第10話 嫉妬? ~伊織編~
楽しかった。主任とまるでデートしている気分になった。
「主任、歌、上手ですね!私、びっくりです」
「主任がカラオケ行って歌うなんて、思ってもみなかった」
「主任、またぜひ、カラオケ、行きましょうね」
すっかり陽気になった私は、そんな言葉を次々に言い、あっという間に私のアパートについてしまった。
主任は私の家まで送ってくれていた。でも、まだまだ主任と一緒にいたい。
「お茶、飲んでいきませんか?」
「いいえ。遅いですから失礼します」
「え?もう、そんな時間ですか?って、まだ12時前ですよ。送ってもらったんだから、お茶くらい出さないと申し訳ないです」
「もうすぐ12時過ぎますよ?もう、そんな時間って言っていい時間です」
そんなあ。ほんのちょっとでもいいのに。東佐野さんとなんて、明け方近くまで飲むことだってあるし、まだまだ大丈夫なのに。
私はお酒の力もあって、大胆になっていた。もしシラフだったら、部屋に誘うこともできなかっただろう。
「で、でも」
なんとか引き留めようと、言葉を探した。と、その時、廊下を隣によく来る女の人が歩いてきて、私と主任の間を割って、お隣さんの部屋に入って行った。
「……」
主任と私は無言でその人の背中を見て、バタンとドアが閉まると、しばらく黙り込んだ。なんか変な空気が漂ってしまったかも。
「また、あの人だ」
だんまりの空気に耐え切れず、そう思わず言葉にした。
「え?」
「隣によく来る人なんです。彼女かな。たまに泊まっていくみたいで。あ、今日も泊まっていくのかなあ」
「酒癖悪いとかですか?夜遅くまで騒いでいるとか?」
「いいえ。そんなことはないんですけど。まあ、あの、いろいろと」
まさか、ベッドのきしむ音とか聞こえてきちゃうなんて言えず、言葉を濁していると、主任はそれ以上聞いてこなかった。
そうだった。主任を引き留めようとしているところだったっけ。
「隣の人とも、たまに飲むんです。けっこう遅くまで。明け方近くまで飲むこともあるから、こんな時間はまだまだ遅いって言わないんです」
「え?あの女性と?」
「いいえ。隣の住人と」
「男…ですか?」
「はい。面白い人なんです」
「桜川さんの部屋でですか?」
「私の部屋だったこともありますけど、たいていがお隣で。だから、気にしないでも…」
私は必死にそう訴えた。自分のことで精一杯だったから、主任の表情にも気づかずにいた。
「いえ。僕は桜川さんの上司ですし。いえ。そういうことより、桜川さん、女性の一人暮らしですよ?そんなに簡単に男を部屋にあげたり、男の部屋に行かないほうがいいと思いますが」
「え?」
顔を上げ、主任の顔を見てみると、主任は呆れたような顔をして私を見ている。
「あ、隣の人ともしかして、お付き合いをしているとか?」
「まさか。だったら、あの女性が来たりしたら、今頃修羅場になっていますけど」
「桜川さん、まさか、隣の男に遊ばれていたり?」
ええ?何それ。そんなわけないよ。
「しませんよ~~~。本当にただの、お隣さんです」
「とにかく、僕は帰りますが、戸締りとかしっかりとして、気を付けてくださいよ。マンションと違ってアパートじゃ、誰がやってくるかわからないんですから」
そうか。主任、心配してくれているのか。
「主任のマンション、セキュリティばっちりって感じでしたもんね。じゃあ、おやすみなさい。送っていただきありがとうございました」
私は引き留めるのを諦め、そう言って頭を下げた。
部屋の中に入ると、
「鍵、閉めてくださいよ、ちゃんと」
と主任が言ってドアを閉めた。そして、廊下を歩いて行く足音が聞こえた。
ああ、帰っちゃったな。
ふらふらとキッチンに行って水を飲んだ。そして、ふらふらと座椅子に座り込んだ。
主任、心配してくれてた。それがなんだか嬉しかった。
でも、部屋に誘って、顔が呆れてた。なんて女なんだって思ったかな。東佐野さんと飲んでることもばらしちゃったけど、もしかしてそれもドン引きした?
