第17話 初ドライブ ~伊織編~
勇気を出して。ちゃんと主任に私の気持ちを言うんだ!
「ほ、本心は、違います。しゅ、主任のことは今でも好きです」
言ってから、顔から火が出そうになった。わあ、素直に気持ちを面と向かって伝えるのって、なんて恥ずかしいものなんだ。
「そうですか」
主任は下を向いた。あ、あれ?困っているのかな。
「僕も…、桜川さんのことは、特別だって思っています」
え?
「大事に思っています。だから、熱出して休んだ時もすごく心配したし。酒飲んでも心配だし、東佐野に手を出されたりしないかって心配だし」
「心配?」
「…自分でもよくわかりませんが、妹みたいなものだと思っていたんです。それか、大事な部下だと…」
妹?やっぱり、恋愛対象じゃなくて?
主任は私を見た。そしてすぐに視線を他に向けた。それから、なぜかため息を吐いた。
「いえ。今はちゃんと、自覚しています。東佐野のことも嫉妬していただけだし、自分の感情とは向き合ってみましたし、その気持ちをちゃんと自分でも受け入れようと思ったし」
???
「桜川さん」
ドキン。主任がまた私を見た。私も思わず主任の目を見て、「はい」と返事をした。
「いろいろと困らせたり、泣かせたりしてすみませんでした。これからは、泣かせないように気を付けます。僕は女性と付き合った経験も浅いもので、女心とかもまったくわからないアンポンタンですが、それでもいいですか?」
アンポンタン?
「東佐野にそう言われました。僕自身もそう思います。それでも、いいんですか?」
「はい。いえ。全然、アンポンタンなんかじゃないです」
「…そうですか?東佐野が、桜川さんがそう言っていた、お前のことなんか、もう嫌いだって言っていたぞと、昨日嚇かされたんですが」
わあ。東佐野さん、なんだってそんなこと。
「あ、あれは、あれはその…。あの。嫌いなんかじゃないです。嫌いになんかなれませんでした。だから、私、苦しんで」
「苦しめたんですね?僕は」
「いえ、いえ、それはその。勝手に苦しんだだけだから。でも、開き直ってというか、こうなったら、当たって砕けて粉々になるまで、当たってみるのも…とか、いろいろと、あの…」
「……僕にですか?」
「はい。あ、でも、そんなしつこい蛇みたいな女性嫌ですよね?」
ふっと主任の目が優しくなった。その目を見て、嫌がっていないことがすぐにわかった。
ドキン。それどころか、嬉しそうに主任は微笑んでいる。
「嫌です。そんな蛇みたいな女性」
え?あれ?!でも、今、優しい目をして…。あれ?私の勘違い?
「だけど、桜川さんならいいですよ」
え?
「しつこく思われても…。逆にあっさりと引き下がったり、すぐに別の男に目移りされたら困ります」
別の男?あ、まさか、伊丹さんのこと?
「この前のあの人は本当に、本当になんとも思っていなくって。だいいち、あの人と一緒にいながらずっと主任のこと思い出していたし」
「え?」
「主任は、声も顔も体系も服のセンスも、仕事っぷりも、料理も優しさも好きな映画も、とにかく全部が好きなのに、この人は全部が嫌いだなあとか思いつつ一緒にいて、あの人には本当に申し訳ないですけど、改めて主任が好きだって感じていたし」
「……そうですか」
主任が目を伏せた。それから、突然私のことをソファに座らせ、隣に主任も座って、また息をはあっと吐いた。
「すみません。ちょっと脱力していて」
「え?」
「…もう手遅れかもと思いまして。でも、手遅れじゃなくて良かったです」
「手遅れ?」
「桜川さんがすでに、他の男に心を奪われていなくて良かったです」
「……」
それって、えっと。それって、えっと?
「しばらく、桜川さんには嫌な思いを会社でもさせてしまいましたよね?」
「え?い、いえ。それは、主任にも…」
「…はい。正直、まいっていました」
「すみません!」
私は慌てて頭を下げた。
「いえ。いいんです。もとはと言えば、僕がさっさと自分の気持ちに気づけばよかっただけですから」
「……」
気持ち…?
「これからは、仕事、また頑張れますよね?」
「あ、はい。頑張ります」
「それはよかった」
「はあ…」
仕事?
あれ?なんの話していたんだっけ?そうだ。主任の気持ちだよ、気持ち。
「僕も、仕事に支障をきたすことなく、頑張りますよ」
「あ、はい」
何を?仕事だよね。あれ?
