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第18話 仕事中 ~佑編~

 デスクに戻り、仕事に集中していると、桜川さんが出力した請求書にハンコをくださいと持ってきた。

「後で見ますので、そこに置いておいてください」

 そう言うと桜川さんは、ほんのりと顔を赤らめ席に戻って行った。


 …まさかと思うが、僕の顔まで赤くなっていないよな。なるべく顔をクールによそおった。気を抜くとにやけそうだった。

 

 仕事がひと段落つき、桜川さんが持ってきた請求書を見ると、とんでもない金額になっていた。これは、一桁違っている。桜川さん、気づかなかったのか?

「桜川さん」

「はいっ!?」


 名前を呼んだだけでも、彼女は相当驚いたようだ。声も高くなり、体ごと椅子から跳ねた。そのせいで、課のみんなが桜川さんを見た。

 ここは、僕の方だけでも、冷静にならないとな。でないと、僕らが付き合っていることもばれてしまうかもしれない。


「ここ、入力ミスしています。合計金額がすごいことになっていますよ」

 桜川さんが僕のデスクの横に立ってから、低い声でそう言った。

「あ!す、すみません。すぐに直します!」

「気を付けてください。このまま、請求書が先方に送られていたら、クレーム来ますから」

「はい。すみませんでした」


 桜川さんは、慌てながら自分の席に戻って行った。

 僕は何気に周りを目だけ動かして見てみた。もう、課のみんなは自分の仕事に戻っていた。

 そして、桜川さんも見てみた。顔を赤くしているかと思ったら、青くなっていた。

 あれ?僕は今、そんなに強く注意をしてしまったか?


 午後は外回りだ。野田さんと一緒に取引先に出向いた。取引先に行く前に昼飯を食べに蕎麦屋に寄ると、

「主任、事務職のみんなにかなり嫌われていますよ」

と、ズバッと野田さんが唐突に話してきた。


 野田さんは、年齢29歳。僕より一期上。すでに結婚もしていて子供もいる。

 一期先輩だからか、たまにズバッと野田さんはきついことを言ってくる。だが、僕のほうが上司だからか、常に敬語だ。


「知っています。慣れっこです」

「もう少し、せめて同じ課の女性には優しくしたらと思いますけど」

「溝口さんにですか?優しくしたら彼女は、仕事を真面目にするようになりますかね?」


 そうこっちもわざときつい口調で言ってみた。すると、

「桜川さんですよ。溝口さんは大丈夫です。なんか、ずぶとそうな神経しているし」

と、これまた、失礼なことを野田さんは平気で言ってきた。溝口さん、同じ課の男性社員にこんなふうに思われていたのか。


「え?桜川さん?」

 僕は、一瞬、溝口さんのことで、大事なことを言われているのにスルーしそうになった。野田さんは桜川さんのことを気にしているのか?


「桜川さん、けっこう繊細ですよ。前にうちの課にいたきつい性格をしていた男性社員に怒られて、泣いていたこともありますし。1年でその人、会社辞めたからいいんですけど、あのままいたら、桜川さん、会社辞めていたか、体壊していたかもなあ」

「え?そうなんですか?」


「溝口さんは、その男性社員に怒られても、軽くかわしていたんです。でも、桜川さんは真面目だから、怒られたことをいつも気にしてて。なんか、僕が見ててもかわいそうでしたね。だって、怒る内容のことじゃないのに、桜川さんのこときつく怒鳴ったりしていたし。もう、あれは八つ当たりに近かったですよ。なんか、奥さんと喧嘩したとか、離婚寸前だったとかで」

「…そんな理由で桜川さんを怒鳴っていたんですか?」


 とんでもない男がいたんだな。

「田子主任が注意しても、課長が注意しても、平気でその男性社員は、桜川さんを怒鳴っていましたね。あれはもう、パワハラと言ってもいいかも。で、しばらく体調を崩して桜川さん、会社を休んじゃって。さすがに部長がそれを気にして、その男性社員を他の部署に異動させようとしたところ、向こうから退職届けだして辞めちゃったんです。どうやら、離婚が成立して、やけになって会社も辞めたらしく…」


