいと言っていたやつだ。塚本…、確か今年で33か34になる。東京に戻って2年目、来年あたり、またどこかに飛ばされるらしいが、その時には主任に昇格すると課長が前に言っていたな。
「私はもうすぐ帰るけど、伊織は?」
「私、納品書を送らないとならないから、先に帰っていいよ」
特に返事をするわけでもなく、二人はそんな会話をしている。
「桜川さん、何時までかかるの?遅くなるようなら、なんか買ってこようか?」
「え?大丈夫です。30分くらいで済みますから」
「じゃ、コーヒーでも入れてもらっちゃおうかな」
「あ、はい」
こいつ。自分で入れに行けよな。
そう思いつつ、僕も席を立った。そして、コーヒーを入れに行った。
「桜川さん、コーヒーありますか?」
「はい。主任も飲みますか?」
「はい」
桜川さんは、3杯コーヒーを入れた。1杯目は、ゆっくりと丁寧に、なぜか顔を赤らめながら。2杯目は、ものすごく大雑把に、そして3敗目は普通に入れていた。
「はい、主任」
僕に渡してきたコーヒーは1杯目の、丁寧に入れたコーヒーだった。どうやら、適当に入れたコーヒーは塚本さんの分のようだ。面白いなあ。心のうちが手に取るようにわかる。
…ってことは、僕のコーヒーは、心を込めて入れてくれたっていうことか…。可愛いな。すっかり僕は気分を良くしてしまった。
「30分で終わりますか?僕もそのくらいで切り上げますが」
「え?主任も?」
キランと伊織さんの目が輝いた。それは、一緒に帰れるという期待で輝いたんだろうか。多分そうだよな。
「帰りに夕飯でも食べに行きますか?」
小声でそう伊織さんに聞いた。すると、伊織さんは顔を赤らめ、
「い、いいんですか?」
と聞いてきた。
「もちろん」
「でも、明日出張ですよね?朝早いんじゃないですか?」
「大丈夫です」
にこりと微笑むと、伊織さんはもっと顔を赤くさせた。
可愛い。
僕は思い切り満足しながら、コーヒーを持って自分の席に戻った。伊織さんは二つカップを持って戻ってくると、一つを塚本さんのデスクに無造作に置いた。
「ありがとう、桜川さん」
「いえ」
「桜川さんってさあ、フラワーアレンジ得意なんだっけね」
「え?得意ってほどでは…」
「いいよね。女らしい特技があって」
「お、女らしい?」
伊織さんは目を丸くした。僕はわざとらしく咳払いをして、
「すみませんが、塚本さん、桜川さんの仕事が遅くなるので、あまり話しかけないでくれませんか」
と注意をした。
「え?でも、そんなの主任になんか関係あるわけ?」
ム…。塚本さんは僕の直の部下ではない。2課にはもう一人主任がいて、その人の部下になる。とはいえ、今の言い方には正直腹が立った。
「桜川さんの仕事が終わるまでは、僕も帰れませんから。桜川さんの上司なんで…」
「ああ、自分が早くに帰りたいからね!なるほど。でも、だったら先に帰っていいですよ。僕が責任もって残りますから」
「塚本さんは、桜川さんの上司でもなんでもないですよね」
「あれ?上司じゃないと残っちゃいけないわけ?でも、田子主任の時にはそんな決まりなかったけどなあ。ね?桜川さん」
「え?…でも、田子主任も何か用事がない限り、一緒に残ってくれていました…けど?」
「そうだった?」
「はい」
「ああ、そう」
塚本さんはバツの悪そうな顔をして黙り込んだ。ナイスだ。伊織さん。
そして、30分後、伊織さんは仕事を終えた。
「あの、主任、終わりました」
「お疲れ様です。あ、駅まで一緒に帰りますよ」
そうわざとらしく言い、僕もパソコンの電源を切って席を立った。
「すみません…、残ってもらっちゃって」
「いいえ。仕事をせかしたみたいでこちらこそ、すみません」
これまた、わざとらしくそう言ってみた。
「主任、明日から名古屋に出張ですよね?それなのに、残業させてしまって」
伊織さん。もういいよ、謝るのは。心の中でそう思いつつ、
「いいですよ。部下を置いて先に帰るのは気が引けますから」
と、これまたわざとらしくそう言った。
「お疲れ、桜川さん」
「あ、はい」
「僕も早くに仕事が終わっていたら、一緒に帰ったんだけどなあ」
「……お先に失礼します」
伊織さんは、塚本さんの言葉を軽くスルーして、ロッカー室に行ってしまった。
ナイスだ。伊織さん。
「魚住主任」
「はい?」
「送り狼にならないように」
「……なりませんよ。なるわけがないでしょう」
塚本さんじゃあるまいし。そう心の中で言いながら、上着を着た。
「彼女、なんか、初々しいっていうか、あの年まで男性と付き合ったこともなさそうなくらい、うぶな感じがするし」
はあ?!
