第79話 入籍 ~伊織編~
昼休憩から真広と戻ると、来週からやってくるはずだった小林君がいた。それも、久しぶりだからか、かなり雰囲気が変わっていた。もっと、やさしい雰囲気があったと思ったんだけどなあ。
午後はやけに注文が多く、真広と話す暇もなかった。
5時半の終業時間を過ぎても、課全体がバタバタとしていてあわただしい。そして、6時になりようやく私も真広も落ち着いた。
「疲れた」
真広とやれやれとほっと一息ついていると、小林君が一緒に夕飯を食べようと誘ってきた。
「悪いけど、先約があるんだ」
真広はさっさとそう言って断った。
「先約?…デートかな?」
「隠してもわかっちゃうだろうから、正直に答えるわ。そう、デート。だから、悪いけどまた今度、同期みんなで飲みにでも行きましょ」
「そうか。それは残念だな。じゃあ、桜川さんは…」
「あ、ごめんなさい。私も、ちょっと…」
「桜川さんもデートなの?」
デートじゃないけど、でも、なんて言って断ろう。、
「小林さん。見てわかんない?桜川さんの左手の薬指。誘うだけ無駄。っていうか、婚約者がいる女性を誘うなんて、無粋な真似しないほうがいいわよ」
え?うそ。塩谷さんが助け舟を出してくれた!
「え?」
あ、小林君、すごい驚いてる。私の左手を見ているのに気がつき、つい隠してしまった。
「…婚約指輪?婚約してんの?桜川さん…」
「はい」
「そうなんだ~~。そういう噂、まったく聞かなかったから、僕はてっきり」
「小林君、ダメだぞ、桜川さんを狙っても」
狙う?野田さん、何を言ってるの。
「あ、そりゃ、婚約者がいるのに、狙うわけないじゃないですか」
「やっぱり、指輪の効力はありますね、主任。でも、なるべく早くに結婚指輪をしたほうがいいかもしれないですよ」
「そうですね。週末に入籍するつもりなので、来週からは結婚指輪をしていると思いますよ」
きゃあ。佑さん、いきなりばらしているし。
いや。ばらしてくれていいんだけど。なんか、恥ずかしい。
「え?ええ?!」
それに小林君のこの驚きっぷり。そんなに私と佑さんが結婚するのって意外な組み合わせなのかな。
「桜川さんの相手って、魚住さんですか…」
「はい」
「そ、そうか。まあ、課内でっていうパターンは多いっすよね。おめでとうございます。ははは」
そうか。多いパターンなのか。でも、それにしてはさっき、やけに驚いていなかった?
「まだ、荷物の整頓もできていないので、やっぱり今日はまっすぐ帰ります。お先に失礼します」
小林君は気まずそうにそう言って帰っていった。
「桜川さん狙いだったのか~~」
「桜川さん、モテるね。こりゃ、主任もウカウカしていられないね」
はあ?みんな、何言ってるの?
「モテないです。全然、モテないんです。だから、大丈夫なんです」
もう~~。モテていたら今までずっと独り身でなんかいなかったよ。ようやく、佑さんに拾ってもらったっていう感じだし。
でも、もしも小林君がずっと東京にいたら、何かしらあったのかな。私が落ち込んでいるときに慰めてくれたりしたし。
う~~~ん。でも、同期での飲み会ではいつも、小林君、まあちゃんの隣をキープしていたし。やっぱり、特別何が起きるってわけでもなかっただろうな。
それに…。
佑さんと一緒に帰る道すがら、私は佑さんを改めて観察した。やっぱり、服のセンスがいい。スーツもだけどその上に羽織るコートも似合っている。靴、鞄、時計、それも似合っている。
それから、横顔…。かっこいいなあ。
「ん?」
電車をホームで待っている間、じろじろと見てしまったからか、佑さんが不思議そうにこっちを向いた。
「あの、けっこう冷えますね」
焦ってそんなことを言ってしまった。
「ああ、そうか。はい」
佑さんはにこりと微笑み、手を繋いでくれた。
う…。やばい、嬉しくてにやけそう。
「伊織の手、冷たい」
「佑さんの手はあったかいですね…。じゃなくって、あったかいね」
どうもまだ、敬語になっちゃうんだよなあ。
「くす」
あ、笑った。笑うと可愛い。
やっぱり、佑さんのほうが断然いい。小林君には悪いけど、比べ物にならないかもって思っちゃう。
小林君と付き合うことにならなくて良かった。
ああ、そうだよ。ずっと誰からも相手にされないで良かったんだよ。だって、もし、ほかの人と付き合っていたら、佑さんと結婚できなかったかもしれないんだよ。
この年まで待った甲斐があったっていうもんだよ。
そう思うと、神様にすら感謝したくなる。
でも、なんの神様?ああ、恋愛の神様とか…。
そんなあほなことを思いつつ、幸せを噛み締めながらマンションに帰った。
夕飯の後、ソファでまったりとした。なんとなく私は、佑さんの肩にもたれかかった。
ギュ。佑さんが私の腰に腕を回して力を入れた。
「もうすぐだね」
「え?」
「入籍」
「あ、うん」
「紙切れ一枚で結婚…。家族になるんだなあって思うと、不思議だね」
紙切れ一枚?
