第83話 嫌われている ~佑編~
中山さんがなかなかなじめずにいる。僕と話すときには特に暗い。
なんとか、優しく接しようと試みたが、それは中山さんに伝わらないようだ。
「主任がいない時は、新人二人とも解放されたかのように顔が明るいですよ」
嫌味か?二人が帰ったあとに小林が僕にそう言った。
「いいんじゃないですか。なめられるよりも。最初が肝心なんだし、きつくしたほうがいいですよ」
塩谷はそう言うと、
「いやいや。辞められても困るから、お手柔らかに頼むよ」
と課長が苦笑した。
「難しいですね」
ぼそっとそう呟くと、
「桜川さんに対してみたいには、優しくなれないものなんですねえ」
と半分野田さんは、面白がっているようだ。
なんだか、こっちまで気疲れしてきたな。今日は金曜日だ。伊織とデートでもするか。
フラワーアレンジが終わるのを待ち、帰りがけに外食をし、その足でレイトショーにまで行った。映画はSFものだ。伊織も前から観たがっていた洋画だ。
なかなか迫力のあるシーンもあり、泣く場面もあり。伊織はハンカチで目を押さえながら観ていた。
「面白かったね」
映画の感想を話しながら、家路に着いた。
「あんな展開になるとは思わなかったなあ」
「うん。ハラハラした~~」
家に着いて風呂に入って、すぐにベッドに潜り込み、二人とも知らない間に眠っていた。
土日、特に何も予定はないので、本当にのんびりした。伊織は最近、甘えてきてくれる。それが可愛くて、僕の顔はずっとにやついていた。
二日間そうだったからか、月曜日も顔が締まらなかった。いつもなら、会社に着いた時点で仕事モードになるのにそれができない。
表情を隠すことを忘れたまま、デスクに着いた。朝一でコピーを頼みたくて伊織を呼んで、週末同様に思い切りにやけながら伊織にコピーを頼んだ。そして、野田さんと塩谷に顔がにやついていることを指摘された。
やばい。そうだ。ここは会社だ。慌てて顔を仕事用に切り替えた。
そして、そのクールな表情のまま、中山さんに接していると、中山さんはますます顔色を青くさせていき、声は小さくなるし、目が合うだけでもビクビクと怯えているようにも見えた。
う~~ん。完璧嫌われたよな。
別に嫌われるのは一向に構わないんだが、課長が言うように辞められたら困る。最近は、前よりもすぐに辞めてしまう社員が多いようだしな。塩谷に言わせれば、そんな軟弱な精神の人は辞めてもらったほうがいい…。僕も前はその意見に賛成していたが、伊織が退職するのに、後任がいないとなると伊織も後味が悪いだろうしなあ。実際、残った北畠さんや溝口さんに負担もかかるし。
いざとなったら、伊織を残すか。
……そんなこと人事で許してくれるんだろうか。
午後は得意先に行き、野田さんや塩谷と直帰した。スーパーに寄り、家に着いたのが6時10分。伊織は残業しなければ、6時半頃帰ってくるだろう。
風呂を入れなおし、夕飯の準備にとりかかった。
ガチャリと玄関の鍵をあける音がして、
「おかえり、伊織」
と出迎えた。
「ただいま~。佑さんのほうが早かったんだ」
「うん。お疲れ様」
玄関で伊織をハグした。伊織もぎゅうっと抱きついてきて、
「寂しかった~~」
と、呟いた。
「ひとりで帰ってくるのが?」
「午後、佑さんが出て行ってからずうっと」
まったく、なんだってそんな可愛いことを言ってくるんだ。思わず、そのままベッドに連れて行きたくなるだろう。
だが、なんとか我慢をして、リビングに一緒に行き、
「夕飯作っちゃうから、伊織は洗濯物たたんでくれる?」
と、お願いした。
「うん!」
疲れた顔をして帰ってきたのに、一気に元気になったな。それは僕も同じか。伊織の顔を見ただけで元気になる。
夕飯を食べ、風呂に順番に入り、ソファでまったりとしていると、伊織が僕の肩にべったりともたれてきて、
「佑さん、あったか~い」
と胸に顔をうずめた。
僕も思わず抱きしめたが、
「あ…」
と言って、突然伊織がトイレに行ってしまった。
