第85話 不倫? ~伊織編~
5時半になり、まだ請求書作成が終わらず、私も真広もパソコンに向かっていた。鶴原さんは、
「私も手伝います」
と真広に言い、中山さんも一回引き出しにボールペンをしまったのに、
「あ、じゃあ、私も」
と、慌てたようにそのボールペンを出してデスクに置いた。
「いいよ。そんなにないし」
「でも…。あ、納品書とか送りましょうか」
「うん。じゃあ、頼もうかな」
邪険に断るのも気が引けてお願いした。
20分もすると作業が終わり、私もインプットを終わらせた。
「お疲れ様でした」
中山さんにそう告げると、
「桜川さんも終わりですか?」
と、遠慮がちに中山さんは聞いてきた。
「うん、終わったよ。帰りましょう」
「はい」
「あ、じゃあ、鶴原さんもいいよ。私はあと10分くらいしていくから」
真広はまだインプットが残っているようだ。
「じゃあ、私も残ります」
「いいよ。中山さんと一緒に帰っても。私は岸和田も残業しているし、どうせ、待ってないとならないからさ」
「え?一緒に帰るんですか?」
二人が同時にそう聞いた。
「うん。一緒に住んでるから」
「ええ?」
二人が同時に驚いている。
「え、そんなにびっくりしないでも」
真広はそう答えたが、私もびっくりだ。そういうことをさらっと言っちゃう真広ってすごいわ。
「伊織は?帰れるの?」
真広はそう言いつつ、ちらっと佑さんを見た。佑さんはまだ、パソコンを睨んでいる。
「う~~~ん。まだかも」
「え?まだ仕事あるんですか?」
「そうじゃなくって。あ、中山さんはいいよ、先に帰って」
「でも」
「私も多分、そろそろ帰れると思うし」
ああ、真広みたいに、主任を待ってるのとは言い辛い。いや、ここで言えばいいんじゃない?ばらしてもいいじゃん!
「桜川さん」
ドキ。
「はい」
佑さんに呼ばれた。なんだろう。
「最後に悪いけど、FAX頼んでもいいかな」
「あ、はい」
私が席を立つと、
「私が行きましょうか?」
と、中山さんが佑さんに言った。
「いや、中山さんは仕事終わったんなら帰っていいですよ?」
「でも、桜川さん、まだ仕事あるみたいだし」
え?終わってるよ。
「あ、そうなんですか」
「いいえっ。大丈夫です、いけます」
そう言って、佑さんから書類をさっさと受け取りコピー室に行った。
FAXもコピー室にあり、私は頼まれたものを取引先に送ろうとした。
「伊織」
ガチャリとドアが開き、佑さんが入ってきた。
「はい」
「忘れてた。FAXは二人で送らないとならないんだったね」
「あ、はい。すみません。私も慌ててきちゃった。でも、まだ送ってないです」
FAXは誤送しないよう、誰かが番号確認をしないとならない。だから、必ず二人で行わないとならない。ってことをたまにしか送らないから忘れていた。
「じゃあ、送ります」
「うん」
番号を佑さんに確認してもらいながら、FAXを送った。
「よし。ちゃんと送れたから、もう帰れる」
佑さんはそう言うと、私の腰を抱いた。わわ。社内でこういうことをされられると、なんだか照れる。
それに、おでこにチュッとキスまでしてきた。
「なんにする?夕飯」
「なんでもいい」
それより、ドキドキしちゃうから困った。
トントン。
「すみません、主任」
いきなりノックの音とともにドアが開いた。
「!!」
私も佑さんも驚いてドアのほうを向いたが、離れる前にドアが開いてしまった。
「あ!」
開けたのは中山さんで、私たちを見て動きが止まっている。
私は慌てて佑さんから離れた。佑さんは特に慌てた様子も無く、
「なんですか?」
と冷静に聞き返した。
「あ、あ、あの。電話が…」
「電話?」
「△△物産さんから今、電話が…」
「ああ、FAXがまだ届かないとか言ってましたか?」
「…は、はい。急いで送るよう言ってあったのにって」
「わかりました。電話入れます」
中山さんは顔色が青い。
佑さんは、颯爽と先に2課に戻った。私は中山さんにどんな顔をしていいかわからず、顔をそむけながら席に戻った。
佑さんはすぐに先方に電話をして、FAXが送られていることを確認した。
「中山さん、わざわざ呼びに来て貰ってすみません。もう大丈夫ですから帰っていいですよ」
「……」
「中山さん?」
隣で中山さんは黙り込んでいる。
「お先に失礼します」
やっとそう口を開き、中山さんが席を立った。先に鶴原さんはロッカールームに行っているようだ。
中山さんは、早歩きでロッカールームに行った。それを見ながら、佑さんが、
「しまったなあ」
と呟いた。
「主任、どうかしたんですか?」
「いや、別に」
塩谷さんにそう答え、佑さんはデスク周りを片付けた。
「伊織、帰るよ」
「はい」
私も片付け、席を立った。
「お疲れ~~」
真広が明るくそう言い、私は真広に手を振った。
「エレベーターホールで待ってるよ」
