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第28話 合鍵 ~佑編~

 月曜、会社にいつもの時間に着いた。静かにデスクでパソコンを開き、メールを見ていると、

「おはようございます、主任」

と、北畠さんが元気に挨拶をしてきた。


「おはようございます」

 なんか、日に日に北畠さんの化粧は濃くなり、着ているものもエスカレートしているよな。今日はひらひらのスカートまで履いている…。まあ、別に何を着ようがいいけどな。


 次々に課のみんなが出社した。事務の二人を除き、みんながデスクに座ってから、バタバタという足音が聞こえ、まずは伊織さんが席に着き、次に溝口さんが、

「セ~~フ」

と言って椅子に座った。時刻は8:59だ。


「溝口さん、全然セーフじゃないですよ」

 そう溝口さんを見ながら言うと、溝口さんはまったくこっちを見ようともしない。そして、伊織さんがちらっとこっちを見たのがわかった。

「せめて5分前には席についてくださいと、何度も言っていると思うんですが」


「は~~~い」

 溝口さんは、愛想を振りまくことをやめてからと言うもの、僕に対して本当に頭に来る態度を取るようになった。今日も、随分と横柄な態度を取るじゃないか。その返事はなんだ。まったくやる気のない返事…。


 あ、そうだった。ここで溝口さんだけ注意していたら変だよな。

「桜川さんもです。5分前には席についていてください」

「すみません」

 伊織さんは、小声で申し訳なさそうにそう言った。溝口さんとは打って変わって、なんとも可愛い声だ。きっと今頃、申し訳ないという思いでいっぱいでいるはずだ。


「魚住君、悪いが急遽名古屋に行ってくれないか」

 課長が突然その日の朝、そんなことを言ってきた。名古屋でトラブルがあるらしい。塩谷もその対応に追われているようだが、僕に応援に来てほしいと要請があったようだった。


「はい、わかりました」

 しょうがない。塩谷に名古屋での問題をすべて解決してから、東京に来てほしいしな。

 僕はすぐに、出張費の申請を出すため、伊織さんを呼んだ。確か、交通費のことは伊織さんが担当だよな。


「桜川さん」

「はいいっ!」

 なぜか僕が呼ぶと決まって、驚きながら返事をするよなあ。


「出張するので、出張費の手続きをしてもらえますか?」

「あ、それでしたら、担当はわたくしです」

「あれ?確か前に、桜川さんが交通費の清算とかしていませんでしたっけ?」


「2か月ごとの、当番制にしているんです」

「ああ、なるほど。でしたら北畠さん、お願いします。水曜から名古屋に行ってきますので」

「はい!」

 なんだ。北畠さんが担当か。…いや、別に残念がる必要もないんだが。


 伊織さんにあまり何かを頼むと、今みたいに伊織さんは真っ赤になるし、僕の方まで顔つきが変わってしまったら、みんなに付き合っていることもばれるかもしれない。だから、極力伊織さんに頼みごとはしないほうが…。


