第19話 飲み会 ~佑編~
シャワーを浴びて寝る支度をしているとメールが来た。
>伊織ちゃんとちゃんと話せた?
東佐野だ。
>ああ。自分の気持ちをちゃんと言ったよ。わかってもらえたし、付き合うことになった。
>良かったな。俺の分まで幸せにしてやれよな。
>いろいろと面倒かけたな。もう舞台やってるんだろ?頑張れよ。
>東京の公演には伊織ちゃんと来いよ。
東佐野は、本気で桜川さんのことが好きだったのか、その辺は謎のままだ。大学の頃から女に手が早く、かなりちゃらんぽらんに遊んでいたこともあった東佐野が、桜川さんには手を出さなかったんだもんな。まあ、あの純粋無垢な桜川さんを前にして、そうそう手なんて出せないかもしれないけどな。
僕だって、いくら付き合うようになったからといって、簡単には手を出せそうもない。そういえば、手すら握ったことがないかもしれない。
でも、もう付き合っているんだ。今度うちに呼んだ時には、「泊まっていったらどうですか?」くらい、言ってもいいよな。
夕飯を食べ、そのあとのんびりとDVDでも観て、今迄なら車で送って行くところだ。だが、できたら朝まで一緒にいたい。車で送り届け、誰もいない部屋に帰ってくるのは、なんとも寂しいものだと気がついたし。
どうせなら、一緒に住むっていうのはどうだ?
週末だけ泊まってもらうのもいいが、毎日、桜川さんと一緒にいるっていうのも、楽しそうだ。
ふと気になり時計を見た。1時半を過ぎていた。
「また寝不足だな」
そう呟き、僕は電気を消し、ベッドに入ると寝る体勢に入った。
翌朝は寝坊した。いつもより30分も遅くに起き、慌てて顔を洗い朝食も急いで食べた。のんびりとコーヒーを淹れている暇もなかった。急いで支度をしたにもかかわらず、1本遅い電車になった。まあ、この時間でも間に合うからいいんだが。
1本前より電車は混んでいた。なんとか車内に入り込み、窓際で潰されそうになっていると、人ごみの合間から桜川さんの横顔が見えた。
この電車なのか…。ってことは、いつもこんなに混んでいる電車に乗ってきていたのか。
降りる駅に着いた。どっと人がドアから流れ出て、その流れに逆らうこともできず、僕は階段を降りた。桜川さんの姿も見えなくなり、仕方なく一人でビルに向かって歩いて行った。
会社に着くと、桜川さんと溝口さん以外の人は、もう席についていた。
「おはようございます。いつもより遅かったんですね、主任」
明るく北畠さんが声をかけてきた。
「おはようございます。いつもの電車に乗れなかったので、この時間になってしまいました」
「珍しいですよね、こんな時間なんて」
野田さんまでがそう言ってくる。
「そういえば、昨日魚住君に会いに名古屋の営業の子が来ていたよ。名前はなんていったかなあ」
課長が、僕が席に座ると同時にそう言ってきた。
「塩谷ですか?」
「ああ、そうそう。そんな名前だった」
「昨日会いました。残業していたら寄ってくれて」
「ああ、会ったのかい?それで…。まあ、ここじゃなんだから、あとで話すよ」
課長は言葉を濁し、パソコンの画面を見始めた。
「主任、そろそろ出ないと待ち合わせの時間に間に合いませんよ」
「ああ、そうだった。早速行きますか、野田さん」
今日も朝から外回りだ。パソコンに来ているメールだけをチェックし、すぐに席を立った。
そこに桜川さんと溝口さんがやってきた。
「おはようございます」
9時3分前…。僕と同じ電車だったんだから、もう少し早くにデスクに来れるだろうに…。
「遅かったんですね、二人とも。もうすぐ9時ですよ」
「でもまだ、9時じゃないですよね?主任」
また溝口さんが、反抗的な態度を示す。もっと素直になってくれないものかな。
「すみませんでした。気を付けます」
それとは対照的に、桜川さんは肩をすぼめて謝った。