さ~~~っと、血の気が引いていった。あんなこと言わなかったら良かった。
そして、隣からまたベッドのきしむ音がしてきて、慌てて私は布団に潜り込み、着替えもせず、化粧も落とさずそのまま寝てしまった。
翌日、案の定二日酔いだ。頭痛までしないものの、気持ちが悪かった。
昼近くまで寝て、12時頃、なにも食べるものがないので、顔を洗ってすっぴんのまま近くのコンビニに行った。
「おそよう」
コンビニに入ると、後ろから声をかけられた。びっくりして振り返ると、東佐野さんが、スエットとTシャツ姿で、髪もボサボサのまま突っ立っていた。
「…東佐野さん、起きたてですか?」
「そういう伊織ちゃんもでしょ?」
「なんでわかるんですか?」
「それも二日酔い?」
「な、なんでわかるんですか?」
「目、腫れてるし…、すっぴんだし。起きて顔洗ってそのまま出てきたってとこ?」
大当たりだ。
「そういう東佐野さんだって…。あ、彼女は一緒じゃないんですか?」
「もう帰った」
淡々とそう答え、東佐野さんはお茶とおにぎりと、雑誌を一冊手に取りレジに並んだ。私もサンドイッチとコーヒー牛乳を手にして、その後ろに並んだ。
「ねえ、伊織ちゃん」
買い終えると、入り口付近で待っていた東佐野さんが、ニヤついた顔で話しかけてきた。こういう顔の時は、ろくなことを聞いてこない。
「なんですか?」
「昨日、男が部屋に来ていたんだって?」
「送ってくれただけです」
さては、彼女に聞いたな。
「ふうん。もしや、例の主任?」
「え?なんで、それ」
「あ、やっぱりそうなんだ」
カマかけたな。
「へえ、一緒に飲んでいたとか?まさか、デート?」
「違います。昨日は部で歓迎会があって、その帰りです」
「その帰りにわざわざ、伊織ちゃんの部屋まで送ってくれたわけ?それって、その主任、なんか魂胆でもあるんじゃないの?」
「ないです。東佐野さんと違って、主任はすんごい紳士な方で、きちんとされているんです」
「きちんとって何?きちんとって」
東佐野さん、さらに面白がった?
「だから、お茶でもどうぞって誘ったら、もう遅いから失礼しますって帰って行ったし」
「何それ。じゃ、なんのためにわざわざ送ってきたんだ?」
「そりゃ、お酒も飲んでいたし、私一人で遅くに帰すのは心配になったんだと思いますけど」
「ありゃりゃ、大事にされてるの?もしや、進展あり!?」
「……。いいえ。相変わらずの、上司と部下のまんまです」
そう言っても東佐野さんは、にんまりと笑ったままだ。
「ね、そこの公園に行って昼食べようよ。ベンチにでも腰かけてさ」
アパートの近くにある公園に行った。そこの公園は遊具が少ない。それに、うっそうと木々も生えているせいか、その公園で遊んでいる子供は少なかった。夏場の昼間には、木々の影になっているベンチは涼しくて、たまに昼間からビールを飲んじゃうおじさんとか、サラリーマンが昼休みなのか昼寝をしていることがあった。
その日は、新聞片手に牛乳を飲んでいるおじさんが座っていた。でも、その隣のベンチは空いていたので、そこに東佐野さんと座った。
隣のオジサンが見ているのは、競馬の新聞かもしれない。耳にイヤホンをして、赤ペンで何やら書き込んでいる。
「で?どこまで進展したの?」
突如、私がサンドイッチをぱくついていると、東佐野さんが聞いてきた。
「は?」
「送ってくれるってことは、脈ありなんじゃないの?」
「まさか。心配してくれただけです」
「え~~~。だって、駅違うんでしょ?」
「隣の駅なんです。だから、近いです」
「へえ、そう」
「…ただ」
「え?」
「歓迎会の後、私も主任も2次会には行かず、二人でカラオケしたんです」
「え?!その主任、カラオケなんか行ったの?意外!」
「え、そうですか?」
「あ、話を聞いていると、そういうことしなさそうなイメージが」
「ですよね」
「え?それも、伊織ちゃんと二人きりで?それってやっぱ、期待していいでしょ?」
「…そ、そうなんですか?」
「あっちから誘ってきたわけ?」
「いいえ。私が一人カラオケ行くって言ったら、一緒に来てくれて」
「…」
「もしかして、不憫に思っただけかも」
「いやいや。そう思ったとしても、ついてこないって。やっぱ、気があるってことじゃないの?」
そうなの?なんだか、だんだんとそんな気がしてきた。
「じゃあ、フラワーアレンジ教えてくれって言うのも」
「何それ」
「実は、一回主任の家にお邪魔して、フラワーアレンジと家庭菜園の伝授をしてきたんです」
「伝授?」
「教えてほしいって言われたので」
「え?まさか、一人でそいつの家に行ったわけ?」
「はい」
「何それ!!それはもう、確実に付き合いが始まったってことじゃないの?」
ええ~~~!?
