第29話 ライバル?~伊織編~
朝、珍しく早くに目が覚めた。顔を洗い、メイクをした。薄化粧にして、髪は丁寧にセットした。それからトーストを食べ、着替えをして家を出ると、なぜかいつもより1本早い電車に乗れてしまった。
あれ?いつものより電車空いているんだ。1本違うだけなのに。
いつもはギュウギュウに押しつぶされているのに、とっても余裕。こんなことなら、いつもこの時間にしようかな…と思ったりしていると、
「桜川さん」
という主任の声が聞こえてきた。
幻聴?朝から早くに主任に会いたいから?
なんて思いつつ、横を見たら主任がいる。まさか、幻覚まで?いや、本物みたい。
「何で主任?」
「いつも僕はこの電車ですよ。桜川さんこそ早いですね」
「あ、はい。早くに目が覚めちゃって」
そうか。この時間のこの車両に乗っているのか。朝から会えちゃうなんて、なんてラッキーなんだ。
「ちょうど良かったです。会社じゃ渡せないだろうなと思っていまして」
そう言うと主任は、上着のポケットから鍵を出した。
「あ…」
合鍵!!!これは、大事にしないと!!!すぐさま受け取り、バッグの小さなポケットに入れた。
「なくさないでくださいね」
「はい、も、もちろんです」
「それで、木曜の夜、部屋にいてください。あんまり遅くならないと思いますが、名古屋を出る前にメールは入れます」
「はは、はい」
ドキドキ。合鍵を使って主任の部屋に入るなんて。そんなことが私の人生に起きちゃうなんて!
それにしても、朝からすぐ隣に主任がいるって、なんて素敵なことなんだろう。
「この電車に乗れば、主任と一緒に会社に行けるんですね」
ふわふわした気持ちのままそう言った。でも、
「…電車を降りたら別々に行った方がいいと思いますよ。この電車には会社の人間はいないと思いますが、駅からは誰が見ているかわかりませんから」
と言われてしまった。
「あ、そうですよね」
そうだよ。浮ついているだけじゃダメじゃん、私。
と気合を入れていると、ガタンと電車が揺れて主任にぶつかってしまった。
「すみません」
慌てて吊革に掴まった。
「いいえ」
主任はそう言ってにこりと微笑んだ。そして、腕と腕が触れ合うくらい、私のすぐ横に立った。
ドキ。なんか、すごく主任が近い。
ドキドキ。なんでこんなに近いのかな。
「主任?」
何気に呼んでみた。どうしてこんなに近くにいるんですか?と聞いてみる?でも、離れちゃうのも寂しいし。
「はい?」
「い、いいえ」
言わないでおこう。そんでもって、この距離を、このドキドキ感を思う存分喜んじゃおう。
ドキドキ、バクバク。
駅に着き、電車は一緒に降りた。でも、「お先に」と小声で私に言うと、主任は階段を颯爽と降りて行ってしまった。私はいつもと同じペースで階段を降り、いつもと同じ速さで会社まで歩いた。
主任、早い。どんどん先を歩いて、そのうち見えなくなっちゃった。
はあ。できれば、会社までも一緒に歩いて行きたかった。なんて、贅沢か。
いつもより早くにロッカー室に行った。いつも座っているはずの人たちが、ロッカー室の椅子に座っていなかった。
「あれ?伊織ちゃん」
「あ、鴫野ちゃん」
「早くない?」
「うん。1本早くに乗れちゃった」
鴫野ちゃんは地下鉄だったっけ。
「そうだ。私、当分フラワーアレンジできないかも。今、忙しくって毎日のように残業なの」
「大変だね」
「うん。あ、そうだ。来月のソフトボール大会に向けて、今宮さんと私、気合入ってるんだ」
「え?なんで?」
「だって、魚住さんも出るよね?○○電工とのソフトボール大会。営業部と経理部が出るじゃない」
「ああ、そういえば」
そうだった。11月だったっけね。忘れてた。
「その時がチャンスかもって、今宮さんと気合入れてるの」
「え?」
「魚住さんだってば。経理と営業だとなかなか話す機会もないじゃない?」
「あ、そういうことか」
そうか。鴫野ちゃんも今宮さんも、主任のこと気に入ってるんだもんね。
そ、そうか…。
トイレに行って、髪をとかしたり化粧を直した。そのあと、すぐに自分の席に行くと、ちょうど北畠さんも席に着いたところだった。
「おはようございます」
小声で主任に挨拶をした。すると、
「おはようございます。桜川さん、早いですね」
と、主任が私に言ってきた。
は?早いですねも何も、一緒に電車で来たのに。私は目を丸くしながら、
「え?あ、はい。一本早い電車に乗れちゃったので…」
と慌ててそう言った。
「そうですか。では、いつもその電車にしたらどうですか?そうしたら、ギリギリの時間に出社せずにすみますよ」
「はい、そうします」
うん。そうしよう。そうしたら、主任と一緒の電車に乗れる。朝から一緒だ!
