第2話 少しの変化 ~佑編~
「今度の主任、最低」
「顔が良くても性格最悪」
「田子主任のほうが良かったよ」
女子トイレの前から聞こえてきた。トイレの前の廊下を、その本人が歩いているとも知らず。いや、知っていてわざと言っているということも考えられる。
ああやって、誰かの悪口を女子トイレの中で言うのか。そんなもんだよな、しょせん女が集まると、ろくな話をしない。
名古屋支店でも、大阪支店でも、僕は嫌われていた。僕を慕ってくるのはたいてい、営業でバリバリ仕事をしている女性だ。
名古屋支店の、同じ年の営業の女性は特に、切磋琢磨して成長したライバルと言ってもいいほどの出来た女性だった。もちろん、恋の対象になんてなるわけもない。向こうも僕をいいライバルだと思っていただけだ。
だけど、東京の湯川部長に認められ、僕だけ東京に栄転になったら、掌返したように、彼女の態度は一変したな。あれは、嫉妬だ。女の嫉妬ほど醜いものはない。
まあ、いい。それだけ仕事に燃えているということだから。それに比べて、ここの事務職の女性は、いったいなんなんだ。
簡単な計算ミス、入力漏れ。集中力が足りなさすぎだ。こんなOLたちを、前の主任はほったらかしだったのか。いや、田子主任もゆるゆるな環境の中で、プロジェクトを任され、失敗して左遷されたんだ。
まず、課の連中みんなの気を引き締めさせないとな。
女性陣にどう思われようが、いっこうに構わない。勝手に会社を辞めてくれても結構だ。優秀な人間だけが残ればいいことだ。
まず、直属の部下、桜川伊織さんと、溝口真広さん。この二人の教育から徹底的にするか。桜川さんは関わりたくない女性だが、しょうがない。
そう思った僕は、早速二人を呼びつけ、注意をした。
だが、注意をしたのにも関わらず、翌日、明らかに二人は二日酔いの顔をして出社した。信じられない。注意を受けたその日に、それだけ酒を飲んだのか。まさか、嫌がらせか?
案の定、桜川伊織は大きなミスをしてくれた。
昼飯も早くに済ませ、会社に戻って仕事を再開しようと、自分の課に戻ってきて、桜川さんのデスクの上に置いてあるメモに気が付いた。
「工場から連絡?」
読んでみると、「○○工業様からの発注、いつも10ケース単位なんですが、1ケースだけでいいんですか?確認をお願いします」と書かれていた。
慌てて、相手先に確認をした。注文は10ケース。だが、桜川さんが発注したのは1ケース。ちゃんと注文のファイルを見ると、受注は10ケースになっており、発注の入力の時に、単に1と間違っているように見受けられた。
あのアホが!やってくれたよ。
「はあ…」
工場に連絡を入れると、すでに午後の便は出た後。もう今日積み荷はしないと言うので、仕方なく赤帽を走らせるよう手配した。これで、運賃が倍以上かかるってわけだ。
昼休憩からのこのこと戻ってきた桜川さんのもとに行き、
「赤帽の代金、支払ってもらえますか?」
と、脅かしたら真っ青になった。自分のしでかしたミス、ようやく大変なことをしたって、これでわかったか。
「今度発注ミスしたら、本当に代金支払ってもらいますから、そのつもりで、気を引き締めて仕事をしてください」
彼女の顔がますます引きつった。これで、さすがに気を引き締めて仕事をするようになるだろう。
やれやれだ。人の失敗の尻拭いは、田子主任の分だけで手一杯だ。このくらい、ちゃんと失敗しないでしっかりやれよと、本当は怒鳴りたいくらいだ。
桜川伊織。ファイルを見ると、もう25歳だ。大学卒業して、今年で4年目。いい加減、まともに仕事ができてもいい年齢だろう。
溝口真広。桜川とは同期か。二人ともずっと営業2課の事務。今迄、なまぬるい環境で仕事をしてきたんだろうな。