「ど、どうしてそうなるんですか」
「だってさ、女の子一人部屋に呼んじゃうんだよ?男一人暮らしの部屋にだよ?」
「東佐野さんの部屋だって、私、行きますけど」
「それはただ単に隣だから」
そう言うと、お茶を一回ゴクンと飲んで、東佐野さんはまた、興奮した顔で言ってきた。
「それもさ、部下をだよ?部下と上司の関係でありながら、家に呼んじゃうんだよ?それも、あいつが」
「あいつ?」
「あ!いや。そいつ、その主任が…。そういうことしそうなタイプじゃないと思うんだよなあ。伊織ちゃんの話を聞いていると、仕事人間のクソ真面目なやつなんだろ?」
「…そ、そうですか?」
ドキドキ。そうなの?やばい。そうだったとしたら、どうしよう。
いや、どうしようもこうしようもない。ただただ、嬉しいかも。
東佐野さんとお昼を食べ終わり、暑いからと早々にアパートに帰った。そして、各自の部屋に戻り、私は洗濯機だけ回して出て行ったので、洗い終えた洗濯物をベランダに干しだした。
「付き合いが始まったってことじゃないの?」
洗濯物を干しながら、東佐野さんの言葉を思い返し顔を赤らめた。
まさかね。だって、そんなこと一回も言われてないし。
そうだよ。そんなこと期待して、あとでがっかりしたくないし。
でも、やっぱり、なんにも思っていなかったら、部屋に呼んだり、カラオケ行ったり、送ってくれたりしないかな。
いやいや、そんな自惚れちゃダメだって。私なんて、どっこも魅力ないんだし。
自問自答を繰り返し、手にしていたTシャツをよれよれに捻じ曲げていることに気が付き、慌ててハンガーにつるして、部屋に入った。
部屋に戻ると携帯にメールが来ていた。2件のメール。一個目は真広だ。
>今度、合コンしない?岸和田君が学生の時の友達集めてくれるって!
うわ。一気にげんなりした。絶対に行きたくない。岸和田君もだけど、きっとその友人たちも似たり寄ったりのチャラい奴に違いない。
もう1件は妹の美晴だ。
>お姉ちゃん、来週の週末空けといて。相談があるの。
来た。きっと、今の彼よりもっと素敵な人が現れちゃった、どうしよう…とか、そんな類のことだ。前にもあったもんなあ。
あ~あ。私はそれどころじゃないの。私は主任のことで精一杯なの。
主任に、好きだってことをアピールしたらいいのか、どうしたらいいのか、こっちのことを相談したい。でも、美晴に相談したら、ご飯作って女子力アピールして、迫れって言うに決まってる。
もし、真広に相談したら、「あの主任のどこがいいの?やめときな」と言うに決まっているだろうしなあ。
どうしよう。ああ、悶々としてきちゃったよ。
悶々としながら、1週間が過ぎた。その間も、主任と話をする時、変に意識してしまいドキドキした。そして、仕事の成果をあげると主任が褒めてくれるので嬉しくて、さらに頑張るようになった。
でも、それと同時に、もしかして部下としてしか意識されていないのかなあ…なんて思ったりもした。
その週の金曜、また会議室を借りてフラワーアレンジメント教室を開くことにした。私は花屋に注文した花を取りに行き、会議室に向かった。
「伊織ちゃん、今日もよろしくね」
廊下で同期の子に会い、一緒に会議室に入った。もう既に他の人は全員来ていて、椅子に腰かけ待っていた。
そして、また和気あいあいとアレンジを始めて行った。みんな、最初は真剣に花を挿しているが、だんだんと余裕が出てくると雑談に花が咲き始め、
「そういえばさっき、会議室に入ろうとしたら中に人がいて、立ち聞きするつもりはなかったんだけど、聞いちゃったんだ」
と、隣の課の先輩が話し出した。
「なになに?誰が中にいたの?」
みんな興味津々。
「部長と魚住主任だよ」
ドキ!主任?