「お腹痛いから先に寝るね」
トイレから出てくると、伊織はそのまま寝室に行ってしまった。こういうことはたまにある。お腹を壊したわけではなく、多分生理痛だ。姉も生理痛がひどいほうだったが、伊織も何ヶ月かに一回は、会社を休むくらい痛がる日がある。痛いだけじゃなく、貧血もひどいようだ。
翌朝、やっぱり伊織の顔色は悪かった。お腹を手で撫でながら、青い顔をしてダイニングテーブルに着いた。
「休んだほうがいいよ、伊織」
「行けるよ。中山さんだって私が休んだら、きっと心細いだろうし」
「いいや。中山さんはもうすぐ一人立ちしないといけないんだし、伊織がいなくても頑張れないと」
「でも」
「顔色悪いよ?今までも無理して会社に出て、早退したこともあっただろ?今日は休みなさい。主任命令だ」
そこまで言うと伊織は口を尖らせ、
「わかった。う…。でも、家でひとりは寂しい」
と僕の胸に抱きついてきた。
「なるべく早くにすっ飛んで帰ってくるから。今日は家事もしないでいいから、しっかりと休んでいるんだよ?伊織」
黙ってコクリと伊織は頷いた。ギュッと抱きしめたあと、伊織にキスをする。そして、
「いってらっしゃい」
と伊織は送り出してくれた。
こんなふうに伊織が会社を辞めた後は、伊織が送り出してくれるのか。そして一人で会社に行くんだな。
いつもと同じ道、電車。なんだか、いつもよりも会社までの距離が遠く感じる。左手も寂しい。
伊織だけじゃなく、僕も寂しかったよ。と、家に帰ったら一番に告げようか。
にやけることもなく、無表情のまま会社に着いた。エレベーターで人事部の同期が、
「あれ?今日は一人?」
と聞いてきたが、面倒くさいので「ああ」とだけ答え、黙り込んだ。
自分のデスクに着いてからも、黙々と仕事を始めた。課長が席に着いてから、
「桜川さんが体調悪いので、今日は休みます」
と伝えた。
「体調が?風邪かい?」
「いえ。腹痛で…」
「食べ過ぎかい?」
「いえ…。貧血などもあるので、念のため休ませました」
「ああ、そうか」
課長も納得したようだ。
9時3分前、溝口さんが駆け込んできた。そしてデスクについて伊織がいないからか、
「あれ?伊織がいない」
ときょろきょろと見回している。
「桜川さんは休みですって」
北畠さんがそう言うと、先にデスクに着いていた中山さんが、
「ええ?」
と驚きの声を上げた。
「や、休みですか?」
「中山さん、桜川さんの席で受注取ってください」
「わ、私がですか?」
「ほかに誰がいるんですか?」
つい、きつい口調でそう言ってしまい、慌てて、
「何かあれば、僕がフォローします」
とつけ加えた。
「……」
何も返事がない。彼女の悪い癖だな。伊織なら、「はい」と元気に返事をするのに。
ああ、いきなり伊織が恋しくなってきたな。いかん。
「中山さん。返事は?」
「え?あ、は、はい」
「大丈夫。私や北畠さんもいるんだから」
そう溝口さんが励ました。でも、中山さんの顔色は青いままだった。
午前中は電話も少なくて、特に問題もなく過ぎていった。そして午後になり、北畠さんは課長の来客でお茶を出しに行き、溝口さんと鶴原さんは自分たちの仕事で忙しくなってきていた。
そこに、どうやら大変な注文が入ったらしい。中山さんは、
「はい、かしこまりました」
と自信無さげに言うと、溝口さんに声をかけた。
「ああ、そういう時には直接工場に電話して」
溝口さんのはきはきした声が聞こえた。中山さんは、緊張した顔で電話をし、何やら暗い顔で話をすると、
「はい、わ、わかりました。すみません」
とぺこぺことお辞儀をした後に電話を切った。
それからまた、溝口さんに何かを聞こうとしたが、溝口さんは鶴原さんの電話に何やら助言をしている最中で、中山さんは声をかけるのをやめた。そして、しばらく俯いたまま動かなくなった。
「何か問題でも起きましたか?」
僕がそう声をかけると、中山さんは驚いたように僕を見て、
「い、いいえ」
と首を横に振った。
なんだ?たいした用事じゃないのか?