「うん。すぐに行く」
佑さんの言葉にそう答え、ロッカールームに行った。
先に中山さんはロッカールームに行っているから会っちゃうよね。どうしよう。
でも、ロッカールームに行くと私と行き違いで、慌てたように中山さんはロッカールームを出て行ってしまった。
「今、中山さんが来たんだけど、僕の顔を見て方向転換してトイレに駆けていったんだよね」
エレベーターホールに行くと佑さんがそう言った。
「それって、さっき見られたから」
「やっぱり、社内で抱き合ってるのはまずかったかなあ」
「そうだよ。佑さん、そういうのはやっぱり社内でしないようにしないと」
「家まで待てなかったんだよね~」
そんなことしれっと言わないでよ~~。それも、かなり接近して言ってきた。
「もう、誰に見られるかわからないから、そんなに接近するのもダメだよ」
「なんで?仲良く帰るのくらい、誰も責めたりしないと思うけど?」
「でも」
そこにエレベーターが来た。中はカラ。だからなのか、佑さんは私の腰を抱きながらエレベーターに乗った。
そして、閉めるボタンを押そうとしたとき、私は見てしまった。中山さんが私たちを青ざめながら見ていたのを。
「今、廊下に中山さんがいた」
「あ、気づかずに閉めちゃったな」、
「ううん。多分乗る気はないと思うけど、私と佑さんが引っ付いているのを見て、顔を青くしてた」
「…なんで?」
「なんでだろう。佑さんが好きで、ショックを受けたとか」
「ははは。面白い冗談だね、伊織」
冗談じゃないよ。けっこう本気でそう思ったよ。
「だいたい、僕らが結婚しているのを知っているんだろうし、今さらショック受けないでしょ」
「ううん。中山さんも鶴原さんも私たちが結婚していること知らないよ」
「まじで?」
「うん」
「え…。なんで?誰かから聞いているだろう」
「私が結婚していることを知って驚いていたから、まったく知らないと思う」
「…へえ、そうなんだ」
へえって、他人事みたいに言ってる。
エレベーターを降りると、もう佑さんは中山さんのことを気にする様子も無く、
「今日は和風のパスタにしようか」
と夕飯のことを考え出した。
「和風の?」
おいしそう。
「うん。さっきから具材考えていたんだけど、湯葉とか使ってみようかなって」
っていうことは、さっきから中山さんのことなんて考えていなかったってことかな?
佑さんは、中山さんのことをまったく気にする様子も無く、数日が過ぎた。中山さんは、佑さんに対してまた壁を作った気がする。そのうえ私にも、仕事以外のことで何か話しかけることも無くなった。
「最近、仕事も落ち着いているし、今日あたりみんなで飲みに行こうか」
突然課長が提案した。南部課長は、課の飲み会を突然提案してくることが多い。
「そうですね、新人二人の歓迎会もまだですし」
あまり飲み会の話には乗らない佑さんがそう言った。
「じゃあ、野田君、またお店の手配を頼むよ」
「はい」
野田さんは幹事になることが多い。お店も良く知っているし、飲み会の時にはいつも課長は野田さんに任せている。
ほとんど強制的に全員参加。そして、ほぼみんな残業もせず、6時前には仕事を切り上げた。
「じゃ、行こうか」
課長の一言で、みんな2課を後にしてお店に向かった。
今日はしゃぶしゃぶのお店。2階が座敷になっていて余裕で課のみんなが全員は入れる。
「じゃ、課長はここの席で、主任お二人はそのお隣でお願いします」
野田さんは席もしっかりと決めてくれていた。
佑さんが南部課長の隣に座ると、
「やっぱ、新人二人には課長と主任の前の席に座ってもらおうかな」
と野田さんは新人二人を呼んだ。
うっわ。中山さんが佑さんの前の席になっちゃったよ。
「桜川さんは、ここの席ね」
野田さんは私を呼び、佑さんの隣にしてくれた。ありがたい。
そのほかの席は適当にみんなが座り、野田さんの音頭で乾杯をした。そして、みんなで食べたり雑談をしたりしていると、
「さて、そろそろ砕けてきたところで、お二人に挨拶をしてもらおうかな」
と、野田さんが新人二人に声をかけた。
「挨拶ですか?」
中山さんが困った顔をしたが、
「はい」
と鶴原さんはすくっと立ち上がった。
「2課に配属された鶴原です。まだまだ慣れないことばかりですが、よろしくお願いします」
なんとも真面目な挨拶だ。
「鶴原さんはお酒飲めるの?」
課長がそう聞くと、
「いいえ、飲めないんです」
と座ってから鶴原さんは答えた。
酔って羽目をはずすということもないんだなあ。今も姿勢をただし、きちんと座っている。
「じゃ、中山さんの番ね」
そう野田さんに言われ、
「中山です。よろしくお願いします」
と、中山さんは立ち上がってそう挨拶をしたが、立ち上がるときにも、座るときにも、すでに酔っているのかふらついた。
「中山さんは、さっきから結構お酒進んでいるよね。強いの?」