家に帰り、シャワーを浴びた。エアコンは嫌いだが、今日はやけに蒸す。仕方なく、エアコンのドライをかけた。
料理をして、ダイニングに着き、一人で夕飯をゆっくりと食べた。それから、テレビをつけ、ニュースを見る。
「それにしても…」
桜川伊織。これからも、ミスし続けるんだったら、どう対処したらいいのか。かなり憂鬱だ。今日の失敗で懲りて、ミスしないよう気を付けてくれたらいいが。
昼間からビールを飲む女。一人だけで映画を観る女。仕事もできない女。どうも、桜川伊織に対しての印象は悪くなるばかりだ。
しばらくしたある日、終業時間間際に湯川部長に応接室に呼ばれた。仕事の話はたいてい部長席で話をする。わざわざ人目を避け、応接室に呼ばれるということは、プライベートの話だ。すぐに僕はピンときた。娘さんとの見合い話をするつもりだ。
ああ、来たか。なんとか、仕事があって、とても付き合えないとやんわりと、でも、部長が諦めてくれるよう話を持っていかないと…。こういう話は、仕事の話よりも苦手だ。じわっと胃のあたりに、むかつきすら覚える。
トントン。ドアをノックすると、湯川部長がご機嫌の声で、「どうぞ」と返事をしてきた。ご機嫌なのか。さらに胃がむかむかしてきた。
「お呼びでしょうか?湯川部長」
「まあ、座ってくれ」
にこにこしながら、部長は僕がソファに腰かけるまで待っている。僕は意を決して、ソファに腰かけた。
「実はね、娘の写真を持ってきたんだよ」
やっぱりな。
「これは、成人式の時に撮った写真だ」
何年前の写真だよ。それも、写真館で撮った写真見せてきた。
「ああ。綺麗な娘さんですね。振袖が似合っていて」
特によく見もしないで、口先だけでそう言うと、湯川部長はますますにこやかになり、
「こっちは、最近、家族で旅行に行った時の写真だ。僕は仕事で行けなかったんだけどね。妻と娘二人が行った写真だ」
とスナップ写真まで見せてきた。
「娘さん、お二人いるんですか?」
「おや?ダメだぞ。下の娘はまだ高校2年だ。さすがに君が手を出したら、犯罪だぞ。はははは」
手なんか出す気、まったくないですから安心してください。と心の中で呟き、表面では、部長の冗談におどけて見せた。
「これが上の娘、菜穂だ。菜の花の菜に稲穂の穂で菜穂だ」
「湯川菜穂さんですか」
「ああ。なかなかの美人だろう?」
「こんなにお綺麗なら、お付き合いしている男性もいらっしゃるのでは?」
「娘は、大人しい性格でね。何度か、お付き合いを申し込まれたらしいんだが、断ってしまったんだよ」
「なぜですか?」
「どうも、そういうことが苦手というか…」
「では、僕との交際も、断られるんじゃ…」
「君の話は娘にしている。娘も興味を示しているんだ」
どんな話をしたんだか。だいたい、湯川部長は、僕が入社したころ、少しお世話になった程度で、僕のことはあまり知らないと思うんだけどな。
「入社した頃、新人研修を僕がしたよね。研修で2日間、長野に行ったが、その時の写真も菜穂に見せたんだ。君のことは一目で気に入っていたよ」
はあ?何年前の写真を見せたんだ。まだ、入社したてといったら、22歳だ。
「しばらくは君も仕事の引継ぎで忙しいだろうから、1か月後、娘と会ってくれないか。食事の席を設けるから」
「いえ。僕は、これからもしばらくは、仕事に専念して」
「そういう真面目なところも娘は気に入っているんだ。そんじょそこらにいる遊び人とは違って、君は本当に真面目で誠実だ」
誠実かどうかは、わかっていないだろう。まあ、浮いた話もないから、そう思われるかもしれないが。
