第26話 伊織さん 佑さん ~佑編~
「なんか、伝わっていない感じですね」
「えっと」
伊織さんは、斜め上を見ながら考え込んだ。どうやら思い出そうとしているらしい。
「家に呼んで、夕飯を一緒に食べた日です。伊織さんに酷いことを言い傷つけたことを謝り、その時、僕の気持ちは素直に云いました。すごく情けないこともいっぱい云いましたが」
「え?」
「まあ、僕も実を言うと、何を言ったか覚えていないんですが。なにしろ、必死だったので」
「必死って?」
「伊織さんにふられないよう、他の男に奪われないよう、必死だったんです。離れていかれては困るので」
「ええ?!」
あ。しまった。さらに情けないことを暴露してしまった。
「でも、主任、結婚は考えられないとか、これが高校生ならもっと気軽にとか、そんな話をして」
よかった。必死だっていうのは、聞き流してくれたようだ。
「ああ、そんなことも言ったかもしれません」
僕はすぐに冷静をよそおって、そんなふうに答えた。実は高校生なら…なんて、そんなことを言ったことすら覚えていない。
「だから、私、てっきり、高校生だったら付き合えるけど、この年齢じゃ無理ですって、断られたのかなあって」
「は?僕はそんなことを言いましたか?」
「た、多分」
「う~~~~ん。どうだったかな。結婚はまだ考えられないと正直に云いましたけど、でも、伊織さんが大事で、他の男に心を奪われなくてよかったと、そんなことを云ったと思うんですが」
「そ、そういえば…」
伊織さんは顔をどんどん赤くして、両手で頬を抑えた。それから、
「でも私、女子力ゼロで、何も取り柄がないし、可愛くないし、なんで主任、いえ、佑さんに好きになってもらえたのかがわかりません」
と言い出した。
「僕もそうです。だから、こんなアンポンタンでもいいですかと聞きました」
「あ、そういえば」
「伊織さんは、こんな僕でも受け入れてくれたんですよね?」
「もちろん。っていうか、主任はだって、素敵ですから。ほら、鴫野ちゃんも言っていたけど、主任、あこがれの的になっちゃうくらい、素敵なんですよ!」
う…。なんだって、そういうことを照れもせず言えるんだ。時々、すごいことを伊織さんは言うよな。ものすごく照れる。やばいな。顔が熱い。
「……それ、照れます」
正直にそう言ってみた。伊織さんは僕の顔を見て、少し口元を緩めた。
「でも、私は、なんで好きになってもらったのかわからないままで…」
「伊織さんの良さですか?」
「はい」
伊織さんの良さ…。良さ…。ポンと浮かぶのは、可愛いということ。愛しいということ。でも、そんなこと恥ずかしくて言えそうもない。
「ん~~~」
「いいです。ないなら、いいんです」
「ないわけないですよ。ただ、どう言ったらいいか、悩んでいただけで」
伊織さんは不安そうに僕の顔を見た。その顔も可愛い。いや、そんな顔で見ないでくれ。ますます何を言っていいかわからなくなる。
「すみません。具体的に言えません。それに、かなり抵抗があります。すごく照れくさいと言うか…。よく、伊織さんは僕のどこがいいかとか、素敵だとか言えますよね。感心します。僕は、そういうことを言うのに抵抗がある」
「………」
伊織さんは黙って俯いた。ちょっと表情が寂しげに見える。僕がちゃんと伝えられないからか…。そうだな。ちゃんと具体的に言わないと、伝わらないよな。
「しいて言うなら…、伊織さんは特別なんですよ」
「特別?」
伊織さんが顔をあげて僕を見た。
「はい。僕は一人でいるのが好きで、一人の方が楽だし、幸せだと思っていたんです」
「……」
「でも、伊織さんといると、一人より楽しいし、幸せなんです」
「え?」
「だから、ずっと一緒にいたいと思ったし、こうやって今も、幸せ感じているっていうわけです」
「幸せなんですか?」
「はい。伊織さんは?」
「すごく幸せです」
「くす」
可愛いなあ。それに、即答してくれるんだ。嬉しいよな。
「じゃあ、もうずっと一緒にいますか?」
「え?えっと?」
「一緒に住んじゃうとか」
「ええ?!」
あ、ものすごく驚いている。
「…なんていうのは冗談ですけど」
そう言うと、伊織さんはほっと安心したように息を吐いた。
いや、冗談を言ったわけじゃない。本当は一緒に住みたいって思っている。ここで安心されても困る。
