第24話 え? ~伊織編~
仕事に集中していると、なにやら視線を感じた。ふと横を見ると、主任がこっちを見ていた。わ!ドキ!目が合った。慌ててまた、画面を見た。
あ、そうか。主任、仕事終わったのかも。
「主任はもう終わったんですか?」
「桜川さんは?」
「あと1件で終わります」
「そうですか。僕は終わりました。でも、焦らないでいいですよ」
「はい。すみません」
やっぱり。仕事が終わったから、私の仕事が終わるのを待っていたんだ。それにしても、見られると緊張する…。でも、早くに終わらせないと。
だけど、なんだか思うように進まないのはなんでかな。頭がぼ~っとする。
なんとか終わらせ、ロッカールームに行った。急いで帰り支度をしてトイレに駆け込み、急いでエレベーターホールに向かった。ちょうど主任も廊下を歩いていた。
それから、なんとなく隣に並んでエレベーターを待った。
ドキドキ。すぐ隣に主任がいる。何か話さないと。でも、なんか胸がいっぱいで言葉が出てこないなあ。
「伊織ちゃん」
え?
後ろから声をかけられ振り向くと、経理の同期の子がにこにこしながらこっちに向かっていた。
「今、帰り?」
「鴫野ちゃんも?」
「うん。フラワーアレンジ教室なかったから、のんびり残業しちゃった。そういえば、風邪で昨日休んだんだよね?大丈夫なの?残業していたの?」
「うん。仕事たまっちゃったから」
「そっか。じゃあさ、一緒にご飯でも食べていかない?」
え?どうしよう。主任の家に行くのに。ここはなんて断ったら…。
ちら、主任の顔を見てみた。主任も私の方を見ている。
「あ…。魚住さんだ」
返事に困っていると、なぜか鴫野ちゃんが魚住さんの名前を発した。
「伊織ちゃんの上司なんですよね?」
「はい。そうですが…」
なんだろう。この前、みんなで魚住さんの悪口言っていたけど、鴫野ちゃんもあんまりよく思っていないよね。
「魚住さん、私たち経理で有名なんです」
え?
「僕がですか?」
魚住主任も驚いている。
「その若さでもう主任。仕事もできて、イケメンで、スーツのセンスもいいって。みんなのあこがれなんです」
「そ、そうなの?鴫野ちゃん」
「だから、伊織ちゃんが羨ましい~~~。あ、真広ちゃんも、同じ課だっけ?」
ええ?でも、この前はみんなで悪口…。あ、そういえば、鴫野ちゃんは話に参加していなかったかも。悪口言っていたのって、営業部の女性ばかりだったかもしれない。
そうなの?人気者なの?主任って。
「お付き合いしている人とか、いるんですか?」
ぎゃ。そんなこと聞いちゃうの?主任、なんて答えるの?
「…そういうプライベートのことは、あまり会社の人に話さないようにしています」
そ、そっか。いませんってはっきり言わないってことは、お付き合いしている人がいるってこと?
そうなのかも。
うわ。凹む。
「そっか。それもそうですよね」
鴫野ちゃんは笑っている。私は笑えないよ。
私たち3人はエレベーターに乗っていた。一瞬、3人とも黙って、気まずい空気が流れた。でも、すぐに鴫野ちゃんが、
「一緒に残業していたんですか?」
と主任に明るく聞いた。
「ええ、まあ。桜川さん、病み上がりなのに残業したので、方面が一緒の僕が、責任もって送り届けるよう課長から命令されていまして」
命令?!
「そうなんですね。そっかあ。じゃあ、一緒にご飯は無理だね、伊織ちゃん」
「…ごめんね」
「ううん。またの機会に行こう」
ごめん、鴫野ちゃん。今、私、笑えてないよね。
だって、ショックで…。
鴫野ちゃんは1階に着くと、さっさとエントランスを抜けて出て行った。残された私と主任。ダメだ。私、きっと暗いかも。
課長の命令だから、一緒に帰るんだ…。そうか。
「……主任」
「なんですか?」
「課長の命令なんですね…」
「責任もって送り届けろなんて言われていませんよ」
え?
