第83話 嫌われている ~伊織編~
「私、どうしても苦手です」
暗く中山さんがそう言うと、鶴原さんも小さく頷いた。
新人二人が仕事を始めてから今日で1週間。二人ともまだ緊張していて、余裕がない様子。そんな二人とたまにはランチに行こうと、真広と新人二人を誘いビルの外に出た。
パスタランチを頼み、明るくテレビドラマやアイドルの話をして盛り上げていたが、二人ともあまり話すこともなく黙々とパスタを食べ、食後のコーヒーを飲みだすと重い口を中山さんが開いたのだ。
「苦手って?」
私が聞くと、
「主任でしょ?」
と真広が当然のような顔をしてそう言った。
「はい。最近、きつく言われることはなくなったんですけど、優しい言葉をかけられても嫌味にしか聞こえないし、主任がこっちを見ているだけで、私、怒られるんじゃないかってひやひやしちゃって」
え~~~~~。嫌味じゃないよ。佑さん、頑張って優しく接しようとしているのに。
「鶴原さんも苦手なの?」
「はい。実は、ああいう感情が外に出ないタイプは昔からダメで。主任って何を考えているかわからないっていうか」
「私は、嫌われているか、軽蔑されているかだと思うんですよね。またミスしていないかって、なんかいつも見張られている気もして、主任がいるだけでずっと息が詰まっちゃって」
そこまで?
「嫌ったり軽蔑したりなんかしてないよ」
「でも、でもでも、時々目が怖いんですよ~~~。笑っても、目が笑っていないし~~~」
中山さんがそう言って、重いため息をついた。
「今日、午後から外回りですよね?」
鶴原さんがそう私に聞いてきた。
「え、うん。5時半頃に戻るって言ってた」
「そうなんだ。午後、主任いないんだ」
中山さんは明らかにほっとして、コーヒーをすすった。
ああ、佑さん、嫌われちゃったなあ。
それにしても、真広、さっきからダンマリだな。
会社に戻り、2課に行く前に私は真広と歯を磨きに行った。
「ちょっと罪悪感」
「え?」
「主任のこと、はじめから悪く言い過ぎたかなあ。二人に先入観与えたかも」
ああ、それで真広、今日は静かだったのか。
「でもなあ、優しいとか、いい人なんだよとか本気で思っていないから、フォローもできないし」
「え?なんで?」
「だって、私も嫌いだし~~。嫌われているし~~」
「嫌ってないよ。真広みたいな友達がいてよかったねって、前にそう言ってたもん」
「伊織の友達としては認めているかもしんないけど、個人的には嫌っているでしょ」
「そんなことないってば。ただ、女性全般苦手らしいから」
「あ、じゃあ、浮気の心配はなさそうだね、よかったね」
「……。でも、主任、もてるからなあ」
そう言うと、隣で真広が「ないない」と思い切り手を横に振った。
午後、新人二人はいつもと違い、顔がずっと明るかった。特に中山さんは、北畠さんや小林君に話しかけられても、朗らかに話を返していた。いつもは、返事も「はい」とか「いいえ」くらいで、笑顔なんて見ることもなかったのに。
私は佑さんがいないってだけでも、寂しくてつい暗くなってしまうのになあ。
5時を過ぎ、佑さんが野田さんと塩谷さんと戻ってきた。上着をハンガーにかけ、
「桜川さん、コーヒー入れてもらってもいいですか?」
と聞いてきたので、
「はいっ!」
と元気よく席を立つと、なぜか課のみんながくすくすと笑った。
もう!いまだにみんな笑うんだよなあ。
愛情こめてコーヒーを入れ、佑さんのデスクに持って行くと、
「ありがとう」
と佑さんが可愛い笑顔を見せた。キュン!嬉しい。ああ、一気に世界がバラ色。
席に戻りつつ、
「あ、塩谷さんもコーヒーいりましたか?」
と聞くと、
「う~~ん。お願いしたかったんだけど、朝から腸の調子が悪くって」
と、顔をしかめた。
「え?ストレスでとか?」
「酒の飲みすぎだろ、どうせ」
塩谷さんが返事をする前に、佑さんがそう言った。
「違いますー!お酒は最近飲んでいませんから。ただ、昨日の夜食べ過ぎたんです」
「ぶはっ!食べすぎでお腹壊したのか。まったく、気をつけろよ、いい年した女が」
「主任!さすがにそれはひどい!」
塩谷さんは怒ったが、課のみんなはどっと笑い、
「塩谷さんの食べっぷり、すごいからねえ」
と課長までがそんなことを言っている。
「主任でもあんなふうに笑うことがあるんですね」
ぼそっと私にだけしか聞こえない音量で、中山さんが呟いた。
「え?う、うん」
確かにめずらしいことなんだよね。あんなに声を上げて笑うのって。でも、塩谷さんと話をしているときには、よく笑うかな。