「桜川さんには、いろいろとサポートしてもらうかもしれない」
「…仕事の?」
「はい。桜川さん、今朝もコピー、張り切ってしてくれて、あれは嬉しかったです」
「……はい」
「自分では気づいていないかもしれませんが、桜川さんは頼りになります。工場の人やお客さんからも、信頼をされているし、課長も言っていましたよ。桜川さんはなかなか仕事の出来る女性だって」
「私が?そんなことないです。私なんて、全然」
ブルブルと首を横に振ると、主任は私の顔を真剣に見ながら、
「営業をする気はないですか?」
と聞いてきた。
「無理です。もう、今で手一杯です」
「そうですか。じゃあ、今の仕事だけでも、頑張ってください。僕もできるだけ、桜川さんの力を引き出したいと思っていますし」
…仕事?サポート?力を引き出す?
あれれれ?
どんどん、恋愛から話が遠ざかって行く。結局は、仕事を頑張ってくださいという話?私のことを傷つけていたから、主任も仕事に支障をきたしていて、それで、私に謝ってくれたの?すっきりとさせて、仕事に専念したかったの?
「…よかった。なんか、ほっとしました」
主任が心底ほっとしたという顔をしてそう言った。私の気持ちは複雑なまま。
「送ります。明日も仕事ですし、遅くまで引き留めてしまってすみませんでした」
「いいえ」
主任はそう言うと、私を引き連れて部屋を出た。そしてエレベーターでなぜか地下一階まで行くと、
「車で送りますよ」
と、駐車場に向かって行った。
「主任、運転できるんですか?」
「できますよ。こっちに来てからは、駅も近いし、車に乗る機会も減りましたが。名古屋では車でいろいろと移動していました」
「……く、車で送ってもらえるんですか?」
そんなこと、私の人生になかったから、緊張!
「はい。アパートの前までちゃんと送りますよ。助手席に乗ってください」
主任はそう言うと、助手席のドアを開けてくれた。ドキン。なんだか、優しく女性扱いをしてくれて、ドキドキする。
いいのかな。こんなことまでしてもらって。と躊躇しながら車に乗った。ドアも閉めてくれて、運転席に主任は乗ると、
「シートベルトしてくださいね」
と言い、自分もシートベルトを締めた。
「あ、は、はい」
車に乗る機会がないものだから、シートベルトをするのもモタモタしてしまう。
「できましたか?」
「あ、はい。すみません、あまり車に乗らないから、慣れてなくて」
「そうですか。じゃあ、この車には慣れてくださいね。シートを動かすレバーはここ。背もたれを下げるのはここ。窓を開けるのは…」
主任は手を伸ばして教えてくれた。そのたびに主任の顔が近づき、ドキドキした。
「覚えましたか?」
「あ、はい。なんとか」
「それはよかった。これからは、ちょくちょくこの車に乗るんですから、覚えてください」
「はい」
ん?
ちょくちょく?なんで?送ってもらう機会が増える…とか?でも、どうして?
「安心してください。僕の運転は上手だとみんな言います」
私が主任の顔を、不安そうに見ていたからか、主任はそう言ってきた。
「みんな?」
「名古屋では、部下を家まで送ることも多かったので」
ああ、そうか。そういう意味か。
じゃあ、この車に乗った人には、みんなに今みたいな説明をしたのかな。あ、そっか。みんなもっと、車に乗り慣れていて、私が慣れていないから、親切丁寧に教えてくれたのか。主任は優しいから。
主任の運転は、本当に上手だった。ハンドルを握る手も綺麗だ。主任の手って、指も爪も綺麗で、うっとりとしてしまう。それに、腕も…。ほどよい腕の太さっていうのかな。なんだってこうも、私好みなのか。
「あ…」
主任がなぜか、交差点をまっすぐに行って小さな声を漏らした。
「すみません、今、左折しないとならなかった」
「え?」
「ちょっと、遠回りになりますが、いいですか?」
「はいっ。全然いいです」
もう、このまんま、ずうっと主任の車に乗っていたいくらい。
道は混んでいた。行き交う車のライトが綺麗で、私はうっとりとドライブに酔いしれていた。
「ああ、道、混んでいますね。すみません。時間かかるかもしれないです」
「全然、いいです」
うっとりとしながらそう答えると、主任は私をちらっと見た。
「もしや、ドライブ、楽しんでいますか?」
「はい」
「ラジオでもつけましょうか」
「あ、はい」
主任はジャズの流れている番組を選んだ。
「くす」
あれ?主任、笑ってる?
