第78話 素を見せる ~佑編~
野田さんに言われたことが、やけに気になった。家でまで伊織に仕事をさせて、申し訳なかっただろうか。
それから、僕は伊織に寂しい思いをさせているだろうか。もっとかまった方がいいんだろうか。
夕飯時、僕は気になり聞いてみた。
「伊織、昨日は仕事を家でまでさせてごめん」
「え?そんな!気にしていないから大丈夫で…」
言葉が途切れた。もしかして、無理してそう言っているのか?
「野田さんにあれこれ言われてさ。僕が仕事を家でするのは、伊織はどう思う?」
「仕事だから、それは全然…。仕方ないかなって思うし」
「残業して会社に残って仕事をする方がいいかな」
そう言うと、必死に伊織は首を横に振った。
「そうしたら、私も会社に残りま…。残る!」
「伊織に仕事がなくても?」
「なんか、仕事作って残る」
「くす。じゃあ、家に早く帰って一緒にご飯食べたほうがいいかな、僕は」
「私も!佑さんが仕事中一人でいるのは寂しいから、昨日みたいに仕事を与えてくれると嬉しいで…。嬉しいよ」
「あはは」
そうか。敬語をやめようと頑張っているのか。なんだか可愛いな。
僕も早くに伊織と家に帰りたくて、仕事を持ち帰ってでも早くに家に帰る。こうやって、一緒に夕飯を食べられるのは、すごく幸せだ。
「今日は、特に家で仕事もないから、ゆっくりしよう」
「はい…あ、うん」
洗い物を終え、順番に風呂に入り、そのあとソファに腰かけ、DVDを観ることにした。我が家にあった、まだ伊織が観たことのない映画だ。
伊織の腰に手を回した。伊織が一瞬隣で跳ねた。そして僕を赤くなりながら見た。
「ん?」
「ううん」
クルクル。伊織が首を横に振った。
そして、また伊織はテレビ画面の方を向いた。僕は伊織の頬にキスをして、そのまま伊織の膝に頭を乗せた。
「あ、あ、あの」
「うん?」
「これだと、佑さん、映画観れないですよね?」
「いいよ。もう観たことがある映画だし」
「すみません。じゃあ、止めましょうか?」
「くす。いいよ、伊織は観てて」
「でで、でも、集中できそうもないから、消します」
「伊織、焦ってるから?敬語に戻ってる」
「ごめんなさい。あ、あわわ」
リモコンを取ろうとして手が滑ったのか、リモコンを床に落としたらしい。僕が手を伸ばして、リモコンでテレビを止めた。一瞬、部屋がしんと静まり返った。
「あのっ。え~~っと」
真っ赤だ。
「困ってる?」
「いいえ」
ブンブンと首を横に振った。
「僕ばかりが甘えているかな、もしかして」
「そ、そんなことっ。っていうか、あのっ、甘えてくれるのは嬉しいです」
「本当に?」
「はい」
今度はコクンと思い切り頷いた。
「僕も、寂しい時には寂しいと言うし、甘えたい時にはこうやって甘えるから、伊織もちゃんと、甘えてくれる?」
「は、はい」
「約束ね?」
コクン。伊織は真っ赤になって頷いた。
伊織は、そのあと敬語を使わなくなった。少し表情も前と変わった。朝起こしても、さほど慌てることもなく、顔を洗ってダイニングに来た。
「あの、佑さん」
「ん?」
コーヒーをマグカップに注いでいると、僕に声をかけてきた。
「私、朝、いろいろとお手伝いがしたいんだけど、でも、なぜかいつもギリギリになっちゃって」
「うん」
「もっと早くに起きたらいいのかな」
「いいよ。別に僕は困っていないから。手伝ってほしい時にはそう言うよ」
「…ほんと?」
不安そうに僕の顔を見ているな…。
「うん」
「何もできなくて、呆れていたり…していない?」
「くす。大丈夫。呆れたりしていないから」
それが気になっていたのか。
「さあ、朝ご飯食べよう」
僕が席に着くと、伊織も安心したように座った。そして、いただきますと言って美味しそうに食べだした。
こうやって、一緒に朝食を食べる。それだけで僕は満足している。それに、十分伊織は僕の役に立っている。昨日も癒されたし、僕が甘えても、受け入れてくれるし。こんなふうに人に甘えたことはないから、人生初の甘い時間を過ごせて、僕は本当に喜んでいる。
ただ、多分、喜びを伊織には素直に見せていないかもしれない。やっぱり、恥ずかしいと言うか照れがある。