顔がにやけるのを必死に抑え、私は仕事を開始した。
昼休憩になり、
「今日、お弁当作ってこなかったから、買いに行くね?」
と真広に言った。あ、そうか。お弁当を作らなかったから、1本早い電車になったのね、私。今、気が付いた。
「どうせなら、どっかでランチしよう。私もお弁当持って来ていないんだ」
ということで、二人で隣のビルのレストラン街に行った。そして、オムライスのお店に入った。
「ねえ、真広、来月ソフトボール大会あるじゃない?」
「あ、そうだった。毎年恒例の、面倒くさいやつ」
店員さんが運んできたセットのサラダを食べながら、真広はそう答えた。
「それにね、経理の鴫野ちゃんと今宮さんが、主任も行くからって気合入っているんだって」
「気合?アタックでもするってこと?」
「うん。ほら、大会の後は、しゃぶしゃぶ大会でしょ。その時の席って、特に決まってなくって、適当に座るじゃない」
「うん。そうだよね」
「その時も、あの二人、主任のこと狙っちゃうかも…」
「ねえ!○○電工の経理も来るんだよね。確か、毎年部長の娘さんは、ソフトボール大会に来なかったけど、今年は主任が来るから、来ちゃうんじゃないの?」
そうだった!菜穂さんもいた!
「ライバルだらけじゃないの、どうすんの?」
「どうしよう」
「もう!とっとと家に押しかけるかなんかして、ものにしなよ」
「ものにするって何?」
「だから、迫っちゃうの。今日帰りたくないとか言って、泊まっちゃうの」
「む、無理」
「無理じゃないよ。そのくらいしなきゃダメでしょ。あの仕事人間だよ?堅物人間だよ?」
「っていうことは、他の女性にもあんまり、興味持たないかな?」
「そんなのわかんないよ。男なんだし、色気できたら、グラッときちゃうかもよ?それに、部長、今度本部長になるんだってよ。本部長の娘と結婚できたら、出世間違いなしになっちゃうよ。そうなる前に手を打たなきゃ」
「部長が、本部長?」
「本決まりだって。岸和田が言ってた」
「え?岸和田君が?」
「う、うん。私ら、メールとかしてるから」
「……岸和田なんか、付き合ってられないって言ってなかった?」
「そうなんだけどね…。そうなんだけどさ」
なんだろう。歯切れが悪いな。
「何?真広、岸和田君となんかあったの?」
「まだ何もない」
「まだ?」
「…実は、温泉でも行かないかって、誘われてるの」
「は?」
温泉?
「それって、日帰りで?」
「まさか。1泊でだよ」
「え?」
1泊ってことは、それってつまり?
