第80話 これからもよろしく ~佑編~
無事入籍も済ませ、父にも伊織を紹介できた。
僕は、今までずっと引きずっていた重苦しい足かせを外せたような、そんな軽くて清清しい気持ちになっていた。
何に執着し、何を抱えて生きていたんだろうな。自由の身になっていた気がしていたのに、いろんなものに縛られていたのかもしれない。
翌日、伊織のアパートからいろいろと我が家に運んだ。コタツも運び、マンションのリビングに置いた。
クローゼットには伊織の服も並び、食器も増えた。
殺風景だった僕の部屋が、どんどん暖かくなっていく。
そして、ふと横を見ると伊織がいる。それがなんとも嬉しかった。
月曜、入籍をした報告を部長や課長にした。人事部からいろんな書類を提出するように言われ、家族ができたことを実感した。
その日は忙しかった。塩谷と野田さんと3人で、新たな顧客を得るために外回りをした。
塩谷は、なんとなくだが前と変わった気がする。もちろん、仕事をする気は満々だ。だが、どことなく落ち着いたというか、前のようながむしゃらな感じがしなくなった。
2課にもなじみ、仕事中に時々雑談をして笑っていることもある。前の塩谷なら考えられないことだ。特に、伊織や溝口さんと仲よさそうに笑っているのを見ると、目を疑うほどだ。
「疲れた~」
午後、僕たちは何件回っただろうか。帰り道塩谷は、足を引きずるようにそう言った。
「どこかでコーヒーでも飲んで休むか?」
「いいですよ。主任、早くに社に戻って桜川さんの顔見たいでしょ?」
「え?」
今のは嫌味か?さすがに野田さんもびっくりしているぞ。
「私も、社に戻ってからコーヒーを飲みます。桜川さんに頼んでもいいですか?」
「別にいいが」
「私も、桜川さんの顔見ると、癒されるんですよねえ」
「は?」
同時にそう野田さんと聞き返した。
「主任が外回りから帰ってきて、桜川さんに癒されるのわかる気がします」
「…へえ」
いつの間に…。
どうやら、それは本当のことらしい。2課に戻り、僕が伊織さんにコーヒーを頼むと、
「私の分もお願い」
と塩谷は伊織に頼み、伊織がコーヒーを持ってくると、
「ありがとう」
と伊織を見ながらお礼を言った。そして、伊織が「いいえ」とほんのちょっと微笑むと、塩谷の顔つきが変わった。
「……」
僕と野田さんは、そんな塩谷の顔をじっと見てしまった。そして、同時に野田さんと顔を見合わせ、二人してふっと笑みを浮かべた。
なるほどな。伊織の笑顔で塩谷も癒されるわけか。それに、コーヒーを飲みながら塩谷はほうっと息を吐き、くつろいでいるのがわかる。
塩谷も、変わったよなあ。伊織の影響かな。
6時過ぎ、ようやく仕事も片付き、パソコンをシャットダウンした。伊織を見るとすでに仕事を終えデスクの上は片付いていた。
「伊織、仕事終わった?」
「あ、はい。終わりました」
「じゃ、帰ろうか」
「はい」
伊織と会社を出た。そして帰り道、伊織は小林のことを話し出した。
「今日、小林君に、女としてどうだって言われちゃって。佑さんもそう思っているのかな」
「え?小林がなんだって?」
「昼休みに、真広と3人でお弁当食べて」
昼を一緒に食べたのか?