「い、いいえ。強いわけではないんですが」
課長の言葉にそう返すと、
「強いでしょ。何杯目?それ、ハイボールだよね?」
と小林君が横から話しかけた。
「えっと、3杯目?」
確かに、飲むペースが速いなって思っていたけど。
私は飲んでまた眠くなっちゃうと佑さんに迷惑をかけるので、ビールを1杯だけにとどめつつ、食べることを楽しんでいた。そして、隣にいる佑さんも食事を味わっているので、ほとんどほかの人と会話もせず、私と二人の世界を作っていた。
鶴原さんは隣に座った男性社員からの話を真面目に受け答え、中山さんは隣の小林君に何やらからかわれている。
そして、そんな中山さんの視線を時々感じた。でも、目が合うとさっとそらされた。
「コップ空いてるよ。ビール飲まないの?」
佑さんがそう優しく聞いてきた。
「え?あ、うん。1杯だけにしておく」
ぼそぼそと二人で小声で話していても、周りはまったく気にも留めない。
結婚したての頃、飲み会で二人で話しているとよくひやかされたが、さすがにもうそれはなくなった。二人の世界を作っていても、勝手にやってくれという感じで放置されている。それも、ありがたい。
だが、今日は放置をしてくれない人が二人いた。私たちの前に座った新人二人だ。
まず、最初に話をしてきたのは、鶴原さんだ。
「魚住主任はお酒飲まれないんですか?」
ノンアルコールビールすら飲まず、さっきからウーロン茶を飲んでいる佑さんにそう聞いた。
「はい。飲めないんですよ。飲むと具合が悪くなってしまって」
「同じです。私もなんです」
同じとわかり、親近感が沸いたのか、鶴原さんは目を輝かせた。さらに、
「じゃあ、接待とかの時にはどうされているんですか?」
と聞いてきた。
「ノンアルコールのお酒を頼んで、その場になじむようにしていますよ」
仕事中のようなクールな顔つきではなく、佑さんの表情は柔らかだ。だからなのか、鶴原さんも、いつも以上に話をしてきて、私と佑さんの二人の世界は壊れてしまった。
「桜川さん、何を飲む?ビール?日本酒もあるよ」
突然、小林君がそう聞いてきた。
「え?私はもう…」
断ろうとしたが、
「飲んだら?酔ったとしても僕がいるから大丈夫だし」
と隣で優しくそう佑さんが言ってくれた。
「う、でも」
また酔って寝ちゃって、着替えもしてもらって、ベッドにも連れて行ってもらってっていうのは申し訳ないような。
「いいよ?なかなか飲む機会もないんだし」
佑さん、優しい。
「じゃあ、ビール」
そう言うと、小林君が店員を呼んだ。
「私も、ハイボールをもう1杯お願いします」
「え?中山さんはやめたほうが」
佑さんがそう言いかけたが、
「わかった」
と小林君が頼んでしまった。
「大丈夫ですよ。中山さん、家が同じ方面だし、僕が送っていきますから。ね?」
小林君の言葉に、中山さんは頷いた。
ああ、そっか。小林君、中山さん狙いか。というのは、なんとなく佑さんもわかったらしい。
「そう。じゃあ、小林さんはあまり飲んじゃダメだね。ちゃんと送っていかないとならないんだから」
佑さんはそう小林君に注意した。
「送り狼になったらだめですよ」
そう言ったのは野田さんだ。そのうえ、
「中山さん、気をつけてくださいね。小林さんが狼になりかけたら、ひっぱたいて逃げていいですから」
と珍しく冗談を言った。
「そ、そ、そんなこと主任に言われたくありません」
え?
「はい?」
中山さんの返事にさすがの佑さんも目を丸くした。
いや、佑さんだけじゃなく、その場にいたみんなが一瞬黙り込んだ。
「主任だって、桜川さんを送るとか言いながら、飲ませようとしているし」
「……送るってわけでは」
佑さんが言葉に詰まった。多分、中山さんの表情を見て、ひるんで言葉が出なくなったんだと思う。
だって、中山さんはわなわなと震え、怒りを抑えようとしているようにすら見えた。周りの人もそんな中山さんを、どうしたんだ?という顔で見つめた。
「中山さん、どうした?」
小林君も心配そうにそう聞いた。
「私、ついこの前まで学生で、大人の世界ってわからないし、でも、私の知らない世界があるんだろうなと思ったけど、でも、やっぱり、やっぱり」
そこまで言うと、中山さんは今にも泣きそうになった。ますますみんなが、びっくりした。
私は、もしや私と佑さんのことで、中山さんは動揺しているのかと感じた。
「主任、結婚されているんですよね。左手の薬指に指輪しているし」
中山さんは佑さんの左手を見ながらそう言った。
「はい」
佑さんはすぐさまそう答えた。
「それなのに、あんなことをするなんて」
うっわ。あんなことって何?みんなも、びっくりしながら佑さんを見た。
「は?あんなって?」
佑さんは冷静だ。
「コピー室であんな…。ふ、不倫なんて私はやっぱり、許せないです」
「不倫?!」
みんなが、大声で同時に声を上げた。