家では、くすくすって笑うことが多いし。たまにお笑い番組でつぼにはまると、涙流して声も出さず、お腹押さえて笑っていることがあるけど。そんなときには決まって、
「お、面白すぎ。ダメだ。お腹痛い」
と言って、なぜか抱きついてくる。あれは、なんで抱きついてくるのか不思議だ。
「中山さん、鶴原さん、ようやく1週間過ぎましたけど、慣れた?」
定時になると、課長が二人にそう聞いた。
「え?い、いいえ、まだです」
中山さんは戸惑いながらそう答え、
「私もまだまだです」
と、鶴原さんはしっかりと答えた。
「そうか~~。まあ、徐々に慣れていくと思うよ。3週目あたりに部の歓迎会がある。その前に課でもみんなで飲みに行こうか?来週末くらいはどうかな」
「いいですね。その頃ならもう慣れた頃だよね?」
野田さんが二人にそう聞くと、二人はぎこちなさそうに微笑んで頷いた。
二人は「お先に失礼します」と席を立ち、私と真広はフラワーアレンジがあるから、デスクの上を片付けだした。
「真広~~~。今日、帰りに飯食ってかない?」
自分の席からでかい声で、岸和田がそう叫んだ。
「いいよ」
真広は遠慮がちに声を潜めて答えながら、両手で丸を作った。
「いいねえ、デート?」
そんな声が周りから聞こえたが、岸和田は「たまにはね」と余裕の返事を返していた。
「伊織、僕らも夕飯食べて帰る?あ、そうだ。観たかった映画公開しているから、レイトショーでも観て帰らない?」
「わ!嬉しい!」
私の後ろまで来てそう言った佑さんに、私は喜んで返事をした。
「いいねえ、こっちの二人もデートか」
そう課長がひやかした。佑さんも余裕の顔で、
「課長も奥さんとデートしたらどうですか?」
と聞き返した。
「無理無理。相手にもしてくれないよ。うちのかみさんは友達と遊んでばかりなんだよ」
「子供と遊ばないんですか?」
「子供は毎日部活で忙しいからねえ。僕なんか家に帰って相手にしてくれるのは、愛犬のミニちゃんだけだよ」
「ミニちゃん?犬の名前ですか?」
真広が驚きながら聞くと、
「うん。ミニチュアダックスのミニちゃん」
と、課長はにやけながら答えた。うわ。にやけた課長、初めて見たかも。
課はこんな感じで和やかだ。最近はあの塩谷さんですら、話に参加して笑っている。とっても、いい雰囲気になっているんだけど、新人二人はまだ慣れないらしい。
でも、思い返すと私や真広もそうだったかなあ。慣れたのなんて、3ヶ月ごろだったかもしれない。
その日は佑さんと、夕飯は釜飯を食べ、レイトショーを見て帰った。家に着いたのはかなり遅くなった。
順番にお風呂に入り、ベッドに入ったのはもう夜中の2時を過ぎていた。
そして二人してすぐに眠りに着いた。
翌日、予定がないからのんびりと起きて、掃除や洗濯を済ませ、散歩に出た。昼も近くのカフェで済ませ、帰りに花屋で材料を買い、家で佑さんとフラワーアレンジをした。
夜は、佑さんの手料理を堪能し、お風呂のあとにのんびりとソファで寛ぎながら、佑さんにべたべたと甘えていると、そのままお姫様抱っこでベッドに「連行する」と連れて行かれた。そして、甘い夜を過ごした。
日曜日はその余韻に浸り、二人で思い切りいちゃついた。だからなのか、月曜日になってもまだ、それは抜け切れなかった。
朝も手を繋いで駅に行き、電車でもべたっとくっついて甘えていた。会社までも手を繋ぎ、佑さんにめろめろだった。
佑さんもずっと優しかったし、それこそエレベーターに乗ってもまだべったりくっついていて、めずらしくIDカードをかざす時も、佑さんの顔はにやけていた。
こんなこともあるんだなあ、なんて思いつつロッカールームに行き、新人二人に会った。
「おはようございます」
二人はまだ明るい笑みを浮かべていたし、同期とも仲よさそうに話していた。だいぶ、会社に慣れたかな、と思いつつ、トイレから真広と一緒に2課に向かい席に着くと、隣で中山さんはいつものごとく、暗い顔をして固まっていた。
「どうかした?」
「いいえ。ただ、また1週間が始まったと思うと嫌で」
ああ。うつ状態になっていたわけね。
「桜川さん!」
「はいい?」
いきなり佑さんに呼ばれ、私は声がひっくり返った。
「コピーお願いします」
「はい」
佑さんのデスクまですっ飛んで行き、原紙を受け取るとき、
「5部ずつね?」
と佑さんがにこ~~っと笑った。
キュン。これは、おうちでまったりモードの佑さんの可愛い笑顔。
あれ?
