第22話 部長の娘さん ~伊織編~
主任、今日帰ってくるのかな。顔が見たいのに…。声も聴きたいのに…。主任に会いたくって、会社に出てきたようなものなのに。
でも、名古屋から来るっていう女性がものすごく気になっている。
どんな人?主任とすごく仲良かったらどうしよう。
もや…。胸がもやもやする。
「あ、おかえりなさい、主任。お疲れ様です」
じとっとパソコンの画面とにらめっこをしていると、隣から元気な北畠さんのそんな声が聞こえた。
主任?!
私も顔をあげた。野田さんと一緒に主任がこっちに向かって来ている。ああ、今日もかっこいい。スーツもビシッと決まっているし、Yシャツもネクタイも似合っている。
「コーヒーかお茶入れましょうか?」
「大丈夫です。出先でコーヒーを飲んできましたから」
主任は北畠さんにそう返事をし、上着を脱ぐとハンガーにかけ、
「野田さん、早速報告書の作成をお願いします」
と言いながら席に着いた。
ドキドキドキ。主任がいる。それだけで嬉しい。でも、名古屋の女性が気になり、もやもやもしている。
「桜川さん」
ドキーーーッ!主任に呼ばれちゃった。
「はいいっ?」
思い切り返事をした。すると、課の人がみんな私に注目した。やばい。声、大きすぎた。
「…具合はどうですか?もう大丈夫ですか?」
「はい。ご心配おかけして、すみませんでした」
「いいえ。体調管理もしっかりとしてください。あまり、会社を休まれても困ります」
「…はい。気を付けます」
ガク…。怒られた。
「伊織、ファイト」
真広が、すかさずそう小声で言って励ましてくれた。にこりと笑顔を返したが、心の中ではショックを受けていた。
そうだよね。そりゃ、注意もされちゃうよね。だって、この前も熱出したし。それも、お酒飲んで酔っ払って、布団に入らず寝ちゃって風邪引いちゃったなんて、呆れられるのも無理ないよね。ああ、最悪だ。なんだか、私の印象は悪くなるばかりだよね…。
主任に会えて、喜んでいたのもつかの間、ドスンと私は落ち込んでいた。
「ねえ、今日はフラワーアレンジしないんだよね?」
知らぬ間に隣の課の先輩が横に来て、そう小声で聞いていた。
「はい、ごめんなさい。まだ、風邪が治っていないので」
「ううん、いいの、いいの。じゃあ、また来週ね」
「はい」
ああ。申し訳ないな。先輩きっと、楽しみにしていたよね…。
「桜川さん!」
ドキーーーッ!!!また主任?!
「はいっ」
「今、○○電工から請求書が届いていないと電話がありましたが、送っていないんですか?」
「え?お、送っています。○○電工は月末締めで、月の初めには送ったはずなんですが」
「すぐに送ってあるか調べてください」
「はい」
送ったよね?5日には、末締めの請求書を全部送り終えているはず…。
私は請求書の控えを確認した。だが、○○電工の控えだけが見つからなかった。
「す、すみません、主任。○○電工だけ、送るのが漏れていたみたいで」
「送っていないんですね?」
うわ。主任、怖い声だ。でも、顔が無表情…。だから、さらに怖さが増す。
「すみません!送っていません。すぐに出力して速達で送ります。あ、ファックスのほうがいいですか?」
「請求書は現物を送ってほしいと言われています。早急に出してください。先方には僕から電話をしますから」
「はい。すみません」
また失敗した。ああ、もう穴があったら入りたいくらいだ。なんだって私はこう、ミスばっかりしているんだろう。
「桜川さん。請求書できましたか?」
「はい」
主任は電話を切ると、すぐに私を呼んだ。
「今日中でないと間に合わないそうなんです。僕が今から届けに行きますので」
「え?主任が?で、でも、私のミスなので私が」
「いいですよ。○○電工は近いですし、特にこのあと用事も入っていないので行ってきます」
「すみません。ご迷惑ばっかりかけて、あの、私…」
どうしよう。なんて言ったらいいんだろう。こんな時に何を言ったらいいのかわからない。
「本当にすみませんでした」
もう一回私は頭を下げた。
「主任!○○電工からお電話です」
その時、北畠さんがそう言って主任に電話を繋いだ。
ドキン。相手先の担当から?もしや、相当怒っているとか?
