第16話 素直になれ ~佑編~
いつから桜川さんのことが、気になる存在になったんだろう。
いや…。いつからも何も、初めて会った時からだ。最初は関わりたくないと思っていた。苦手なタイプの女性だと思い込んでいたし。でも、話をしてみて苦手どころか、すごく気が合う人だとわかった。
話すのが楽しいとか、もっと話がしたいとか、一緒にいて違和感がないとか、もっと一緒にいたいとか、そんなことを感じさせる女性なんて今までいなかった。一人の時間が何よりも贅沢な時間で、その時間を割かれることのほうが嫌だった。だから、誰かと一緒にいることよりも、一人になるほうを選んできた。
一人が寂しいと感じたこともない。でも、桜川さんが僕のマンションから帰ってしまった後の、あのぽっかりと心に穴が開いたような感覚…。その感覚が「寂しい」というものなのか。
桜川さんがそばにいると、埋まっている。いや、満たされているといったほうがしっくりくるかな。その充実感を一度でも味わってしまったからなのか、彼女がいないと何かが物足りなく感じる。
この先の人生、桜川さんがいるのといないのとでは、僕の人生はまったく変わってしまうんじゃないかとまで思うほどに。
それって、この先ずっと、桜川さんにそばにいてほしいってことなのか。
ドクン!
ん?なんだ?今、心臓が飛び跳ねた。
ピンポン…。チャイムだ。桜川さんが着いたんだな。
「はい」
「桜川です」
ドクン。まただ。桜川さんの声を聞いて、また心臓が跳ねた。
「どうぞ」
声をわざと低くしてエントランスのドアを開いた。
なんだって僕の心臓は、こんなに早く鳴っているのか。桜川さんに告白するからか。それとも、ただ桜川さんに会えるからなのか。
玄関のチャイムが鳴りドアを開けた。桜川さんの表情は硬かった。
「どうぞ」
「…あ、はい。お邪魔します」
桜川さんは靴を脱ぐ前に、僕のほうをちらっと見ると、
「お邪魔してもいいんですか?」
と小さな声で聞いてきた。
「いいですよ。たいした料理できませんでしたけど」
僕のほうも緊張していた。
ダイニングに来ても桜川さんは、固まっていた。
席に着き、夕飯を食べだすと、ようやく桜川さんの表情は柔らかくなった。
「美味しい」
と呟きながら箸を進めている。
ほっとしている自分がいる。桜川さんは、僕を嫌っているわけではないよな…。東佐野が、もうお前のことなんか嫌いになっているかもな…と冗談を言っていたが、半分僕は真に受けてしまっていた。
僕の言った言葉は、思い返してみても最低だ。
「桜川さん、リビングに来てください」
夕飯を済ませ、僕はそう言って彼女とリビングに移動した。桜川さんはまた、緊張した表情になりながら、ソファに腰かけた。
「すみませんでした」
僕は彼女の顔を見ているのすら辛くなり、思い切り頭を下げて謝った。
「あの、顔あげてください」
桜川さんは慌ててソファから立った。
「東佐野が、昨日やってきたんです」
「え?!」
「桜川さんが泣いていたと言っていました」
「……」
僕は顔を上げた。そして桜川さんの表情を見た。あ、困っている。
「昨日のうちに、謝りに行こうと思いました…が、気持ちの整理がつかなくて」
「い、いいんです。あれは勝手に私が落ち込んで泣いただけです」
「………いえ、傷つけました。自分でもわかっています。とんでもないことを言ってしまったって」
「い、いえ。そんなこと」
「いいえ!大人げないことをしました。自分の愚かさに自分で恥じました」
「え?」
「まさか、自分がそんな感情を抱くなんて思いもしなかったし、初めてのことだし」
「感情?」
「嫉妬です」
「は?!」
情けない。桜川さんも呆れるかもしれない。だが、格好つけてもしょうがない。桜川さんを傷つけてしまったことには変わりないんだから。
「嫉妬です。東佐野にガツンと言われてから、僕は自分の気持ちと正直に向き合いました。あれは、あのもやもやしたのはなんだったのか。なんであんなことを、桜川さんに言ってしまったのか」
「え?」
