第23話 2人で残業 ~佑編~
その日の5時半、課のみんなは早々と帰って行き、僕と桜川さんだけが残業することになった。
隣の課も飲み会で、営業部にはほとんど人が残っていない。
桜川さんと二人きりだ。ほんの少し、いや、本音を言えば、かなり僕はテンションが上がった。
パソコンで、報告書を作成しながら、ちらちらと桜川さんの方を見てみた。すると、さっきからずっと桜川さんは、ぼ~~っと画面を見ているだけで、手がまったく動いていなかった。
具合でも悪くなったのか?まさか、熱があがったとか?
「桜川さん?」
席を立ち、桜川さんのそばに行って声をかけた。でも、返事もしないし、まだぼ~~っとしている。
「どうしたんですか?」
すぐ後ろに行って声をかけると、ようやく気が付いたようだ。びっくりしたように、振り返って僕を目を丸くして見ている。
「具合でも悪いんですか?」
「え?はい?」
「なんか今、ぼ~~っとしていたようですが」
「いえ、大丈夫です」
「顔色もなんとなくですが、赤いような。熱、また出ましたか?」
「いいえ。大丈夫です。すみません。すぐに仕事終えます。でないと、主任も帰れないですよね」
「何か手伝いましょうか?」
「大丈夫です。もう少し入力したら終わります」
「そうですか。じゃあ、何かあったかいものでも買ってきましょうか。お茶か…、紅茶か」
「いえ。大丈夫です。主任も仕事してください。私だったら、本当に大丈夫…」
まただ。また、遠慮している。
「桜川さん」
僕は桜川さんの耳元で、
「遠慮はしないでいいですからね」
と、声をかけた。
「え、遠慮はしていません。だだ、大丈夫です」
「じゃあ、何かあったら言ってください」
そう言って席に戻ると、桜川さんは顔を赤くして、辺りをきょろきょろと見回している。
「あの…、今日は皆さん、帰るの早いですね」
今、気が付いたのか?もしかして。
「3課と4課は合同で飲み会があるようですよ」
「え?そうなんですか」
「うちの課も、接待や直帰で、男性陣はいないし、北畠さんも定時に帰りましたし」
「そうですね。さっさと帰りましたね…」
「習い事をしているそうですよ」
「そうなんですか」
「はい。料理を習っているから、今度手料理を食べてくださいと言われ、丁重にお断りしましたが…」
「あの、主任」
「はい?」
なんだか、改まった顔でこっちを向いたが、どうしたんだ?
「いろいろと気を使っていただき、ありがとうございます」
「え?何がですか?」
いったい、何をまた改まって言い出したんだ?
「何がですか?桜川さん」
「あの、だから、その。さっきも、私の具合が悪いんじゃないかって気にかけてくれて」
「そりゃ、心配ですから」
「すみません。いつも心配させて」
「そうですね。もっと、丈夫になってもらわないと困りますね」
そう言うと桜川さんは、シュンと下を向いた。なんだか、ご主人に怒られた犬みたいだな。
「だいたい、桜川さんは栄養が偏っているんじゃないですか?いつも、コンビニのお弁当とかで済ませていませんか?」
「なんでそれを?」
「なんとなく、キッチンを見たらわかります。普段、料理していないですよね?苦手って言っていたし」
「は、はい」
今度は、真っ赤になったぞ。面白いなあ。百面相を見ているみたいだな。そんなことを思いながら、僕は話を続けた。
「食事から気を付けたほうがいいですよ。ちゃんと栄養あるものを、バランスよく食べないと」
「はい」
「桜川さんが作る野菜は、栄養たっぷりだと思うので、それをちゃんと料理して食べたらどうですか?」
「はい。そうなんですよね。いつも、グリーンサラダだったら作るんですが」
「サラダは料理とは言いません」
そう言うと、今度は顔を青くして俯いてしまった。
「今度、桜川さんが作った野菜で調理しますよ。また、野菜を持って来てください」
「はい…。え?」
「好き嫌いはないですよね?」
「はあ…」
「じゃあ、桜川さんの体調管理は、僕が引き受けますから」
「しゅ、主任、そこまでお世話になっては…」
「はい?」
なんでそこで、恐縮してしまうんだ?