「主任、早くに出ないと!」
「今行きます」
僕は野田さんにそう言ってから、上着を羽織ると、
「行ってきます」
と、誰ともなしにそう言った。すると、すぐ隣にいた桜川さんが、
「いってらっしゃい」
と、ちょっと恥ずかしそうに僕を見送ってくれた。
いってきます。いってらっしゃい。なんだか、まるで夫婦みたいだな。一緒に住んだら、そんな言葉をかけあうのか。
いや、違うな。桜川さんも働いているんだから、一緒に出社することになるのか。
そんなことを考えながら、野田さんと取引先に行った。最近は、野田さんと回ることが多い。課では若いほうだが、仕事の出来る有能な人材だ。
「野田さんは、随分と結婚が早かったんですね」
昼飯のうどんを食べながら、そんなことをなんとなく聞いてみた。
「できちゃった婚なんですよ」
「ああ、なるほど」
「彼女とは、会社に入って2年目くらいから同棲していたんです」
「同僚だったんですか?」
「はい。同期です。部は違ってましたけどね」
「同僚と同棲って、大変じゃないですか?会社の人には内緒にしておかないとならないし、けっこう面倒なこともありませんでしたか?」
「まあ、ばれなきゃいいわけですから。って言っても、同期の中には僕らが同棲しているのを知ってて、たまに押しかけてきたりもしてました」
「家まで?」
「そうです。僕の悪友と、彼女の友達も付き合っていたんで、そいつらがよく来てましたよ」
「他の人にはばれなかったんですか?」
「お互い、内緒にし合ってましたから。で、俺らはそのまま子供が出来て結婚して、そいつらは、男の方が転勤になって別れちゃいましたけどね」
「そうですか…」
赤ちゃんが出来なかったら、野田さんはその彼女と結婚していたんだろうか…。
「同棲する時に、結婚は意識していたんですか?」
「結婚ですか?う~~ん。まあ、3年くらい一緒に住んで別れていなかったら、結婚を考えようかな…くらいのことは思っていたかもしれません」
「じゃあ、最初は結婚なんか考えていなかったってことですか?」
「そりゃそうですよ。そんな先のことまで考えて、同棲したりしません。一緒に住んで見なけりゃ、結婚できるかどうかもわからないじゃないですか」
「そんなもんですか?」
「もしや、主任も同棲したいとか思っているんですか?そんな女性が現れたとか?あ!まさか、部長の娘?でも、部長が許してくれるかどうか。あそこ、箱入り娘っぽいですしね」
「違いますよ。部長の娘さんとお付き合いをする気はないですから」
「じゃ、別の人ですか?」
「いいえ。参考に聞いたまでです。早くに結婚ってどうなんだろうと気になったので」
「ふうん。ま、そういうことにしておきますが…。でも、主任28歳ですよね?そろそろ結婚してもいい年齢じゃないですか?30代で子供つくっておかないと、あんまり遅くになると、大学卒業させる前に定年…なんてことになったら、大変ですよ」
「ああ、確かに」
「若いうちに結婚して子供作っちゃったほうが、あとあと楽ですよ」
「そうでしょうね」
「さ、飯も食ったし、また外回りしますか」
野田さんはうどんの汁を飲み干すと、席を立った。僕も水を飲んでから、席を立って食器を返しに行った。
なるほどな。ばれなきゃなんとかなるもんなのか、同棲していても。だが、野田さんの場合は彼女と部署が違ったからいいが、僕の場合は同じ課だ。それも、自分の部下だ。
5時過ぎに会社に戻った。そのあとも、片付けなきゃならない仕事があり、飲み会には遅れて行くことになった。
「行ける人は先に行っちゃおうか」
5時半になると課長がそう言った。仕事が定時に終わっていたのは、桜川さんと溝口さん、そして淀川さんだった。
「じゃあ、4人だけで移動しようか」
まずいな。淀川さんと一緒に行くのか…。今すぐ仕事をやめて、追いかけるか?