桜川さんは、本気で驚いている。いや、もうかなり呆れているのかもしれない。目を丸くして僕を見つめている。
「最低ですよね。桜川さんには、恋愛感情を持っていないなんて言っておきながら、他の男といるだけで、嫉妬しているなんて」
「……」
「あれはまったくの嘘です。自分の気持ちと真逆のことを言いました。婚活頑張ってくださいなんて思ってもいないです。頑張られては困ります」
ああ。とうとう本音を言ってしまった。いや、本音を聞いてもらうために来てもらったんだ。今日こそは、どんなに恰好悪くても、僕の正直な気持ちを聞いてもらう。
そうだ。正直な気持ちを素直に…。とはいえ、結婚を前提としてお付き合いをしてください…なんて言えるわけもなく…。まだ僕には、結婚は考えられないものだし。
「だ、だからと言って、結婚を前提にお付き合いというのも…」
僕は、今感じていることを素直に口に出した。だが、素直に言うことに抵抗があるのか、言葉が最後は詰まってしまった。
「そ、それは、その。私、好きですって言っちゃったけど、結婚とかはまだ、いえ。その…」
彼女も動揺しているのか、言葉が最後まで出てこないようだ。
僕は一回息を吸い、気持ちを落ち着けてからまた話を続けた。
「すみません。僕の中では、結婚というのは一生しないものだと思っていたので、いまだにぴんと来ないんです」
「はあ」
「まだ、僕と桜川さんが学生なら…。たとえば、高校生だったら、お付き合いだってもっと気軽にできるんですよね」
「……はい」
「将来のことなど、まだどうなるかもわからないし、結婚なんか考えたりもしないし、ただ、好きだから付き合うってできると思うんですが、この年になると…どうも」
「で、ですよね?」
桜川さんの反応が微妙だ。僕の言うことに同意しながらも、しっくりしていないというような顔つきだ。もしや、僕との付き合いなんかもう考えていないとか…。恋しているって言うのも、錯覚だったとか。そういえば、この前、あこがれていただけだと言っていたが…。
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
「はい」
桜川さんは俯いたまま、顔を上げることもしないでいる。
「桜川さんは、僕にあこがれているだけで、好きじゃない…ようなことを言いましたけど、あれは、本心ですか?それとも、僕のことを気遣ってそう言ったんですか?」
「……」
返答がない。
ドクン。
ドクン。
なんだ?心臓がいきなり大きく鳴りだした。それに、息苦しい。この感覚はなんなんだ?
まるで、死の宣告でも待つかのような、重苦しいこの空気…。
「本心は…」
ドクン。桜川さんが口を開いた。まだ、下を向いているから表情がわからない。でも、そのあと桜川さんは顔を上げた。僕の目をまっすぐに見つめているその顔は、すごく真剣そのもの…。
あ、そうか。本心をきちんと僕に言う決心をしたんだな。
ドクン!!!!
僕は、この場でふられてしまうかもしれないのか?
心臓に悪い。
思えば、僕は誰かにふられた経験をしたことがない。ふったことなら、過去数回ある。大学時代に付き合っていた彼女は、お互いが冷めていて、別れようと言い出したのは彼女だったが、僕も同じタイミングで別れを切り出すつもりだった。だから、別れようと言われてほっとしたくらいだ。
高校時代に付き合った子とも、だんだんとメールのやり取りも億劫になり、束縛されるのが嫌になり、「別れようか」と僕が突然切り出していた。
その言葉で相手の子は、思い切り泣いた。それすら少し、面倒と感じた。
だけど、自分がふられるかもしれないこんな場面になってみて、初めてあの時の彼女の気持ちがわかった。これは相当きつい。
桜川さんは僕の目を見つめたまま、すっと息を吸った。次の瞬間、僕は耳をふさぎたくなった。だが、桜川さんの口からは、
「本心は、違います。主任のことは今でも好きです」
という言葉が飛び出ていた。
今、好きって言ったよな?聞き間違いじゃないよな?
