第11話 いろんな思い ~佑編~
桜川さんを駅まで送った。その道のり、野菜作りのことについて、調べたことを桜川さんに聞いてもらい、助言をしてもらった。桜川さんは、始終笑顔で聞いていてくれた。
駅で見送り、帰り道、なんとなく気分がよくなった僕は、夜の街を散歩までした。ああ、桜川さんをさっさと駅まで送って行かず、こんなふうにぶらぶらと散歩しても良かったんだなあ。
そんなことを思いながら、今度はいつ来てもらうかまで考え出した。家庭菜園のことは、もっともっと聞きたい。
家に帰り、リビングのソファに腰かけた。そして、そこからダイニングを眺め、部屋をグルッと見回した。この部屋はこんなに広くて、静かだっただろうか。
「ふう…」
しんと静まったリビングにしばらくいた。だが、落ち着くことができず、さっさと僕はシャワーを浴びに行った。
ベッドに入っても、なかなか眠れなかった。時々浮かぶのは、いろんな桜川さんの表情だ。花いっぱい持って現れた桜川さんや、美味しそうに食べる桜川さん、そして、赤ちゃんのような寝顔。
「まいった。なんだって眠れないんだ」
ゴロゴロと寝返りを打った。暑さで眠れないのかもしれない。エアコンをつけ、またベッドに寝転がった。
たとえば、誰かと暮らしているとしたら…。僕の隣には、いつも誰かが寄り添うんだろうか。
誰もいない暗い家に帰り、自分で電気をつける。そのあとは、僕だけの自由の時間が待っている。それが心地よかった。
誰もいない部屋、自分だけの城。この寝室も、リビングもダイニングも。誰にも気兼ねすることなく、自由に振舞える空間。
それが幸せだと思っていた。自由で開放的で、とっても楽ちんで。だが、何だって今夜は、もの寂しく感じるんだ。そしてまた、考えてしまう。今度は、桜川さんをいつ呼ぼう。来週、来れるだろうか。
「まいった。やっぱり眠れない…」
今度は、どんな料理を作るか、そんなことまで考え出してしまった。
翌日、いつもの日曜より遅くに起きた。予定はない。朝ご飯を食べ、洗濯をする。掃除も簡単にして、午後、ふらりと買い物に出かけた。
日曜日のスーパーは家族連れが多い。子供が店内を走ったりしているから、スムーズに買い物ができず、少し苛立つ。
「ゆうちゃん、危ないから走らないの!」
お母さんらしき人が大きな声で怒っている。その横で、赤ちゃんを抱っこしているお父さんがいる。4人家族か。
カートを押しながら、お母さんの方が食材をカゴに入れる。お父さんの方は、赤ちゃんをあやしているだけだ。きっと料理はお母さんが担当で、あ、ビールだけ、お父さんが選んだな。
そんな光景を眺めながら、僕は空想をしていた。もし、僕が家族とスーパーに来ていたら、カートを押しながらカゴに食材を入れているのは僕の方だ。今夜は美味い物を作ってやるとか言いながら。隣で赤ちゃんを抱っこして、嬉しそうにする奥さん。
「パパ、僕、ハンバーグが食べたい」
「いいよ。じゃあ、ハンバーグにしよう」
「わあい」
「パパの作るハンバーグは最高だもんね」
子供の喜ぶ顔の横で、奥さんがそう言って微笑む。
「サラダはママが作った家庭菜園の野菜で作ろう」
「うん。ママの作った野菜、最高に美味しいもんね」
僕の言う言葉に、そう子供が答える。そう言うとまた、奥さんは微笑む。そう、あの可愛い笑顔で。
ドスン!
「こら、走っているからぶつかったじゃないの!すみません!」
突然僕の足元に誰かがぶつかってきた。走り回っていた男の子だ。お母さんに怒られ、半分泣きそうになりながら、大人しく僕から離れて行った。
今、僕は何を妄想していた?
頭をふるふると横に振り、今夜作るための食材をカゴに入れ始めた。そしてレジに並び、買い物を済ませ、暑い外に出てマンションに向かって歩き出した。
なんだって僕は、桜川さんと結婚をして、二人の間に子供が二人もいる…なんて妄想をしていたんだ。まったく、自分が信じられない。結婚なんて絶対にしない。一生独身でいい。独身貴族でいるんだ。結婚なんて、墓場みたいなもんだ。
そう自分に言い聞かせながら、マンションに帰った。
翌日、いつものように早くに会社に行った。そして、ゆったりとした気分でパソコンを開き、メールを読んでいた。
と、そこに課長がやってきて、ちょうど鳴った電話に出た。
「やあ、おはよう」
明るくそう言った後に課長は、少しだけ眉を潜め、
「熱が39度?大丈夫なのかい?桜川さん」
と、受話器を耳に当て、心配そうにそう言った。
39度の熱?桜川さんが?