「無視してって言ったのに」
「ごめんなさい。でも、勝手に座ってきて」
「……ん?それで、女としてどうかって、何が?」
「私が料理も家事もできないって話をしたら」
「何?それで、あいつは勝手にそんなことを言ったのか?頭にくるやつだな」
「でも、私自身もそう思うし」
「僕がいいんだから、いいんだよ。伊織はそのままでいいの」
「……。たまに、塩谷さんが、甘すぎるって言うけど、私もそう思います」
「え?」
「佑さん、私に甘すぎる」
「……ダメ?」
「ダメじゃないけど」
「だったら、伊織は僕に甘えててください?僕がそれで満足しているんだから」
「い、いいのかなあ」
まったく。いいもなにも、そういうところをひっくるめて好きなのになあ。
「もし、伊織がもっと料理に挑戦したいって言うなら、もちろん応援するし」
「…はい。もう少しがんばりたいです」
「くす」
「じゃあ、週末、僕の料理教室開こうか?その代わり、また僕にフラワーアレンジ教えてくれるかな?」
「はい、もちろんっ」
嬉しそうに伊織が元気に頷いた。僕はこの笑顔に惹かれたんだろうな。
スーパーに買い物をしに入った。前は僕の後ろを歩いていた伊織が、今は隣に並ぶ。
「今夜は何が食べたい?」
そう聞くと、けっこうリクエストもしてくるようになった。
スーパーを出てマンションまでの道、
「伊織、ほかの男が伊織のことをなんて言ったとしても気にすることないよ」
とそう言うと、伊織は「は?」と一瞬驚いた。
「小林が勝手に、女性は家事ができないとダメだだの、料理ができないとダメだと思い込んでいるだけだから」
「あ…」
伊織はちょっとの間をあけ、「うん」と頷いた。
「風が冷たいね」
「早く帰ろう、伊織」
伊織の手を取り、急いでマンションに帰った。マンションにはコタツがある。
夕飯は鍋。コタツで食べて、そのあともコタツでまったりとした。コタツに入るのなんて、何年ぶりだろうな。父がまだ家にいた頃だ。
離婚して、それまで住んでいた家を引き払った。コタツは父が持っていった。母はあまりコタツを好きではなかった。動くのが好きだったから、コタツでのんびりとする習慣すら母にはなかった。
でも僕は結構好きだった。家族がのんびりとできる空間。ほっこりとあったまれる場所。
それも、伊織が目の前にいるとなると、ますます癒される。
「伊織」
「はい?」
「好きだよ」
コタツでまったり中の伊織にそう言うと、伊織は一気に真っ赤になった。
「え?なんで突然」
「うん、突然云いたくなった」
そう言うと伊織は頬を両手で押さえた。そして、
「私も…」
と恥ずかしそうにぼそっと伊織は言った。
「佑さん」
「ん?」
「あの、えっと」
「うん」
「ありがとう」
「…何が?」
「その、私と結婚してくれて」
「あはは。いきなりお礼?びっくりだな」
くす。伊織、可愛いよなあ。
「僕のほうこそありがとう。これからもよろしくね」
そう言うと伊織はまたはにかみながら笑った。
年が明けた。僕らはすっかり夫婦らしくなり、伊織の実家にも顔を出し、帰ってきてから僕の母や姉と一緒に食事をした。
結婚式は7月に会場を予約した。ついでに僕は夏季休暇を取り、新婚旅行にも行く予定だ。のんびりできるところがいいねと二人で話し合い、まあ定番ではあるがハワイに行くことにした。
相変わらず僕は忙しかった。でも、伊織といる時間はちゃんと取れるようにした。伊織は金曜日、フラワーアレンジメントの先生をしていたから、その日だけは伊織にあわせ、会社で残業をした。
「魚住主任」
3月のとある金曜日、鴫野さんがフラワーアレンジを終えて、僕のデスクまでやってきた。その後ろから溝口さんやほかの女性社員もぞろぞろと来て、
「伊織ちゃん、会社辞めてもフラワーアレンジの先生続けられますよね?」
とまじめな顔をして質問した。
「え?はい。もちろん」
「良かった~~。伊織ちゃん、やっぱりOKだって」