「え?いいえ。こちらから伺います。今すぐに出るので、30分で着くと思いますが…。え?経理の人が直接ですか?え?もう会社を出たんですか?」
もしや、先方からこっちに来てくれるの?そんなに急ぎだったの?
「はい。…いいえ。わたくしどもの責任です。御社にはご迷惑をおかけして…。いいえ。そのようなことは…。はい。わかりました。こちらで待っています。はい。申し訳ありませんでした」
主任はものすごく丁寧にそう言うと、電話を切った。ああ、申し訳ない。私のせいなのに主任に謝らせて…。
「桜川さん、○○電工の経理の人が請求書を取りに来るそうです」
「え?わざわざここまでですか?」
「経理の担当者が、うちからの請求書が届いていないのに気付かず、今日中に処理をしないとならないという段階になって気が付いたらしく。経理の担当者の責任なので、取りに行きますともう会社を出てしまったらしいんです」
「そんな!こっちのミスなのに」
「ですね。まあ、取りに来てくれるって言うんですから、待っていましょう。あ、一応いらっしゃったら、お茶でも出してあげて下さい」
「はい」
主任は静かにパソコンを立ち上げ、また仕事に没頭し始めた。私は、申し訳なさでいっぱいになり、暗くパソコンの画面を眺めていた。
なんだってこう私は。
なんだってこう私はいつも。
なんだってこう私はいつもダメなんだろう。
自分を責める言葉だけが頭に浮かび、仕事が手につかない。もう、主任は呆れかえって、怒る気も注意する気もなくなっちゃったのかな。なんにも言ってくれない。
「主任、受付に○○電工の経理の方が見えました」
「通してくれますか?」
「はい」
北畠さんは、受付の人にこちらまで上がってきてもらってくださいと告げ、お茶を入れに席を立とうとした。
「お茶は私が入れます。私のミスで来てもらっちゃったので」
「じゃあ、お願い。○○電工さんは応接室に通しておくから」
北畠さんは、一回立ち上がりかけたのをまた椅子に座りなおした。
「落ち込むな。大丈夫だって」
私が席を立つと、真広がそう言ってくれた。ああ、いつも真広にはフォローしてもらっている。
「ありがと。お茶入れてくるね」
給湯室に行き、お茶を入れた。主任にもコーヒーを入れ、お盆にそれらを乗せた。
はあ…。一回ため息を吐き、○○電工の人になんて謝ろうかと考えながら、応接室に向かった。
トントン。
「失礼します」
ドアを開けた。応接室には、線が細く小柄の可愛らしい女性が座っていた。
テーブルにお茶とコーヒーを置き、
「あの、本当に申し訳ありませんでした」
と、私はすぐさま頭を下げた。
「こちらこそ、ご迷惑おかけしてしまって…。あの、顔をあげて下さい」
ずっと頭を下げていたら、その人が小さな声でそう言った。
「はい」
「魚住さんは…」
「あ、もうすぐ来ると思います」
そう言ったと同時にドアをノックする音が聞こえ、
「失礼します」
と魚住主任が入ってきた。
「本日は、わざわざお越しいただいて申し訳ありません。こちらが請求書に…。あ?」
主任は頭を下げ、一回顔を上げると、○○電工の人を見て目を丸くした。
「こんにちは、魚住さん」
にこりとその人が微笑むと、主任は開けていた口を一回閉じてから、再び口を開いた。
「なぜ、菜穂さんが?」
「わたくし、○○電工の経理担当なんです」
「あ、そういえば、課長がそう言っていたかも…」
菜穂さん?!知り合い?!え?なんで?!
「部長は今、会議中です。もうすぐ終わると思うので、呼んできましょうか?」
「いいえ。父に会い来たわけではないので大丈夫です。それより、請求書が届いていないことに気づかず、迷惑をかけました」
「いいえ。こちらのミスです。こちらこそ申し訳ありませんでした」
そう言って魚住主任は頭を下げた。私も慌てて隣で頭を下げながら、思考回路をフル活動していた。
父?父って言った?まさか、部長の娘さん?この人が部長の娘さんなの?