会社では見せない笑顔だよね。
「顔、締まってないですよ、主任」
「休みぼけですか?」
私の顔を見てまだ、にこにこ…、いや、にやにやしている佑さんに、野田さんと塩谷さんがそう突っ込んだ。
「あ」
しまったという表情をして、佑さんの顔が一気に仕事モードに変わった。
まさか、会社着いてからずっとにやけてた?2課に来ても席に着いても?えええ?めずらしくない?
コピーをして佑さんに持っていくと、顔はクールな表情…。でも、
「ああ、ありがと」
と私を見ると、一気に目尻が下がった。あれ?
「ゴホン」
咳払いをして、佑さんがまた顔を険しくした。そしてパソコンを睨んだ。
そうか。もしかしてもしかすると、私を見ると顔がにやけちゃうのか。私と一緒だ~~。
って、そんなことで浮かれていたらダメだよ。仕事、失敗しちゃう。
「あの」
「え?な、何?」
「なんかいいことでもあったんでしょうか。主任、朝から顔、にやけてましたよね」
きゃあ。中山さんにまでばれてる。
「え、ど、どうかな?」
はははと笑って誤魔化した。
「あんな時もあるんですね。そりゃ人間だから、機嫌のいい時もあるか。あ、っていうことはいつもは機嫌が悪いってことですか」
「仕事の時には、仕事モードなんだと思うよ?定時過ぎると、表情柔らかくなるもん」
「え?そうなんですか?」
中山さんはなぜかびっくりしている。
そりゃ、いつもいつもしかめっ面しているわけないじゃない。
「何よ~~、何~~、何があったの~~~?」
コーヒーを真広と入れに行くと、真広が私をつっついてきた。
「何で主任、朝からご機嫌だったわけ?」
「別に何もないよ。週末だって、家でまったりしていただけだし」
「ああ、いちゃいちゃしまくっていたのか」
「真広もでしょ?」
「うちら?まさか。岸和田って、家でじっとしているタイプじゃないし。昨日はドライブ。一昨日は二人でジムのプール行ってた」
「ジム!そうだ。行き忘れた。最近太ったから、行こうと思っていたんだ~~。来週は行くぞ」
その日は、午前中来客があり、午後は取引先でミーティングがあると、佑さんはほとんど席にいなかった。だから、中山さんは明るかった。
帰りも佑さんは直帰になり、私は一人寂しく家に帰ろうとロッカールームにとぼとぼと行った。すると、中山さんと鶴原さんがまだいて、なんとなく駅まで一緒に行くことになった。
「今日も主任がいなくて、ほっとした~~」
中山さん、そんなに堂々と言わなくても。
「でも、今日は主任機嫌良かったですよね」
鶴原さんもそう感じたのか。
「いつも、ああならいいのになあ」
中山さん、最近本音しか言わないなあ。
「あんな主任は珍しいんだよ。いつもは公私をしっかり分けているから、仕事の時には仕事モードだもん」
「じゃあ、仕事以外では、あんな感じなんですか?」
「あんな?」
「今日、表情が柔らかかったですよね」
「うん。あんな感じ」
鶴原さんにそう答えた。中山さんは、
「いつもそうしてほしいです」
と、切実な感じでそう言った。
家に帰ると、すでに佑さんはいた。おかえりと優しく出迎えてくれて、キッチンからはいい匂いがしていた。
夕飯のあと、まったりとソファでくつろぎ、すっかりおうちモードの佑さんに甘えていると、お腹がなぜか痛くなってきた。
「トイレ」
慌ててトイレに行くと、ああ、月に一度のあれだ。
「佑さん、お腹が痛いので先に休むね」
そう言うと、佑さんはピンと来たらしい。「おやすみ、あったかくして寝るんだよ」と言ってくれた。
翌朝、お腹の痛みはもっとひどかった。腰も痛くなり、貧血にもなっていた。毎月ではないが、たまに生理痛がひどい月がある。
「休んだほうがいいよ、伊織」
「行けるよ。中山さんだって私が休んだら、きっと心細いだろうし」
「いいや。中山さんはもうすぐ一人立ちしないといけないんだし、伊織がいなくても頑張れないと」
「でも」
「顔色悪いよ?今までも無理して会社に出て、早退したこともあっただろ?今日は休みなさい。主任命令だ」
わあ。こんな時だけ、主任の顔をする。ずるい。
「わかった。う…。でも、家でひとりは寂しい」
「なるべく早くにすっ飛んで帰ってくるから。今日は家事もしないでいいから、しっかりと休んでいるんだよ?伊織」
そんな優しい言葉をかけ、佑さんは家を出て行った。玄関で優しく私にキスをして。
仕方ない。大人しく家にいるか。でも、やっぱり家にひとりは寂しいよ~~。




