第1話 最悪な出会い ~佑編~
「佑、ようやく東京に戻ってきたのに、実家になんで帰ってこないの?」
「一人暮らしが慣れたから、一人で生活するよ。生活費も自分でなんとかなるし」
「へ~~~。随分とえらくなったものだね。主任だっけ?」
「まあね」
「でも、うちの会社に来たら、あんたすぐにでも、副社長にしてあげたのに」
「そんな話には乗らないよ。母さんのうまい話には、必ず裏があるのを知っているからさ」
「そんなこと言って、あとで泣き着いてきたって助けてあげないわよ」
「助けてなんて絶対に言わないから安心して」
僕はそう言って電話を切った。
大学を卒業後、今の会社に入って1年は実家に住んでいた。だが、大阪に転勤になり、一人暮らしをするようになって、母親と姉から解放され、ものすごい自由を味わった。それからというもの、一人の時間、一人の生活を満喫し、とてもじゃないが、もう母とも姉とも、それどころか、誰とも一緒に暮らしたいなんて思わなくなった。
自分の好きな空間には、自分の好きなものを並べる。夕飯は好きなものを作り、好きなテレビ番組を見て、好きな音楽を聞いて、好きな時間に風呂に入る。
好きな雑誌を、優雅にソファに寝そべって読む。誰かにとやかく言われることのない生活。誰かに気兼ねをしないで済む、時間を束縛されないで済む自由な毎日。
友人の中には、彼女と同棲をしているやつもいる。 僕にはそいつの気が知れない。一人を満喫できる空間を他の誰かと共有するなんて。
特に休日は、一人暮らしをして良かったと、つくづく思う瞬間ばかりだ。
朝、好きな時間に起きる。特に予定は立てていない。
コーヒー豆を挽き、部屋にコーヒーの香りが立ち込める。トーストを焼き、サラダを作り、好きなジャズの音楽をかけて、美味しいコーヒーと朝食を堪能する。
部屋の片隅には、観葉植物。テーブルの上にも、可愛らしい小さいサボテンが置いてあり、それを眺めていると癒される。
朝食が終わり、洗濯や掃除を済ませてから、パソコンの電源を入れた。
「さて…。映画でも観に行くとするかな」
ちょうど観たかった映画がある。ミュージカルだ。
「あ!ど真ん中の席、もう誰かが予約している」
仕方ない。その隣でもいいか。
席のリザーブも済み、顔を洗いに行く。髪も整え、服に着替える。
「さて、あと1時間か。早めに行って、ゆっくり昼飯食べるか」
と、財布をポケットに入れた時、逆側のポケットに入れた携帯が鳴った。
「はい?」
「佑!今日暇?!」
しまった。つい、電話に出たが、母親と同じくらいうるさい、姉貴からだ。
「何?暇じゃないけど」
「どこか行くの?」
「これから映画」
「映画~~?だったら、こっち手伝いに来て。人手足りないのよ。今日仕事休みでしょ?」
「無理だよ。予約入れちゃったから」
「え?まさか、デート?」
「まさか。映画は一人で観ないと、楽しめないだろ」
「…そうじゃなくて。どうせ彼女がいないんでしょ?名古屋でも彼女できなかったんでしょ?いい加減、婚活したら?」
「人のこと言えないよね?姉さん、今年でいくつ?33?人の結婚式をプロデュースしている場合じゃないんじゃないの?」」
「32よ。私はいいの。お母さんに似て、仕事に生きるタイプだから。結婚してもどうせ離婚するわ」
「ああ。そうだろうね。じゃあ、僕も父さんに似て、結婚しても離婚するだろうから、結婚しないよ」
「父さんに似てるなら、結婚向いているわよ。父さんが失敗したのは、あんなお母さんと結婚したからよ。今はほら、浮気相手と再婚して、浮気相手の連れ子とも仲良くやっているじゃない」
「だったら、僕も浮気する可能性あるし、結婚はしないほうがいいってことだよね」
「バカね。初めから、家庭に入りそうな従順な子を選べばうまくいくわよ。今のお父さんの奥さんみたいなね」
「……。話はそれだけ?もう切るよ。時間ないから」
「待って!映画何時に終わる?」
「4時ごろ」
「よし、終わったら来て。絶対よ!」
そう言って、姉は電話を切った。相変わらず、こっちの言い分なんて聞きゃしない。
この調子で、僕は大学時代、母の会社でバイトをさせられ、母と姉にこき使われた。姉は母の会社に就職したが、僕は絶対に母の会社でだけは働きたくない。断固拒否して、拒否しまくった。
「だったら、一流の会社に入ってみろ。そうしたら文句は言わない」