「まあ、いい。この話はまた、仕事が落ち着いたらしよう。とりあえず、この菜穂が一人で映っている写真、渡しておくから」
「は?」
「話はこれだけだ。これからまだ、仕事があるのかな?」
「ありますが…」
「では、席に戻ってくれて構わないよ。僕は、これからお得意さんと飲みに行くからこれで失礼するよ」
「はい」
「そう言えば、君はあまり酒は強くないんだっけね?」
「はい。お酒はあまり得意ではありません」
「それは残念だ。だが、付き合いは大事だからな。接待の時は、酒が飲めなくても付き合いに応じなさい。わかったね」
「はい」
それはもう、大阪支店でも名古屋支店でもしてきましたから。一番僕が、無駄な時間だと思っている部分ですけどね。
欲しくもない写真を手にして、デスクに戻った。そして、引出しの奥にその写真を仕舞い込み、仕事を再開した。
はっきりと断ればよかったか。だが、どうもあの湯川部長には、ペースを持って行かれてしまう。このままでは、いつか娘さんと会う羽目になるのか。そうしたら最後の手段は、娘さんに嫌われることか。
だが、それなら自信があるかもしれない。もともと、女性から好かれる性格はしていない。きっと、二人で食事をしても、つまらない思いをさせるだけだ。そして、相手の方から、自分とは気が合いませんと言って、断られるだろう。それだ。その手でいくしかない。
翌日は、前主任、田子さんのしでかした失敗の尻拭いのため、5時過ぎまで外を回っていた。神経的にも疲れ、そのうえ、蒸し暑さにもダメージを受け、今日はもう何も仕事をしないで、さっさと家に帰ってゆっくりしようと会社に戻ると、ほとんど人がいなくなった営業2課に、苦手な桜川さんが残っていた。
残業か。めずらしい。それも、赤い顔をして興奮しながら電話をしている。客ともめているのか?
「そんなこと、お客様に言えるわけないじゃないですか。何か、最善を尽くそうとしてください!」
ああ。工場ともめているのか。また、こいつ何かしでかしたのか?
「女~~?」
あ。桜川さんが切れてる?工場のやつにバカにされたか?
「どうしたんですか?」
僕は桜川さんの言葉より、手にしていたメモを見て、状況を把握した。どうやら、大事な取引先から急ぎの発注を受け、それを工場の人間が突っぱねているようだった。それで、桜川さんが怒っていたわけか。
電話を替わると、工場の人間は知っている人だった。この人なら、何度か会ったこともあるし、やりやすい。強引に話をして、無理やり明日の朝一で荷物を出してもらうよう手配してもらった。
「あ、あの。明日の朝一で出してもらえるんですか?」
電話を切ると、桜川さんがすがるような目で聞いてきた。
「はい。お客様の電話番号は?」
「あ。私から、返事をします」
桜川さんは、僕が支持をする間も与えず、さっさと電話をして、僕が手配したことをちゃんと先方に告げた。
僕は慌てて電話を替わり、自己紹介をして、今度伺いますと丁寧に挨拶をして電話を切った。
まさか、あの、仕事をゆるゆるとしている桜川さんが、こんなにハキハキとお客に対応するとは思わなかった。それに、どうやらお客との信頼関係もしっかりとあるようだ。
そんなことを考えながら彼女を見ていると、不安そうな顔をして、
「すみません。私ではなく、主任から電話を入れたほうが良かったですか?私、何か差し出がましいことしましたか?」
と聞いてきた。
ああ。つい、難しい顔をして彼女を見ていたかもしれないな。
「いいえ。ちゃんと僕のことを紹介してくださって、ありがたかったですよ」
そう桜川さんに告げると、彼女はほっと安堵の顔を見せ、にこりと笑った。
へえ。そんなふうに笑うのか。笑うと意外に…。
ん?意外となんだ?今、可愛いとでも僕は思ったのか?