「いいんです。そのおかげでこうやって、また魚住さんに会えたんですし…」
ドクン。何?どういうこと?
「桜川さん、もう仕事に戻っていいですよ」
私が心臓をバクバクさせながら、主任の隣で俯いていると、主任はこっちを向いてそう言った。
「え?あ、はい。では、失礼します」
そう言って私は部屋を出ようとした。だが、ドアを閉める寸前、
「魚住さん、この前は緊張のあまり、わたくしあまりお話ができなくって、後悔しました。もっといろんな話がしたかったんです。今度、お食事にでも行きませんか?」
と、そう言っているのが聞こえ、一瞬足が動かなくなった。
ドクン。それって、デートってこと?
「桜川さん、さっき来た○○電工の経理の人って、もしや部長の娘さんかな?」
私が固まっていると、前から南部課長がそう言いながらこっちに向かってやってきていた。
「…はい」
「やっぱり?部長も会議が終わったから、呼んでくるか…。あ、悪いけど桜川さんが呼んできてもらえるかな。僕は中に入って挨拶をしているから」
「あ、はい」
なんとか足を動かして、部長を呼びに行った。
「部長、今、応接室に娘さんがいらっしゃっています」
「え?菜穂が?まさか、魚住君に会いたい、会いたいって言っていたが、会社にまで会いに来ちゃったのか?しょうがないやつだなあ」
「……」
そうなの?そんなに会いたいって言っていたの?
「魚住君は?」
「もう、応接室にいます」
「そうか。いや、うちの娘が魚住君を気に入ってしまってね。魚住君もまんざらじゃなさそうだし…。あ、こういう話を社内でしないほうがいいね。桜川さんも黙っておいてくれないか」
「…はい」
「お茶はいいよ。さっきの会議で飲んだから」
「あ、はい」
お盆を持って、給湯室に戻った。そして、いきなり涙が込み上げてきてしまった。
まんざらでもない?主任が?
それって、主任と部長の娘さんが、お付き合いをするっていうこと?
ドクン。ドクン。ドクン。
息が苦しい。
「桜川さん、コーヒーある?」
岸和田君だ。なんだってこんな時に来るの?
「あれ?どうした?またヘマして怒られた?」
「え?」
「もしや、主任にきついこと言われたんじゃない?」
「…い、いいえ。大丈夫です」
ああ、やばい。声が震えてる。
「ほんと、あの人ちょっとやり過ぎだよね」
岸和田君はそう言いながら、コーヒーをカップに注いだ。
「伊織、大丈夫だった?」
「……」
「あれ?何で泣いてるの?ちょっと、岸和田君が泣かせたんじゃ」
「俺じゃないよ。魚住主任でしょ?」
「主任にそんなに怒られたの?」
「ううん。違う」
「じゃあ、○○電工の人がひどいこと言ったとか?」
「違うの、大丈夫。ごめんね、心配かけて」
「…本当に大丈夫?」
「うん」
ニコリと微笑み、なんとか泣くのを堪えた。でも、息が苦しい。心臓が痛い。
岸和田君がコーヒーカップを持って席に戻るのを確認し、私はコーヒーをカップに注いでいる真広に小声で話し出した。
「○○電工の経理の人って、部長の娘さんだったの」
「え?まじで?」
「魚住主任に会いに来たって…。それで、今度一緒に食事でもって誘ってて。部長も応接室に入って行ったの。それで、それでね」
まんざらでもないようだ…って何?真広に聞こうかと思った。でも、口から出てこなかった。苦しくて、涙の方が溢れ出た。
「ちょっと、待ってて。話をゆっくりと聞くから。ここじゃなんだから、コピー室に行くよ。コピーするもの持ってくるから、先に行ってて」
「うん」
私はなるべく人に見られないよう、急いでコピー室に向かった。
ダメだ。なんだってこうも落ちているんだろう。
恋をすると、どうしてこうも涙もろくなったり、気分が上がったり下がったりするんだろう。
主任のことを思うと、胸がぎゅっと締め付けられて苦しくなる。片思いをしている限り、ずっとこんなことが繰り返されていくんだろうか。