「でも…」
佑さんは私の顔を覗き込んだ。
「紙切れ一枚だとしても、気持ち的にはでかい差があるね」
「差?」
「今と、入籍後と」
「……その、差って?」
「伊織と家族になるっていうことなわけだし…。もう、一人じゃないんだよなって、つくづくそう思うっていうか」
「独身貴族じゃなくなるっていう、感覚?」
「ああ、そうそう。ははは」
あれ?笑った。
「佑さん、独身じゃなくなるの、寂しい?」
「え?家族ができるのに、寂しいわけないでしょう」
「ほんとに?」
「もう、独り身には戻れないよ。寂しすぎて。伊織と一緒にいるとあったかくて、癒されて…。こんな感覚味わったら、戻れないな、絶対に」
良かった。もしや、マリッジブルーにでもなったのかと思った。
「伊織は?」
「私も、佑さんがいなかったら、寂しすぎる」
そう言って、佑さんに抱きついた。
あわわ。思わず、抱きついちゃった。佑さんも抱きしめてくれたけど、なんか、最近の私、大胆じゃない?前は自分から抱きつくなんてできなかったよ。
ギュギュ。佑さんの私を抱きしめる腕の力が増した。チュっと、髪にキスまでしてきた。
「ああ、なんか、やばいなあ」
「え?」
「そろそろ、我慢の限界。でも、明日も仕事だし。だけど、伊織、まだ、10時前…」
「え?」
「風呂、さっさと入ろうか」
「……うん」
「一緒に入る?」
「それはまだ、無理です!」
慌ててソファから立ち上がり、
「お先に入ってきます」
と、着替えを取りに行った。すると、リビングから佑さんの笑い声が聞こえてきて、
「伊織、慌てると敬語になる。おかしい」
という声も聞こえてきた。
ほんとだ。敬語になってた。だって、とっさに出ちゃうんだもん。
それにしても、お風呂に一緒に入るのは、まだまだ抵抗あるよ。無理だよ。
とりあえず、えっと。丁寧に体洗っておこう。
私が出た後に、佑さんもお風呂に入った。でも、いつもよりも早くに出てきた。髪を乾かすのもすごい勢い。
そして、ソファに座っている私の腕を持って、ずんずんと寝室に向かっていき、ドスンとベッドに押し倒された。
「伊織」
「は、はい?」
なんか、顔つきまでが違う。
「明日、僕は会社にいるから」
「え?」
「一歩も出る予定がないから、万が一仕事ミスっても、フォローできるからね?」
「……」
どういう意味?
それって、えっと?
あ、そうか。今夜のことで仕事に支障が出ても、フォローしてくれるってことか。
うひゃあ。
佑さんのキスが、いつもよりも熱い。
うわあ~~。本当だ。絶対明日の仕事に支障が出ます。っていうくらい、熱い。
冬の寒さも吹っ飛ぶくらい、いつもより佑さんは熱かった。
翌朝、けだるさが残っていた。佑さんにキスで起こされ、目を開けたが体がなんとなく重かった。それに比べて、佑さんは元気だった。鼻歌すらキッチンから聞こえたほど。
佑さんって、タフだ…。
それとも、何か、男の人と体の構造でも違っているのかなあ。
顔を洗いにパウダールームに行く。そして鏡に映った私を見て、昨夜のことを思い出す。ああ、髪がすごいことになってる。それに…、それに!!!!
「うひゃあ」
「伊織?どうした?」
今の私の声で、びっくりして佑さんが飛んできた。
「え、あのっ。えっと」
首にキスマーク!!!
「ああ、ごめん」
佑さんが素直に謝ってから、頭を掻いた。
「隠れるような服あるかな。ハイネックのセーターとか」
「あります。タートルのセーター。それ、着ていきます」
「ごめんね?伊織」
佑さんが優しくそう言って、私の髪をなでた。
ああ、髪。そうだった。爆発していたんだ。恥ずかしい。
いや。待って。いつも以上にすごい寝癖になっているのは、やっぱり、昨日激しかったからであって…。
きゃあ、きゃあ。もう、思い出すだけで赤面だよっ!!
朝ごはんも、なんだか顔が火照ったままだった。佑さんはいつもどおりだ。
会社までの道も、手を繋ぐだけで顔が熱くなった。
「やっぱり、今日、だめかも」
ビルに入る一歩前でそう言うと、佑さんは「え?」と不思議そうな顔をした。
「朝から、ダメなんです。思い出しちゃって」
「ああ…」
そのことかっていう感じで、佑さんは頷くと、耳元で突然、
「エッチ」
と囁いた。
「はあ?」
いったい、誰のせいでダメになっていると思ってるの?