「そうですか」
僕は思い切りほっとした。と同時に顔がにやけそうになり下を向いた。にやけるのを抑え、真顔に保ち、
「僕も…、桜川さんのことは、特別だって思っています」
と告白した。
「大事に思っています。だから、熱出して休んだ時もすごく心配したし。酒飲んでも心配だし、東佐野に手を出されたりしないかって心配だし」
「心配?」
桜川さんの呟くような声を聞いて顔を上げた。彼女は僕のことをじっと見ていた。
「…自分でもよくわかりませんが、妹みたいなものだと思っていたんです。それか、大事な部下だと…」
そう言うと桜川さんは少しだけ首を傾げた。
ドキン。
なんなんだろうな。彼女の表情一つ一つに心臓が反応する。桜川さんのことが、愛しいと鼓動が教えてくれる。
「今はちゃんと、自覚しています。東佐野のことも嫉妬していただけだし、自分の感情とは向き合ってみましたし、その気持ちをちゃんと自分でも受け入れようと思ったし」
そうだ。桜川さんが好きだ。紛れもない事実だ。この鼓動を感じればわかることだ。
「桜川さん」
「はい」
桜川さんの目をしっかりと見た。彼女も僕の顔をまっすぐに見つめ返してきた。
「いろいろと困らせたり、泣かせたりしてすみませんでした。これからは、泣かせないように気を付けます。僕は女性と付き合った経験も浅いもので、女心とかもまったくわからないアンポンタンですが、それでもいいですか?」
「は?」
「東佐野にそう言われました。僕自身もそう思います。それでも、いいんですか?」
「はい。いえ。全然、アンポンタンなんかじゃないです」
「…そうですか?東佐野が、桜川さんがそう言っていた、お前のことなんか、もう嫌いだって言っていたぞと、昨日嚇かされたんですが」
「あ、あれは、あれはその…。あの。嫌いなんかじゃないです。嫌いになんかなれませんでした。だから、私、苦しんで」
ズキ…。
「苦しめたんですね?僕は」
「いえ、いえ、それはその。勝手に苦しんだだけだから。でも、開き直ってというか、こうなったら、当たって砕けて粉々になるまで、当たってみるのも…とか、いろいろと、あの…」
「……僕にですか?」
「はい。あ、でも、そんなしつこい蛇みたいな女性嫌ですよね?」
…そうか。嫌われるどころか、そんなふうに思ってくれたのか。
そうか。よかった。とっとと僕のことを諦めてくれないで…。
「嫌です。そんな蛇みたいな女性。だけど、桜川さんならいいですよ」
桜川さんが、目を丸くして僕を見た。その表情も可愛い。
「逆にあっさりと引き下がったり、すぐに別の男に目移りされたら困ります」
そう僕が言うと、桜川さんは慌てながら、
「この前のあの人は本当に、本当になんとも思っていなくって。だいいち、あの人と一緒にいながらずっと主任のこと思い出していたし」
と言い出した。
「主任は、声も顔も体系も服のセンスも、仕事っぷりも、料理も優しさも好きな映画も、とにかく全部が好きなのに、この人は全部が嫌いだなあとか思いつつ一緒にいて、あの人には本当に申し訳ないですけど、改めて主任が好きだって感じていたし」
「……そうですか」
やばいな。照れる。また顔がにやけそうだ。慌てて下を向いて桜川さんに見えないようにした。そして、彼女をソファに座らせ、その横に僕も座った。
「すみません。ちょっと脱力していて」
「え?」
「…もう手遅れかもと思いまして。でも、手遅れじゃなくて良かったです」
心底ほっとして、僕は素直にそう打ち明けた。
「手遅れ?」
「桜川さんがすでに、他の男に心を奪われていなくて良かったです」
「……」
桜川さんは目を丸くしたまま、頬を赤く染めた。そして、俯いて何やら恥ずかしそうにしている。