伊織と一緒に出社するのも、幸せなひと時だし、会社でも伊織がいてくれて、それだけでも癒されている。伊織の存在は、僕にとってものすごくでかいものになっているんだろうな。
「魚住君、ちょっと今、時間いいかな」
「え?はい」
もうすぐ昼休憩が終わるだろう頃に、課長に言われて席を立った。すると、課長は痩せ形の眼鏡をかけた若い男性を呼んで、
「同じ課で働くことになる魚住君だ」
と、その男に僕を紹介した。
「魚住君、彼は札幌支店の小林君だ」
「…ああ、塚本さんの後任の…。でも、来週から移動になるんじゃなかったですっけ?」
「札幌支店の引継ぎが、早くに終わったらしくてね、早めに東京に出て来たそうだ」
「初めまして。小林です。さっき、札幌から東京に来ました」
そう言いながら、その男はぺこりと礼儀正しくお辞儀をした。
「魚住です。僕は君の上司になるわけではないですが、同じ課なわけですし、よろしくお願いします」
「ああ、ちょうど良かった。事務の子たちも来たから紹介するよ」
北畠さんを先頭に、昼休憩を終えた伊織も溝口さんも2課に戻ってきた。そして、課長に呼ばれ3人は課長の席近くまでやってきた。
「札幌支店から来た小林君だ。小林君、2課の事務の子たちだ。左から、北畠さん、溝口さん、桜川さん」
「どうも。小林です。よろしくお願いします」
「小林君、久しぶり。あれ?眼鏡かけていたっけ?」
そう気さくな感じで聞いたのは、溝口さんだ。
「コンタクトなくしちゃって。眼鏡、似合わないかな?」
「ううん。似合ってる、似合ってる。ね?伊織」
適当な返事だ。それも、なんで伊織に振るんだ。
「あ~、うん」
「あはは。桜川さん、わかりやすいね。眼鏡、似合っていないんだ」
「そういうわけじゃ。でも、ちょっと違和感が…」
そう言って伊織は困ったように、
「仕事しなきゃ」
と、クルっと小林に背を向け、自分のデスクに戻って行った。
小林は、そんな伊織の背中をしばらく眺めている。
「小林君、君のデスクはそこだから」
課長に言われ、小林は塚本のいた席についた。
午後は、来客もあり忙しかった。それに注文も多く、事務の3人もせわしなく電話に出ていた。2課全体が落ち着いたのは、6時近くなってからだった。
「今度、小林君の歓迎会を開かないとねえ」
そんなことを言いながら、南部課長は席を立ち、
「今日は悪いね。接待があるから先に帰るよ」
と課のみんなに挨拶をして帰って行った。
「お疲れ様でした」
一番丁寧にそう課長に言ったのは小林だ。だが、課長が部屋を出て行くと、
「溝口さん、桜川さん、今日、何かある?」
と、突然くだけた口調で二人に話しかけた。
「今日?なんで?」
溝口さんがそう聞き返すと、
「ご飯食べに行かない?同期のよしみで。これから同じ課でやっていくわけだし、いろいろと僕もお世話になるだろうしさ」
と、小林はにこやかな表情を作ってそう言った。
確かに、この男は親しみやすさがある。物腰が柔らかで、話し方も柔らかい。
「悪いけど、先約があるんだ」
「先約?…デートかな?」
小林は溝口さんに、柔らかい口調でそう聞いた。
「隠してもわかっちゃうだろうから、正直に答えるわ。そう、デート。だから、悪いけどまた今度、同期みんなで飲みにでも行きましょ」
「そうか。それは残念だな。じゃあ、桜川さんは…」
「あ、ごめんなさい。私も、ちょっと…」
「桜川さんもデートなの?」
少し声を潜め、伊織の方に顔を向け小林が聞いた。だが、そんな小林をボールペンで指差し、
「小林さん。見てわかんない?桜川さんの左手の薬指。誘うだけ無駄。っていうか、婚約者がいる女性を誘うなんて、無粋な真似しないほうがいいわよ」
と、塩谷が諭すようにそう言った。
「え?」
小林は目を見開き、伊織の左手を見た。伊織はとっさに左手を右手で隠してしまった。
「…婚約指輪?婚約してんの?桜川さん…」
小林、顔が青くなったぞ。さては、伊織を狙っていたのか?
「はい」
赤くなりながら伊織が答えた。すると、
「そうなんだ~~。そういう噂、まったく聞かなかったから、僕はてっきり」
てっきり、何だ?まだ、フリーだと思ったとでも言いたいのか?