と、母に言われ、今の一流電機メーカーに就職した。そのうえ、ばりばり働いて、異例の若さで、主任になり、同期がまだ地方を転々と転勤している中、早々と本社に戻された。
これは、出世コース間違いなしだと周りから言われている。特に、営業部の部長に認められ、高く評価されているので、頑張れば、本社の営業部で、どんどん出世をすることができるかもしれない。
誰かに認められたいとか、出世して金儲けをしたいとか、そんな考えはまったくない。僕はただ、仕事が楽しいだけだ。
営業の仕事は、頑張れば頑張った分、結果が出る。そして、どんどん出世にも繋がる。それが楽しい。
母の会社には、そんな楽しみがない。ウェディングプランナーの会社を経営しているが、人の幸せを見るのが楽しいんだという母の気が知れない。自分は離婚したというのに。
「あ。こんな時間だ」
もう45分しかない。家を慌てて飛び出し、駅に向かった。電車に乗り、二駅先で降りた。急いで映画館の入っているビルに行き、カフェに入って、なんとかコーヒーとパスタを時間までに食べることができた。
「残り10分。余裕だな」
トイレにも入り、館内の席に向かった。
コーヒーを飲んだし、特に飲み物は買わなかった。それから、食べ物もだ。映画を観ている時は、いつも何も食べないようにしている。よく、ポップコーンをバリバリほおばっている人がいるが、あの音も匂いもすごく気になってしまう。
だから、僕は、他の人のことも考え、極力映画を観る時は、何も食べず、何も飲まない。
だが、そんな配慮もむなしく、隣の席の人が、ポップコーンをすでにばくばくと食べているのが目に入った。
ああ。変な席をリザーブしちまった。
がっかりしながら、席に着いた。隣の席の女性は、ポップコーンだけではなく、昼間っからビールを飲んでいる。
「すみません。本編が始まったら、食べるのも飲むのも、静かにお願いします」
そう言うと、その女性はごめんなさいと謝った。ああ、物わかりだけは良さそうでよかった。
隣の女性も一人のようだ。自分も映画は一人で観るほうが好きだから、別に一人でもいいが、だが、休みの日の昼間から、一人でビールを飲んでいるのはどうかと思う。まるでオヤジだな。
まあ、いいか。気にせず映画を観よう。
映画は思った通り、感動した。映画が終わり、エンディングの音楽が流れていても余韻に浸った。
そして場内が明るくなり、席を立つと、隣の女性も席を立った。手にはいっぱい残っているビールとポップコーンを持って。
あれ?飲まなかったのか。あんなに残してどうするんだ。
なんとなく、その人のことを目で追った。その女性は、ポップコーンもビールもスタッフに渡し、
「たくさん残してごめんなさい」
と謝った。
僕が注意をしたから、飲まなかったのか?意気揚々とビールを飲みながら、ポップコーンを食べていたのに。そんなに、僕は気を使わせたのか?それとも、僕への当てつけか?
その人も僕が乗ったエレベーターに乗ってきた。
「何階ですか?」
「1階です」
ぶっきらぼうにその人は答えた。どうやら、僕のことをお気に召してはいないようだ。
あの注意が気に障ったのか。だが、あれだけバクバクむしゃむしゃと横で食べられていたんじゃ、気になって映画に集中なんかできないだろう。
「食べたり、飲んだりしてくれても、かまわなかったんですが」
半分、嫌味で僕はそう言った。その女性は何も答えず、ふんっと澄ました顔で、ツカツカと歩いて行ってしまった。
もう会うことはないだろう。多分、僕が一番苦手な、タイプ分けしたら母や姉と同じ部類に属するような、オヤジみたいな女性。ああいう女性とは、絶対に気が合うわけがないだろう。
そして母の会社に行き、結局夜遅くまで、こき使われてしまった。もう2度と、手伝ってと泣きついてきても、手伝いに行くのはやめようと心に固く誓った。
月曜日、久々の本社に出勤だ。ほんの少しだけ緊張が走った。
本部長に部長と挨拶に行き、それから、
「魚住君、営業部の連中に紹介するから来たまえ」
と、部長の席まで連れて行かれた。
部長に紹介され、簡単に挨拶をした。それから、僕が配属された営業2課の課長が、課のみんなに僕を紹介してくれた。
あ…。
まさか、あの子。土曜日のビールにポップコーンの子…。まさか、同一人物か?