「ああ、わかった。無理しないようしっかりと休んで。仕事の方は、特に心配しないでもいいから。うん、僕から魚住君にも言っておくよ。じゃあ、お大事に」
「課長…。桜川さん、お休みですか?」
課長が受話器を置いたと同時に僕は聞いた。
「うん。熱が39度もあるらしい。そんなじゃ病院にも行けないだろうなあ。一人暮らしだっけ?桜川さんは…」
「はい、確か…」
「すぐには出社もできないだろうし。桜川さんが休みの間は、北畠さんと溝口さんになんとか桜川さんの分も、担当してもらうか」
「僕も今日は出かける予定もないですし、桜川さんの担当分の受発注をしますよ」
「ああ、魚住君、頼んだよ。それにしても、桜川さん、大丈夫かねえ」
「……」
ものすっごく心配だ。39度の熱だって?大人になって39度も熱が出たらどうなってしまうんだ。病院にだって一人で行けるわけがないだろう。立ち上がることもできないくらいじゃないのか?よく電話をできたものだな。
帰りに寄るか。いや、会社抜け出して様子を見に行くか。ってわけにはいかないよな。電話をかけてみるか。電話に出られる状態なのか。
ずっと、電話をするかどうかで迷いながら、昼になった。昼休み、電話をどこかでかけてこようと席を立つと、
「あ、伊織?大丈夫?」
と、溝口さんが電話をしているのが聞こえてきた。
僕はまた、自分の椅子に腰かけ、耳を澄ませて聞いてみた。
「39度の熱あるんでしょ?病院は?行ってないの?え?下がった?…38度5分って、やっぱり高いじゃない。帰りに寄ろうか?」
そのあとしばらく、うんうんと頷きながら、溝口さんは桜川さんの話を聞いているようだ。
「わかった。じゃあ、無理しないでね。私と北畠さんで伊織の仕事は分担してやるから。こっちは大丈夫だから、ゆっくり休んで」
そう言うと、溝口さんは電話を切った。
「溝口さん」
気になり、僕は声をかけた。すると、溝口さんは眉を潜め、
「はい?」
と怪訝そうに僕の顔を見た。
「あ、今、桜川さんに電話ですか?」
「会社の電話使っちゃダメでしたか?」
「そうですね。私用の電話はしないでください」
って、そういうことじゃない。つい、注意してしまったじゃないか。僕は桜川さんの様子が聞きたかったんだ。
「じゃあ、今後はちゃんと自分の携帯で電話します。だったらいいんですよね?」
「……。そうしてください。ところで、桜川さんは明日出てこれそうですか?」
「え?まさか。38度5分の熱ですよ?」
ますます溝口さんの顔は怖い顔になった。
「そうですか。じゃあ、いつ頃出てこれそうですか?」
「そんなのわかりません。主任が電話で聞いたらどうですか?でも、あんまり無理したらもっと風邪をこじらせちゃうかもしれないですけどね。だから、あんまりせっつくと…」
「お見舞いに行くんですか?」
「え?」
「溝口さん、同期でしたよね?」
「妹さんが仕事前に寄ってくれたそうです。だから私は行きませんけど」
そう言うと、溝口さんはお財布を持って、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
妹さんが仕事に行く前に…か。じゃあ、そのあとは、ずっと一人っきりか。ご飯はどうするんだ?薬は飲んだのか?
……やっぱり、ものすっごく心配だ。
5時半、桜川さんの分の仕事も片付け、
「あとはよろしく。今日は用事があるからこれで帰ります」
と、カバンを持ってさっさとオフィスを出た。後ろから、「お疲れ様でした」という北畠さんの声がした。
「はい。お先に失礼します」
振り返りそう言って、また僕は急いでエレベーターホールに向かった。
前もって電話をするべきか。でも、寝ているところを起こすのも悪いしな。
桜川さんの住んでいる駅に到着し、駅ビルの地下にあるスーパーで白身の魚や野菜を買った。それからリンゴ、ポカリスエットを買い、駅ビルを出るとちょうどそこに、ドラッグストアーがあったので、冷えピタや、風邪薬も念のため買った。
そして、桜川さんのアパート目指して歩いて行った。
僕も一人暮らしをしていて、一番堪えるのは体調が崩れた時だ。熱を出したりすると、途端に心細くなり弱くなる。そんな時は、誰かが見舞いに来てくれないか…などど、つい思ってしまうくらいだ。名古屋にいる頃は、後輩が薬を持って来てくれたな。
薬だけ持って来て、早くよくなってくださいとそれだけ言うと、とっとと帰って行った。でも、たったそれだけでも、けっこう救われた。
だから、今、桜川さんも心細くなっていやしないだろうか。妹さんは仕事帰りにも寄ってくれるのか。
そんな思いが僕の歩きを速くした。そして、アパートに到着し、階段を駆けのぼり、桜川さんの部屋の前までやってきた。
ノックをしようとドアの前に立つと、ぼそぼそという男の声が、部屋の中から聞こえてきた。
男がいる?誰だ?あ、まさか、隣のやつか?まさか、こんな時まで桜川さんの部屋に入り込んでいるのか?!