「でも、さっき…」
「そう言わないと、桜川さんをあの鴫野さんって人に、取られちゃうかと思いまして」
「……取られる?」
取られるって?
「僕の方が、先に桜川さんとの夕飯を約束したんですから。でも、一緒に食事をするなんて話をしたら、僕らが付き合っていると思われるかもしれないと…」
「そ、それで課長が命令したって言ったんですか?」
「すみません。嘘をついて」
「いいえ」
なんだ。そういうことか。
「そ、そうですよね。鴫野ちゃんに、私たちが付き合っていると思われても困りますもんね」
「そういう噂は、あっという間に社内に広まりますし…。そうするとお互い、仕事もしにくくなったりしますから」
「はい。そうですよね」
少し落ち込みから、立ち直れそうだ。ああ、私ってやっぱり単純。
「主任、すごいですね。経理ではあこがれの的なんですね」
気をよくした私は、駅までの道のり、明るく話をしだした。
「あれは、お世辞というか、社交辞令じゃないんですか?僕は嫌われることはあっても、そうそう好かれることはないので」
「そんなことないですよっ!私、あこがれの的になるのも頷けます。だって、主任、素敵ですもん!」
はっ!今、とんでもないこと口走ったかも。気をよくし過ぎた!
「でも僕は、別にあこがれの的になりたいわけではありませんから。一人の…、自分の好きな女性に好かれていれば、それでいいですよ」
え?
ドクン。それって、好きな女性がいるってこと?
ああ、また凹んだ。
自分でも、今、顔が暗いのがわかる。それを見られないよう、主任から顔を隠すように横を向いた。
「あの…。私もです。私も、好きな人に好かれたらそれで…」
そう返事をしてみて、途中で空しくなり黙り込んだ。
バカだなあ、私。私が好きなのは主任で、主任にだけに好かれたらそれでいいの。でも、主任は別に私を好いていないかもしれないのに、こんなこと言っちゃって。空しいだけだよ。
落ち込んだまま駅に着き、ホームでも二人して黙っていた。主任、なんでなんにも話してくれないのかな。
電車がきて乗り込んで、二人して並んで立つと、ガタンと電車が揺れ、主任の肩にぶつかってしまった。
「ごめんなさい」
ドキッとした。肩がぶつかっただけでも心臓が飛び出そうだった。
「何が食べたいですか?」
「え?特にリクエストはないです。主任の作るもの、全部美味しいし」
「そう言ってもらえると嬉しいです。でも、本当にいつも美味しそうに食べてくれますよね」
「だって、本当に美味しいですから」
ふっと隣で主任が笑った。
仕事中には見せない顔だ。休みの日は、どちらかと言えばこの笑顔を始終見せてくれる。ずっと優しい表情でいてくれる。今も、優しい主任の顔になっている。
クールに仕事をしている主任も好きだけど、やっぱり優しい主任の顔、好きだなあ。
電車を降り、主任についていくと主任は駅に近いスーパーに入って行った。そして、カートにカゴを乗せ、
「簡単なものになってしまいますが、いいですか?」
と優しく聞いてくれた。
「え?はい」
「じゃあ…」
主任は少し考え、カートを押して歩き出した。
ドキ、ドキ。これって、なんか、夫婦みたい?いや、こんなによそよそしい感じの夫婦はいないか。
主任にくっついてただ歩いているだけの私。なんか、役立たずかなあ。と思っていると、主任はレジに向かって歩き出した。
あ、お金。全部私が出しますって言うのは変だよね。でも、半分くらいは出したほうがいいのかな。
だけど、どのタイミングで言う?レジでお金を出すのは変?
「そうだ。あれ、なくなったんだ。今、やばい時だっけ?」
いきなり、後ろに並んだカップルの会話が聞こえてきた。
「やばいよ。排卵日にぶつかるよ」
え?排卵日?
「じゃあ、今夜できないってこと?」
何を?