「あの、ありがとうございました。私では、工場の人、きっと動いてくれませんでした。担当の人なら、いつもいろいろと手を尽くしてくださるんですが」
「今、電話に出た人は、面識のある人です。だから、僕の依頼を受けてくれたんでしょう。きっと、担当の人は、桜川さんと信頼関係がしっかりとあるんでしょうね。逆に僕からだったら、聞いてくれなかったかもしれない」
そう言うと、桜川さんは、意外っていう顔をして僕を見た。
「そ、そんなことは…。それに、今の人は、女性ってだけで、なめてかかっているようでしたし」
彼女は慌てたようにそう付け加えた。
「ああ、そういうところがある人かもしれませんね」
女性ってだけで、なめてかかっていると思われるのは、この人でも頭に来るのか。僕は女性だからってなめてかからないが、緩い仕事をしている桜川さんのことは、はっきり言ってなめてかかっているけどな。
だが、得意先にはそう思われていないようだ。
「明日も、会社に出ないとならなくなっちゃいましたね。あの、私も出ましょうか?どうせ、暇ですし」
「…桜川さんが出ても、何もすることはないですよ。僕はどっちみち、出る予定でした。いろいろと、田子さんから引き継ぎがまだできていないことがあるものですから」
工場から朝、どこの営業所に荷物が届くか連絡が来る。それを僕が聞いて先方に連絡しないとならなくなった。
だが、どっちみち、僕は出勤する予定だった。今日はさっさと帰り、その分、明日出てきて仕事をしようと思っていたから。
「そうなんですか?じゃあ、お言葉に甘えて、私は休みます」
桜川さんは、特に僕に対して遠慮もせず、簡単にそう言ってのけた。
「はい。ゆっくりと休んでください」
「はい」
「昼間からビールでも飲んで」
冗談のつもりでそう言った。
「え?!」
「この前は、美味しくビールを飲んでいるのを、僕が邪魔してしまいましたから」
すると、桜川さんの顔が引きつった。あ、僕が嫌味でも言っていると思ったのか。
「すみませんでした。飲むなと言ったわけじゃないんです。音が少し気になっただけで」
「いいんです。映画にのめり込んだし、どっちみち、きっと飲まなかったと思います」
「ああ。面白い映画でしたよね。ああいうのをよく観に行かれますか?」
「はい。ミュージカルが好きで」
へえ。趣味が合うな。
「僕も好きなんです。感動すると、最後のエンディングも全部見ないとすまないって言うか、余韻に浸ってしまうと言うか」
「私もです!だから、主任も席を立たなかったんですね」
おや。テンションあがってる。なんだか、嬉しそうだ。
「すみません。つい、興奮して。そろそろ帰ります」
「僕も帰ります。駅まで一緒に帰りますか?」
って、あれ?僕はなんでそんなことを口走ったんだ。誰かと一緒に帰るなんて、いつもならしない。そんな面倒なことを。
「え?はい。あ、でも、私、駅に行く途中で、DVD借りようかと」
ああ、そうか。だったら、一緒に帰らなくても済むかな。
「DVD?レンタルショップ、ありましたっけ?」
「はい。ビルの2階にあるので、わかりにくいかも」
「じゃあ、僕も借りて帰ります。帰ってから暇ですから」
「そうですか?!」
あれ?何で一緒に借りに行くなんて言ったんだろう。確かに、今夜は暇だし、何か映画でも観たい気分ではあったけれど。
そうだ。それだけだ。僕もただ単に、映画が観たかっただけだ。
だけど、桜川さんが一緒に行くと僕が言った言葉に、嬉しそうに返事をしたのも、どこかで僕は喜んでいたし、彼女はどんな映画を選ぶんだろうとか、いったい、彼女は他にもどんな表情を見せるのだろうかとか、そんなことに興味を持っている自分がいることに、僕は正直驚いていた。
なんで、彼女のことが、気になりだしているのか。はっきり言って、一番関わりたくないタイプだったはずなのに。
僕の頭にはいくつものクエスチョンマークが浮かんでいた。