彼女と目が合った。向こうも僕に気が付いたんだろう。さっと顔色が変わった。だが、僕はわざと無表情を装い、彼女のことを無視した。
いや。部下になるわけだから、これから先、無視し続けるのは無理だ。だが、極力避けたいタイプの女性であることには、間違いない。
女性社員とは、もともとあまり親しくなる方ではないから、彼女とも別に仲良くする必要もないし、仕事で関わること以外は、関わらなければいいだけのこと。そうだ。そう割り切ろう。
だが、それにしても、この課の女性は、いや、この部の女性と言ってもいいかもしれないが、たるんでいる。仕事をなんだと思っているんだ。
平気でミスはする。定時に席には着かない。着いたとしても、雑談ばかり。
会社をなんだと思っているんだ。名古屋支店の女性は、もう少しテキパキと仕事をしていたし、営業をしている女性は、ガンガンに外回りもして、働きまくっていた。
本社も営業をしている女性陣は、男性社員を抜くくらいの勢いで仕事をしている。だが、事務職の女性はなんだ。腰掛けOLだからって、周りも許しているのか。
あの、オヤジのような彼女も、やはり、適当に仕事をしているのがまるわかりだ。名前はなんだっけ。桜川伊織か。
極力避けたい。だが、なまぬるく仕事をしているのは、目に余るものがある。
1日が終わり、湯川部長に呼ばれた。
「魚住君、どうだい?2課の様子は」
「…はい。まだ、もう少し様子を見ないとわかりませんが、事務職の人たちは、今迄もみんなあんな感じでしたか?」
「事務の子たちかい?まあ、みんなあんな感じで和気あいあいとやっているよ」
和気あいあいにもほどがあるだろう。始業の時間になっても、席でコーヒー飲みながら談笑しているし。
「まあ、仕事のことは徐々に覚えていってくれ。あと、田子君の後処理、大変だと思うがよろしく頼むよ。君ならなんなく、田子君が作ってしまった赤字を簡単に黒字にできると思っているからね」
「はい。お任せください」
「やあ、さすがだ。名古屋支店長も君のことは褒めていたんだ。そこで、どうかな?今度、うちの娘と会ってくれないかな」
「は?」
娘?なんで、いきなりそんな話が。
「うちの娘は今、24歳だ。そろそろ結婚を考えてもいい年齢なんだよ。でも、相手がいないようでね」
「はあ」
「今度、娘の写真を見せるよ。気に入ってもらえたらいいんだけどね」
……。まさか、見合いでもしろってことか?
