第79話 入籍 ~佑編~
二人でいる時、敬語が抜けてきた。伊織も、敬語が抜けてきていたが、焦ったりするとまだまだ敬語になる。そんな伊織も可愛かった。
そして、土曜日、伊織と婚姻届を出しに行った。その足で父との約束の場所、みなとみらいのホテルのロビーに向かった。
少し、緊張している。ちらりと伊織を見ると、伊織も緊張しているようだ。
「大丈夫?」
「はい?」
「緊張している?」
「はい。あ、でも、頑張ります」
何をだ?
「くすくす」
笑うと伊織はきょとんとした顔で僕を見た。ああ、その顔も可愛いし、一気に気持ちがほぐれてきた。
「ありがとう、伊織」
「え?何が?」
「くす。まあ、いろいろと」
隣にいてくれるだけで…とは、なんとなく恥ずかしくて言えなかった。
ロビーに行くと、すでに父はいた。ああ、髪が白くなった。それに、痩せたかもしれない。
「……佑?」
小さな声でそう言うと、父はすぐに椅子から立ち上がった。僕と伊織を見ても、しばらく反応がなかったところを見ると、わからなかったのかもしれないな。
会わなくなって何年が過ぎただろう。僕はまだ中学生だった。その頃から身長も10センチは伸びたしな。父より背が低かったのに、今は見下ろす形になっている。
「…大きくなったな」
やっぱり、第1声はそれか。
「ご無沙汰しています」
少しだけ頭を下げた。僕より少し後ろにいる伊織も頭を下げたのがわかった。
「彼女が…、伊織さん?」
「あ、はい。初めまして。桜川伊織ですっ」
緊張しているのか、伊織の声が裏返った。
「もう、魚住伊織です。さっき、役所に婚姻届を出してきたので」
「あ!!そ、そうなんです。すみません」
伊織は慌てて、また頭を下げた。
「それはおめでとう」
「ありがとうございますっ」
また、頭を下げた。いったい、何回頭を下げる気なんだ…。
「立っているのもなんだから、座ろうか」
僕らが座ると、父はコーヒーを二つ頼んだ。父の前にはすでにコーヒーカップがあり、中身は空だった。時間より5分前に着いたが、父はかなり前から来ていたのかもしれない。
「……結婚、おめでとう、佑」
「はい。ありがとうございます」
「なんだか、他人行儀だね?」
「すみません。久しぶりなので、どう接していいか…。あ、息子さんは元気ですか?」
「……佑も息子だよ」
ぼそっと父は小声で言うと、俯いたままふっと笑って、
「賢一も元気だよ。毎日部活を頑張っている」
と顔を上げてそう明るく言った。
「何部なんですか?」
「アメフト部だ。高校にしては珍しいだろう」
「へえ…。そうですね。随分と男らしいスポーツをしているんですね」
「実際たくましくてね。父親似みたいだね。あの子の父親は大学時代、アイスホッケーをしていたらしく、体もごつかったらしいから」
「……じゃあ、試合の応援行ったりするんですか」
「うん。行っているみたいだね。今でも、交流はあるらしいから」
「え?元父親と?父さんは応援に行かないの?」
「……」
敬語じゃなくなった途端、父の目が細くなった。そして、どこか懐かしそうな目をして僕を見つめた。
「父さんは、行かないよ。賢一は、前の父親を慕っているからね」
「……」
なんだ、それは。僕はてっきり、父と仲良くしているのかと思った。かつて、僕にしてくれたように、キャッチボールをしたりして…。
「本当は父親のほうに、賢一は行きたかったらしい。だが、母親がまだ必要だと向こうが親権を母親にゆだねたんだ」
「じゃあ、父さんとは…」
あまり、うまくいっていないのか。
「頭のいい子でね、僕ともうまくやってくれているよ。いまだにお父さんとは呼んでくれないけどね」
「じゃあ、なんて?」
「魚住さんとか、たまに、おじさんと呼ばれる…」
「そんなっ」
伊織が隣でそう発して口を手で押さえた。そして、俯いて、「すみません」と謝った。
「いや、いいんだよ。いいんだ」
何に対してそう言ったのかわからないが、父はそう言って空しそうに微笑んだ。
「父さん…」
なぜかわからない。だけど、とっさに僕はそう呼んでいた。父は驚きながら顔を上げた。
「今まで、ごめん。姉貴にも父さんに会えってさんざん言われてたけど、なかなか会う勇気が持てなかった」
「佑…」
「父さんのことを責めてた。なかなか許せなかった」
「それは仕方ない。佑が父さんを責めているのは仕方のないことだし、許してくれなんて、そんな自分勝手なことを言うつもりもないよ」
「いや…。僕は、子供の頃から父さんが好きだったし。父さんと一緒に過ごしてきた時間は大事な思い出だし…。それは何があったとしても変わりようがないし…」
そこまで言って、何が言いたいのか自分でもわからなくなった。だが、目頭を押さえ、俯いた父の顔を見て、ちゃんとすべてを云わなくては…と決心がついた。