パソコンを打ちながら、中山さんの声に耳を傾けた。
「先ほどのご注文なんですが、今日はもう出荷して明日のお届けは難しいのですが」
ん?もしや急ぎの注文か?
「え?すみません。あの、工場に聞いたらそのように返答が」
ああ、あの融通の利かない担当からそう言われたのか。
「す、すみません。あの、いえ、あの…」
こじらせたようだな。
「わかりました。もう1回工場に聞いてみます」
そう言って電話を切ると、中山さんは泣きそうな顔をして僕を見た。
「しゅ、主任、あの…」
「今日出荷で明日届けてくれっていう注文ですか?」
「はい。それで、工場に聞いたらもうトラック出ちゃったから無理だって」
時計を見るとまだ13時20分。
「まだトラックは出ていませんよ。僕から担当に頼んでみます」
「え?で、電話してくれるんですか?」
「はい」
中山さんは、今にも泣きそうな表情のまま僕を見つめた。僕は工場に電話をし、なんとか2ケースだけなので乗せてくれないかと交渉し、了解を得た。
「乗せてもらえますよ。明日には届けられます」
電話を切りそう中山さんに伝えると、中山さんは明らかに安堵し、顔を真っ赤にさせた。泣き出すかと思ったが、
「お客さんにも電話したほうがいいですか?」
と声を震わせながら聞いてきた。
「僕から、今後は早めに注文の電話を入れるよう言いますから、中山さんはいいですよ」
「すみません」
先方に連絡し、これからは早めに電話を入れるよう頼んだ。
「今日は桜川さん、お休みですか?」
そう先方の担当者が言った。声からすると、若そうだ。
「はい。あ、それと桜川は今月いっぱいで退職しますので、そのあとは先ほど電話に出ました中山が受注を担当させていただきます」
「え?退職?もしかして結婚ですか?」
「はい」
「それはおめでとうございます。あ、直接言ったほうがいいですね。ああ、でも、寂しいなあ。桜川さん、結婚しちゃうのかあ。顔は知らないけど、いつも声で癒されていたからなあ。ほら、桜川さんの声って優しいでしょう」
「そうですね」
やばいな。にやけそうになった。
「一度お会いしてみたかったなあ。確か年齢は僕より3つ下だったはず」
ということは、今28か29。僕と同じ年か。それにしても、伊織の年齢を何で知っているんだ。
「桜川がお世話になりました」
「いやいや。こちらこそ。急ぎの注文も快く引き受けてくれて、本当に感謝しています。あ、でも今月いっぱいいるんですよね?今度直接お礼とお祝いを言いますよ。それでは」
そう言うと、早々と電話を切ってしまった。
声が癒されると言われ、悪い気はしなかったが、あんまり伊織を気に入られるのももやもやするな。それも同じくらいの年齢の男性に。
「あ、あの、お客さん、怒っていましたか?」
「大丈夫ですよ。早めに電話を入れてくれるってことでしたし。工場の担当者は、昨年替わりまして、それまでは融通の利く仕事のできる人だったんですけどね、新しい人は頭が固い人で、桜川さんも苦労していました」
「そうなんですか」
あ、暗くなったな。
「なので、問題がある時とか、急ぎの注文は僕に任せてくれればいいですから。女性に対して偏見があるようで、僕が言えばたいてい受けてくれます」
「女性に偏見?」
「営業の塩谷に対してだって、偏見持っていますからね」
僕がそう言うと塩谷がそれを聞き、
「栃木工場の担当でしょ?やなやつですよね!」
と口を挟んだ。
「ね?中山さんが気にすること無いですよ。桜川さんもいつも、怒ったり文句言ったりしていましたから」
「そうなんですか」
安心したみたいだな。
「そうそう。桜川さんってああ見えて、お客さんには受けがいいし、工場の担当者には、容赦ないですよね」
「容赦ない?」
塩谷の言葉に中山さんが聞き返した。そこは僕が説明した。
「大事なお客様なんだから、融通を利かせるくらいのことをしてくださいって、よく反発していました。で、それ以上取り合ってくれなくなると、上司の魚住に変わりますから、同じように断れますか?と、脅していたくらいだし」