「あの、主任はそこまで、部下の面倒を見て下さるんですか?」
部下?いくらなんでも、部下の面倒はそこまでしないが…。
「いいえ。名古屋では、たまに手料理を食べさせることはありましたが、体調管理まではみないですよ」
「じゃあ、なんで?」
首を傾げた桜川さんはすぐに、
「あの、課長が何か言っていたんですか?」
と聞いてきた。
「そうですね。部下に病気になってもらっては困ると言っていましたね」
「すみません。こんな体調管理もできない、ダメな部下で…」
「……」
さっきから、なんだって桜川さんは部下、部下ってっこだわっているんだ。それに、話し方も態度も、やたらと他人行儀というか、堅苦しいというか…。
「桜川さん」
「はい…」
「ここは職場ですが…」
「はい」
「でも、周りに人もいないし、そんなに堅苦しくなることないですよ。二人きりなので、僕のリビングにいるつもりで、少し気持ちを和らげてもらってもかまいません。あ、そうだ。仕事終わったら、何か美味しいものでも食べに行きますか?それとも、うちで食べますか?」
そう言うと、桜川さんは真っ赤になりながら、困惑しているようだ。
「僕の手料理の方がいいですか?」
「でも、帰ってから作るのは大変ですよね?」
「そんなことないですよ、いつもしていることなので。ただ、材料を帰りに買うので、買い物に付き合ってもらうかもしれませんが」
「そのくらいは全然…」
「じゃあ、美味しいもの作りますので、仕事、ちゃっちゃと終わらせましょうか」
「はい」
赤くなりながら、桜川さんは頷いた。くす。
やばいなあ。なんだか、僕は浮かれている。この状況を楽しんでいる。
自分の仕事を終わらせ、しばらくパソコンを真剣に打っている桜川さんの横顔を見ていた。すると、視線を感じたのか、彼女は僕の方に顔を向けた。
あ、目が合った。そして真っ赤になって、またパソコンの方に視線を戻した。
くす。
目が合うだけで赤くなるのか。
「主任はもう終わったんですか?」
桜川さんは、また僕の方に顔を向けて聞いてきた。
「桜川さんは?」
「あと1件で終わります」
「そうですか。僕は終わりました。でも、焦らないでいいですよ」
「はい。すみません」
桜川さんは、頬を染め、またパソコンを打ち出した。
僕は浮かれていた。だから、てっきり照れて顔を赤くしているのだと思っていた。そんな桜川さんがすごく可愛く思えた。
桜川さんも入力を終え、僕たちはオフィスを出た。時間は6時半を過ぎていた。
「あ、伊織ちゃん?今帰り?」
エレベーターホールでエレベーターを待っていると、後ろからそんな声が聞こえてきた。桜川さんは振り返り、
「鴫野ちゃんも?」
と、その女性に聞いた。
「うん。フラワーアレンジ教室なかったから、のんびり残業しちゃった。そういえば、風邪で昨日休んだんだよね?大丈夫なの?残業していたの?」
「うん。仕事たまっちゃったから」
「そっか。じゃあさ、一緒にご飯でも食べていかない?」
そう聞かれ、一瞬桜川さんは僕の方を見た。すると、鴫野さんという人も僕を見て、
「あ…。魚住さんだ」
と小声で呟いた。
こっちは名前すら知らなかったが、何で僕の名前を知っているんだろう。
「伊織ちゃんの上司なんですよね?」
「はい。そうですが…」
その時エレベーターが来て、僕たちは乗り込んだ。他には誰も乗っていなかったから、3人だけで1階まで下りた。
「魚住さん、私たち経理で有名なんです」
「僕がですか?」
経理の女性にまで嫌われているのか。
「その若さでもう主任。仕事もできて、イケメンで、スーツのセンスもいいって。みんなのあこがれなんです」
は?あこがれ?
「そ、そうなの?鴫野ちゃん」
「だから、伊織ちゃんが羨ましい~~~。あ、真広ちゃんも、同じ課だっけ?」
そう言われてもな。嫌われることはあっても、好かれることはそうそうないから、どういう態度を取っていいか…。
「お付き合いしている人とか、いるんですか?」
「…そういうプライベートのことは、あまり会社の人に話さないようにしています」
「そっか。それもそうですよね」
えへへと鴫野さんは笑った。その横で、なぜか桜川さんの表情が暗くなった。
何で暗くなったんだ?まさか、ここで僕と桜川さんが付き合っていることを言わなかったからか?でも、そんなこと言えるわけがない。極力付き合っていることは、内緒にしておかないと。
「一緒に残業していたんですか?」
「ええ、まあ。桜川さん、病み上がりなのに残業したので、方面が一緒の僕が、責任もって送り届けるよう課長から命令されていまして」
「そうなんですね。そっかあ。じゃあ、一緒にご飯は無理だね、伊織ちゃん」
「…ごめんね」
「ううん。またの機会に行こう」
その時、エレベーターが一階に着き、一番に出た鴫野さんは速足でエントランスを出て行った。
「……主任」
ん?まだ、桜川さんの表情が暗い。
「なんですか?」
なんだって、暗いんだ?やっぱり、ちゃんと付き合っていることを言わなかったからか?