「その後、その男性社員は何か、会社に嫌がらせとか、桜川さんに言い寄ったりしなかったんですか?」

「それは大丈夫でしたよ。実家が広島で、帰っちゃいましたから」

「そうですか。そんなことが…」

「田子主任はもともと優しかったし、課長も部長もそんなことがあってから、なるべく桜川さんを見守るようにしているようで。ほら、淀川さん、40過ぎても独身の…」


「淀川さんが何か?」

「飲むとやたらと、桜川さんに絡むんです。多分、気があると思います。で、酒癖悪くって、課長も課のみんなも、飲み会では気を付けるようにしているんです」

「淀川さんが、桜川さんに気がある?!」


 普段、あまり話もしない、仕事もパッとしない、この先、出世もしなさそうな40過ぎても平社員のあの淀川さんがか?いつもは、桜川さんに話しかけることもないじゃいか。


「主任も、桜川さんに淀川さんが手を出さないよう、ちゃんと見張っててくださいよ。なんか、しっかりしているようで、桜川さん、ぼけてるところあるし。最近は仕事も一生懸命しているようだけど、たまに抜けてますからね」

「ああ、今日もミスしていましたね。かなり派手な…」


「それで、かなり沈み込んでましたしねえ」

「え?桜川さんがですか?」

「そうですよ。あとで、ちゃんとフォローしておいたほうがいいですよ。主任、けっこうきつい口調でしたから」

 嘘だろ。


 確かに、わざと声を低くして、今迄通りのつもりで注意した。だが、そんなにきつい口調で言った覚えはない。

 それに、そこまで桜川さんが、繊細だっていうことも知らなかった。

 だが、だとしたら、僕はいろいろと彼女を傷つけていたんだな。簡単にふってみたり、嫉妬でひどいことを言ってみたり…。


 それにしても、淀川さんが彼女に気があるっていうのは知らなかった。今後、気を付けないとならないよな。

 