「だからって、ダメですよ。たぶらかしちゃ」
それはこっちのセリフだ!不倫してもいいなんて、とんでもないことを考えていたくせに。
「部下を駅まで送るだけです。塚本さんのほうこそ、そういうこと考えているんじゃないんですか?」
「え?あははは」
笑って誤魔化したな。否定くらいしろ。
ムカムカしながら、廊下に出た。すると伊織さんはすでにエレベーターホールで待っていた。それも、またあの鴫野ちゃんっていう子と一緒に。
「あ、魚住さん。お疲れ様です」
「お疲れ様です!」
なんだ?もう一人挨拶をしてきた子がいるぞ。知らない顔だが。
「今、帰りなんですね!よかったら、一緒に駅まで行っていいですか?」
その、誰だか知らない子が話しかけてきた。
「今宮さん、ずるい。私、地下鉄だから、魚住さんと駅まで一緒に行けないじゃない」
「うふ。私は魚住さんと同じ方面なんです。だから、二駅は一緒に帰れます」
なんだって?
「…何で僕の住んでいるところを知っているんですか?」
「あ!すみません!別に調べたわけじゃないですよ。総務の人が知っていただけですから」
「総務?」
「なんか、ほら、みんな総務に交通費の申請とか、してるじゃないですか。それで、知っていたんじゃないかなあ。魚住さんって、総務の女性にも人気あるし、それで噂になっていたりして、私の耳にも入ったと思います」
「だからって、そんな個人情報を勝手に人に教えていいわけないですよね」
「そ、そうですよね。そうだよ。うん。注意しておきます」
冗談じゃない。僕の住んでいるところを言いふらされているってことか?それも、同じ方面だって?二駅先まで一緒に帰るってことか?
一気に気分が落ちた。せっかく、伊織さんと帰ろうとしていたというのに。
「それじゃ、お疲れ様です」
鴫野さんは地下鉄に向かって歩いて行き、残った3人はJRの駅に向かって歩き出した。
「魚住さんって、何かスポーツされてます?」
「いいえ」
「じゃあ、趣味ってなんですか?」
「特にないですよ」
「じゃ、お休みの日は何をされているんですか?」
「…特に何も」
「え~~。そうなんですか~~~?」
なんなんだ。僕の隣に引っ付き、伊織さんを僕のそばに寄せ付けようともしないで、質問攻めにしてくる。苛立つなあ。
電車はかなり混んでいた。そんな電車に乗り込むと、さらに僕の方にくっつき、
「今日、混んでいますね」
と、そんなことを言ってきた。
イラ。イライラ。僕は吊革に掴まり、カバンでその子が僕にくっつかないように阻止した。ガタン。電車が揺れ、その子はよろけなかったが、伊織さんがいつものようによろけてしまった。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい」
「こっちに来て、吊革に掴まったら?」
そう言って伊織さんを僕の方に呼んだ。伊織さんは、すみませんと言いながらやってきた。
僕は少し隙間を開け、吊革に伊織さんを掴まらせた。それも、僕と今宮とかいう子の間に伊織さんを立たせた。
「次の駅ですよね。大丈夫ですか?降りれますか?」
「え?はい。大丈夫です」
「じゃあ、降りる準備したほうがいいですよ」
わざとらしく僕はそう言って、さらに今宮っていう子を遠ざけた。その子は、ドアの方に近づき、
「お疲れ様でした」
と、言いながら、人と人の間を抜け電車から降りて行った。
「ああ、やれやれ」
ほっと溜息をついた。すると隣で、伊織さんが、
「お疲れですか?」
と心配そうに聞いてきた。
「はい。疲れました」
「じゃ、夕飯を食べに行くのは」
「…家で食べましょうか。簡単なもの作りますから」
「でも…」
「そっちのほうが休まります」
「じゃ、私は帰った方が…」
「帰る?なんでですか?」
「一人の方が、気が休まるかなって」
「それ、本気で言ってます?僕をいじめているんですか?」
「え?まさか!」
「この前も言いましたよね?伊織さんがいるほうが、癒されるんです。だから、僕のマンションまで連れて行きますよ」
「………」
あ、目を丸くした。言い方がまずかったか。
「いえ、来てください。その…、来てくれますか?」
慌てて言い直した。あまりにも、さっきのは強気の発言だったよな。
「はい」
赤くなりながら、そう伊織さんは頷いた。そして、
「わ、私って本当に癒せているんでしょうか?」
と、小声で聞いてきた。
「はい。思い切り…」
そう言うと、伊織さんは僕を見て、顔を赤くさせ、
「よ、よかったです」
と、囁くように呟いた。