「桜川さん」

 あれ?なんだって、僕は彼女の名前を呼んでしまったんだ。溝口さんか、北畠さんにコピーを頼む予定が。

「すみませんが、コピー10部ずつお願いします」

「はいっ」

 伊織さんは、僕から用紙を受け取ると、コピー室にすっ飛んで行った。


「くすくす。最近の桜川さんは、張り切っているねえ」

 隣でそう課長が笑った。

「そうですね」

「何かいいことでもあったのかな」


 ギクリ。まさか、課長、僕と付き合っていること気づいていないよな…。


 伊織さんはコピーを終え、僕のデスクの真ん中に、デンとそれを置いた。すると、1枚目に付箋が貼ってあり、

『いつまで、出張ですか?』

と書いてあった。


 これはまずい。課長や他の人に見られたら。そう思い、すっと付箋を素早く取り、まるめてゴミ箱にすぐに捨てた。

「……」

 いつまで、出張ですか?か…。それって、あれかな。僕に会えないのが寂しいから聞いてきたのかな。


 やばい。今、一瞬にやけそうになった。意識して無表情をよそおい、仕事に集中した。

「魚住主任、今度取引を再開したいと言ってきた□□物産ですが、5年前に取引があったようなんです」

「5年前ですか。どうもパソコンにはその資料が残っていないようですが」

「資料室なら、残っていると思いますよ。取ってきましょうか」


「ああ、いいです。僕が取りに行きます。野田さんは午後から行く○○商事の資料の確認をお願いします」

「はい」

 資料室か。チャンスかな。

「桜川さん、すみませんがちょっといいですか」

「え?!はい」


「5年前の資料で見たいものがあるんですが、資料室のどの辺にあるかわからないので、教えてもらってもいいですか?」

「はい」

「あら、だったら私が…」

 北畠さんが、目を輝かせながら僕の方を見た。いや、わざと伊織さんに頼んだんだ。北畠さんじゃ意味がない。

「北畠さん、こういう時って、どうやって処理したらいいんでしたっけ?」

 お、いいタイミングで溝口さんが質問をしてくれた。助かった。


 僕は伊織さんと資料室に入った。ドアをしっかりと閉め、電気をつけた。外に声が漏れては困る。

「5年前に取引をしていた、□□物産のデータ、パソコンに残っていなかったんですよね。どこにあるかわかりますか?」

「あ、はい。この棚に入っています。あ、これです」


「ありがとう。助かりました。この資料室は、何がどこにあるのか、いまいち把握できなくて」

 と言うのは嘘だ。だいたい、どの辺にしまってあるかなんて、すぐに把握できる。

「わかりにくいですよね。今度、わかるように整頓しておきます」

 あ、本気にしたんだな。申し訳ない。


 僕が、伊織さんを呼んだのは、さっきの答えが言いたかったからなのに。そう思いつつ、伊織さんに顔を近づけ小声で話しかけた。

「…桜川さん」

「はい?」


「水曜と木曜だけです。金曜には東京にいますよ」

「そそ、そうなんですね」

 伊織さんは真っ赤になった。その表情が、やっぱり可愛い。

「木曜の夜には帰ってきているので…。なんだったら、うちに来ててもいいですよ」


「え?」

「部屋の合鍵、明日持ってきますから」

 さらに真っ赤になり、伊織さんは目を丸くして僕を見た。思った通りの反応だ。

「あ、夕飯作っておいたほうがいいですか?」


「ああ、いいですよ。どこかに食べに行きましょう。また、木曜日の夕方ころ、メールします」

「は、はい…」

 伊織さんは恥ずかしそうに頷いた。


 あれ?真っ赤になっているが、それだけじゃない。そうか、化粧がいつもより濃いのか。だから、なんとなく違和感があったのかもな。言っていいのかな、そういうのは。うん。感じたことは素直に云ったほうがいいよな。


「それと…」

「はい…」

「今日、頬紅、ちょっと濃いですよ」

「え?!」


「化粧、薄いほうが伊織さんらしいと思います」

「は、は、はい」

 伊織さんは、恥ずかしそうに頷いた。

「じゃあ、資料、ありがとうございました。桜川さん」

 

 僕はわざと、声を大きめにしてそう言い、資料室のドアを開けた。そして、何事もなかったかのようにファイルを手にして席に戻った。

 課のみんなも、何事もなかったかのように仕事をしている。そんな中、顔を赤らめながら伊織さんは席に着いた。


 あれって、やっぱり、みんなにはばれているよな。桜川さんは、主任にどうやら惚れているようだ。と言う噂は、僕の耳にも入ってきている。直接言ってくる人はいないが、なんとなくそんな会話を課の男性陣がしているのも聞こえてきたしな。


 まあ、いいか。付き合っていると言うのはばれていないんだから。


 もう一人、北畠さんも僕を気に入っている。という噂も耳に入ってきた。それは、北畠さんの行動を見ていりゃわかる。

「どうなんだろうなあ、主任は」

 男子トイレに行くと、そんな声が中から聞こえてきた。


 主任ってのは僕のことか?ほんのちょっと中に入らず、僕はそのまま立ち止まり耳をそばだてた。

「北畠さんか?わかりやすいよなあ。あの人、数年前、隣の課にいた独身男性にもよく迫っていたよな」

「相手は、それとなく避けていたけどな」


「まあ、思い切り避けるわけにはいかないよなあ。でも、すぐにその人静岡支店に飛ばされたから、北畠さん、残念がっていたっけね」

「で、しばらくは大人しくなっていたけど、主任が来て、また復活したね、あの人」

「化粧も派手になって、着るものもちょっと若作りしてない?」


「それよりさ、わかりやすいって言えば、桜川さんだよ。あれ、絶対に主任も気が付いているだろ。北畠さんはないにしても、桜川さんだったら、俺はありかな」

 あり?ありってなんだ?!


「ありってなんだよ。もし、今、桜川さんに迫られたら奥さんに内緒で付き合うってわけか?不倫するのか?」

「いいねえ。彼女ならありだよ」

 なんだって?!


「主任もまんざらじゃなかったりしてな」

「どうだろうなあ。見てると、けっこうクールって言うかさ、ビシッと冷たく叱ったりしているし」

「それでまた、凹んじゃう桜川さんが可愛いよな」

 なんだって!可愛いだって?!


