第27話 付き合っている ~伊織編~
熱を測ると、36度3分。すっかり平熱になっていた。
主任は洗い物を終え、リビングのソファに座っている私の隣に来た。そして、二人で話を始めた。
主任の話には、時々名古屋での話が出てくる。そのたび、私は塩谷さんっていう女性のことが気になってしまう。
主任にとって、塩谷さんは特別な人なんだろうか…とか、塩谷さんは主任のことをどう思っているんだろう…とか。まだ見ぬ塩谷さんに、私はすでに嫉妬しているようだ。
洗濯機が、洗濯の終わりの合図を出した。主任は洗濯物を干し、私はその横で野菜たちに水をあげた。
「元気に育っていますね」
「でしょ?日当たりもいいし、この場所、家庭菜園に向いているみたいですよ。だから、一緒に住むときには、伊織さんの家の野菜たちも持って来たらいいですよ」
「え?」
ドキン。なんか、そういう話をされるたびに、だんだんと一緒に住む気になってきちゃう。
でも、そうなったら、毎日主任と一緒にいられるんだ。
っていうか、そうなったら、やっぱり、私たちって結ばれちゃうってことだよね?
う、うわ。いよいよ、私も、バージンじゃなくなるの?
って、待って。
この年で、経験ないっていうのは、男性にとってどうなのかな。引かれる?どうなの?なんだよ、25にもなって処女かよ。今迄付き合ったこともないのか?とか、思われちゃったりするの?
どうしよう。それに、美晴が言うように、本当に鮮度が落ちていたりしたら。
ドキドキ。違う意味でドキドキしてきた。
「あそこ、大きな公園があるの、見えますか?」
「え?はい」
「東京にしては珍しいんですよ。僕はまだ行ったことがないんですけどね」
「そうなんですか」
「今度行ってみましょうか」
「あ、はい」
「それから、見たい映画があるんです。多分、伊織さんも気に入るはずです」
「え?ロードショーをしているんですか?」
「いえ。まだこれからですが。確か来週からだったかな。見に行きませんか?」
「行きます」
「じゃあ、一緒に行きましょう」
「はい」
わくわくしてきた。それって、デートだよね!
あ。そうか。なんか、ようやくしっくりしたかも。
この前、車で送ってもらった時、この車にこれからはしょっちゅう乗るんだから、慣れてくださいって言われたけど、付き合うようになるからだったのか。
じゃあ、飲み会のあと、部屋に寄ってくれたのも、付き合っていたから?
それに、いろいろと心配してくれたのも?
そうか。そうだったのか。わあ。なんだか、だんだんと実感が…。私、主任の彼女なんだ。あ、主任じゃなくって、佑さん…。
ひゃあ。佑さんだって。なんだか、くすぐったい。伊織さんって呼ばれるのも、くすぐったいよ。
それから主任に、車で送ってもらった。
「ずっと、すっぴんで、ごめんなさい」
車の中でそう言うと、
「何で謝るんですか?別にすっぴんでもいいですよ」
と、佑さんに言われた。
「私、化粧しないと幼くなるから嫌なんです」
「なんでですか?可愛らしくなるのに」
ドキ。可愛い?!
「いえ。私、可愛くないです」
「可愛いと思っているんですから、そこは素直に受け止めてください」
「あ、はい。ごめんなさい」
か、可愛いと思っている?ほんと?無理やり思っているんじゃなくて?
「たまに、伊織さんは頑固になりますよね」
「ごめんなさい」
「いえ。謝らなくてもいいんですけど」
呆れたのかな。
ちらっと佑さんの顔を見た。すると佑さんも私の顔を見て、
「はい?」
と聞いてきた。
「いえ、なんでもないです」
慌てて前を向くと、佑さんは左手をハンドルから離し、私の手を握ってきた。
ひょえ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。
「あ、あの?え?え?」
私が思い切り動揺すると、佑さんはすぐに手を離してしまった。
失敗した。動揺しすぎた。バカだ。私!
でも、ドキドキが半端ないし。いきなり手なんて握られて、どうしていいかわからなかった。
「すみません」
「いえ!」
謝られた。私の方こそ、動揺してごめんなさいと謝りたいのに。それに、ドキドキしまくるけど、手、握って欲しいです…なんて、言えるわけないよね。
もう、金輪際、手を握ってくれなくなったらどうしよう。
「今日と明日は、ゆっくり休んで、風邪を完治させてくださいね」
「はい」
「月曜、会えないと寂しいですから」
きゃ~~~~~~~~~。
「は、はいっ」
私は思い切り頷いた。そして、顔がどんどん火照って行った。
佑さんが、すごい嬉しい発言を連発する。どうしよう。
ぽっぽ、ぽっぽと火照る顔を両手で隠した。自分が触ってもわかるくらい、顔が熱い。
外を見た。少しでも気持ちを落ち着けようとした。でも、落ち着かない。ドキドキがまだすごいことになっている。
いきなり、私の人生バラ色になっちゃった。だって、昨日までブルーになっていたのに。
名古屋から来る営業の人とか、部長の娘さんとか、いろいろとブルーになる原因の人がいて、それだけじゃない。仕事をミスして、佑さんに怒られたり、それで思い切り凹んだりしていたのに。
あれ?でも、佑さんからしてみれば、昨日も付き合っていたってことだよね?