「小林君、ダメだぞ、桜川さんを狙っても」
野田さんが、少し冗談ぽくそう言うと、課のみんながにんまりと笑いながら僕を見た。
「あ、そりゃ、婚約者がいるのに、狙うわけないじゃないですか」
はははと、力なく小林が笑うと、
「やっぱり、指輪の効力はありますね、主任。でも、なるべく早くに結婚指輪をしたほうがいいかもしれないですよ」
と、野田さんは僕の方を向き、そう小林にも聞こえるくらいの音量で言った。
「そうですね。週末に入籍するつもりなので、来週からは結婚指輪をしていると思いますよ」
顔色も変えず、小林の方も見ず、僕はそう答えた。ただ、伊織のことが気になりちらっと見てみると、顔を真っ赤にさせ慌てている。
「え?ええ?!」
小林はさすがに勘付いたらしい。僕と伊織を交互に見て、
「桜川さんの相手って、魚住さんですか…」
と、愕然とした口調でそう言った。
よし。さすがにこれで、一気に諦めがついただろう。
「はい」
僕は冷静にそう答えた。だが、伊織は真っ赤になったままコクンと頷いただけだ。
「そ、そうか。まあ、課内でっていうパターンは多いっすよね。おめでとうございます。ははは」
さらに力のない声で笑い、小林はふらっと席を立つと、
「まだ、荷物の整頓もできていないので、やっぱり今日はまっすぐ帰ります。お先に失礼します」
と、カバンを持ち、そそくさと2課を去って行った。
「桜川さん狙いだったのか~~」
「桜川さん、モテるね。こりゃ、主任もウカウカしていられないね」
野田さんや、他の男性社員にそう言われ、僕は苦笑いをしたが、伊織はますます赤くなり、
「モテないです。全然、モテないんです。だから、大丈夫なんです」
と、慌てふためきながらそう反論した。
なんだか、あそこまで慌てると、かえって怪しいよな。本当に、小林とは何もなかったんだろうか。
その日の帰り道、何気なく、
「小林は、伊織のこと気に入っていたんじゃないのかな」
と聞いてみた。だが、
「そんなわけない。札幌支店に彼女もいたし」
と、思い切り否定をした。
「その彼女とはもう別れちゃって、伊織と会えるのを楽しみにしていたんじゃないのかな」
「そんなことない。だいたい、私がモテるとか絶対にないし。同期にいたまあちゃんだったらわかるけど、私なんて誰からも、声をかけられなかったし」
「いつ?」
「同期会とか、忘年会とか、そういう時にまったくと言っていいほど。スキーの時だって、小林さんは、本当に彼女の話ばっかりしていたし」
やっぱり、必死で言っているところがかなり怪しい。
「そうか。わかった。向こうに気がなくても、伊織が気が合ったってわけか」
「へ?!」
どこから声を出しているんだっていうくらい、高い声が出たぞ。これは、図星か。
「………」
ああ、黙り込んで困っている。まったく、正直な人だな。嘘がつけない性格しているんだな。
「えっと。実を言うと、ほんのちょっと、好みのタイプだった…かも」
「へえ。僕とは正反対だね。じゃあ、僕は伊織の好みってわけじゃ」
「いいえ!佑さんは、本当にどこをとっても好みで、今日だって、小林さんに久々に会って、あれ?こんな人だったっけ?みたいな、違和感があったって言うか」
「違和感?」
「佑さんとつい比べちゃって、再確認したって言うか」
「なんの?」
「え、えっと。だから、その…。佑さんって、素敵だなあって」
「……」
まいった。少し意地悪をしていたんだが、そんなことを言われたら、こっちが照れる。
「ごめんなさい。なんか、変なこと言ったかも」
「いや…」
コホン。照れているのをばれないように咳ばらいをした。ちょうど電車が駅に着き、僕らはスーパーで食材を買ってマンションに帰った。
もう、僕は小林のことをそれ以上聞かなかった。多分、聞いたとしても、また伊織は、僕が照れるようなことを言ってくるだろうし。伊織は恥ずかしがり屋のくせに、そういうことを平気で言うからなあ。
夕飯を食べ終え、少しソファでまったりしていると、伊織は僕のことをしばらく見つめ、ため息をついた。
「……ん?」
何でため息?
「私、今まで彼氏らしい彼氏もできなかったけど…」
「……うん」
「よかったなあって思って」
「え?何が?」
「そのへんの男で妥協して、結婚したりしないで」
「……え?」
「だって、そうしたら佑さんと結婚できなかった」
「ああ、うん、そうだね。そうしたら、多分僕は一生独身でいたね」
「独身…?」
「伊織と出会わなかったら、結婚を考えることもなかっただろうし」
「……」
伊織は頬を染めた。そんな伊織にキスをすると、もっと赤くなった。でも、僕の肩にもたれかかってきた。
やっぱり、伊織は変わった。こうやって、自分から甘えてくれるようになった。