「桜川さん、すれてなさそうだしな。男性経験もあんまりないんじゃないか?」

「そこがいいよな。主任はどう思っているんだか」

 そんな会話をしながら、二人がトイレから出てきそうになり、僕は慌ててすぐにその場から去った。そして、廊下をぐるりと回り、反対側にあるトイレの中に入った。


 驚いた。不倫相手に伊織さんを考えているってことか?!冗談じゃない。さっきの声、課の男性だ。直接、伊織さんと仕事で関わっていないやつだが、そんな目で伊織さんを見ていたってことか?

 むかつく。やっと、淀川さんが課から出て行くとほっとしたのに、他にもそんなやつが課にいたとはな。


 危なっかしいな。もし、酔っぱらってそんな奴に送ってもらったりしたら、ホテルにでも連れ込まれて、どうにかなっちゃうかもしれないってことか?

 冗談じゃないっ。


 このまんま、付き合っていることを隠し続けてていいのか?そんなことをしているうちに、あんな連中が伊織さんに迫ったりしないんだろうか。


 付き合っているって言うのは、どうやらばれていないらしい。それどころか、僕が伊織さんに対してなんとも思っていないと、そう思われているようだった。それはよかったのか、悪かったのかわからない。


 その日は、伊織さんは残業もせず、溝口さんと帰って行った。僕は名古屋に行く前にいろいろと済ませることがあり、遅くまで残業した。

「あれ?こんな時間まで残業かい?」

 南部課長が出先から戻ってきてそう聞いてきた。


「はい」

「僕は先に帰ってもいいかな?」

「はい、大丈夫です」

「悪いねえ、いろいろと魚住君にばっかりさせてしまって」


「いいえ」

「そうだ。魚住君、知っていたかな。本部長が来月定年で辞めるのを」

「え?そうなんですか?」

「うん。まあ、天下りってやつでさ、子会社の社長になるらしいよ」


「ああ、そうなんですか」

「でね、次期本部長も、今日決まったんだよ。前々から噂はあったんだが、どうやら正式に決まったらしい」

「もしかして、湯川部長ですか?」

「うん。なんだ、君も知っていたのか」


「噂で聞きましたよ」

「そうか。マーケティング部の部長や、大阪支店の営業部長も候補に挙がっていたんだが、湯川部長に決まったわけだ。前から湯川部長は、本部長のお気に入りだったしね」

「そうらしいですね」


「そして、君は湯川部長のお気に入りなわけだから、君も将来出世間違いなしだね」

「そうでしょうか」

「そうだよ。プロジェクトも順調に進んでいるし、赤字になった分も巻き返せそうだしね。あとは、部長の機嫌を損ねないようにすることかな」

 課長は意味深な笑みを浮かべた。


「……それは、どういう意味でしょうか?」

「菜穂さんだよ。あ、そうだ。今度、○○電工と恒例のソフトボール大会がある。そこに、菜穂さんも来ると思うぞ」

「ソフトボール?」


「我が社と○○電工のソフトボールの試合、これは毎年恒例でね。知らなかったかい?営業部と、経理部の連中が出て、ソフトボールの試合後は、みんなでしゃぶしゃぶ食べて親睦を深めるんだ。ほら、我が社にグランドがあるだろ?野球部の連中が使っている」

「ああ、そういえば、野球部とか、他にも部がありましたっけね」


「そうそう。陸上部とかね。で、野球部のシーズンオフになってから、グランドを使えるようになるから、毎年11月になると、ソフトボール大会をするんだよ」

「なるほど。そういえば、一回だけ、しゃぶしゃぶを食べに行きました。グランドの横に寮があって、その食堂で食べられるとか」


「そうそう。けっこういい食堂なんだよ。11月の第1土曜日だから、開けといて。その時、部長も来るし、菜穂さんも来るはずだよ」

「…そうですか」

「君、結婚は考えていないようだけど、出世には結婚は必要だよ。家庭を持っていない人は、なかなか出世できないからね」


「そのようですね」

 だけど、そんなの僕には関係ないと思っていた。仕事ができるのと、結婚とは関係ないだろうって。

 だが、仕事の疲れを家で癒す。その癒してくれる相手がいたり、仕事に対してやる気を出させるのが家族の存在だったりするのかもしれないと、最近はそう感じている。


 伊織さんだったら、癒してくれるだろうし、伊織さんのために仕事を頑張ろうと、そう僕は思うかもしれない。

 そんなことを思うと、心の奥がくすぐったくなった。


 いや、待てよ。今はそれより、菜穂さんだ。部長が本気で僕と菜穂さんをくっつけようとしたら、それこそ困るじゃないか…。

 いきなり、僕の心は穏やかでいられなくなってきたようだ。




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