 外出先から帰ると、デスクに着く前に待ってましたとばかりに、北畠さんが声をかけてきた。

「主任、お疲れ様です。ところで、お寿司は好きですか?」

「はい?」

「お寿司です。好きですか?課のみんなで明日、飲みに行こうかって話になっているんです」

「ああ、寿司屋にですか?寿司、好きですよ」


「決まりだな。野田君、帰ってきてすぐに悪いんだが、あの寿司屋に予約入れてくれないか?」

「はい」

 野田さんは、帰って来たばかりだと言うのに課長にそう言われ、早速電話を入れていた。


 そうか。飲み会か。じゃあ、桜川さんに淀川さんが近寄ったりしないよう、ちゃんと見張ってないとな。


 その日は残業をした。桜川さんは、定時に溝口さんと帰って行った。

 1時間、パソコンと向き合い、ふうっと息を吐きながら、僕は背伸びをした。そして、桜川さんのデスクを眺めた。


 桜川さんと僕の席は、少し離れている。だが、時々仕事中に彼女の話声は聞こえてくる。

 真面目に仕事をしている横顔や、お得意さんと笑顔で電話している顔…。今日も、いろんな表情が見えた。


 それにしても…だ。付き合うってことは、デートとかするってことだよな。

 今度の週末、誘ってみるか。やっぱり、映画かな。彼女も好きだしな。


 早速、週末やっている映画をチェックした。あまり見たい映画はない。だったら、また家に呼ぶか…。

 いつまで、僕は彼女のことを「桜川さん」と呼ぶんだろうか。でも、いきなり「伊織」と呼ぶのも不自然か。


 いや、付き合っているんだから、もう下の名前で呼んでもいいよな。そうしたら「主任」ではなく「佑」と呼ばれたいよな。


 ボケっとしばらく、そんなことを考えた。すると、

「魚住主任」

と、懐かしい声が聞こえた。

「あれ?」


 ドアからまっすぐにこっちに向かってやってくるのは、名古屋支店にいた総合職の女性社員だ。

「何で本社に?」

「出張です。今日、午後に魚住主任にも会いに来たんだけど、外回りだったんですね」

「出張か~」


「残業ですか?本社でも頑張っているんですね」

「ああ。もう終わった。久々に会ったんだし、飯でも食べに行くか?」

「いいですね。どこかお洒落なお店連れて行ってくださいよ」

「塩谷は、焼鳥屋とかのほうが好きなんじゃないのか?」


「そうですけど!せっかく東京出てきたんだから、どっかお洒落なお店でも行きたいなって」

「悪いが、僕は酒飲めないんだ。お洒落な店もまったく知らないぞ」

「じゃあ、よく行くお店にでも」

「そうだな。隣のビルの地下にレストラン街があるから、そこにでも行くか」


「…前と変わらないですね、主任」

「そんな変わったりするものか。名古屋から転勤になってまだ間もないんだし」

「でも、主任がいなくなって、すっかり名古屋支店の営業は活気がなくなりましたよ」

「それはまずいな。塩谷がなんとか盛り返してくれないと」


「無理です」

「なんでだ?」

「だって、私、東京に来ますから」

「え?転勤か?!」


「主任が押してくれてたから、東京に転勤、決まったんです。ただ、どこの課に配属になるかはまだですけど」

「営業だよな?」

「はい。主任は何課ですっけ?」

「営業2課だ」


「じゃあ、2課に配属してもらうよう、部長に言っておこうかな」

 そうか。塩谷が来たら、もっと売り上げも伸びるな。今やっているプロジェクトも、参加してもらってもいいかもしれない。


 塩谷和巳。僕より1歳下。総合職で入社し、2年目から名古屋に転勤して営業をしている。27歳の若さでそれも女性でありながら、彼女が関わってきた取引はすべて黒字だ。そのうえ、どんどん取引先を増やし、将来有望株の営業ウーマンだ。


 名古屋支店に転勤になって、僕の部下になった彼女は、本当に僕と一緒にいろいろと頑張ってくれた。そのおかげもあって、僕は主任になったんだ。僕が東京に勤務が決まった後、名古屋支店の営業部長に思い切り、塩谷のことを押してきた。彼女は素晴らしい才能がある。ぜひ、東京で働かせるべき人間だと。


 僕まで本社に行き、そのうえ、塩谷まで本社に行かせたら、名古屋はどうなっちゃうんだ、と部長は笑っていたが、でも、ちゃんと本社に話を通してくれたんだな。


「良かったな、塩谷。塩谷も本社勤務、前々から希望していたもんな」

「はい。名古屋支店に異動になったあと、ずうっと本社を希望していたから」

 彼女の出身は千葉だったな。1年は実家から通い、そのあと名古屋に転勤になったんだっけな。


 総合職となると、全国どこにでも行かないとならないからなあ。

「女性で、転勤はハードだよな。できたら、ずっと東京勤務になるといいな。実家から通えるようになるんだろ?」

「しばらくは。でも、一人暮らしの方が気が楽だし、すぐに家を出ちゃうかも。あ、主任のマンション、空きないですか?」


「う~~ん。多分ないな。それに、家賃高いぞ」

「そんなところに、主任、住んでいるんだ。すごい」

 イタリアンレストランに入り、ビールを一杯飲んだところで、塩谷は敬語からため口に変わった。いつもそうだ。そして、何杯も飲んで、記憶をなくすほどこいつは酔ってしまう。


 何度か、名古屋ではうちにも泊まったことがある。まあ、他の営業職の男性も一緒にだったが。ベロンベロンに飲んで、日ごろの愚痴をこぼし、騒いで寝てしまう。ある意味面倒くさい女性だ。どこか、姉貴や母親に似ている部分がある。でも、慕ってくれるから憎めないでいた。


「今日はあんまり飲むなよな。うちに泊まらせられないし、家も千葉だろ?送って行くのは無理だぞ」

「え~~。主任の家に泊まらせてよ」

「ダメだ」

「なんで?まさか、女がいるとか?」


「いない」

「だよね。主任が誰かと住むわけないし」

 まあな。塩谷には結婚なんかしない。一生仕事だけして生きると、言い続けてきたし。こいつも、結婚より仕事を取るって言っていたしなあ。


「主任、私、ほんっとに本社に来たかったの」

「ああ、頑張っていた甲斐があったな」

「だってね、主任。主任がいない名古屋なんて、活気も何もなくってつまらなくって、私までやる気なくなっちゃって」


「でも、頑張っていたんだろ?」

「そりゃ、本社に来るために頑張ったよ~~。主任、ほめて!そんで朝まで飲もう」

「いや。明日も仕事なんだし、今日はもう帰ろう」

「明日も帰りにご飯付き合ってよ、主任」


「明日は課のみんなで飲みに行くから無理だ。また、本社に移動してから付き合ってやるから」

「そっか。今の課の人たちとうまくやってるんだ」

「う~~ん。事務職の女子からはまた嫌われているけどな」


「あははは。主任って口うるさい小姑みたいだから!でも、主任の良さをわかっていないだけ。そんな女たちほっておいていいってば。私はじゅ~~ぶんに主任の良さ、わかってるよ?!」