コココン!小さい音でノックをしようとしていたが、男が気になり、少し強めにドアをノックした。
「はい?」
男だ。野太い男の声だ!
「誰だ?伊織ちゃん、誰か来ることになってんの?」
伊織ちゃんだと?ちゃん付けなのか?!
「ああ、妹さん?もしかして」
男の声がどんどん近づいてきた。それにしても、この声、どこかで聞き覚えが…。どこでだったっけ?なんだか、あつかましいような、やけに野太い声…。
「はい、美晴ちゃんだっけ?お姉さんのお見舞い?」
そう言いながら、中から男がドアを開けた。そして、僕と目が合ったとたん、
「おわ!!!」
と、その男はびっくりしながら、また部屋の中へと入って行った。
…今のって。まさか…。え?まさかだろう?
「伊織ちゃん、魚住だ。主任が来た!」
「え?!!!しゅ、しゅ、主任が!?」
部屋の奥から、かすれた桜川さんの声が聞こえてきた。
「何?主任、見舞いに来ることになってた?」
「いいえ。そんなわけないです。そんなわけっ!!ゴホッ!ゴホゴホ!」
「伊織ちゃん、大丈夫?」
僕は、そんな声が聞こえる部屋の中へと勝手に上がった。
靴を脱ぎ捨て、スーパーで買ってきたものと、自分のカバンを適当にその辺に置き、ずんずんと部屋の奥に進み、男の腕を掴んでねじりあげた。
「い、いててて。腕をひねるなよ!魚住主任!」
「なんだって、ここに東佐野がいるんだよっ?!」
「魚住主任こそ、何で来たわけ?お見舞い?あ、心配になってとか?あ、なんか買ってきた?」
「おい」
「俺ってば、邪魔ものだよね。じゃあ、伊織ちゃん、邪魔ものは消えるから!」
そう言うと東佐野は、僕に掴まれていた腕を思い切り振りほどき、
「そんじゃ、魚住主任、頑張れよ」
と、わけのわからない言葉を残し、ものすごい速さで玄関まで行ってしまった。
「おい!東佐野!お前、なんでここに」
「隣なんだ」
「え?」
「俺の部屋、伊織ちゃんのお隣なの。そんじゃ!」
バタン!
東佐野は思い切りドアを閉め、自分の部屋に帰って行った。
「とな…り?」
え?東佐野が?じゃあ、桜川さんの部屋に来て、明け方まで飲んでいたって言うやつは、東佐野のことなのか?!
「主任、ど、どうしてここに?」
「桜川さん、あいつなのか?隣の住人って」
「え?はい。あれ?主任、知り合い?」
「ああ。大学の時の悪友」
「え?!そ、そうなんですか?」
そう言うと、一瞬フラッと桜川さんは倒れかけた。和室から体を半分だし、なんとか両手で踏ん張って座っていたようだが、力尽きたように畳の上に倒れそうになり、また手で何とか起き上がった。
「布団にちゃんと入って、桜川さん。薬は飲みましたか?」
「いえ。薬、気持ち悪くなるからいつも飲まないんです」
「そうですか。じゃあ、お粥は?」
「あります。東佐野さんが、レトルトのお粥を持って来てくれて。あとで、あっためて食べます」
「あいつ、お見舞いに来たんですか?」
「いいえ。前に東佐野さんが熱出して寝込んだ時に、水枕を貸してて、返してもらっていなかったから、メールで持って来てくださいと頼んだんです」
「あいつに水枕を?」
「はい。熱出ちゃったから、水枕が必要なんですってメールしたら、水枕とレトルトのお粥を持って来てくれて…」
「それだけですか?」
「はい。それだけで…。ハックシュン!」
「大丈夫ですか?とにかく大人しく横になって」
和室には布団が敷いてあり、水枕が置いてあった。その上に桜川さんは頭を乗せた。
「お粥作りますから、ちゃんと寝ててください」
「いいです。あっためるだけだから、私でもできます」
「レトルトじゃなくて…。お米ありますか?」
「あ、炊飯器に昨日妹が焚いてくれたご飯が残っています」
「じゃあ、それでお粥作ります。あ、妹さん、今夜も来るんですか?」
「え?いいえ」
「朝だけですか?」
「はい。仕事行く前に寄ってくれて、栄養ドリンクと水とバナナを置いて行ってくれたんです」