「しばらく、桜川さんには嫌な思いを会社でもさせてしまいましたよね?」
「え?い、いえ。それは、主任にも…」
「…はい。正直、まいっていました」
「すみません!」
桜川さんが思い切り頭を下げた。
「いえ。いいんです。もとはと言えば、僕がさっさと自分の気持ちに気づけばよかっただけですから」
「……」
まだ、頭を下げたままでいる…。
「これからは、仕事、また頑張れますよね?」
「あ、はい。頑張ります」
ようやく彼女は顔を上げ、元気な表情を見せた。
「それはよかった」
「はあ…」
「僕も、仕事に支障をきたすことなく、頑張りますよ」
「あ、はい」
「桜川さんには、いろいろとサポートしてもらうかもしれない」
「…仕事の?」
「はい。桜川さん、今朝もコピー、張り切ってしてくれて、あれは嬉しかったです」
「……はい」
「自分では気づいていないかもしれませんが、桜川さんは頼りになります。工場の人やお客さんからも、信頼をされているし、課長も言っていましたよ。桜川さんはなかなか仕事の出来る女性だって」
「私が?そんなことないです。私なんて、全然」
「営業をする気はないですか?」
「無理です。もう、今で手一杯です」
「そうですか。じゃあ、今の仕事だけでも、頑張ってください。僕もできるだけ、桜川さんの力を引き出したいと思っていますし」
桜川さんは、僕の顔を見ながら、頬を赤くさせたままだ。そんな彼女を見て僕は、ああ、桜川さんが遠くに行ってしまわなくて良かったと、また実感した。職場でも、プライベートでも、僕のすぐそばにいてほしい。
「…よかった。なんか、ほっとしました」
そう胸を撫で下ろしながら僕は呟いた。そして、
「送ります。明日も仕事ですし、遅くまで引き留めてしまってすみませんでした」
とソファから立ち上がった。
車のキーを持ち、桜川さんとエレベーターに乗った。地下まで行くと、彼女はきょとんとした顔を見せた。
「車で送りますよ」
「主任、運転できるんですか?」
「できますよ。こっちに来てからは、駅も近いし、車に乗る機会も減りましたが。名古屋では車でいろいろと移動していました」
「……く、車で送ってもらえるんですか?」
おや?桜川さんの声が、一オクターブ高くなったぞ。
「はい。アパートの前までちゃんと送りますよ。助手席に乗ってください」
そう言うと、桜川さんは緊張した顔で助手席に乗った。
なんだか、彼女の一つ一つの仕草や動作、表情が可愛い。
「シートベルトしてくださいね」
「あ、は、はい」
桜川さんは、隣で明らかにおたおたと動揺している。くす。可愛らしい。
「できましたか?」
「あ、はい。すみません、あまり車に乗らないから、慣れてなくて」
「そうですか。じゃあ、この車には慣れてくださいね。シートを動かすレバーはここ。背もたれを下げるのはここ。窓を開けるのは…」
そう僕が説明しても、何やら固まったままうんうんと頷くだけで、わかっているのかわかっていないのか…。
「覚えましたか?」
「あ、はい。なんとか」
「それはよかった。これからは、ちょくちょくこの車に乗るんですから、覚えてください」
「はい」
真っ赤になって彼女は頷いた。ああ、そんな表情も可愛い。
好きだと自覚してしまったからには、もう僕の気持ちをセーブするものはなくなった。彼女が可愛いと思えるのは、妹みたいだからだとか、心配になるのも気になってしまうのも、大事な部下だからだ…なんてそんな言い訳をする必要もない。
彼女が好きだ。
ただそれだけだ。
だから可愛い。だから気になる。だから心配もするし嫉妬もする。そして愛しい。
車を走らせながら、そんなことを僕は思っていた。そして、隣にいる桜川さんの存在に、なぜかあったかさを感じて癒されていた。