「くす。大丈夫。ちゃんと部下のフォローはしますよ?安心してください」
そう言うと、佑さんは顔つきを変えてビルに入った。
エレベーターホールには人事部の女性や、営業4課の課長もいて、佑さんはクールな顔で、
「おはようございます」
と挨拶をした。私もその横で小声で挨拶をしたが、なんだか、顔を上げることはできなかった。
エレベーターでも、佑さんの横に並び俯いていた。
「魚住君って、まだ独身?」
突然、人事部の女性がそう聞いた。この人、佑さんよりかなり年上だっけ?
「今日まで独身です」
「え?じゃあ、明日入籍ってこと?おめでとう。隣にいる子でしょ?幸運のお相手は」
「…はい。でも、幸運って?」
「魚住君と結婚できるなんて、幸運じゃない。魚住君、倍率高かったしね」
「僕がですか」
「ずっと独身でいると思われてたから、あんまり直接狙う子もいなかったけどね。でも、そんな魚住君が結婚だもの。人事部でもショックを受けた子は多いわよ~~」
「…そうですか」
佑さんは顔色一つ変えない。私はそんな話を聞いて、やきもきしているのに。
「桜川さんだっけ?よく、こんな堅物落とせたわね。結婚にも女性にも興味なさそうな男だったのに」
「え。えっと」
落とした覚えはないんだけど。どっちかって言えば、拾ってもらった感があるくらいで。
「この結婚、フェイクって噂すらあるわよ。でも、まさかねえ」
エレベーターから降りてもまだ、その女性は話を終えない。
「フェイク?」
「魚住君が実は男性好きで、女性と結婚してそれを隠そうとしているだの」
「はあ?」
「出世のための結婚だの。あ、でも、その線は消えたのよ。だって、部長の娘と結婚したほうが出世には有利でしょ?それを断ったっていうし」
「怖いな。どんな噂が流れているんだか…」
さすがの佑さんも苦笑した。
「だって、絶対に結婚しないだろうと言われていたからねえ、そりゃ、いろんな噂が流れちゃうのも仕方ないわよ」
「じゃあ、ちゃんと真実を流してください。僕は桜川さんに落とされたんです。結婚したいと思わされるほど、惚れたから結婚するんです。そうみんなに伝えてください。よろしくお願いします」
真顔でそう言うと、佑さんは颯爽と廊下を歩き出した。私はますます顔を上げられなくなり、俯きながら佑さんの後を追った。後ろから、人事部の女性が「驚いた」とつぶやいたのが聞こえてきたけれど、振り返る勇気はなかった。
驚いたのはこっちだ。まさか、佑さんがあんなこと言うなんて。
ピッとIDカードをかざして部屋に入ると、
「びっくりですね」
と、佑さんが私に囁くように言った。
「え?」
「噂ですよ。僕がまさかゲイと思われていたとはなあ」
「あ、はい。びっくり…ですけど、もっとびっくりです」
「何が?」
「佑さん、いえ、主任があんなこと言うなんて」
「ああでも言わないと、とんでもない噂が飛ぶから」
「十分、とんでもないです」
「僕が伊織に落とされたってことが?」
「そうです」
「でも、真実でしょ?」
にこりとそう佑さんは言ってから笑うと、
「じゃ、席に早くについてくださいね。桜川さん。あ、それと、小林には気をつけてください。言い寄られても無視ですよ、わかってますよね?」
と、最後のほうは顔を近づけてそう言った。
「え?は、はい」
顔、近い~~~。
「あとは…。もし、ミスってもフォローするんで。怒られるとか気にせず、ミスしたときには素直に申し出てください。ね?」
「はい」
だから、顔近いってば。そんなこと耳元で囁かないで。
佑さんはまた颯爽と歩き、2課に向かっていった。私は顔を火照らせながらロッカールームに行った。
その日はやっぱり、ミスをした。危なく発注を10ケースのところ、100ケース頼みそうになり、
「桜川さん、発注、100になっていますよ」
と、注文のたびに佑さんがチェックをしてくれて助かった。
「すみません!」
思い切り誤ったが、佑さんからの返事はない。
その後も、計算ミスをして、
「桜川さん、計算間違ってますよ」
と、佑さんに呼ばれ、デスクまで飛んで行き、
「すみませんでした」
と頭を下げると、佑さんは一言、
「いいです。そんなに謝らなくても」
と、優しく言ってくれた。
「甘い!また、桜川さんに甘くなってる。もっと、厳しくしてくださいってば」
塩谷さんが切れた。でも、
「塩谷、うるさい。自分の仕事をしろ。外回りはどうした?今日、回ってくるんだろ。さっさと行け」
と追い出してしまった。
ああ。塩谷さん、すみません。でも、今日は許して。
佑さんを見るたびに、昨日のことを思い出し赤面。やっぱり、仕事の前日はやめてもらうよう説得しよう…とつくづく思った。