?前からそれは、OKしていたけどな。
「もう、鴫野ちゃん、だから言ったのに」
片づけをしていたのか、会議室から慌てたように伊織がやってきてそう言った。
「主任のことだから、反対するんじゃないかなあって思って確認したんです」
そう言ってきたのは溝口さんだ。
「反対なんてしませんよ。伊織がしたいと言う事は、できるだけ応援します」
そう僕が言うと、なぜか、鴫野さんやほかの女性社員がため息をついて、
「羨ましい」
と呟いた。
「伊織ちゃん、愛されちゃってるね」
「なんで主任、会社では怖いのに奥さんには優しいの?いつもそうだったらいいのに」
4課の事務の子がそう言った。
「優しくしますよ。ちゃんと仕事さえしてくれたら」
そう答えると、
「うわ。嫌味言われた」
とその女性社員は苦笑した。
「来週から新入社員が入ってくるね」
「可愛そうに。上司がこんなで、辞めたりしないかな」
「溝口さん、6月までは溝口さんが指導するんですよ。二人も新人がくるんだから、頼みますよ、しっかりとまじめな指導をよろしくお願いします」
「え~~。無理。北畠さんにしてもらおう」
おい。
ああ、先行き不安だな。
「じゃあ、伊織、今日もありがとうね」
「うん」
「伊織ちゃん、また来週ね」
鴫野さんたちは自分の部署に、溝口さんは残業していた岸和田と一緒に帰っていった。
「溝口さん、岸和田とうまくいってるみたいだね」
二人の後姿を見ながらそう言うと、
「あ!そうだった。真広、もうすぐ入籍して、式は秋に挙げるって」
と伊織は嬉しそうに僕に教えてくれた。
「へえ。じゃあ、課長や部長は大変だな。1年の間に2回も部下が結婚となると」
「佑さんも呼ぶって言ってたよ」
「え?僕も?僕のことは呼ばないのかと思っていたけどな」
「でも、真広の直の上司だし」
「ああ。嫌嫌呼ぶって感じか」
「真広、今は佑さんのこと嫌っていないよ。たまに、羨ましがられるし」
「何を?」
「私のことを。岸和田さん、家事とかあまりしないらしくて。料理はてんでダメらしいし」
「ああ、そういうことで」
なるほどな。でもまあ、溝口さんはああ見えて、家事をしっかりできそうだしな。いいんじゃないか。多分お似合いのカップルだ。
伊織は僕のマンションにもすっかりなじみ、たまにお隣の奥さんとも仲良く話していることがある。同年代の奥さん友達もできて、僕が出張に行っている時には、一緒に夕飯を食べに行ったりもしている。
そんななじんできているマンションから離れるのは、伊織には寂しいことだと思うが、そろそろ僕は引越しを考えている。子供ができたらこのマンションは狭くなるし、ちゃんと賃貸ではなく購入したいしな。
それも、そろそろ伊織に相談しないとなあ。
マンションに帰り、夕飯を食べているときにそんなことを考えていると、
「佑さん」
と伊織が暗い顔をして話をしてきた。
「ん?」
「来月末には会社辞めるけど」
「うん」
「そのあと、どうしよう」
「え?」
「すごく寂しくなる。佑さんには会えなくなるし」
「一緒に住んでいるんだから、毎日会えるけど?」
「でもっ。佑さんが会社に行ったら…」
涙目だな。
「子供、すぐに作ろう」
「子供?ほんと?」
「うん。式が終わってからすぐにね?」
コクンと伊織は頷いた。
「結婚式の準備、多分忙しくなるから、家で暇をもてあますことはないと思うよ」
「あ、そうか」
伊織ははにかんで微笑むと、
「式、ドキドキしちゃうなあ」
と独り言のように呟いた。
母は僕らの結婚式をプロデュースしない。大人しく見守りたいんだそうだ。だが、姉はいろいろと口出ししそうで怖い。伊織が嫌がらなければいいけどな。まあ、姉とも仲良くなっているようだから大丈夫かな。
「それから伊織、子供ができたらここは狭いと思うから、引越ししない?」
「え?でも、ここでも十分…」