「断ったの?断ったよね?」
「ううん。まだ決めかねてる」
「え?なんで?」
「なんでかな。なんでだろう。私にもわかんないんだよね。あんな女癖悪そうなボンボン育ちの、いい加減なやつ嫌いなタイプなのに」
「……ねえ、真広。もともとちゃらんぽらんな感じの男嫌いだよね」
「うん」
「だから、岸和田君は嫌いなタイプだよね。でも、転勤してきた頃、喜んでいたよね」
「う、うん」
「本当は好きなタイプなんじゃないの?」
「嫌い。遊んでいるようなやつは。でも、そういう男にばかりひっかかるの、昔から」
「…なんで?」
「わかんないよ、自分でも。多分、ノリがいいじゃない?そういう人って。その方が楽しいっていうか、楽っていうか」
「本気にならないで済むからとか?」
「そうかな。でも、違うかな。楽で付き合って、深みにはまって、重い女になって嫌われて別れる…みたいなこと何度かあったから」
「…なんでもっと、真面目なタイプ好きにならないの?」
「だよね。もっと、結婚も考えている、真面目な人。そういう人を好きになれたらいいのにって、自分でも思う。だから、探してるの」
「だから、婚活パーティにも行ったんだよね」
「だけど、ダメなんだよね。ほら、特に主任みたいなクソ真面目な感じのやつ、学生の頃は委員長タイプで、勉強できて、ちょっと人を見下しているようなやつ、昔から嫌い」
「えっと~~。遊び人が嫌いなんじゃないの?昔から」
「学生の頃は、遊び人としか付き合ってなかったよ。まあ、それで何度も痛い目にあって、こういうタイプはもうやめようと思ったんだよ」
「じゃあ、もともとは遊び人がタイプ…」
「そうなんだよね~~~。どうしよう。ねえ、やっぱり、岸和田なんかと付き合ったらバカ見るよね」
「うん。多分」
そう言っても真広は、う~~~んと悩んでしまい、オムライスも3分の一残してしまったくらいだ。
「ねえ、伊織はどんなのがタイプなの?」
「私?私は…、優しい人かな。こう、包み込んでくれるような、一緒にいると癒される…」
「え?主任、違うじゃん」
「主任は…、だから、映画の趣味とか合って、話していると楽しいし」
「それだけでしょ?」
「それだけじゃなくって、だから、えっと。顔も、スタイルも、時計とか靴とか、カバンの趣味も、いいなって」
「お洒落のポイントがいいわけ?まあ、私も主任はお洒落だって認めるけど」
「価値観が近いのかな。趣味も同じだし」
「野菜作り?」
「うん」
「……それだけ?」
「い、いけない?」
「まあね、結局タイプの人と違うような人を好きになっちゃうわけよ。優しくて包み込んでくれるような人がいいと言いつつ、冷たくて、Sな人を好きになっちゃったりね」
冷たくもないし、Sでもないよ。主任は優しくって、隣にいると癒される。ドキドキするけど。
まあ、いいけど。真広にわかってもらえなくても。
「でもま、応援するよ。頑張って、伊織。ガンガンに押しまくれ」
そのアドバイスは聞き流しておくよ。
だって、ガンガンに押しまくるのとか、主任、嫌がりそうだもん。
午後は、仕事が片付かなくて、残業になった。主任も残業だ。それだけで浮かれてしまう。
一緒に帰れたら、いいなあ。
「今日は残業だ~。あ、溝口さんと桜川さんも?」
同じ課の塚本さんがそう聞いてきた。
「私はもうすぐ帰るけど、伊織は?」
塚本さんに答えず、真広は私に聞いてきた。
「私、納品書を送らないとならないから、先に帰っていいよ」
「桜川さん、何時までかかるの?遅くなるようなら、なんか買ってこようか?」
え~~。いらないよ。
「大丈夫です。30分くらいで済みますから」
「じゃ、コーヒーでも入れてもらっちゃおうかな」
「あ、はい」
なんだ。結局私の方が頼まれちゃった。ちょっと面倒。なんか、塚本さんっていつも面倒なんだよね。変な時にコーヒー頼んで来たり、私、あの人の部下でもないのにコピー頼んで来たり。人遣い荒いっていうか何ていうか。
そんなことを心の中で呟きながらコーヒーを入れていると、
「桜川さん、コーヒーありますか?」
と主任がやってきた。
わ~~~い。主任だ!!嬉しい。
「はい。主任も飲みますか?」
「はい」
主任のためなら、いつだって美味しいコーヒー入れちゃう。塚本さんのには愛情込めず、主任のコーヒーにだけ、愛をたっぷり。なんつって。
それにしても、主任と一緒に帰りたいなあ。
「30分で終わりますか?僕もそのくらいで切り上げますが」
「え?主任も?」
それって、一緒に帰れるってこと?!