「父さんが好きだったからこそ、裏切られたような気がして、ショックだった。その気持ちがなかなかぬぐえなくて会えなかった。結婚に対しても否定していた。独身でいる方が気が楽だし、幸せでいられると思い込んでた」
「すまない。父さんと母さんのせいで、そんな思いまでさせて」
「責めているんじゃない。僕の気持ちの変化を聞いてほしいだけだ。ここにいる伊織さんと会って、僕の気持ちが変わったことを知ってほしいだけだ」
伊織を見た。伊織は目を真っ赤にして僕を見てから、すぐに視線を外した。
「僕も、家族を持つ。伊織さんとだったら、家族を持つことを容易に想像できた。一人でいるよりもずっと、幸せなことだと感じられた…。だから、結婚した」
「そうか。良かったな、佑。本当に素敵な人と出会えたんだな?」
「……もし、子供が生まれたら、父さんの孫だから…。一緒に遊んだりしてもらえたらって思っている」
「…いいのか?」
「いいも何も…。僕にとっては父さんが唯一の親父なわけだし。賢一君が、父さんを父親と思っていないとしても、父さんには息子がここにいるから…。ちゃんと、いるからさ」
そこまで言って、また自分で何を言いたいのかわからなくなった。だけど、心の奥がずっと締め付けられていて苦しかった。この会えなかった何年間、父はどんな思いで過ごしてきたのだろうと思うと、目の奥が熱くなった。
「ごめん。意地を張って会わないでいて…。何年もの間、親子関係を断ってしまってごめん」
自分でも信じられないが、素直にそう言葉が出ていた。ここまで素直に云おうとは思っていなかった。
「佑、お前に謝ってもらう資格はない。いいんだ。いいんだよ。こうして会いに来てもらえただけでも、本当にいいんだよ」
父は目から涙をぽろっと流し、慌てて手で拭った。
「ひいっく」
いきなり、嗚咽を上げたのは、伊織だった。
「ごめんなさい。私、トイレ…」
そう言うと、カバンを持って伊織はトイレに駆けて行ってしまった。
「ああ、あんなに慌てなくても…」
その後ろ姿を見てそう呟くと、父も伊織の後姿を見ながら、
「いい子に会えたね、佑」
と、優しく言った。
「うん。いい子だよ。僕にはもったいないくらいの」
「そうか」
うんうんと2回大きく頷き、父はまた目頭を手で拭いた。
結婚式には、呼べないと思う。そう言うと、父はニコリと笑い、また「いいんだよ」と言って、ホテルから駅までの道を歩いて行った。僕らはそんな父の後姿を見送ってから、反対側を向いた。
「伊織、腹減らない?」
「はい、空きました」
「ホテルで豪華にランチにしようか」
「え?ここのホテル?」
「うん。ビュッフェでもいいし、最上階にもレストランがある。せっかくみなとみらいまで来たんだから、食事の後は、デートをしよう」
「…うん。嬉しい」
本当に嬉しそうに伊織は笑った。
食事をして、それから展望台に上がり、そのあとは、赤レンガ倉庫まで行った。店をぶらついたり、お茶をしたり、海を眺めたりして、帰りは横浜まで水上バスを利用した。伊織は横浜を満喫できて喜んでいた。
「お父さん、横浜に住んでいるの?」
「うん、桜木町にね」
帰りの電車で、伊織にそう聞かれ僕は答えた。
「父さんと賢一君は、仲良くやっているのかと思っていた」
「……ちょっと、ショックだったな。おじさんって呼ばれているなんて」
「そうだな。再婚してけっこう年数も経つのにね。再婚した当時は、賢一君もまだ小さかったし、てっきり仲良くやっているかと勝手に思っていたな」
「………。でも、良かった」
「え?」
「お父さんと佑さん、仲直りして」
「仲直り…っていうか、僕だけが勝手に恨んでいただけだからなあ」
そうぼそっと言ってから、自分の情けなさに落ち込んだ。
「僕は、相当心が狭いよね」
「そんなことない。もし、私だったとしても、やっぱり、恨んじゃったかもしれない。子供が親の浮気、許せるわけないと思うし」
「うん。子供心にはショックだね。それは、賢一君も一緒かな。それとも、まだ幼かったから、わかっていなかったかな」
「賢一君のお母さんも、浮気して離婚?」
「そうだって、姉貴が言ってたよ」
「………」
無言でいきなり伊織が僕の手を握りしめてきた。もしかして、不安になったんだろうか。
「僕は浮気しないから」
「…」
コクリと黙って伊織は頷いた。
「今日は、ありがとう、伊織」
クルクルとまた無言で伊織は首を振り、目を真っ赤にさせた。ああ、泣きそうになっていて声が出ないのかもなあ。
伊織との出会いは、奇跡だな。
突然、そんな思いが込み上げてきた。
その日の夜、伊織を抱きながら、改めて実感していた。伊織と出会えた幸せを。
あたたかい、そのぬくもりや、優しさに。
「伊織」
「……はい」
「永遠に誓うから」
「え?」
「幸せになろう」
「はい」
「今でも、幸せだけどね?」
そう言ってキスをすると、伊織はギュっと僕に抱き着いた。
「私も、私も幸せですっ」
感極まって、伊織は泣き出した。ああ、本当に、可愛いよね。