「ねえ、あとでドラッグストアー行って買って来てよ」
「え~?俺が?」
「当たり前でしょ。女性の私に買わせないで」
なんか、そんな会話をこんな場所で繰り広げないでほしいんだけど。
まさか、主任にも聞こえてないよね?そう思いつつ、主任の顔を見ると、普通の顔をしてお金を払っていた。
大丈夫、これはきっと聞こえていない。
ドキドキしながら、買ったものを袋に詰めるのを手伝い、ドキドキしたまま、スーパーを出た。後ろのカップルのすごい会話のせいで、すっかり私はお金を払うことを忘れてしまった。
何を話したかもわからないまま、マンションに着いた。なんだか、頭はぼ~~っとするし、ふわふわ体が浮いている気もした。
エレベーターに乗っても、ぼんやりしてしまう。
「桜川さん」
「はい?」
「DVDでも借りてきたら良かったですね」
「あ、そうですね…」
そんな会話をしたが、すぐに私は黙ってしまった。主任もなぜか黙り込み、エレベーターの中はしんと静まり返った。
なんか、会話。会話したほうがいいよね。でも、思い浮かばない。
8階に着いた。個室に二人きりは緊張する。主任の隣は、心臓が高鳴って苦しくなる。
エレベーターから降り、少しほっとしながら主任の後ろを歩いた。そして部屋に入ろうと主任がカギを開けていると、ガチャリと隣の部屋から人が現れた。
「あら、魚住さん、今、帰り?」
隣の住人らしい。主任は、
「はい」
と、一言答えただけで、特に会話をしようとしなかった。だが、
「あら?」
と、その人は私を見ると、にんまりと微笑んだ。
怖い。なんで、微笑んだの?
「旦那にビール買って来いって言われて、今からスーパーに行くの。何か、足りないものあったら買ってきましょうか?」
「いいえ。今、寄ってきたので大丈夫です。では…」
主任は早口でそう言うと、私の背中に手を回し、玄関に招き入れた。
ドッキン!何?なんで、背中に手?!
バタンとドアを閉め、鍵をかけると、主任は私の背中から手を離した。
「すみません。どうも隣の奥さん苦手なんです。話し出すと長いし、あれこれ世話を焼きたがるし」
「そうなんですか?」
ああ、早くに部屋に入りたかったから、私のこともさっさと玄関に入れたのか
「あの奥さんに見られたから、あっという間に噂が広まるかもな」
「え?」
主任の独り言?
「魚住さんが、彼女をマンションに連れて来たとか、そういう噂です」
え?彼女?
「そ、そんな噂が広まっていいんですか?」
「…はい。僕が独身だと知って、食事やら何やらあれこれ世話を焼きたがっていたし、あの分だと見合い話も持ってきかねなかったので、かえって良かったですよ」
「ほんとに?」
「はい」
主任は爽やかにそう答え、キッチンに食材を持って行った。
彼女。
私が?
そ、そうだよね。マンションの部屋に仕事帰りに来るんだもん。彼女だって思われるよね。いいえ、部下なんです。単なる部下なんです。なんて、そんな言い訳をお隣さんにするのも変だし。
「桜川さんはソファで寛いでいてください。テレビでもつけて見ていていいですよ」
「はい」
キッチンに他人を入れたがらない主任だから、もう「手伝います」と言うのはやめた。私は、お言葉に甘え、リビングのソファに腰かけた。
主任は上着を脱ぎ、Yシャツの袖をまくると、
「あ、先に風呂沸かしてくるか」
と言いながら、バスルームに行ったようだ。
お風呂…。せめてお風呂掃除は私が…、と言うべきだったかな。でも、そんなこと申し出たら、まるで私までお風呂に入って、主任の家に泊まっていくみたいになっちゃうよね。
バタン。主任がバスルームのドアを閉め、キッチンに戻っていった。私は、その一部始終が気になりながらも、ひたすらテレビ画面を見つめていた。
ドキン。ドキン。主任の部屋は何度か来たけど、やっぱりドキドキしてしまう。
それに、なんだか頭がぼ~~っとする。それになんだか、寒気もする。それに、眠い。
「桜川さん」
主任の声?