「まだ、見ないとならない書類が山のように残っているので、いいですか?仕事に戻っても」
「ああ、初日から残業かな?大変だね」
そう言いながら湯川部長は立ち上がると、スーツの上着を着て、
「じゃあ、お先にね」
と、にこやかに帰って行った。
湯川部長に気に入られるのは、正直嬉しい。湯川部長のおかげで本社に戻ってこれたわけだし。
だが、娘さんと見合いだの、付き合いだのっていう話は、また別物だ。それが、出世のためだと言われても、結婚すら考えていないのだ。一生独身でもいいと思っている。
なんとか、湯川部長を怒らせないで、断る方法を考えないとなあ。
夜、家に帰ると、大学時代の友人から電話が入った。
「よう、魚住。今度、飲みに行こうや。おごるぞ。東京に戻ってこれたお祝いにさ」
彼は、大学を卒業後、普通にサラリーマンをしていたが、2年で脱サラをして、今はバイトをしながら、役者をしている。
「おごるってほど、収入ないんだろ?」
「まあね。早く売れて、まともな食事をしたいよ」
「じゃあ、僕の家に来るか?」
「何?また手料理食わせてくれんの?」
30分して、ビールとおつまみを持って、そいつは我が家にやってきた。名前は、東佐野。ひげが生えた、むさくるしい男だ。バイトも、パチンコ屋、居酒屋、バーと、転々としていた。最近はどんなバイトをしているのか、しばらく会っていないからわからないが。
「東佐野、僕はビールはいい。もうすぐ夕飯ができるから、テレビでも観て待っていてくれ」
「相変わらずだなあ。ほんと、いい主夫になれると思うぞ。稼ぎのいい女捕まえて、結婚したらどうだ?養ってもらえよ」
「僕は結婚する気もないし、仕事を辞める気もない」
「ははは。相変わらず、冗談が通じないやつだな」
「東佐野は今、なんの仕事をしているんだ?」
「今は、本業の役者一筋だ。舞台の稽古が忙しくて、バイトどころじゃない」
「へえ。どんな舞台なんだ?」
「観に来てくれるのか?」
「暇ならね」
チラシをもらった。ぜひ、誰か誘って、観に来てくれとチケットも買わされそうになったが、観に行く相手もいないしと、やんわりと断った。
「お前、彼女いないの?」
「いないよ。そういう東佐野もいないだろ?」
「俺は今、彼女どころじゃないからな」
「そうだ。東佐野、相談に乗ってくれないか。こういうことは、どうも苦手で」
「女のことか?」
「うん。実は部長に、娘を紹介したいと言われているんだ」
ダイニングの椅子に腰掛け、東佐野は缶ビールを飲みながら、つまみを食べている。僕は、普通に夕飯を食べながら話し始めた。
「なんだよ、それ。どんな綺麗なお嬢様なんだ?」
「綺麗かどうかも、会ってもいないし、写真も見ていないからわからない。でも、断ろうと思っている」
「もったいない。写真見てから考えろよ」
「そういうわけにもいかない。僕は結婚なんかする気もないし、どう言って断るか、考えているところなんだが、いい案が浮かばないんだ」
そう言うと、東佐野は、冷奴を食べ、ビールを飲み、
「そんなの簡単だ。付き合っている女性がいます。それだけで済むだろ?」
と、笑いながら言ってきた。
「嘘をつくのか?」
「嘘が嫌なら、本当に誰かと付き合えば?」
「だから、そういうこともする気がないんだ」
「なんで?お前、女嫌いだっけ?でも、大学時代、彼女いたよな」
「1年だけ付き合って別れたけどな」
「いい女だったよな。もったいない。俺にくれたらよかったのに」
「女は物じゃないぞ。それに、彼女は俺と別れてすぐ別の男と付き合って、結婚したし」
「あれ。ふられたんだ」
「……。正確には、ふったのかな。結婚なんか考えたこともないって言ったら、もう別れるって言われたから。こっちが先にふったようなもんだろ?」
「なるほどね」
「大学4年で、結婚は考えられないだろ?まあ、僕の場合、この先の未来もずうっと考えられないけどね」
「疲れて帰って来た時、お料理作って待っててくれる奥さん、欲しくないか?俺は、冬の寒い時期は、痛切にそう思うぜ」
東佐野は枝豆を食べながら、そんなことを言い出した。
「まったく、思わないな。料理は自分で作るし、一人で誰もいない部屋の電気をつける瞬間が好きだからな」
「わあ。こいつ、本当に変なやつだ。わははは」
ビールを二缶開け、次に冷酒を飲みながら東佐野は陽気に笑った。そして、僕の作った料理をたいらげ、、
「いつでも、主夫になれるぞ。なんなら、結婚してくれ。俺が、いっぱしの役者になって食わせてやる」
と、酔っぱらってそんなことを言い、千鳥足で帰って行った。
男と結婚する趣味はない。まあ、あいつも男より女のほうが好きだとは思うが。
「は~あ。部長になんて言って断るか、気が重いな。今は仕事に専念したいので、とでも言っておくか」
観葉植物に水をあげ、テーブルの上のサボテンに、
「もう寝るか?」
と話しかけ、シャワーを浴びにバスルームに僕は入った。
やれやれ。明日から、仕事が山のようにある。
だが、そんな大変なことが待っていると思うと、少しゾクゾクっと喜びを感じてしまう。その仕事をやり遂げた時の気分は最高だろうな…と、そんなことを思いつつ、シャワーで気持ちよく、体や髪を洗った。