「どんな話?」
「主任ってば、部長の家にお呼ばれしてた」
「へえ。随分と気に入られているんだね」
「それも、部長の娘さんとお付き合いするようなこと言ってたよ」
「何それ、どういうこと?」
「主任さあ、将来出世したいから、部長に取り入ったんじゃないの?で、部長の娘さんとお付き合いするんじゃないのかなあ」
え…?
「いやだ~~。何それ。最低」
真広がそう言うと、他のみんなも口々に、
「出世のために結婚?やだね~~」
と主任の悪口を言い出した。
部長の娘さんと付き合う?まさか、結婚を前提として?
ドスン。私の心は鉛が落ちてきたように沈んでしまった。
なんだ。私なんて、眼中になかったんじゃない。もう、主任は部長の娘さんと付き合うことを決めていたんだ。
ああ、やばいかも。果てしなく落ち込んでいく。
フラワーアレンジが終了して、各自の部屋に戻った。真広は嬉しそうに、
「今日これから、岸和田君とご飯食べるの」
と浮き足立ちながら帰って行った。
私は暗くなりながら主任に挨拶をして、ロッカーに行った。そして暗くなりながら、廊下に出ると、なぜか主任がいた。
なんでいるのかな。さっき、席で仕事していたと思うんだけどな。ああ、あんまり話したくなかったのに。もう、今日は思い切り泣けるようなDVDを借りて帰りたい気分なのに。
「あ、僕もちょうど終わったんですよ」
そう言いながら、主任はエレベーターホールに向かって歩き出した。そうだったのか。私は黙り込んだままエレベーターに乗った。主任も黙っていた。
「桜川さんはまっすぐに帰るんですか?」
エレベーターが一階に着くと主任が聞いてきた。
「はい」
「じゃあ、僕も…。あ、そうだった。DVDを借りようかと思っていたんです。良かったら一緒に見に行きませんか?」
「あ、ちょうどよかった。私も借りていきます」
つい口からそんな言葉が出て、しまったと思った。でももう遅い。主任のことで落ち込んでいるのに、その当事者とDVDを借りに行くなんて。
アホだな、私って…と思いつつ、レンタルショップに着くと、どのDVDを借りようかとかなり真剣に探し出してしまった。
「元気出ましたか?」
「え?」
元気って?
「あ、さっき、ちょっと元気がないように見えたんですけど」
「あ、ああ…」
なんだ。主任にばれていたのか。
「なんでもないです。ちょっとアレンジメントの時、頑張りすぎて」
そんなことを言って誤魔化した。
「ああ、そうなんですね」
「何を借りようかな~~」
主任と顔を合わせないようにして店内をうろついた。
「僕は今日、SFでも見ようかと思っているんです」
そんな私の後ろから主任はついてきて、そう言いだした。
「SF?」
あ、しまった。後ろを振り返って主任の顔を見ちゃった。
「桜川さんの気分は?」
「気分?」
「その時の気分で観たい映画って変わってきませんか?」
「…主任はSFの気分ですか?」
「なんとなく。ちょっと不思議な感じの、異世界を覗きたいっていう気分です」
「はあ…。なるほど」
そんな気分なのか。じゃあ、私の気分は…。
「私は、悲恋ものが見たいです。あんまりハッピーな感じは観たくないかも」
「え?」
「悲しい映画をわざと見たいっていう時ないですか?」
「やっぱり、何かあったんですか?」
「……いえ。ああ、はい」
「落ち込むことでもあったんですね」
「はあ…、まあ」
「…悲恋ってことは、恋愛関係の落ち込むことですか」
「え?い、いいえ。そんなことは…。ただ、ちょっと、ただ」
「はい」
「…きっと、嫉妬」
「え?」
あ、私ったら、本人に向かって何を言ってるんだ。
「いえ。違うかな。そうじゃなくって、き、気になるって言うか」
「他の女性と、気になる男性がデート…とかですか?」
「ええ?!」
うわわ。
「デートってわけじゃ。ただ、えっと、その」
やばい。どんどん墓穴掘って行ってる気がする。これ以上つっこまれたら、主任のことで落ち込んでいるってばれちゃうかも。
「気にしないでください。本当に、まったく気にしないでくださいね」
慌ててそう言ってみた。でも、主任はまだ眉を潜め、気にしているようだった。