「夕飯できましたよ」
「あ、す、すみません」
私、また寝ちゃった?
「大丈夫ですか?なんだか、顔が赤いですけど」
「あ、はい」
私はソファから立ち上がり、ダイニングに行った。なんだか、ふらつく気もする。でも、どうにか椅子に座り、主任と鍋焼きうどんを食べだした。
「美味しい」
すごいなあ。ちゃんとお出しの味がしっかりとしているし。
「美味しいでしょ?冬は時々作るんです。名古屋でも部下が泊まっていって、次の日、作ってやったりしていました。冬の寒い日は喜ばれましたよ」
「…名古屋の部下って、今度うちの課に来る人ですか?」
「ああ、そうです。あれ?誰かに聞きましたか?」
「真広から」
「そうか。なかなか優秀な女性ですよ。塩谷っていうんですが」
ドクン。
「主任が認めるんですから、相当優秀なんでしょうね」
あ、今、ちょっと嫌味っぽくなったかも。
「はい。彼女のことはそんじょそこいらの男性社員よりも、期待しているんです」
そうか。そんなに認めている人なのか。
「じゃあ、その、塩谷さんが東京に来たら、やっぱり主任の鍋焼きうどん、食べに来るんですね」
「いいえ」
「そうですか」
ん?今、いいえって言った?顔をあげて主任を見た。主任は涼しい顔でお茶をすすっている。
「え?いいえって?」
「来ませんよ。このマンションには、部下も連れてこないつもりですし」
「え?なんでですか?」
「こっちでは、仕事の時間とプライベートの時間をしっかりと分けようかと思っています。名古屋では、最初に部下を家に呼んじゃったものだから、そのままずるずると、ちょくちょくみんな泊りに来るようになっちゃいましたが」
「……」
あれ?でも、私も部下…。あ、そうか。泊まらせないってことなのかな。私は泊まるわけじゃないし。
「名古屋は和室もあったので、布団何枚か敷いて、雑魚寝してもらったりしていました。でも、ここには和室もないですからね」
「そうですね。でも、泊まらなくても、主任の手料理を食べたいって、やってくるかもしれないですよね。だって、本当に美味しいし」
「ああ、それも呼びません」
「え?」
「プライベートと仕事、きっちり分けますから。部下を家に呼ぶのも、今後一切ないと思いますよ」
え?
でも、私、来ちゃってるけど。
あ、まさか、本当は私のことも呼びたくないとか?迷惑しているとか?
それとも、私はフラワーアレンジメントの先生だし、部下とは別…とか?
「あの、つかぬことを聞きますが、私が主任の家に来る時間は、その…。主任にとって仕事の時間ですか?プライベートの時間ですか?」
「え?」
「あ、だから、あの。今のこの時間ってプライベートですよね?」
「はい、もちろん」
「それを、私が邪魔しているってことになりませんか?」
「は?」
「今夜は、特にフラワーアレンジをするわけでもないですし。なのに、こんなふうにお邪魔してしまって、迷惑だったんじゃ…」
「………」
主任の動作が止まり、目も私をじっと見て瞬きもしない。どうしたのかな。
変なことを聞いたのかな?
「すみません。言っている意味がよくわかりません。どういうことですか?」
え?!
「あ、あの。だから、その。さっき、部下は家に呼ばないと言っていたのに、私、来ちゃっているから、申し訳ないことをしているのかと思って」
「え?」
あれ?なんか、もっと変なことを言った?主任、目が点になってる。
「桜川さんは、確かに部下ですが、でも、会社を一歩出たら、違いますよね?」
「え?そうなんですか?」
じゃあ、何?私って、部下じゃなかったら何?と、友達とか?まさかね。
「え?」
また、主任が私の顔をじっと見た。瞬きもせず。
「え?」
私も、主任の顔を見てしまった。なんか、二人して、もしや会話がちゃんと成立していないってことはないよね。
部下じゃなかったら、私って、何?




