第20話 部屋に寄る ~佑編~
「淀川さん、それ、セクハラですよ」
淀川さんの後ろに行き、桜川さんの背中にあった手を持った。
「セクハラ?親睦を深めていただけですよ、主任」
僕の手を振りほどきながら、淀川さんはふざけたことを言ってきた。
何が親睦だ!
「課長が呼んでいます。席、チェンジしてください」
「え?」
「向こうのテーブルに今直ぐに行ってください。課長から何か話があるそうですよ!」
ムカムカしながらそう吐き捨てた。
課長も「こっちに来い」と淀川さんを手招きした。淀川さんはしぶしぶ桜川さんの隣から立ち上がり、課長の隣へと移動した。
「あの淀川さんは、酒癖悪いと課長から聞いていますが、まさかいつも桜川さん、セクハラにあっていたんじゃないですよね?」
空いた座布団に座って桜川さんに聞いた。
「はい。今迄は大丈夫でした」
桜川さんがそう返事をすると、テーブルの前から溝口さんが顔を突きだし、
「あったじゃない、去年の部の忘年会の帰りにも」
と、話に割り込んできた。
「去年の?」
「淀川さん、ベロンベロンに酔っているくせに伊織を送って行くってきかなくて、田子主任がタクシー呼んで、私と伊織をタクシーに乗せて帰らせてくれたじゃない」
「ああ、そうだった。あの時も肩とか抱かれちゃって、大変だったんだっけ」
桜川さんも思い出したようだ。
「肩を?」
「そうなんですよ。あの人、本当に酒癖悪いんです。普段はおとなしいくせに、お酒入ると途端に変わるんです」
そう言ったのは溝口さんだ。
「そうなんですか…」
野田さんの言っていたことは本当なんだな。桜川さんを淀川さんは気に入っているどころか、酒が入ると絡みだすなんて、やっかいな人だ。それに、肩を抱いたり、さっきだって背中を触ったりして思い切りセクハラじゃないか。
「確か、淀川さんは東京に転勤になって長いですよね」
「もう5年はいます。2課に配属されたのは、1年前でしたけど」
「ああ、一回病気で長期入院をしたんですよね。そのあとに2課に来たと聞いていますが」
「…本当は他の支店に行く予定だったんだけど、体壊したからっていう理由で転勤を断っちゃったんですよね。だからいまだに、出世もできず平社員のまま」
「なるほど…」
転勤するはずがそのまま本社に居残っているのか。
「そろそろ、他の課に移動させるか、どっかの支店に飛ばすかできませんか?あんまり仕事もしっかりしていないみたいだし、酒癖悪いし、課のお荷物になっているし」
溝口さんの言うことは、本当のことだ。淀川さんは、特に目立った成果も出していない。
「……。それはまあ、課長や部長が決めることなので、僕の一存ではなんとも言えませんが…。ですが、女性社員が困っていると報告だけはしておきます」
実は、名古屋から塩谷があとひと月で移動してくるが、どの課で受け入れるかを迷っていると課長が言っていた。優秀な人材だから、うちの課に来てもらいたいが、2課は人が多いから、他の課にとられるだろうなと。だが、淀川さんが転勤になれば、塩谷が代わりに2課に配属される可能性もあるわけだ。
塩谷は本当に優秀だ。できたら自分の下で働いてもらいたい。早速明日課長に提案してみるか。
「特に伊織、気に入られているみたいで、これ以上伊織が被害を被る前に、なんとかしてくださいね、主任」
少し考え込んでいると、溝口さんが声を大きくして僕にそう言ってきた。ハッと僕は我に返った。
「はい、早急になんとかします」
それから心配になり、桜川さんの方を見た。
「大丈夫でしたか?桜川さん」
「はい。…あ、いえ。やっぱり、い、嫌でした」
「ですよね…。すみません、もっと早くに気を付ければよかったですね」
「いいえ。すぐに助けに来てくれてありがとうございます」
「……ちゃんと主任、助けに来てくれたんだ~~。なんか、意外」
溝口さんがやけに、驚いたように目を丸くしてそう言った。
あ、まさか、僕が桜川さんを特別視しているとそんなふうに思っていないだろうな。
「そりゃ、部下がセクハラにあったりしていたら、ちゃんと助けますよ」
なるべくクールな表情を作り、溝口さんにそう言うと、
「すっかり主任の印象が変わっちゃった」
と、溝口さんは呟いた。
「そうですか?」
ああ、そうか。僕が桜川さんだけに特別に優しくしているのではなく、今迄の印象と変わってびっくりしているということか。
9時近くなり、飲み会はお開きとなり寿司屋を出た。そして駅に向かうと、桜川さんにまた淀川さんが絡みだした。一緒に帰ろうとしつこく誘っている。
「桜川さんは僕が送ります。方面が一緒なんで。淀川さんは確か、野田さんと同じ方面ですよね。では、お疲れ様でした」
僕はそう言いながら淀川さんから桜川さんを離し、
「じゃあ、行きましょうか、桜川さん」
と桜川さんと一緒に歩き出した。
「ちょっと待った。桜川さんは僕が…」
しつこく後ろから、ふらつきながら淀川さんは追いかけてこようとしたが、課の男どもがなんとか、淀川さんを連れて行ってくれた。
僕と桜川さんだけが同じ方面で、他の課の人たちは逆側のホームに向かって行き、僕らは二人きりになった。
「主任、ありがとうございます」
電車を待っていると、桜川さんがお礼を言ってきた。
「いいえ」
「あのまま、淀川さんに送ってもらうことになっていたら、大変でした」
「そういえば、この前もタクシーに乗せられそうになっていましたね」
「え?」
「婚活パーティで会ったっていう人に」
「あの人も強引な人でした…。勝手に肩も抱いて来たりして…」
桜川さん、隙でもあるのか?