「え?あの担当者相手にですか?」
「はい。まあ、たいてい僕が代わっていましたけどね。時々、桜川さんがもっと切れて、あの担当者が折れるってパターンもありましたけど」
「え?桜川さん、切れることあるんですか?」
「あまりないですよ。ただお客を大事にしないような発言には、けっこう切れてますね。そう見えないでしょ?」
「はい。全然。おっとりしているし、いつも優しいし」
「はい。いつもはそうですよ」
つい伊織の話をしているので顔がゆるみ、にっこりと笑ってしまうと、中山さんは驚いたように僕を見た。
「あ…。コホン。では、仕事、再開してください」
「はい」
中山さんは、元気を取り戻したように仕事を再開した。
その後も、受注のことなどでわからないことを中山さんは僕に聞いてきた。そのたび丁寧に教えていたからか、前ほど中山さんは僕を怖がる様子もなくなってきていた。
4時を過ぎた頃、
「コーヒーでも入れようか」
と溝口さんが席を立つと、
「私も入れに行きます」
と中山さんも席を立った。そして、僕のほうを見て、
「主任も飲みますか?」
と聞いてきた。
「ああ、はい。お願いしていいですか?」
せっかくだから、そう言ってみた。「はい」と頷いて中山さんはコーヒーを入れに行ってくれた。
それから10分位して、
「あの…」
とコーヒーを持って中山さんは僕のデスクに来ると、
「今日はいろいろとすみませんでした」
と謝りながらコーヒーを置いた。
「いいえ。わからないことがあれば、いつでも聞いてもらって大丈夫です」
「はい。あ、お砂糖とミルクはいりますか?」
「いいえ。ブラックでいいですよ。ありがとうございます」
僕は一応、にこりと微笑んでみた。中山さんもぺこりとお辞儀をして、そそくさと席に戻っていった。
「主任にコーヒー入れるだなんて、どういう風の吹き回し?」
おい。なんでそういうことを塩谷は聞くかな。
「え?あの、今日はいろいろと面倒をおかけしたので」
「ああ、そのお礼にってわけね。ほんと、主任、自分の仕事どころじゃなくなっちゃったもんねえ」
「塩谷、ひとこと多いぞ。中山さん、気にしないでいいですからね、塩谷の言うことなんか」
そうフォローすると、一瞬へこみかけた中山さんは笑顔になった。
5時半、新人二人は帰って行き、溝口さんは中山さんの仕事のフォローをするために残ってくれていた。僕も自分の仕事で片付けないとならない分を、急いで処理していた。
ああ、6時を過ぎるな。早くに帰ろうと思っていたのにな。
携帯を持ち廊下に行き、伊織に電話を入れた。
「ごめん。ちょっと残業して遅くなりそうなんだ。夕飯は僕が作るから、待っててくれる?」
「うん」
「声、元気ないね。まだお腹痛い?」
「ちょっと。でも、それよりも、えっと」
伊織は言葉に詰まった。
「会えなくて寂しかったとか?」
「う…。ごめんなさい。佑さんは仕事なのに」
くす。やっぱりね。
「ごめん。僕も早くに伊織に会いたいから、飛んで帰りたいんだけど…。できるだけ早く帰るようにするよ」
「うん。でも、佑さんの声聞けただけで元気出た」
「ああ。まったく。なんでそんなに可愛いんだか」
「え?」
「なんでもないよ。じゃあ、早くに帰るからね?」
そう言って、可愛い伊織の頷く声を聞き、2課に戻ろうとすると、
「ひゃあ。ラブラブコール」
と、後ろからひやかす声が聞こえてきた。振り返ると、なぜか溝口さんがいた。
「え?なんでここに?」
「トイレに来て出てきたら、あまったる~~い主任の声が聞こえてきて。伊織、寂しがっていたんですか~~?」
くそ。こいつに聞かれるとは迂闊だった。
「あのなあ、勝手に聞くなよなあ」
そうぼやいて、僕はさっさと2課に戻ると、
「私はもう仕事終わったからこれで失礼します」
と、にやつきながら溝口さんはロッカールームへと消えていった。