そうだった。ミスしても、僕がフォローするから大丈夫って言われたんだった。もっと頼ってくださいと、何度も言われていたっけ。
ずっと佑さんは、優しかったんだ。なのに、勝手に落ちて凹んで、私って相当おバカかも。もっと前から、ハッピーディになるはずだったのに。
アパートの横に佑さんは車を停めた。
「送ってくれてありがとうございます」
「……はい」
小さく佑さんは頷くと、にこりと微笑んだ。
なんて優しい笑顔なんだろうなあ。
「あ、あの。私、お付き合いをしているのもわかっていなくって、本当にごめんなさい」
「いいえ」
「あの。佑さんも、この前、アンポンタンでいいんですかって聞いてきましたけど、私も、こんなにボケてて、おっちょこちょいで、おバカですけど、いいんですか?」
「くす」
あれ?笑われた。
「僕はどうやら、そういうところに惹かれたようなので、そのままでいてほしいですよ」
「え?こんな私がいいんですか?」
「はい」
びっくりだ。
「部屋まで送って行かなくて大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です。じゃ、じゃあ、月曜日」
「はい。また月曜日」
車が見えなくなるまで、見送った。そして、2階に上がった。
ふわふわしている。現実なんだか夢なんだか、いまだに区別がつかないくらいに。
なんとか、自分の部屋に無事辿り着き、鍵を開け、ドアを開け中に入った。すると、テーブルの上にメモがあり、
『お姉ちゃん、おかず作って冷蔵庫に入れてあるからね』
とそこには書かれていた。
そうか。美晴、来てくれていたのか。悪かったかなあ。
ああ、美晴に主任と付き合うようになったよと言ったら、びっくりするかな。
それに、真広に言ったらどうするんだろう。
真広、他の人に内緒にしてくれるかな。佑さん、みんなに知られたくないみたいだし。
会社では、内緒なんだな。なんだか、そういうのもドキドキしちゃう。
でも。私、隠していけるかな。私が佑さんを好きなのは、みんなにバレバレなような気がするし。
あ、そっか。私が好きだってことはバレてもいいのか。二人が付き合っているのさえ隠せていれば。
だったら、大丈夫かな。だって、佑さん、会社だとクールだし、顔色も変えたの見たことないもん。
「……」
ぼんやりと、座椅子に座って月曜日からのことを考えた。ああ、会社では「主任」「桜川さん」と呼び合うんだな。それで、二人きりになったら、「佑さん」「伊織さん」。ううん、そのうち、伊織って呼ばれたりして。
きゃ~~~~~!
それで、コピー室に二人っきりになったら、あ、だめ、こんなところで!なんてことも、起きちゃうのかな。
きゃ~~~~~~~~~~~~~~!どうしよう。
って、それはないか。あの佑さんに限って。真面目だもんね。
はあ。早く月曜日にならないかなあ。
翌日。美晴から朝早くに電話が来た。
「お姉ちゃん、昨日荷物が届いていたよ」
「え?受け取ってくれたの?ありがとう。でも、どこにあるの?」
「もう棚の中に閉まった。お母さんが、缶詰送ってきてた」
「お母さんから?この前も来たのに、また送ってくれたのか」
「うん。で、見合い写真も入っていたの」
「え?また?」
「35歳、独身。農業をしているんだってさ」
「農業?」
「お姉ちゃん、家庭菜園好きだし、農家に嫁いでもいいんじゃない?って、お母さんの手紙に書いてあった」
「え~~。何それ。勝手なこと言ってるなあ。で、お母さんからの手紙、ないけど」
「あ、ごめん。持ってきちゃった。見合いの写真も」
「なんで?」
「つい、帰ってから、じっくりと見ようと思って」
あのねえ…。人の手紙なのに。
「断るよね?主任のこと頑張るんだよね?私は主任の方が、お姉ちゃんにあっていると思うよ」
「美晴~~~」
「何、気持ち悪い猫なで声出して」
「……あのね、主任と付き合うことになった」
「ええ?!ほんと?押し倒した?」
「してないよ。そんなことしていないけど、でも、付き合ってるの」
「おめでとう~~~!じゃあ、今夜行く。二階堂さんのマンション行くはずだったけど、キャンセルするから乾杯しよう」
「いいよ。二階堂さん可哀そうだよ、行ってあげて。私、病み上がりだし、大人しくしているからさ」
「あ、そっか。また風邪引いたんだっけ」
「うん」
「体、弱すぎ。お姉ちゃん、冬場よく風邪引くしね」
「体調管理がなってないって、主任に怒られた」
「え?彼氏なのに、そんなこと言うの?うるさいね」
「でね!僕が、桜川さんの体調管理、ちゃんと見ますよって」
「何~~~?結局のろけ?」
「でへへ~~~~~~~~。まさか、私が美晴にのろける日が来るとはね。いつも、聞いてばかりだったのに」
「ちょっと!じゃあ、26歳の誕生日までに、絶対あげるんだよ!」
「う、うん。間に合うよね。あと5か月」
「十分だよ。なんなら、今日あげてもいいくらい」
「無理無理無理」
手、握られただけでも、ひゃあってなったのに!