ぱっと主任の顔を見た。すると主任は優しい笑みを浮かべ、
「帰りに夕飯でも食べに行きますか?」
と小声で聞いてきた。
「い、いいんですか?」
「もちろん」
「でも、明日出張ですよね?朝早いんじゃないですか?」
「大丈夫です」
にこり。主任がまた優しく微笑んだ。
わあ。嬉しい。一緒に帰れるだけじゃない。夕飯も一緒だ。これって、もしや、デート?
席に戻り、さっさと仕事を終えた。途中、また塚本さんが話しかけてきたが、主任が黙らせてくれた。ああ、主任、さすがです。
そして、30分で仕事を終え、
「あの、主任、終わりました」
と報告すると、
「お疲れ様です。あ、駅まで一緒に帰りますよ」
と主任も帰る支度を始めた。
私はわくわくしながらロッカールームに飛んでいき、帰り支度をして廊下に出た。そして、エレベーターホールに行くと、鴫野ちゃんと今宮さんに会ってしまった。ああ、そういえば、残業になるって言っていたような。
「伊織ちゃんも残業?ってことは、魚住さんも一緒だったりする?」
「う、うん」
そこに主任が来てしまった。
「あ、魚住さん。お疲れ様です」
「お疲れ様です!」
鴫野ちゃんと今宮さんがそう挨拶をした。特に今宮さん、やたらと元気だ。
「今、帰りなんですね!よかったら、一緒に駅まで行っていいですか?」
え?今宮さん、なんて積極的。それも、鴫野ちゃんは地下鉄だから、方向が違うけど、今宮さんは帰る方向も同じ。
がっかり。主任と早く二人になりたかったのに。
なのに、電車でも今宮さんは主任の隣にへばりつき、私の入る隙間もない。ああ、それも、明るく主任に話しかけ、私の話す隙も与えてくれない。
なんて積極的なんだろう。
主任、いえ、佑さん。佑さんの好みの女性ってこういう人じゃないですよね。あ、そういえば、好みはないって言ってた。
じゃあ、明るい積極的な子はどう思うんですか?
ドキドキバクバク。そんな言葉が頭に浮かび、一人でもやもやしてきた。と、その時電車が揺れ、思い切りよろけると、
「大丈夫ですか?」
と主任が気が付いてくれて、私のことを呼んでくれた。
「次の駅ですよね。大丈夫ですか?降りれますか?」
主任は今宮さんにそう話しかけ、
「え?はい。大丈夫です」
と今宮さんが答えると、
「じゃあ、降りる準備したほうがいいですよ」
と今宮さんをドアのほうに追いやった。やった。これで私は主任の隣にいられる。
今宮さんは人をかき分け出口付近に歩いて行き、駅に着くと、
「お疲れ様でした」
と電車を降りて行った。
「ああ、やれやれ」
主任がそう言ってため息をついた。
「お疲れですか?」
「はい。疲れました」
「じゃ、夕飯を食べに行くのは」
「…家で食べましょうか。簡単なもの作りますから」
「でも…」
疲れているのに、悪いよね。
「そっちのほうが休まります」
「じゃ、私は帰った方が…」
「帰る?なんでですか?」
「一人の方が、気が休まるかなって」
「それ、本気で言ってます?僕をいじめているんですか?」
「え?まさか!」
何言い出したんだ、主任ったら。いじめるわけがないじゃないか。
「この前も言いましたよね?伊織さんがいるほうが、癒されるんです。だから、僕のマンションまで連れて行きますよ」
ドキン。
伊織さんになった。
それに、なんかちょっと大胆と言うか、強引な言い回しに胸が高鳴っちゃった。
ドキドキして何も返事ができないでいると、
「いえ、来てください。その…、来てくれますか?」
と主任の声や表情が変わっていった。
あれ?さっきは、強気だったのに。
「はい」
頷くと主任は、ほっとした顔を見せた。
それにしても、私って、本当に癒しになっているのかなあ。なんか、迷惑しかかけていないと思うんだけど。熱出したり、寝ちゃったり。
「わ、私って本当に癒せているんでしょうか?」
気になり聞いてみた。すると、
「はい。思い切り…」
と主任は頷いた。
「よ、よかったです」
そう主任の方を見て言うと、主任はまた優しく笑った。
ああ、ほら。この笑顔。優しいこの笑顔が好きなの。きっと、真広は知らない、主任の優しさ。