「車酔いはしないほうですか?」
「はい。あ、でも、主任の運転が上手だからかも」
「そうですね。僕の運転で酔った人は今までいませんから」
「…そうなんですね」
うっとり。主任の横顔も素敵だなあ。って、こんな間近で見つめちゃった。やばい、やばい。慌てて窓の外を見た。
「夜の街もいいですよね。都会を運転するのはあまり好きじゃないんですけど」
「あ、そうなんですか?」
「一人だと、空いている道の方がいいですよ。混んでいるとイライラしてしまって。名古屋はよかったですよ。ちょっと郊外に行くと、のどかな風景も広がっていて」
「一人でドライブしていたんですか?」
「そうですね。基本、車で移動していたので」
「……こっちでは車じゃなくって、電車移動ですか?」
「そのほうが便利ですよ。でも、デートだったら車もいいですね。都会の夜景、見れたりしますしね」
デート?一気に目が覚めた。そうか。主任、誰かとデートするのか。
誰と?
彼女と?まさか、部長の娘さん。
「あの、私も一つ聞きたいことが」
「なんですか?」
「部長のお宅にはもう?」
「ああ、行ってきましたよ。課長と一緒に。その帰りに桜川さんと遭遇したんですよ」
ああ、あの日タクシーで課長と降りてきたけど、部長の家の帰りだったんだ。
「その、どうでしたか?」
「静かな住宅地にあって、広くて立派な家でした」
聞きたいのは家じゃなくて。
「それで、その、む、娘さんはいらっしゃったんですか?」
「いましたよ」
「どど、どんな方でしたか?」
「お母さん似でした。部長に似ないで良かったですよね」
「…じゃあ、お綺麗ってこと?」
「あはは。はっきり言いますね。桜川さんも」
そうじゃなくて。
「主任好みの綺麗な女性ですか?」
はっ。なんか、思い切り直球で聞いちゃったかも。
「僕好み?僕の好みを知っているんですか?」
「知りません」
「…好みの女性はないですよ。女性にあまり、興味もなかったので」
「え?」
驚くと主任はちらっと私を見て、
「仕事人間でしたので」
と、言い訳をするようにそう呟いた。
「でも、こんな人がいいなとか、嫌だなとか…そういうのはないんですか?」
「姉や母のような人はダメですね」
「どんなタイプですか?」
「強引で、強くて、男勝りの…」
「部長の娘さんは、そんな感じじゃないですよね?」
「そうですね。もっと大人しそうでしたよ。まあ、あまり話もしなかったので、印象だけですけど」
「………」
「桜川さん?」
つい黙り込んでしまった。
「あ、いえ。すみません。…部長の娘さんとは…、あの」
「はい」
しばらくまた黙り込んだ。スウッと車が停まり、
「着きましたよ」
と主任が言った。いつの間にか、私のアパートに到着していた。
「ありがとうございます」
「何か、聞きたいことがあるんじゃないんですか?」
「いえ。あの…。主任は部長の娘さんと、お付き合いするのかなって、ちょっと」
「は?!」
「………」
今、なんか主任、相当驚いたような…。
「しませんよ。先日部長の娘さんと会った時も、そんな話は一切しませんでしたし」
「そうなんですか?」
うわあ。ほっとした。
「…え?」
主任が不思議そうに私の顔を覗き込んだ。
「い、いえ。なんでもないです。それじゃあ、失礼します。おやすみなさい」
「…おやすみなさい」
助手席のドアを開け、主任の車が走り去るまで見送った。そして、ドキドキしたまま、2階への階段を上った。そうだ。東佐野さんにお礼を言わないと。
隣の部屋のドアをノックした。でも、東佐野さんは出てこなかった。
部屋に入った。メールだけでもしておこうと、東佐野さんにお礼のメールをした。お風呂に入り、寝る支度を済ませて布団に入ろうとすると、東佐野さんからメールが来た。
>今日から舞台が始まったよ。魚住にチケット2枚渡したから、今度見においでね。お幸せに。
そうメールには書かれていた。
東佐野さん、ありがとう。でも、「お幸せに」は気が早いなあ。結婚するわけじゃないし、それどころか、結婚はピンとこないって、やっぱり言われたし。
じゃあ、何が変わったのかな。特別だって言われた。妹みたいに思っていたとも。それから大事だ。心配した。嫉妬した。
嫉妬?
嫉妬…。それって、少しは私のこと好きって言うことだよね?
ちゃんと主任に近づけているんだよね?
明日会社に行って、主任の顔を見て、辛い思いをしないでいいんだよね?しつこいのも、私だったらいいって言っていたもんね?まだ、主任を好きでいていいって、そういうことだよね?
それって、思い切り期待してもいいっていうことなのかなあ。そんなことを思いつつ、眠れない夜を過ごした。