「いえ。半分、本気です。一緒に住んだら、楽しいだろうなってそう思っていますから」
「え?!」
……。また、伊織さんの顔が引きつった。一緒に住むなんて、伊織さんにとっては考えられないことなのかな。
「……伊織さんが、そういう気がないなら無理強いはしません。でも、いつか一緒に住めたらいいなって、そう思っています」
「あの、部屋をシェアってことですか?」
「はい?」
「あ、一緒に住めば、家賃も半分で済むし…」
「家賃は僕が払います。気にしないでいいですよ」
「そういうわけには!」
「ルームメイトになるわけではなくて、同棲です。結婚前に住むんだから、同棲になりますよね?」
伊織さんは、相当驚いたらしい。しばらく目を見開き、口を開けて静止している。
「それは、その。ちょっと、考えさせてください」
慌てながら伊織さんがそう叫んだ。
「あ、いつかの話で、今すぐにとは言っていません」
「あ、あ、そうか」
伊織さんは、ほっとしながらも目が泳いでいる。そして、ぽっと顔を赤くさせ、両手で頬を隠した。そんな伊織さんを見ていて、僕はこのまま今日も一緒にいたいと痛切に願ってしまった。
今日もどころか、明日も明後日もその先も…。伊織さんと暮らせたら、まったく違った毎日になる。いつも満たされてあったかくって、きっといつでも心が和んでいる。
「伊織さん」
「はいっ?」
「今日も泊まっていきますか?」
「い、いいえ。帰ります。着替えもないし、化粧品もないし、いろいろとあの、だから、その」
そうか。泊まっていくわけにはいかないのか…。
「じゃあ、送ります。でも、もう少し一緒にいてくれますか?」
「え?」
「伊織さんといると、和らぐんです」
「は、はい。い、います」
伊織さんは表情を硬くした。僕が和んでも、このままじゃ伊織さんの方が疲れちゃいそうだよな。
「伊織さん」
「はいいっ?!」
「今後は、遠慮はいらないですからね。僕は、伊織さんの恋人なんですから」
「はい」
にこっと伊織さんに微笑むと、伊織さんは真っ赤になった。真っ赤になったまま俯き、また頬を手で隠した。でも、じっと見ている僕の視線に気が付いたのか、また僕の方をちらっと見て、目が合うとさらに顔を赤くさせた。そして、恥ずかしそうに俯いた。
……可愛いな。今、伊織さんは思い切り照れているんだろうか。
うず。思わず抱きしめたくなった。いや、ダメだ。さすがにそれはダメだろ。抱きしめたくなった手を膝に置き、僕は伊織さんから視線を外した。
「すみません、のんびりとしていて下さい。僕は洗濯してきます」
「え?じゃ、私も何か手伝い…」
「病み上がりの人は、大人しくしていて下さい」
「はい」
「リビングでテレビでも観ていていいですよ」
そう言うと伊織さんは、ダイニングからリビングに移った。僕は洗濯機を回し、朝食の後片付けをして、伊織さんの隣に行った。
「…すみません、何もしなくって甘えてばかり」
「……」
そう言って申し訳なさそうにしている伊織さんの顔をじっと見た。すると伊織さんは、恥ずかしそうに目を伏せてしまった。
「いいんですけど、全然」
「え?」
「甘えていいですよ。多分僕は、いろいろと世話を焼くのが好きみたいですし」
「そうなんですか?」
「ああ、母と姉の世話を焼いてきたからかなあ。あの頃は嫌々やっていたけど」
「嫌々?」
「伊織さんは面倒じゃないんですよね。そういえば、部下の面倒を見ていたのも、それでなのかな」
「部下って、塩谷さんですか?」
「塩谷もですが、他にも独身男性が名古屋には二人いて、僕のマンションに呼んで、飯を食べさせたりしていましたし」
「優しいんですね、主任」
「優しいのとは違うと思いますよ。多分」
そう言うと伊織さんは、「優しいんです」と、呟いた。そして、
「だから、営業の人からは慕われていたんですね…。その、塩谷さんっていう人からも」
と僕の方も見ず、言葉を続けた。
「塩谷か。けっこう面倒くさい女性なんですが」
「え?」
「普段はしっかりとしていますが、酒飲むと人が変わってしまって、いきなりため口たたくは、甘えてくるは…」
「あ、甘える?主任にですか?」
「………。そういえば、さっきから「主任」に戻っていますね、伊織さん」
「あ、ごめんなさい。た、た、た、佑さん」
そんなに佑って呼びにくいのか?