「それだけ?」
「昨日の夜も来ていて、おかずならたくさん作って冷蔵庫にあるから」
桜川さんの話を聞き、僕はキッチンに行き冷蔵庫を開けた。何皿かラップがかかったものが中に入っていたが、どれも消化には悪そうなものばかりだった。
僕はお粥と、野菜の煮物、煮魚を作り、それらをお盆の上に乗せ、和室に行った。
「桜川さん、お粥できましたよ」
うとうとと寝かかっていたかもしれない。でも、桜川さんはまた目をしっかりと開け、腕に力をそそぎながら、ブルブルとその場に座った。
「壁にもたれかかると楽ですよ」
そう言って、横にあった枕を勝手に桜川さんの腰辺りに沿わせた。桜川さんは、息を吐きながら背中を壁にもたれかけた。
「熱いから気を付けてください。はい」
蓮華にお粥を乗せ、口元まで運んだ。すると、桜川さんは目をまん丸くさせ、
「自分で食べます」
と慌てふためいた。
「そうですか?」
僕は注意深く、布団の横にお盆を乗せた。桜川さんは上半身をよじり、なんとかお盆の上のお粥を食べようとした。だが、ぼろっと蓮華からお粥がこぼれていく。もしや、手に力が入らないんじゃないのか?
「やっぱり、無理しないでください」
蓮華を桜川さんの手から取り、ふうふうとお粥を冷まし、蓮華にお粥を乗せた。そして、
「はい」
と、桜川さんの口元に運んだ。
ただでさえ赤い顔が、さらに赤みを増した。桜川さんは恥ずかしがりながら、口を開けてお粥を食べた。
「美味しいですか?」
「…お、おいひいでふ」
「熱かったですか?」
もぐもぐと食べ、ゴクンと飲み込んだ桜川さんは「大丈夫です」と慌てて答えた。顔が赤かった桜川さんは、ますます顔を赤くしながら、お粥と煮魚を全部食べた。
「ご、ごちそうさまです」
「熱、上がりましたか?顔、真っ赤ですよ」
冷えピタをペタンと桜川さんのおでこに貼った。桜川さんの顔はさらに赤みを帯びたように見えた。
「はい、もう寝ててください」
「あ、後片付けはいいです。明日しますから」
「ダメです。桜川さんはとにかく休んでください」
僕はキッチンに行き洗い物をした。
時々、ゴホッ、ゴホッという咳が聞こえた。声もかすれていたし、辛いんじゃないのかな。
「何か飲みますか?」
また和室に行きそう聞くと、桜川さんは顔を半分布団の中にうずめたまま、
「じゃあ、ポカリ」
と囁いた。
「はい」
ペットボトルとコップを持って、和室に戻り、桜川さんの横に座り込んだ。コップにポカリを入れ、
「起き上がれますか?」
と聞くと、桜川さんは手で踏ん張りながら起き上がって座った。
「はい、どうぞ」
コップを手にしてゴクゴクと飲み、空のコップを僕は受け取った。
「あ、ありがとうございます」
「寝てください」
「はい」
ふうっと息を吐きながら、桜川さんは布団にまた寝転がった。かなり苦しそうだ。
「大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
消えそうな声でそう答えた。大丈夫じゃないだろう、どう見ても。
「寝てください。何かあったら呼んでくださいね、隣の部屋で持ち帰った仕事をしますから」
「い、いえ。もう主任は帰ってください。風邪うつしても悪いし」
「うつりませんよ。いいから、寝てください。僕も適当に時間見て帰りますから」
「はい」
虚ろな目をして桜川さんは僕を見ると、そのまま目を閉じてすぐにすうっと寝息を立てた。起きているのもやっとだったのかもしれないな。
食欲はあるようだし、多分大丈夫だとは思うが…。
隣の部屋に行き、勝手にテーブルの前にある座椅子に座らせてもらった。それからカバンの中からノートパソコンを出して、仕事の資料作りを始めた。
ノートパソコンは、持ち運べるような小さ目のものだ。外出先でも仕事ができるように持ち歩いているが、こんな時には本当に便利だよな。
しばらく僕は、桜川さんの部屋に留まることにした。