「桜川さん、もっとちゃんとガードしないとだめですよ」
「はい。もっとしっかりします…」
電車が来て僕らは乗り込んだ。車内では時々桜川さんは、ふらついていた。
「大丈夫ですか?酔っていますか?」
「いいえ。今、いきなり電車が動いたから…」
「酔ってますよね?アパートまで送りますから」
「いいえ。大丈夫です。主任はちゃんと○○駅で降りてください」
ムッ。また、そうやって人の好意を受け取らない。僕らはもう付き合っているんだから、送るのは当然と言えば当然だろう。
「送りますよ」
「でも…」
「ちゃんと送ります。桜川さん、酔うと心配だし…。僕が心配で送りたいんですから、送らせてください」
「…はい」
ここまで言えば、桜川さんも納得するようだ。これからも、毎回こんなやり取りがされるのかな。もう少し僕に甘えたっていいのに。
桜川さんのアパートに着くと、階段を上るのも彼女はふらついていた。かなり飲んだのか?大丈夫だろうか。
「主任」
部屋の前まで来ると、桜川さんは僕の袖口をつまみ、
「あの、良かったら、散らかっていますけど、上がってお茶、飲んでいきませんか?」
と、恥ずかしがりながらそう聞いてきた。
可愛い。僕のスーツの袖口を掴んだりして。
「……」
僕は黙ってしばらく桜川さんの様子をうかがっていた。すると、ちらっと顔をあげて心配そうに僕の顔を見た。くす。ああ、なんかその顔も可愛い。
「じゃあ、少しだけお邪魔させてもらいます」
桜川さんの表情が、ぱっと明るくなった。だが、緊張なのか、酔っているのか、手が震えてなかなか鍵をあけられないでいる。
「僕が開けますよ」
鍵を取って、代わりに僕がドアを開けた。すると、
「ちょっとだけ、待ってください」
と、慌てながら桜川さんは部屋へと入って行った。
なんだか、バタバタと慌てている足音が聞こえた。それから、襖を閉めている音。そして、
「どうぞ」
と、ちょっとだけ息を切らし、桜川さんが僕を招き入れてくれた。
僕はテーブルの前に座った。座椅子にどうぞと言われたが、それは断った。この前は勝手に座ったが、その席はもともと桜川さんの席だもんな。
「でも、そこ、座布団もないし。あ、クッションだったらあるかも」
桜川さんは、また慌てて隣の部屋に行こうとしたが、
「いいですよ。すぐに帰りますし」
と僕はすぐに断った。
「え?すぐに帰っちゃうんですか?」
あ、顔がものすごく寂しげだ。しょげた子犬のように…。そんな顔も可愛い。
笑うのをこらえていたが、
「あの…」
と、今度は困った顔をして桜川さんが見た。
「いえ。なんだか、すごく寂しそうな顔をするから、つい…」
くすくすと笑いがこみ上げ、僕は思わず笑ってしまった。
「今度、ちゃんと主任用の座椅子も買っておきます」
「え?」
僕の座椅子?