「美晴、一つ聞いていい?」
「何?」
「25にもなって、処女って引くかな」
「主任なら大丈夫でしょ。真面目そうだし。逆に喜ぶかもよ」
「ほんと?」
「わかんないけど。ま、頑張ってね。あんまりじらさないようにしなね。でないと、ふられちゃうよ」
「え?!そうなの?ねえ、そうなの?」
「うん。さっさとあげちゃいな。じゃ!」
うそ。そうなの?
ううん。きっと、ちゃんとしたタイミングでくるよね。そういう時が。
うん。多分、きっと…。
美晴には、こんなにも早くに報告することになるとは思わなかった。あとは、真広だ。
日曜日はあっという間に過ぎた。私は、いつも以上に張り切ってお風呂に入り、顔もパックまでしてしまった。
「寝よう。肌のためには十分な睡眠」
と、布団にも10時半には入った。
でも、寝れなかった。明日からのことを考えると、ドキドキしてなかなか眠れず。
「ああ!早く主任、じゃなくて佑さんに会いたい。でも、会社では主任!」
足をジタバタさせ、そのあと布団の中で「きゃ~~」と言いながら、ゴロゴロした。
今、主任は何をしているのかな。リビングでテレビを観てる?それとも、仕事部屋で仕事?それとも、お風呂かな。
そして、あのベッドで寝るんだよね。
私、汗いっぱいかいたけど、汗臭くなっていないかな。う、心配。
ああ!寝れないよ。
そうだ。主任におやすみなさいのメールしてみようかな。なんて!だって、恋人なんだから、いいよね。
いや。いきなり、そんなふうになったら、重いかな。重い女かな。
ドキドキ。携帯を握り、ドキドキした。で、結局、メールできずにその日は眠った。
翌朝、寝坊した。
「ああ!髪が!毛先がはねてる!」
直している暇もなく、化粧も慌てて済ませ、走って駅まで行った。どうにか、いつもの電車に乗り込み、ぎゅうぎゅうに押され、くたくたになって会社に着いた。
ちゃんと化粧もして、髪も整えたかったのに。
「おはよう」
ロッカーに行くと、すでに真広がいた。ドキン。どのタイミングで真広に言ったらいいかな。みんながいない場所ってどこ?トイレも誰かに聞かれる可能性あるよね。屋上とか?
「おはよう。今日も満員電車?」
「え?うん」
「髪、すごいことになっているもんね」
「ほんと?!」
慌てて、トイレに駆け込んだ。本当だ。ぐしゃぐしゃだ。ブラシでとかしたけど、やっぱりはねが直らない。
「伊織~~~。聞いてよ」
「え?う、うん」
「昨日さ、またIT社長から、食事に誘われたの。ホテルのレストラン」
「うん」
「でね、部屋取りましょうかって、そうメールが来たんだけど、どうしたらいいと思う?」
「部屋?!」
どういうこと?
「なんか、まだ早いかなとも思うんだよね。会ったのも、数回だし」
「だよね!?」
「でも、こんなもんなのかな。世間一般的には」
「こんなもんって?」
「もうお互いいい歳だし。大人なんだもん。もったいぶっているのもねえ」
え?そうなの?そういうものなの?
「でもさあ、なんか、いざとなったらさ」
「うん。何?怖くなったとか?」
「まさか。怖いって何よ、ガキじゃあるまいし」
え?そうなの?
「そうじゃなくって。あんまりしたくないんだよね、あの人と」
「え?どういうこと?」
「だから、そんなに好きじゃないみたい。私、こう見えても、好きな男性としかしたくないの。自分の体、好きでもない男に触られたくないんだよね」
え?それが普通だよね。
「じゃあ、IT社長は好きじゃないってこと?」
「そうみたい。条件はいいんだけどね。だから、パスかなあ、やっぱ」
そう言って、真広は口紅を塗った。
「ね、真広。私、化粧濃い?」
「ううん。そのくらいでいいんじゃない?」
「なんか、頬紅濃くないかな」
「大丈夫だよ。いつもが化粧薄すぎるって」
「そうかな」
でも、すっぴんが可愛いって言われたしな。
「あ!真広!大変。もう9時3分前」
「余裕、余裕」
「ダメだよ。主任に怒られちゃうよ~~~」
ああ!もう!今日は身支度ばっちりにして、5分前には席に着きたかった。
そして、落ち着いた笑顔で「主任、おはようございます」と言いたかったのに!それに、何よりも、主任の顔が早く見たいよ~~~。って、佑さん。いや、会社だから主任。
間違って、佑さんって呼ばないようにしないと!
私は、廊下を思い切り走り、後ろから「待って」という真広の声も聞かず、営業2課まですっ飛んで行った。