「ちゃんとマンションを買おうと思っているんだ。子供も二人はほしいし」
「……」
「せっかくなじんできたのに、申し訳ないけど」
「ううん。それは全然。そっか。引越しもするとなるともっと忙しくなるかな」
「そうだね。寂しがっている場合じゃないだろうね?」
「……うん」
「式を挙げて、引越しをして子供が生まれて…、家族が増えてさ。にぎやかになるよ、きっと」
「うん!」
にこりと僕が笑うと伊織も、すごく嬉しそうに微笑んだ。僕も嬉しい。家族が増えることもにぎやかになることも。それを素直にわくわくしている自分が不思議だ。
ずっと未来、ひとりで過ごすと思っていたのにな。伊織が現れてから僕の未来は一変してしまった。でも、それはとても嬉しい変化だった。伊織と出会っていなかったら、けして想像できない世界だった。だから、僕のほうこそ感謝だよ、伊織。
4月1日。いよいよ新入社員がやってきた。緊張した面持ちで人事の女性社員とやってきて、伊織と溝口さんの隣に並んだ新しいデスクに座るよう指示された。
「おはようございます」
と伊織と溝口さんが二人に言うと、新人二人は、
「おはようございます。よろしくお願いします」
と、顔を引きつらせながらそう言った。
9時を回ると全員がそろい、朝礼が始まった。毎年4月1日は朝礼がある。新人が入ってくるので、部長が部のみんなに紹介し、新人が挨拶をする。2課には、新人の事務員が2人、1課と4課に新人の営業マンが2人ずつと、3課には総合職の女性社員も2人入ってきた。バリバリ仕事ができそうな雰囲気の女性たちだ。
2課に入ってきた事務職の女性は二人とも大人しそうだ。一人は背も低く、痩せ型。もう一人は伊織と同じくらいの背丈だが、髪が長く、色白で一見男性の眼を惹くような容姿をしている。
「みんなに紹介しよう。2課に入ってきた中山さんと鶴原さんだ」
「よろしくお願いします」
二人はぺこりと同時に頭を下げた。
「二人の直々の上司の、魚住君だ」
課長は僕にも二人を紹介した。
「魚住です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
またべコリとお辞儀をした。なかなかまじめそうな子達だな。良かった。
「こちらは事務員の北畠さん。あと、桜川さんと溝口さん」
「桜川です。よろしくお願いします」
「溝口です、よろしくね」
「北畠です。わからないことがあれば、いつでも聞いて」
そんな挨拶を終え、また新人二人はちょこんと席に着いた。
「中山さんと鶴原さんには、まず課で何を扱っているか簡単に説明するから、ちょっと来てもらっていいですか」
そう言って僕は二人を会議室に呼んだ。
二人はまじめに僕の説明を聞き、僕があげた資料を抱え、席に戻っていった。
「大丈夫?主任にきついこと言われなかった?」
溝口、そういうことは声を潜めるか僕がいないところで言え。丸き聞こえだ。
「はい」
二人はそれだけ言って黙ってしまった。
「なんか、嫌味でも言われた?」
「いいえ」
「ちょっと。そういうこと言うとかえって二人が不安になるでしょ。大丈夫よ。魚住主任はまじめに仕事をしていたらちゃんと評価するし、それに部下をとても大事にする上司だから」
今のは塩谷だ。僕としてはお前が一番心配だがな。きつく叱ったりしないだろうな。
「桜川さん、溝口さん、二人に受注の仕方教えてあげて下さい。特に桜川さんは4月までしかいないんだから、中山さんには全部引き継ぎできるくらい、がんばって下さい」
「え?」
青くなったのは中山さんだ。色白なのがさらに顔色が白くなった。
「はい。がんばります」
「まあ、できない部分はあとで、僕がフォローしますが」
「いいえ!がんばりますっ」
やけに伊織が張り切っているなあ。
「うん。よろしくね」
そう言って微笑むと、なぜか伊織は焦ったように隣にいる中山さんを見た。中山さんがまだ暗く俯いていた。