「やっぱり、背もたれがあるほうがいいですよね?主任のマンションの、リビングにあるソファみたいな座り心地がいいものは買えないかもしれないけど」
「ああ、いいですよ。そんな気を遣わなくても。多分、今後あまり桜川さんの部屋に来ることもないと思いますし」
「え?」
あ、桜川さんの顔が少し曇った。
「桜川さんが、僕のマンションに来る機会のほうが多いと思いますよ。フラワーアレンジも家庭菜園も、できたら僕のマンションで教えてほしいですから」
「……え?」
今度は不思議そうな顔をした。
「それより、僕がお茶を入れましょうか?桜川さん、休んだ方がよくないですか?顔、真っ赤ですよ」
「あ、大丈夫です。お茶入れてきます。主任はそこで休んでいてください」
さっきより酔いは冷めたのか、桜川さんは立ち上がりキッチンに向かった。桜川さんの部屋なので、僕がお茶を入れるより、任せたほうがいいだろうと、僕はぼけっと桜川さんの背中を眺めていた。だが、何分手持無沙汰だ。
「暇なので、テレビでも観ていていいですか?」
「はい。どうぞ」
テレビをボケッと見ていると、
「どうぞ」
と桜川さんがお茶を持って来てくれた。
そして、桜川さんも座椅子に座ってもらい、お茶を一緒に飲んだ。なんだか、やけに落ち着くな。このテーブルのせいかな。
「これって、冬場はこたつになるんですか?」
「はい。こたつになります」
そうか。それはいいな。
「いいですね。じゃあ、その頃は僕が桜川さんの家にお邪魔しようかな」
「え?あ…。フラワーアレンジをしにくるんですか?」
「はい。あとは…、食事でも作りに来ますよ」
「そんな、悪いです」
「いいですよ。こたつに入って鍋とかどうですか?僕は飲めませんが、日本酒とか…、桜川さんだったら飲むんじゃないんですか?」
そう言うと桜川さんは顔を赤くした。そして、なぜかぼ~~っと1点を見つめ、そのまま目を閉じて行った。
あれ?まさかと思うけど、寝るつもりなのか?
「桜川さん、ダメですよ。こんなところで寝たら…」
「え?」
あ、目を開けた。
「すみません。なんか、いきなり眠気が…」
「ちゃんと布団で寝てください。でも、その前に着替えたほうがいいですよ」
「はい」
「大丈夫ですか?」
「何とか…」
「布団敷きましょうか?」
「いえ!大丈夫です!」
桜川さんは、首をフルフルと横に振り、思い切り断った。
「…本当に大丈夫ですか?」
顔を近づけそう聞くと、桜川さんは顔を僕から遠ざけ、
「あ、あ、あの。大丈夫です」
と、今度は手を横に振った。
なんだってこうもいつも、頑なに断るのか。付き合ったとしてもまだ、僕に気を許してくれないのか。甘えてくれたらうれしいのに。
「そうですか…」
「心配しなくても大丈夫です。私、そんなに酔ってないですから」
「……」
それって、強がりか?それとも、僕のことなんて頼りにならないとか、警戒しているとか。
「主任?」
「今ここで、僕が桜川さんを抱きしめたらどうしますか?」
「は!?」
僕の言葉に目を丸くしながら、桜川さんは硬直してしまった。
「いえ。なんでもないです」
やっぱり、僕を警戒しているのかもしれない。
「帰ります。見送りはいいですから、僕がドアを締めたらちゃんと鍵を閉めてくださいね」
「はい。送って下さりありがとうございました」
靴を履き、玄関を出た。桜川さんは玄関まで見送りに来た。
「じゃあ、また明日…」
「はい。おやすみなさい。気を付けて…」
見送られながら僕は部屋を出た。廊下を歩くと微かにガチャリと鍵を閉めた音がした。
「は~~~あ」
あんなに警戒しているのか。男慣れしていないからなんだろうな。
空を見上げた。綺麗な月が出ている。
「満月か?いや、ちょっとかけているかな」
僕の心も満たされているようで、どこかが欠けていた。
警戒心っていうのは、いったいいつ、ほどかれるものなんだろうか。わからない。前に付き合っていた女性は、経験者だった。僕の方からというより、向こうの方から仕掛けてきた。それも、付き合って間もない頃だ。だが、桜川さんはどう見たって、未経験だろうな。
なんて、勝手に決めつけるものじゃないか。桜川さんが過去どんな人と付き合ったのかもわからないわけだし。誰にでも警戒するのではなく、本当に信頼したら変わるのかもしれないし、男慣れしていないだけじゃなく、僕にだけ遠慮しているのかもしれないし。
ドスン。家に帰り、僕はすぐにベッドに寝転がった。大事にしたいという気持ちと裏腹に、どこかで桜川さんの全部が欲しいと思っている自分もいる。まったく、ついこの前まで好きだっていう気持ちも封印していたっていうのに。
あんなに警戒されたら、手も足も出せやしないよなあ。
「はあ」
ため息をつき、僕はゴロリと寝返りを打った。そのまま寝そうになり、慌ててシャワーを浴びに行った。
桜川さんとの交際は始まったばかりだ。ゆっくりと進んで行ってもいいよな…。