いや。まだ酒が入っていないんだから、桜川さんに絡むこともないだろう。課長もいることだし。
「主任、何か手伝うことありませんか?」
パソコンを打っていると、横から北畠さんが話しかけてきた。できれば集中しているから、話しかけてきてほしくないんだが。
「大丈夫です。これを打ちこむだけですから」
「それ、私にもできますか?」
「いえ。すみませんが、集中するので少し静かにしていてもらえますか?」
そう言うと、北畠さんはそそくさと自分のデスクに戻って行った。
なんとか、30分で仕上げ、他の連中と一緒に寿司屋に行った。
「美味しいお寿司屋さんなんですよ。きっと主任も気に入るはず」
北畠さんは、寿司屋に着くまで僕の横でずっと話をしている。半分聞き流しながら僕は相槌を打った。
実は、北畠さんは苦手だ。こういうタイプは名古屋にもいた。名古屋の総務に一人いて、何かと掴まっては話しかけられた。たとえば、保険には入っているかとか、ランチに行くならあの店が美味しいとか。聞いてもいないのにあれやこれやと、世話を焼きたがる。
年齢も北畠さんに近かったな。冷たくするわけにもいかず、とりあえず適当にかわしてはいたが。北畠さんは部下だからな。あんまり適当にするのも悪いし…。
「主任って、一人暮らしですよね?」
「え?はい」
「困っていることないですか?ちゃんとご飯食べてます?」
「はい。自炊していますよ」
「自炊?ご自分で作ってるんですか?」
「はい。料理が趣味なので」
「ええ?そうなんですか?!意外!」
北畠さん、驚き方がわざとらしい…。まあ、別にいいけど。
「でも、掃除とか、洗濯とか…。大変でしょう?毎日忙しいでしょうし」
「いいえ。家事も好きなので、そんなに苦にはなっていません」
「ええ?!そうなんですか?」
だから、驚き方が、おおげさなんだよ。
「何かお手伝いできることがあれば、しようと思っていたんですけど…」
「ああ、大丈夫です。大阪でも名古屋でも一人暮らしでしたし、慣れています」
「……あ。そっか。実は、やってくれる彼女さんがいる…とか?」
なんだ、その上目遣いは…。
「いいえ。本当に僕は家事が得意なんです。中学の頃からしていたもので」
「まあ、何か家の事情が複雑とか?」
そんなことまで聞いてくるのか?
「…すみませんが。あんまりその辺のことは話したくないので」
ちょっと顔をしかめながらそう言うと、北畠さんは慌てながら、
「そうですよね。他人に知られたくないことってありますもんね」
と言いながら笑った。
それ、わかっているなら、最初からあれこれ聞いてこないでほしい。
「あ!っていうことは、主任、彼女さん、今いないんですか?」
……。だから、もうほっておいてくれ。
「そういうことも、べらべらと話したくないんですが…」
「あ、ごめんなさい。そりゃそうですよね?」
だいいち、いたとしても話すわけがないだろう。そんなプライベートのことを。それも、付き合っているのは同じ課の部下だ。
…そうだ。桜川さんと付き合っていることは隠さないとならないよな。知られてあれこれ詮索され、下手したら桜川さんが傷つくようなこともあるかもしれないんだし。特にこの北畠さんなんか、根掘り葉掘り聞きだしそうだし。
桜川さんとは、会社の人間がいる前ではなるべく二人で話すのも避けた方がいいかな。と思った矢先、店に着くと、
「ここ、ここ。魚住君は両手に花のこの席だよ」
と課長が手招きしたのは、桜川さんの隣だった。
明らかにそれまで、僕の横に引っ付いていた北畠さんががっかりしたのがわかった。僕は桜川さんと溝口さんの間に座りこみ、目の前にあったおしぼりで手を拭きだした。
「……」
黙ってはいるが、桜川さんの緊張が伝わってくる。時々腕や脚が触れる。それだけで、桜川さんがビクッと反応しているのもわかる。
こっちまで、ドキドキしてくる。でも、思い切り平然と構え、わざと表情を見せないようにした。
桜川さんが僕のグラスにウーロン茶をついでくれた。その時も緊張しているのか、手が微妙に震えていた。それに顔、真っ赤だ。まだ、一滴も酒を飲んでいないと言うのに。
桜川さんは、顔にそのまま出るんだな。ここはやはり、僕の方は思い切り冷静にしていないとな。
そう思い、勤めてクールによそおった。だが、そんなのも桜川さんの前では、一気に崩れ去ってしまう。
「主任、光物が好きなんですか?」
「はい。桜川さんは?」
「私もです。美味しいですよね」
そう言う桜川さんは、僕が食べるのを羨ましげに見ている。