「佑さんに甘えていたんですか?その、塩谷っていう人」
「いつもは、男勝りの勝気な女性なんですけどね」
「………」
「伊織さん?」
「え?」
「何か、気になることでも?」
「いいえ。甘えるって、どんなふうにするのかなって、ちょっと…」
「甘えるっていうのは、だから、そうだな」
塩谷の場合は、甘えるっていうか、絡んでくるというか。愚痴っぽくなるし、もう1件付き合えだの、しつこくなってくるんだよな。あれは、甘えるとは違うのかな。
黙って伊織さんは、僕が話すのを待っている。その時、洗濯が終わる合図がして、
「洗濯物干してきます」
と僕はソファを立った。
バルコニーに出て洗濯物を干した。すると伊織さんもやってきて、
「野菜にお水あげてもいいですか?」
と聞いてきた。
「ああ、お願いします」
伊織さんは嬉しそうにバルコニーに出ると、プランターの野菜たちのもとに行った。
「元気に育っていますね」
「でしょ?日当たりもいいし、この場所、家庭菜園に向いているみたいですよ。だから、一緒に住むときには、伊織さんの家の野菜たちも持って来たらいいですよ」
「え?」
え?と言ったきり、なぜか伊織さんは真っ赤になり、一点を見つめた。いったい何を考えているのか。
洗濯物を干し終えた僕は、バルコニーの柵に掴まり、何やら赤くなっている伊織さんの横に僕は並んだ。
「あそこ、大きな公園があるの、見えますか?」
「え?はい」
「東京にしては珍しいんですよ。僕はまだ行ったことがないんですけどね」
「そうなんですか」
「今度行ってみましょうか」
「あ、はい」
伊織さんはほんのりと頬を染め、嬉しそうに僕を見た。
伊織さんの目は、表情豊かだ。目は口ほどにものを言うと言うが、伊織さんの目ほどそれを言い当てている目はないと思う。寂しそうな目、不安そうな目、そして嬉しそうな時の目…。嬉しそうにしているのを見ると、こっちまで嬉しくなって浮かれてしまう。
「それから、見たい映画があるんです。多分、伊織さんも気に入るはずです」
僕は心を弾ませながら、そう伊織さんに誘った。
「え?ロードショーをしているんですか?」
「いえ。まだこれからですが。確か来週からだったかな。見に行きませんか?」
「行きます」
「じゃあ、一緒に行きましょう」
「はい」
また、伊織さんの目は輝いた。そして、嬉しそうに微笑む。
この笑顔を見られるのなら、なんだって叶えてあげたくなる。本当に、伊織さんと出会ってからの僕は、人が変わったようだ。今迄、女性に対してけっこう冷たかったんだけどな。付き合った女性にだって、こんなふうに思ったことはなかった。
本当に伊織さんは不思議な女性だ。なにしろ、僕をこんなに夢中にさせるんだからな。そして、僕をいとも簡単に幸せにしてくれる。
昼前に僕は、伊織さんを車で送った。本当は今日も1日一緒にいたい。
だが、そんな我儘を言えなかった。結局僕もまだ、彼女に遠慮しているのか。それとも、男の僕の方が甘えるのに抵抗があるのか…。
もし、一緒にいたいからまだ帰らないでください…と、駄々をこねたら伊織さんはどうするんだろうか。ふとそんなことを思い、車の中で駄々をこねそうになった。
信号が赤になり、車を止めた時に伊織さんの方を見ると、伊織さんは顔を赤くして、
「ずっと、すっぴんで、ごめんなさい」
といきなり謝ってきた。
「何で謝るんですか?別にすっぴんでもいいですよ」
そう答えると、伊織さんは僕の顔を見てから、すぐにまた視線を下に向けた。
「私、化粧しないと幼くなるから嫌なんです」
「なんでですか?可愛らしくなるのに」
「いえ。私、可愛くないです」
「可愛いと思っているんですから、そこは素直に受け止めてください」
「あ、はい。ごめんなさい」
信号が青に変わり、僕は車を発進させた。
「たまに、伊織さんは頑固になりますよね」
まっすぐ前を見ながら、そう伊織さんに言った。
「ごめんなさい」
「いえ。謝らなくてもいいんですけど」
そう言うと、僕の方を伊織さんがちらっと見たのを感じた。
「はい?」
僕も伊織さんの方に目を向けた。
「いえ、なんでもないです」
あ、赤くなった。
伊織さん、可愛いと思った次の瞬間、僕の左手はハンドルを離れ、伊織さんの右手を握っていた。
「あ、あの?え?え?」
隣で伊織さんが、手を見たり僕の顔を見たり、かなり動揺しているのがわかる。
「すみません」
僕はすぐに握っていた手を離し、ハンドルに戻した。
「いえ!」
真っ赤になった伊織さんは、大きな声でそう言ってしばらく俯いてしまった。
しまったかな。いきなり手を握ったのはまずかったよな。それも、ほとんど無意識だ。何をしているんだ、僕は。
でも…。動揺したとはいえ、伊織さん、嫌がったわけじゃないな。真っ赤になって恥ずかしがってはいるものの。
「今日と明日は、ゆっくり休んで、風邪を完治させてくださいね」
「はい」
「月曜、会えないと寂しいですから」
「は、はいっ」
伊織さんが赤くなりながら、思い切り頷いた。くす、可愛い。
そうか。このくらいの甘えなら、伊織さんも嫌がらないんだな。
僕は、これからも素直に思っていることは伝えよう…、とその時に決意していた。きっと伊織さんなら、受け止めてくれる。そんなこともなぜか、感じていた。