「ああ、ありがとう。ほら、グラスもう離せよ。帰るぞ」


「え~~。もう1杯」

「ダメだ。帰るぞ」

 塩谷の腕を引っ張り、お店を出た。駅までの道も塩谷は、上機嫌で歩いていた。


「わっかるわけないんだってば、事務だけしている女に、主任の大変さとか、頑張りとか、そんなのわかるわけがない」

「そうだな」

「それなのに主任は、家に帰ったらご飯も自分で作っちゃうし、家事も完璧!男の鏡だよね」

「そうか?」


「完璧だから、結婚願望もないでしょ?だって、結婚ってさ、一人だけで完璧ならする必要ないし」

「そういうものか?」

「うん。そう。あれはね、誰かに頼りたいとか、なんかやってもらいたいって男がするものなの。家事をしてほしいとか、料理してほしいとかね」


「ああ、なるほどね。だったら、僕には必要ない」

「そう!だって、主任、家事も完璧にこなせるから。仕事も完璧。そんな男が結婚なんかする必要ないもんね?」

「そうだね」

 確かにそう思っていた。だけど、違うんだよ、塩谷。一人より二人の方がいいって、わかっちゃったから。


 桜川さんは、料理が上手でもない。家事も多分不得手だろう。でも、一緒にいるとあったかい。一人でいるよりずっと心地がいい。一人でいるより、満たされるんだ。

 それはきっと、一人でいたら、何かが足りなかったってことだと思う。それがなんなのかわからない。でも、彼女に会って、足りなかったパズルのピースがようやく埋まった感じなんだ。


 そんなうまく説明できそうもない感情、塩谷に言ってもわからないだろうな。仕事ばっかり頑張っていた塩谷に。

「私、これからも頑張る!女性だって、出世できるし、いつかは部長になって、男どもを顎で使ってやるの」

「怖いな、塩谷」


「主任のことは、顎で使わない。って、きっと私の上司でいると思うし」

「僕が?」

「そう。アホな上司が多い中、主任だけは別。唯一私が認める上司なんだから」

 なんでそんなに僕のことを、高く評価しているのかわからないけど、名古屋に転勤になってすぐの時から、塩谷は僕を慕ってくれていたもんな。


 なんとか駅まで行くと、塩谷を電車に乗せた。腕を引っ張られ、千葉方面に連れて行かれそうになったが、なんとか電車を降りて、僕は自分の最寄駅へと向かった。


 名古屋では、塩谷と他に二人、僕のことを本当によく慕ってくれた部下がいた。3人をうちに呼び、ご飯を作ってやったり、そのまま飲んで泊まっていくこともよくあった。仕事の話で盛り上がり、あれはあれで楽しかった。


 だが、名古屋から東京に来る時に、どこかで僕は決意していた。仕事は仕事、プライベートはプライベート、そう分けようと。それなのに、部下を結局自分のマンションに呼んだりしたわけだけど。

 だが、部下だと思っていた桜川さんに知らぬ間に惚れていて、今は付き合っているんだからな。


 マンションに着き、自分の部屋に入って電気をつけた。不思議なことに、なぜか自分の部屋なのに桜川さんの存在を感じた。

 ドスン。リビングのソファに座る。なぜか真ん中に座らず、左側に。


 もし、一緒に住んだとしたら、右側に彼女は座っている。そして、恥ずかしそうに僕の顔を見るんだろう。


 もしも、本当に桜川さんと住むようになったら、いや、彼女と住まなくても、ここに遊びに来るだけでも、僕は二人きりの時間をちゃんと大切にしたい。なぜか、心からそう思う。だから、他の人は我が家に呼ばない。


 今まで自分の家のようにやってきた東佐野すら、もう家に呼ぶ気もないし、たとえ塩谷だろうと、もう家にあがってもらうこともないだろう。それだけ、僕はこの城を自分と桜川さんとの二人の空間にしたい。


 僕は心からそう思っていた。そして、それが将来結婚することを自分で知らぬ間に決意していることとも、自分ではずっとわからずにいた。本当に僕は、情けないほどに、自分の本当の気持ちに気づくのが遅い男だったわけだ。


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