「はい。箸に口はつけていないので、大丈夫ですよ」
何も言われてはいないが、桜川さんに寿司を取ってあげた。すると、恥ずかしそうに桜川さんは、
「す、すみません」
と謝った。
「いいえ。そこからだと取れないでしょう?他に何がいいですか?」
「大丈夫です。取れます」
まただ。遠慮なんかしないでもいいのに。
「遠慮しなくていいですよ。あと、何が食べたいですか?」
「あ、あの。じゃあ、甘えびと、サーモンと…。ホタテ…」
「はい」
「ありがとうございます」
「いいえ」
隣で桜川さんが食べるのを、横目で見ていた。すると、美味しそうにお寿司を食べ、口元を緩ませた。
「おいひい…」
微かにそう言った桜川さんの声が聞こえた。まったく、可愛いよなあ。
桜川さんの隣でほっこりとした。そのうち、自分でも知らないうちに、僕と桜川さんはすっかり二人だけの世界になっていた。まるで僕のマンションにいる時のように、僕が桜川さんの世話を焼き、桜川さんは赤くなって、恥ずかしそうにする。それがまた、可愛くてほっこりする。
途中、そうだった。今は課の連中といるんだったと気が付いた。だが、周りはみんなすでに酔いが回っていて、僕たちのことなど気にも留めず、話に花が咲いていた。あの北畠さんですら、課長と盛り上がっている。
だったらいいか…。そう思い直し、僕も桜川さんとの話に没頭した。桜川さんもビールを2杯飲んだところで、すっかりほろ酔い気分になったのか、それまで恥ずかしそうに下を向いて話していたのに、僕の方をじっと見つめながら話をし始めた。
ちょっと目が、とろんとしている。ドライブをしていた時もそうだった。僕を見る瞳が、うっとりとしているのがわかる。
「あ、ごめんなさい」
僕の腕と桜川さんの腕がぶつかり、彼女が謝った。
「いいえ」
途端に桜川さんの顔が、ぱあっと赤く染まった。腕がぶつかっただけだと言うのに。
一瞬目を伏せたが、また桜川さんは僕の顔をうっとりとした目で見つめてきた。そして、僕の話をうんうんと頷きながら、一生懸命に聞く。
周りのうるさい雑音が、遠ざかって行く。桜川さんだけが浮かび上がり、他のみんなは視界の中にすら入ってこない。すっかり、二人だけの世界だ。
やばいな。課の飲み会だと言うのに。僕は相当今、幸せに浸りきっている。その証拠に、この席から永遠離れたくないとすら感じている。
「あ、あの。ちょっと化粧室行ってきます」
桜川さんはそう小声で言うと、僕にぶつからないよう気を付けながら、そっと立ち上がって行ってしまった。
ぽかりと空いた隣の空間。いきなり僕は、まるで迷子になった幼子のように寂しさを感じた。
「主任!飲んでますか?」
そこに、ドスンと北畠さんが勝手に座ってきた。断りもなしに。そこは、桜川さんの座る空間だというのに。
「あれ?何を飲んでいるんですか?」
「ウーロン茶です。僕は酒が飲めないので」
「あ、そうだった!主任、下戸なんですっけ?」
下戸…という言葉は好きじゃない。酒が飲めないのが悪いみたいな言い方だ。飲めないからって何が悪い。どうも、酒が飲めるのは上で、飲めないのが下という日本の社会自体、おかしいと思う。
だいたい、北畠さんも他の奴らも、酒に酔ってすっかりいつもの自分をなくしいるじゃないか。って、おい。勝手に僕の腕に触ってくるな。これ、逆セクハラじゃないのか?
「主任、聞いてください。私、この前…」
それも、聞くと言っていないのに、勝手にべらべらと取引先の愚痴をこぼしだした。
そしてこっちが何も言う前に、話題がコロコロと変わっていく。
「ねえ、どう思います?!」
は?どの話がだ?今、3回くらい話題が変わったよな。
「主任、聞いてます?」
そう言って、北畠さんは僕の腕を思い切り掴んできた。
「北畠さん、ちょっと酔いすぎなんじゃ…」
「ええ?私、酔ってませんよ」
嘘をつけ…。
「主任、淀川さんが桜川さんの隣に行っちゃいましたよ」
僕の後ろから小声で、そっと野田さんがそう教えに来た。
「え?」
「ほら。あれ、まずいですよ。離したほうがいいですよ。どうします?」
本当だ。桜川さんの隣に行って、何やらしつこく話しかけている。桜川さん、思い切り困っている様子だ。
「課長、淀川さん、こっちに呼んできますから、女性にあまり絡むなって注意してください」
僕はそう南部課長に申し出た。課長も淀川さんの方を見て、
「ああ、そうだな」
と、頷いた。と、その時、桜川さんの背中に淀川さんが手を回した。
あいつ!!!あれは立派なセクハラだ。