「課長の命令なんですね…」
ああ、そっちか。
「責任もって送り届けろなんて言われていませんよ」
「え?でも、さっき…」
「そう言わないと、桜川さんをあの鴫野さんって人に、取られちゃうかと思いまして」
「……取られる?」
「僕の方が、先に桜川さんとの夕飯を約束したんですから。でも、一緒に食事をするなんて話をしたら、僕らが付き合っていると思われるかもしれないと…」
いや、付き合っているんだが…。
「そ、それで課長が命令したって言ったんですか?」
「すみません。嘘をついて」
「いいえ」
桜川さんは、少し首を振ると顔を赤くし、
「そ、そうですよね。鴫野ちゃんに、私たちが付き合っていると思われても困りますもんね」
と、下を向いたままそう言った。
「そういう噂は、あっという間に社内に広まりますし…。そうするとお互い、仕事もしにくくなったりしますから」
「はい。そうですよね」
…納得してくれたようだ。だから、付き合っていると言えなかったんだとわかってもらえたんだよな。
「主任、すごいですね。経理ではあこがれの的なんですね」
「あれは、お世辞というか、社交辞令じゃないんですか?僕は嫌われることはあっても、そうそう好かれることはないので」
「そんなことないですよっ!私、あこがれの的になるのも頷けます。だって、主任、素敵ですもん!」
そう言い切った後、桜川さんは、はっと我に返ったように口を結び真っ赤になった。
本当に、いつもこっちが照れくさくなるようなことを、桜川さんは言ってくれるよな。そのたび、顔がにやけそうになり、真顔を保つのに必死になる。
「でも僕は、別にあこがれの的になりたいわけではありませんから。一人の…、自分の好きな女性に好かれていれば、それでいいですよ」
そう言ってから、なんだか恥ずかしいことを言ってしまったと後悔し、コホンと咳ばらいをした。
そして、桜川さんも照れて赤くなっているかな…と思い、ちらっと見てみると、そっぽを向いていた。
照れ隠しか?今、顔が真っ赤なのか?
「あの…。私もです。私も、好きな人に好かれたらそれで…」
そう言うと桜川さんは、黙り込んだ。顔はずっと僕に見せないように向こうを向いている。
僕も照れくさい。二人して今、思い切り照れているのか…。
しばらく二人で無言だった。そのまま駅に着き、ホームに行くまでも無言だった。
電車に乗り、隣に並んだ。電車が揺れると、桜川さんが僕の肩にぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
赤くなってそう謝り、すぐに彼女は吊革に掴まった。
「何が食べたいですか?」
「え?特にリクエストはないです。主任の作るもの、全部美味しいし」
「そう言ってもらえると嬉しいです。でも、本当にいつも美味しそうに食べてくれますよね」
「だって、本当に美味しいですから」
桜川さんはまた頬を赤くした。いや、ずっと赤いかもしれないな。ずうっと、照れているのかな。
駅に着き、スーパーに寄って食材を選んだ。僕がカートを押し、その横を桜川さんが歩く。
周りには、僕たちのようなカップルもいた。手には結婚指輪をはめている。
「何にする?」
とか言いながら、奥さんの方がカートを押している。
僕らもはたから見たら、夫婦に見えるだろうか。
やばいな。もっと僕は浮かれた。桜川さんとスーパーで買い物をする。これって、妄想していたことだよな。それが現実になっている。
「簡単なものになってしまいますが、いいですか?」
「え?はい」
「じゃあ…」
僕は、夕飯に必要な材料と、明日の朝飯用の鮭や、みそ汁の具をカゴに入れた。それから、昼も家で食べてもいいかなと、うどんもカゴに入れ、
「何か、デザート食べますか?」
と桜川さんに聞いた。
「いえ。大丈夫です」
「…遠慮はいらないですよ」
「本当に、あの…。きっとご飯だけでお腹いっぱいになると思うので」
「そうですか。じゃあ、何か飲み物は?あ、ビールはいりますか?」
「いいえ。主任、飲まないですよね?私も、お酒はいいです」
「それこそ、遠慮はいらないですよ。僕も、ノンアルコールビール付き合いますし」
「すみません。ちょっと、まだ風邪気味なので、お酒はやめておきます」
そうだった。病み上がりだったんだ。
「すみません。そっか。じゃあ、今夜は消化にいいものの方がいいですね。うどんを明日の昼用にと思ったんですが、夜、うどんにしましょう。鍋焼きうどんはどうですか?美味しいですよ」
「はい…」
鍋焼きうどんの具材も揃え、僕らはレジに並んだ。
そして、お金を払っていると、後ろにさっきのカップルが並び、
「ねえ、あとでドラッグストアー行って買って来てよ」
「え~?俺が?」
「当たり前でしょ。女性の私に買わせないで」
と、言い合っている。
ドラッグストアーで、女性が買えないもの…。なんとなくピンときた。
それにしても、
「桜川さん、飲み物、水かお茶しかないですがいいですか?」
と、レジから離れる時に僕は聞き、
「はい。大丈夫です」
と、丁寧に言った桜川さんとの会話を、ふと不思議に思った。
後ろのカップルは夫婦だ。そりゃ、僕らとは違う。でも、僕らも付き合っているんだから、なんだってこんなに堅苦しい敬語で話しているんだろう。これじゃ、会社にまだいるみたいだ。上司と部下の関係のまま、プライベートを過ごしている。
敬語も、堅苦しい苗字にさん付けも、やめたほうがいいよなあ。でも、いきなり「伊織」とは呼びにくい。でも、伊織ちゃんっていうのも抵抗がある。じゃあ、せめて伊織さん?それならまだ、呼びやすいか…。
そんなことをあれこれ考え、僕はまったくその時、目の前でちょっとふらふらしている桜川さんに気付かないでいた。




